Neetel Inside ニートノベル
表紙

格闘衝動(※再々掲)
第19話『乱入衝動2』

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 三週間はあっという間に過ぎた。
 気づけば、試合当日になっている。
「これ、マジで使うつもりか? 傍から見たらアホそのものだ」
 夕方、診療所で本番前の最後の練習を終えると、ユキトにそう言われた。相変わらず俺のやることに文句しか言わないやつだった。
 組技対策と並行して、ユキトにはその新技の練習にも付き合ってもらった。総合格闘技にはない、肉体の破壊を前提とした殺し合いに備えた技だ。理解し辛いのも分かるし、突拍子もない発想だという自覚はあった。
「威力はそこそこあるが、大振りで隙が大きすぎる。クリーンヒットは有り得ない」
 普通にやれば、その通りだろう。知恵と工夫が必要だ。その発想に思い至らないところは、やはりユキトは競技格闘者だった。まぁ、端からまともに考えるつもりがないだけかもしれないが。
 たったの三週間だったが、俺はその技をそこそこ正確に当てることができるようになっていた。最初は天井から垂らしたパンチングボールで感覚を使い、次に防具を着けたユキトの頭を狙う。ただし、ユキトの言った通り、相手がその場で立ち止まっていなければ当てることは不可能に近かった。
「今夜が試合なんだろうが。少しでも身体休めといたほうがよかったんじゃねぇのか」
 タオルで汗を拭いていると、今度はジジイにそう言われた。その考えは逆だ。俺はこの三週間、怪我を悪化させないように力をセーブしなければならなかった。その分、実戦の感覚からは遠ざかっている。本番直前の今、やるべきことはその修正だ。多少の怪我は覚悟してでも、肉体とそれを操る神経に刺激を与え、臨戦態勢へと活性化させなければならない。
「血が余ってんだよ、ジジイ。それより包帯とってくれ。今日は巻きなおさなくていい。そのままで闘う」
 頭に包帯を巻いたまま闘うのは危険だった。包帯を少しずらすだけで、目隠しや首絞めに利用されてしまう。ただし、左手の折れた親指の包帯は巻いたままだ。こっちの包帯は必要だった。
 ジジイは俺を椅子に座らせ頭に巻いてあった包帯を外すと、手鏡をよこした。
「昨日とったレントゲンを見た限りじゃ、頭蓋骨のヒビはほぼ治ってる。もっかいコンクリに叩きつけられたら傷が開くかもしれねぇが、完治してても普通は死ぬから同じだろうよ。顔面のほうも、傷自体の治りはまぁまぁだ。後は整形外科にでも行け。専門外だ」
 俺は試しに手鏡に向かってニコッと笑って見せた。我ながら、結構な面構えだった。少なくともインパクトはある。
「いい男になったぜ」
 そう言うと、ジジイは呆れたように笑った。手鏡をずらすと、犬のウンコでも踏んづけたような表情をしたユキトと目があった。
「むちゃくちゃ目立つぞ。それで闘技場なって行ったら、お前だってモロバレだ」
「別にいい。それも計算の内に入れてるさ」
「そうかよ。どっちにしろ、その顔と一緒に外を出歩きたくはない」
「じゃあ、着いて来るなよ」
 普段はあれだけ面倒事を嫌うくせに、ユキトは今夜の戦いを観るつもりらしかった。実戦への好奇心が捨てきれないのか、俺がボコボコにされて死ぬのを見たいのか、どちらにしろと、ユキトも本性の根っこ部分ではこちら側に片足ぐらいは突っ込んでいる。あるいは俺が与えた影響か。
 ユキトには最後の一仕事を頼んでいた。ゴネると思ったが、札束二つですんなり引き受けたのは意外だった。出会ったころのあいつなら、間違いなく断っていただろう。
「ジジイもちゃんと来いよ。金を返してほしかったらな」
「んなこたぁ、わかってるよ。てめぇこそ約束は守れよ」
 ユキトと違って、ジジイを地下まで誘き出すのは簡単だった。奪った金を返すと約束すれば、とりあえずむこうは従うしかない。
 市ヶ谷がよほどの間抜けでない限り、俺は命を賭ける予定だった。生き残るには、ヤブのおっさんでは頼りない。凄腕の医者が必要だ。この三週の間に、こちらが突きつけた三つの要求をジジイは卒なくこなしてくれた。後は俺の命をもう一度救うだけだ。
 他人に命を預けることに関して、自尊心は傷つかなかった。俺はジジイに対して、ある種の殺意を抱き続けていた。それは俺にテイクダウンディフェンスや組技を教えたユキトやジムの格闘家連中に対して感じるものと同じだ。殺すには値しないが、殺すことは簡単だ。そう思っている限り、俺の気は晴れている。俺は己をコントロールしていた。無駄なエネルギーは使わない。
 俺は殺すべき相手を殺すことに関して、全てを注ぎ込むべきだ。
「ユキト、そろそろ行くぞ」 
「少し早くないか。ギリギリに行ったほうが見つかりにくいだろ」 
「途中で寄る場所がある。それにコソコソしても無駄だ。多分、もう見つかってる」
「はぁ?」
「前の通りに路駐してある車のナンバーをチェックしてたが、フルスモークの三台が入れ替わりで停まってた。今もな。たまたま近所に悪だくみをしてる連中がいただけかもしれないが、普通に考えて俺の見張りだろ」
「ヤバいんじゃないのか」
「手は出せない。ジジイが金を払ってるのとは別の組だ。この街じゃヤクザ同士のトラブルはご法度だからな」
 あるいは俺が次に何をしでかすのか興味があり、わざと泳がせているのかもしれない。金髪のところの手下である可能性が八割、『運営』の手下である可能性が二割といったところか。この街を仕切る『運営』ならジジイが持ってるヤクザの後ろ盾は無意味だが、この状況は逆に俺に手を出すつもりがないということになる。
「この診療所は安全でも、外に出た瞬間に捕まえられるかもしれないだろ」
 ユキトがそんな質問をしてきた。少しは頭が回るようになったじゃないか。
「だから運転手がいるんだろ? 怖かったらお前一人で逃げてもいいが、この三週間、お前はアパートからここまで通ってたから、多分ヤクザに尾行されてたぜ」
「……お前、わざと黙ってたな」
「俺と一緒にいる限りは、俺を差し出してヤクザに見逃してもらえるって手が使える。よく考えることだな」
 ユキトは何も答えなかった。
 言っても無駄なことは言わないほうがいい。やつだって、この三週間でそれぐらいは分かるようになった。   
  
 
 
 ユキトの心配は杞憂だった。
 俺たち二人は何事もなく目的地に辿りつくことができた。ヤクザどもは俺が泳がせるにはデカすぎる肉食魚だということを理解できなかったようだが、今回は都合がいい。ヤクザは基本的に俺が中学生だと侮っている。それはまだしばらく使える手のようだった。
 フルフェイスのメットを脱いだ俺は、ジジイから借りたカビ臭いよれよれのニット帽に、コンビニで買ったグラサンとマスクという不審者スタイルで地下へ向かった。ユキトの原付には二人乗りが限界だったので、ジジイは後で非番のおっさんに迎えに来てもらう手筈になっていた。
 地下闘技場は、『運営』の系列の不動産会社が経営するイベントホールを隠れ蓑にしていた。倒産したプロレス団体の専用アリーナ兼練習場をだったものを買い取ったらしいが、地下にあれだけの設備があることから考えても、設計段階で『運営』が一枚噛んでいたのは間違いない。
 上のイベントホールでは、名前も聞いたことがないバンドのライブが行われていた。そうやって表の催しと同時に行うことで、『運営』は不自然な人の出入りを偽装している。ありがちな手だ。
 目印である『関係者意外立ち入り禁止』の札を通り過ぎ、俺たちは地下へと続く大型エレベーターの前に着く。見張りは強面が二人。警備員の服装をしているが、スジ者の臭いは消せていない。
「ここから先は関係者意外立ち入り禁止です」
 警備員の片方が言った。正式に中に入るには、裏ルートでしか手に入らないチケットと日によって変わる合言葉が必要だ。俺はどちらも持っていなかった。
「ドクターのおっさんの知り合いだ。聞いてないのか」
 俺はそう言いながら、警備員に近づきポケットに忍ばせていた札束を相手に手に握らせた。エレベーターの前には監視カメラがあったが、ちょうど死角になっている。
 警備員は、変装した俺の顔を見ている。この至近距離なら、誤魔化しは効かない。俺はマスクとグラサンをずらし、そいつにウインクして見せた。
「……どうぞ」
 警備員は相棒に目配せをすると、札束を素早くポケットに突っ込んだ。エレベーターのドアが開いたのはそれと同時だ。
「どうでもいいけど、お前もうちょっと小分けに使うとかはないのかよ。ポンポン札束出し過ぎだろ」
 エレベーターの中に乗り込み、ドアが閉じるとユキトが言った。俺は別のことを考えていたので、返事は返さなかった。
 『運営』には、俺がこの市ヶ谷戦をぶっ壊すという発想はない。警備員の反応から、俺はそう確信した。こちらへの警戒度はせいぜい中レベルで、ブラックリストには入っているが地下に入れば『血祭部隊』などの私兵を使ってどうにでもできると思っている。さもなければ入り口で門前払いを喰らい、金の買収も通用しなかっただろう。
 だが、市ヶ谷個人が試合をぶち壊されることに警戒をしている可能性はあった。例えば、俺と同じように入り口の警備員を買収すれば、誰が今日の地下に来たかを連絡させることができる。後は『運営』を動かして俺を拘束させればいい。市ヶ谷と『運営』は利害の繋がりだろうが、やつならいざというとき『血祭部隊』を間接的に動かせる交渉の材料ぐらいは用意するだろう。
 札束(百万円)を丸々渡したのは、警備員が市ヶ谷から俺を追い返せと指示されていた場合を見越しての行動だった。いくら市ヶ谷でも、見張り程度の賄賂にそれ以上の大金を払う可能性は低い。
 もっとも、やつが俺の想像通りの賢さならば、買収し返されることも織り込み済みで、誰が来たかを報告させることだけを指示するはずだ。そうすれば、警備員に両方から金を受け取るという逃げ道を与えることができ、市ヶ谷の情報網は機能する。
 俺がそう判断したのは、市ヶ谷の敵が俺以外にもいるからだ。
 それは『四天王』のことだ。ウィンに関しては単純な戦闘狂であることは間違いなかったが、おっさんから聞いた『四天王』による地下の裏麻薬ルートの噂が本当だとすれば、やつらの頭はむしろ市ヶ谷と同じタイプの人種である可能性が高い。自分たちの既得権益が侵されるならば、そういうやつは何でもやるだろう。いくらでも金を使うし、賄賂の額では勝負にはならない。そんな相手と闘う場合、金で動くスパイは裏切ることを前提で使う必要がある。
 だが、俺はそれすらも市ヶ谷にとっては、もしものときの保険の一つだと思っていた。市ヶ谷は今日、試合の当日まで生きている。それはやつ自身の計略によるものだと俺は信じていた。 
 さて、俺にとって重要なことは、市ヶ谷が俺をどの程度警戒しているか、という点だった。だからこそ、俺はあえて警備員に市ヶ谷への口止めはせず、あくまで通行料として賄賂を渡した。わざとセンサーに引っかかってやったのだ。
 俺は決して市ヶ谷のことを過小評価しないが、むこうはどうか。
 それを計る。
 俺の考えたパターンAは、エレベーターの出口で『血祭部隊』が待ち構えている状況だった。市ヶ谷の警戒度がマックスのパターンだ。しかし、それはそれで『運営』との直接交渉の場になるので都合はいい。残念なことにそうはならなかった。
 エレベーターを出たフロアは、賭けのチケットを買う券売所へ並ぶ人の列でごった返していた。視界に入る範囲には、割り込みを監視するための警備員が十数人いるだけだ。券売所の逆サイドには酒や飲み物の販売所と、テレビ画面越しにケージを見ながら利用できるスナックバーがあり、ガラの悪い利用客でにぎわっている。
 パターンB、市ヶ谷は俺に来たことに気付いており、利用客の中に『運営』の監視を紛れ込ませている。あるいは『運営』が独自に監視をしている。俺が怪しい動きをすれば拘束する。
 パターンC、市ヶ谷と『運営』は間抜けで俺の存在に警戒していない、あるいは見張りの連絡ミスで気づけなかった。現在の俺はフリー。
 どちらにしろと、やることは同じだった。俺は周囲に神経を尖らせながら、八カ所ある券売所の窓口の上に備え付けられた、複数の大型モニターをチェックした。そこには参加選手の顔写真、戦績、簡単なプロフィールと一緒に、それぞれの賭けのオッズ(倍率)が表示されている。本日の対戦カードは五つ。市ヶ谷の試合メインイベントだけあって、他のよりも一回りデカいモニターが使われていた。違いはもう一つある。返ってくる掛け金の倍率の表示が、十秒区切りの試合経過時間ごとにつけられていることだ。
 今日の市ヶ谷の試合は『けじめ』ルール、言い換えるなら『四天王』ルールで行われる。観客たちは、強者である片方が、弱者であるもう片方をどれくらいの時間で倒すかを賭ける。もちろん強者側は市ヶ谷だ。さらに市ヶ谷には十分以内に相手を倒さなければ負けるという追加ルールがあり、その上で五分で倒すという予告もしているらしい。
 演出過剰。
 その甲斐もあって、五分台、次いで四分台後半の人気は高かった。他の時間帯に比べオッズが低く、二倍に届いている区間はない。ここまでは予想通りだ。俺はここからさらに本命を探さなければならない。
 不自然なオッズはすぐに見つかった。だが、一つではない。六分〇秒台と七分十秒台、そして九分三十秒台。市ヶ谷の予告から離れるが、全てオッズが一・五倍未満。オッズが低いということは、その時間に欠けた人間が多いか、あるいは大金を賭けた人間、またはグループがそれぞれ一組以上はいるということだ。
 怪しいオッズが三カ所というのは、何か引っかかった。一つでも二つでも、四つでも五つでもない。それぞれ別の三者、そうだとしたら? 確証はなかったが、その状況は俺の予想と辻褄が合う。ただし、それを裏付ける確実な証拠はない。
 まぁ、賭ける相手は初めから決まっていたが。
 俺は列の間を悠々と歩き、引き留めてきた警備員二人を札束で黙らせ、券売所の列の先頭にいた男の頭を札束で叩き、順番を買った。金は湯水のように使え。後ろに着いてきたユキトは、半笑いの呆れ顔をする。
 ニット帽とグラサンとマスクは、その場で全て脱ぎ捨てた。
「八千万ある。確認しろ」
 券売所の窓口に取り付けられた防犯用の透明な仕切り板の下部には、金をやり取りするための、腕が入るぐらいの隙間がある。
 俺がそこに向かって突っ込んだのは、地下に来る途中、最寄り駅のコインロッカーから回収してきたジジイの金だった。口を開けたカバンの中から、大量の札束が券売所の中へと雪崩れのように滑り込む。
「言っとくが、ちょろまかしたらぶっ殺すからな」
 受付の男は、ドスの効いた俺の脅し文句にガクガク震えながら何度も頷いていた。そいつは、大量の札束なんかには目もくれなかった。俺の周囲にいた他の客どもも、札束を見てはいなかった。
 皆、俺の顔を見ていた。
 ウィンにボコボコにされた俺の顔は、歪んだ骨格に鉄のワイヤーを通して矯正し、裂けた皮膚を何か所も縫ったせいで、酷く醜い有様だった。地下でやるなら、人気が出そうな外見だ。
 まるでフランケンシュタインみたいだな。初めて包帯を外したとき、ユキトはそう言って顔をしかめた。やつは今、俺の横でこの状況を半笑いで見ている。 
「いいか、お前ら!」 
 俺は行列の客どもに向きなおって、声を張り上げた。
「俺は市ヶ谷のクソ野郎が無様に負けるほうに賭けるぜ、八千万だ! お前らが証人だからなぁ。目玉かっぽじってしっかり見てやがれ!」
 俺はそう言って、賭け金を吐き出した革のバッグを引き寄せた。バックの底を探り、ガムテープで張り付けられた茶封筒を手に取る。八千万とは別に、ジジイの金から取り分けた五百万ほど。
 しつこいようだが、金とは使うべきときに使うものだ、というのが俺の持論なのだ。
「こいつは……あれだ! 前祝いだぜ。精々もりあげろよなぁ、クソ野郎ども!」
 大声で煽ってから、俺は封筒を破り捨て金をバラまいた。宙を舞う万札は、酷く下品な花吹雪。客どもは一秒ほど、あっけにとられた間抜けな表情でそれを見ていた。
 次の瞬間、パニックが起こった。
 金の奪い合い。まぁ、当然だ。この地下の底に燻るロクデナシどもは、がめつく生き汚い。その習性は利用できる。
 一斉に金に反応した客たちの中で、それでも俺から視線を逸らさなかった一部の人間――客に偽装した『運営』の密偵は、酷く目立っていた。
 人数は三人。『運営』と市ヶ谷、やはり潜ませていたか。
 拝金主義の木偶どもが床に落ちた札を拾おうとしゃがみ込んだとき、俺はその場にバッグを捨て、最前列にいた運の悪いゴロツキの頭を踏み台にする。
 ジャンプした先は、最も近い位置に立っていた密偵の一人。
 ドロップキックの練習はしてこなかったが、キレイに入れる必要はなかった。スニーカーの底に鉛を仕込んでいたからだ。最短・最小で目的地に辿りつくためなら、俺は武器の使用も辞さない。
 鈍い音とともに、そいつはもげるように床に倒れた。
 だが、俺が地面に着地する瞬間を狙って、予想外のことが起きる。
 斜め後ろで金を拾っていた客の一人が立ち上がり、俺の胴に組み付いてきたのだ。
 頭が回る野郎だ。こいつも密偵、恐らくはリーダー格。咄嗟の判断で金を拾う一般客に偽装したのだ。『運営』もいい駒を使う――。
 だが、運の悪いことにそいつの努力は無駄に終わった。
 ユキトが投げつけたバッグをもろに後頭部に喰らったからだ。武器として使えるよう、その中にも鉛が仕込んであった。
「貸し一つだ」 
 生意気にも、ユキトはそう言った。俺はバックを拾い、金に群がる客の波の中に紛れる。ユキトもそれに続いた。残りの密偵二人を巻くにはそれで十分だった。
 スタッフ専用通路の入り口は、スナックバーのカウンターを抜けた先ある。券売所前の騒ぎはフロア全体に広がり、大半の者が金拾い大会の参加者か野次馬になった。その混乱と地下の薄暗い照明を利用すれば、派手な顔面の俺でもカウンター内に入りこむのは簡単だ。
 二人いた店員をそれぞれ殴り倒し、俺とユキトはスタッフ通路の入り口前に辿り着いた。スチール製のドアには、鍵穴の代わりに暗証番号を打ち込むパネルが取り付けられている。
 地下のドクターであるおっさんならその番号を知っているが、俺はあえて聞かなかった。おっさんは地下の内部事情を探るための貴重な協力者だ。今は放置されているが、暗証番号を漏らしたとなれば、『運営』にマークされ動き辛くなるだろう。たかが暗証番号ごときで、おっさんを使えない駒にするのは勿体ない。
 ドア一枚開けるだけなら、暗証番号よりもスマートな方法を俺は持っている。
 ジジイから奪った拳銃だ。
 俺は今日、それをバックの底にガムテープで張り付け、地下に持ち込んでいた。
 撃鉄を上げ、素早く、正確に撃ち込む。
 相変わらず、引き金は酷く軽かった。
 護身用のチャチなリボルバーだったので威力の不安はあったが、二発目でドアの鍵は壊すことができた。俺は入り口前に備え付けられていた監視カメラをチラリと伺う。すでに『血祭部隊』を含めた『運営』の私兵は動き出しているだろう。ここからは時間との勝負だ。
 スタッフ通路を進んだ先は、T字路になっていた。
 目的地は右を曲がり、さらに左折してから三番目のドア。
 だが、すでに追手はT字路の左右から俺たちのことを挟み撃ちにしていた。思ったよりも対応が早い。
 ただし、追手は防具と金属バットで武装した『血祭部隊』ではなかった。制服姿のただの警備員が通路の左右に二人づつ、計四人。武器は警棒、そしておっさんの話によれば催涙スプレーを隠し持っている。恐らくは、たまたま近くにいただけのやつらだ。急な対応なら、こちらに対する脅威判定と、何が何でも止めるという覚悟は甘いと予想できる。 
 催涙スプレーを使われる前に倒す。
 俺は迷わず右から来ていた警備員二人に向かって走り出していた。ユキトがその後ろに続く。
 俺は勢いをつけた鉛入りのスニーカーキック、ユキトは鉛入りのバッグの顔面ライナーでそれぞれ相手を一蹴。そのまま通路を走り抜け、後ろも振り返らずに一気に目的地を目指した。 
 角を左折し、三番目のドア。
 俺はその部屋の中に入る前に、右手に握っていた拳銃をパスした。
「ぶっ放してやれ」
 ユキトは舌打ちを返す。
「そこまでやるとは聞いない」
「威嚇でいい。残弾は二発ある。二十秒ぐらい稼げば十分だ」
 ところどころに裂け目の残った顔で笑いかけてやると、ユキトは顔をしかめ、しかし次の瞬間にはリボルバーの撃鉄にかかった親指には力が込められていた。
 カチリという安っぽい、金属音。
 ちょうど、追いかけてきた残りの警備員二人が角から顔を出したタイミングで、俺は部屋の中に滑りこむ。
 背中越しに、銃声がしたのはそれと同時だった。
  


 部屋に入った瞬間に俺は身構えたが、次の瞬間には拍子抜けしていた。
 そこは出場選手が利用する控室の一つだった。市ヶ谷の部屋ではなく、やつの対戦相手が使う部屋だ。
 市ヶ谷を直接控室で襲うという作戦には無理があった。やつは自衛のために武装している可能性が高い。武器アリの戦いでは分悪いし、むこうは『運営』の私兵が到着するまでの時間を稼げばいいだけだ。そもそもボディーガードをつけている場合も有り得る。
 だから、俺はやつの対戦相手を再起不能にし、『運営』と交渉して対戦カードを変えさせることを考えた。俺はこの三週間、『ケージの中で』やつと闘う練習をしてきたのだ。
 アホらしいことに、当の対戦相手はパイプ椅子に腰かけ、呑気に携帯ゲーム機をいじっていた。耳にイヤホンを指し、入り口に背を向けて座っていたおかげで、こちらにはまったく気づいていない。舐めてんのか、と思う。
 黒いショートタイツを履いた、いかにもという感じの元プロレスラーの男だった。
 身長では市ヶ谷に負けるが、階級的には同程度だろう。聞くところによると、同じ事務所の気に入らない先輩レスラーをブチのめして半身不随にしたせいで落ちぶれ地下送りになったらしい。
 プロレス団体の所有していた施設の下に闘技場があることと、ここで闘うファイターにプロレスラー崩れが多いことは、恐らく無関係ではない。裏の繋がりが残っているのだろう。加えて、そいつらがここでもプロレスをやっていることは想像に難くなかった。つまり、地下の興行を盛り上げるためのブック(八百長)だ。そういう人材を育成できるプロレス事務所は、『運営』にさぞ重宝され金を貰っているはずだ。
 目の前の間抜けなレスラーは、果たして八百長を仕込まれているのだろうか。
 八百はない、と俺は考えていた。賭けていた、と言ったほうが正確か。
 どちらにしろと観客を満足させるためには酷くブチのめされる覚悟はしなければならないし、呑気さはむしろ肝が据わっているとも取れる。おっさんからも『四天王』に挑むのに遜色はない戦績だというのは聞いていた。ガチでやるには十分なレスラーだ。
 ただし、今回注目すべきは、レスラー本人ではなく、それを取り巻く外的要因、つまり『運営』が市ヶ谷のために八百長を組むかどうかだ。
 市ヶ谷と『運営』は一枚岩ではないと俺は思っていた。『けじめ』ルール、言い換えるなら『四天王』ルールで闘う上に、時間切れイコール敗北という難易度の高い設定は、その証拠に思える。ウィンの襲撃に失敗したことで、『運営』は少なからず市ヶ谷の実力に疑問を抱いたはずだ。さもなければ、打倒『四天王』のための大事な駒にハイリスクな試合をやらせるはずがない。市ヶ谷が試されているのなら、相手もガチでやるだろう。やつにとっては逃げ場のない状況だ。
 その上で、俺はこの試合に金が絡んでいることを読んでいた。演出としては過剰な「五分で倒す」という市ヶ谷の宣言は、特定の時間帯にベットを集中させ、オッズを操ることが目的だ。もちろん、やつは五分台で試合を終わらせることはないだろう。
 本命の勝利予定は、賭ける人間の少なくオッズの高い別の時間帯だ。そこに大金を賭ければ、注目度の高いこの試合につぎ込まれた大金を総取りにできるという寸法だ。
 問題はこのマッチポンプが市ヶ谷個人の小遣い稼ぎか、『運営』の出した条件かのどちらかということだった。前者ならば、俺が乱入した時点でやつは予定を変更するだろう。『運営』との取り決めであるからこそ、この状況は市ヶ谷を縛り、俺にとって有利に働く。
 市ヶ谷の性格からして、金が目的ならもっと労力とリスクが少ない方法をとるように思えた。だが、やつに俺の知り得ない逼迫した事情があるならば可能性はゼロとは言い切れない。『運営』にしても、『四天王』の件からファイター個人が大金を手にするという状況を看過するとは思えないが、それも両者の力関係、交渉力や握っている弱み次第ではどうにでもなる。 
 さらに言えば『運営』にとって、この仕掛けは信用できないファイターに大金を賭ける行為になる。注目度の高い試合を組み、賭けの参加者が増えた時点で、やつらには多額の主催者収入が入るのだから、わざわざリスクを冒す必要はない。
 俺の推測を否定する反証は無数にあった。
 だから、俺はジジイの金を保険に賭けた。この試合に関して、怪しい金の動きがあることはほぼ確実なのだ。そこに介入すれば少なくとも『運営』は釣れる。営利団体であるヤクザにとって、金持ちの俺は無視できる存在ではない。直接交渉の場を設けてくるだろう。
 もちろん、俺の望みは市ヶ谷と今夜やることだ。それにはまず、やつの対戦相手を闇討ちすることが必須だった。
 俺は気配を殺して、携帯ゲーム機にかぶりつきのプロレスラーの背後に近づいた。
 八百長であろうとなかろうと、この抜けた男が今日殺される予定だったことは確実だ。『四天王』は殺しで人気を得たのだ。市ヶ谷がその後釜を狙うなら、必要不可欠な演出だろう。無論、本人が知るはずもない。結果的には、俺はこいつの命を救うといわけだ。
「試合の時間だぜ」
 俺はレスラーの肩を軽く叩き、声をかけてやる。
 次の瞬間、呆けた顔で恩人の顔を見上げたそいつの顎を、正拳突きが打ち抜いた。
 肉とカルシウムの砕ける感触。
 パイプ椅子が倒れ、床に叩きつけられた携帯ゲームの液晶が飛び散る。俺は四つん這いになった相手が起き上がるよりも前に、後ろから股間をつま先で抉り取るように蹴り上げた。
 悲鳴。
 俺は己の好調を確かめた。やはり人を殴らなければ、死んでも構わないというつもりで、本気で殴ることをしなければ、この感覚は取り戻せない。フラストレーションの溜まる温いスパーリングは終わりだ。ここからが本番。テンションは戦闘モードに移行している。
 とは言え、前菜に労力を割くのは良くはなかった。今日のメインは大物なのだ。
 俺は股間を抑えてうずくまったレスラーの背中に覆いかぶさり、右手を首に回した。 
 市ヶ谷対策に練習した技の一つ、スリーパーホールド。
 頸動脈を締め上げることで、脳への血流を滞らせる技だ。勘違いされがちではあるが、この技は血流そのものを物理的に堰き止めるのではない。頸動脈洞反射というものがある。脳内の繊細な血管が破裂することを防ぐため、頸動脈内の血圧が高くなった場合、即座に心臓の活動を抑制するという自律神経系の働きだ。スリーパーホールドは、その反射を誤作動させて相手の意識を落とす。
 俺はこの技に、さらに独自のアレンジを加えていた。
 練習をする必要があった。そもそも、後頭部を思い切り殴りつけて気絶させ、その後脚の一本でも折ってやれば、こいつを潰すには十分なのだ。俺はあえてスリーパーを使う状況を選んでいた。ユキト相手には散々やったが、あいつと市ヶ谷では体格が違う。俺の変則スリーパーは極めるのに少々コツが必要だった。市ヶ谷と体格の近いこのレスラーでそれを掴んでおく。
 俺の腕は相手の首をホールドしていた。頸動脈は確実に締まっている。スリーパーが入って意識が落ちるまでは、約七秒必要だ。
 首を絞められていることに気が付いたレスラーは、四つん這いの状態から頭を下げ、背中を滑り台のように前方へ傾けた。体格差がある場合、首に組み付いた相手を前方に落とすということは簡単だ。俺の脚の長さでは、レスラーの太い胴体をしっかり引っ掛ける固定すること(フック)は難しい。体勢を変えるか、あるいは腕力で簡単に外されてしまう。
 もちろん、それも含め折り込み済みの動きだった。
 俺は左脚の親指と一指し指で、相手の腿の裏の肉を思い切りつねり上げた。レスラーが予想外の激痛に反応した隙を突いて、俺は身体を捩り、その反動で相手ごと横向きで床に倒れる。すでに股間の痛みのダメージがあるレスラーには、もはやまともな判断力はない。
 七秒はすぐに経った。
 レスラーは意識は失ったが、息はあった。死んでもよかったが。
 皮膚をつねる、あるいは爪を剥がすというのは、市ヶ谷の組技テクに対抗する数少ない手段の一つだった。俺はこの三週間で、つねりを足の指でも使えるように訓練した。もっとも、警戒させれば簡単に無効化はされる技ではある。おまけに大したダメージにはならないから、使いどころは吟味する必要があった。
 最大で二回だ。三回目は防がれるか、あるいは耐える覚悟はできる。俺はドス黒い紫色に変色したレスラ―の腿を見ながらそう考えた。
 控室の入り口ドアがゆっくりと開いたのは、その直後だった。手を後ろで縛られたユキトと、追いかけてきた警備員二人が立っていた。
「お前、なんであっさり降参してんだよ。根性なしが」
「二十秒は稼いだ」
 ユキトは悪びれもせずにそう答えた。その後ろでは、警備員たちが俺と、股間から血を出しながら床に横たわっているレスラーを交互に見比べていた。
「……このガキども、何てことを……」
 片方が、そう呟いた。メインカードで闘う選手を守り切れなかったとあれば、普通なら責任問題だ。ヤクザなら指ぐらい詰められるのかもしれない。
「心配ねぇよ。俺が代わりに戦ってやる。お前らの上司にそう伝えろよ。それで万事解決だ」 
 俺はとびきりのツギハギ笑顔で笑いかけてやったが、警備員二人は口を開けたまま何も答えなかった。
 
 

 警備員は俺とユキトを別々の部屋に連行した。
 取調室。そう言って差し支えのない部屋だった。狭く、殺風景な部屋の片側の壁は上半分が鏡張りになっている。恐らくマジックミラーで別室から監視できるようになっているのだろう。刑事ドラマにありがちな机はなく、代わりに壁にはシャワー付きのスロップシンク、床には無数の排水溝――この部屋に連れて来られたやつの血や小便を洗い流したり、水攻めに使うためのもの――が備え付けられていた。中で行われる行為のエグさを考えれば、尋問室と呼んだほうがいいのかもしれない。あるいはシンプルに拷問部屋。仮にも娯楽施設であるはずの地下にこんな部屋があるなんて『運営』は無駄なところで用意周到だ。
 その部屋の真ん中で、俺は両手、両足を手錠で繋がれ、別の手錠でパイプ椅子の脚に繋がれた上で、胴体をガムテープで背もたれに固定されている。口には舌を噛み切るのを防止する猿ぐつわ。俺をただの中学生と見なせば痛い目に合うことを、『運営』のやつらもやっと理解し始めたらしい。ただし、今回は手遅れだった。市ヶ谷の対戦相手はすでに潰れており、運営は選択肢を迫られている。市ヶ谷と『運営』の不和、という推測が正しいならば、俺はそこに付け入ることができる。そこだけは賭けだったが、自信はあった。
 俺が来てから五分も経たないうちに、取調室のドアは開いた。
 入って来たのは二人の男だ。片方は知っている。
 殺すリストの初めの三人の一人、口原。やつが『始末屋』と呼ばれる、『運営』の飼う駒の中でも特に恐れられている連中のリーダーだということは聞いていた。
 もう一人の男は、白スーツで薄いカラーレンズの眼鏡をかけた、頬に傷跡のある男だった。『始末屋』は黒スーツが制服らしいので、メンバーではない。リーダーである口原が護衛に着いていることから考えても、かなり地位のある人間であることは推測できた。
 試合カードを変更できるほどの権限を持った『運営』の男。
 たとえこの白スーツが、口原が倒され人質に取られるという状況を想定した別人の変装だったとしても、本物はマジックミラーのむこうからこの部屋を覗いているだろう。
「久しぶりだな、口原」
 猿ぐつわを外された俺はそう言ったが、口原には無視された。代わりに白スーツの男が口を開く。
「顔見知りか」
「……『上』のファイターの一人が練習場所にしているカタギのジムに、このガキが殴り込みをかけたとき、処理したのが俺でした」
「ああ、そうだったか、そう言えば」
 白スーツがおもむろに懐からタバコを出し咥えると、口原がさっとライターを取り出して火をつけた。まるでホストだ。俺は鼻で笑ってやった。
 次の瞬間、口原の後ろ回し蹴りが俺の頬をかすめた。
 動きは見えなかった。見えたとしても、避けれる状態ではない。風圧があった後、少し遅れて目の下辺りに熱さを感じた。ダメージは皮膚一枚分。もちろん、当てなかったのはわざとだ。
「……今、思い出した。その後、『けじめ』の試合をやらされたが、逆に勝っちまって、そのままここのファイターになったとんでもない中学生がいたんだったな。さらにとんでもないことに、そいつは一か月前の『四天王』戦後の乱入騒ぎにも関わってる……イカレてるのか、お前」
 白スーツは、何事もなかったかのように話を続けた。舐めた態度をとれば、次は首から上がなくなると思え。白スーツの隣に無表情のまま立ち、もはや俺のほうすら見ていない口原だったが、肩からはそんな殺気が滲み出ていた。
 ふかしたタバコの煙が、俺の顔にかかる。
「死にたいなら、手伝ってやる。対戦カードが一枚増えた。お前対『血祭部隊』十人。きっと盛り上がる」
「もったぶらずに本題に入れよ。俺が市ヶ谷と闘りたいってのを聞いたから、わざわざ来たんだろ。そっちにも得がある話だ。少なくとも市ヶ谷に賭けるよりはな」
「……ガキの戯言には付き合いきれんな」
「あいつはガキよりタチの悪いコウモリ野郎だ。いざとなったら『四天王』に寝返るぜ。むしろ初めからそれが目的かも」
 俺の言葉が意外だったのだろう。白スーツは口原と顔を見合わせてから、しばらくして俺に向きなおった。この時点で、俺は『運営』が市ヶ谷を信用していないことを確信していた。
「続けろ」
 俺は笑いをこらえながら、話を続けた。
「市ヶ谷は『四天王』とのコネクションを持ってる。さもなきゃ、今日の試合を待たずに消されててもおかしくはない。ウィンを場外で襲ってるんだ。自然な流れなら、『四天王』は市ヶ谷に同じことをやり返すはずだろ。この街のルールに触れるが、自分たちの地位が脅かされるなら『四天王』も必死だろうし、相手が組でなく個人なら隠すのも簡単だ。具体的な証拠はないが、市ヶ谷と『四天王』との間に何らかの交渉があったのは確実だ。もちろん、そんなことはあんたらも分かってる。その上で放置するしかなかった。『四天王』の一人を倒したとしても、その地位にそっくり入れ替われるわけじゃない。他のメンバーに仲間と認められなきゃ、市ヶ谷を使って『四天王』をコントロールするなんてことはできないからな」
「……なるほど、お前がイカれてるだけじゃなく、そこそこキレるのは分かった。で、こちらには何のメリットがある」
「俺はそこの口原と闘りたい」
 俺はチラッと口原の顔を伺ったが、やつは相変わらず俺のほうには目もくれず、仏頂面を決め込んでいる。
「正確に言えば、『上』で何人か闘りたいファイターがいる。俺が『四天王』を全員ぶっ殺した暁には、『下』でそいつらと試合を組んでくれ。特別マッチだ」
「……意味が分からないが」
「『下』のトップが『上』のファイターとやる仕組みを作れって話だよ。そうすれば、この先『四天王』みたいな調子づいたやつらが現れても、ケージの中で潰すっていう手段が使える。加えて、『上』からファイターを連れて来て、『下』の人気選手に仕立てるって流れも作れる。いいことずくめだろ」
 詳しい事情は俺には知る由もないが、『四天王』が『上』のファイターとの試合を拒んでいるのは間違いなかった。やつらが嫌だと言えば、『運営』は素直に従うしかない。そして俺はその状況に風穴を開けられる。
「前提条件がイカれてる。こっちは中学生が『四天王』を全員倒すなんて話を真に受けるほどボケちゃいない」
「ああ、だろうな。俺だって普通ならそう思う。じゃあ、こうしようぜ。俺がウィンに勝った時点で、『上』のやつと試合を組めばいい。今日みたいなゲリラ方式でやれば他の『四天王』も邪魔はできない」
 生憎、俺は普通ではないが。
「……舐めてるのか」 
「俺は『自分の勝ち』に八千万賭けた。もちろん、俺と市ヶ谷の試合が組まれたらの話だが、勝ったら半分やるよ」
「……はぁ?」
「どっちに転んだとしても、そっちにメリットはある。市ヶ谷が勝てば、当初の予定通り。俺が勝てば、少なくとも金は入る。ウィンに勝ち目があるか、って点では市ヶ谷も俺も大した差はないだろ」
「話にもならんな。その程度の金、わざわざお前の味方をしてやるほどの旨みでもない」
「市ヶ谷はケージの中で武器を使う。恐らく毒だ」
 白スーツが咥えていたタバコの先から、灰が落ちた。変化自体は少ないが、明らかそれと分かる驚きが顔に浮かんでいる。恐らくは、市ヶ谷が武器を使うことではなく、俺がそれを知っていることに対する驚きだ。口原は一切変化なし。
 俺は頭の悪いヤクザどものために分かりやすく説明してやることにした。
「対ウィン用の切り札の話さ。市ヶ谷も雑魚ってほどじゃないが、まともにやれば勝率はかなり低い。あいつの性格なら、絶対に保険をかけるはずだ。ケージで闘る以上、衆人環視の中でバレずに使える武器って条件が付く。だから、少量で十分な効果の得られる毒以外には考えられない」
「……なるほど、大した妄想だが、それが今の状況と何の関係がある」
「あいつは用心深い。今日の試合でも毒は持ち込んでいるはずだ。むしろ、今日は本番のためのリハーサルと考えている可能性が高いか。俺が負けた場合でも、俺の死体を検視解剖すれば毒を使った証拠を掴める。後は、それをネタに脅して、市ヶ谷と『上』のファイターの試合を組めばいい」
「理屈は通っているが、ぬけてるな。別にお前が対戦相手である必要はない。こちらは補欠選手の一人ぐらい用意できる。そいつが毒を喰らえば事足りる話だ」
「ああ、そう言うと思って、俺対市ヶ谷のカードが組まれなかった場合、市ヶ谷自身にしか分からない形で『毒を使うな』って警告が行く手筈になってる。その補欠選手ってのは、警戒している市ヶ谷に毒を使わなければ勝てないと思わせるほど圧倒的に強いのか? 俺なら確実にやつが毒を使わざるを得ない状況に追い込める」
 市ヶ谷に連絡が行くというのは、よくあるハッタリだった。だが、あらかじめ俺は八千万の資金力を相手に示している。どこかの誰か、たとえば地下のスタッフを買収して連絡係にするという想像は白スーツの頭をよぎるはずだ。そして、たとえ敵、あるいは正体不明の相手からのメッセージであっても、毒の存在を示唆すれば市ヶ谷が警戒心を抱く可能性は十分に高い。やつはそういう性格だ。
 俺は追い打ちをかけた。
「実を言うと、警告を送る相手は市ヶ谷だけじゃない。俺の望みが叶わなかった場合、市ヶ谷が毒を使うって情報がこの界隈に流れる手筈になってる。何人雇ったかは忘れたが、まぁ『四天王』の耳に届く前に全員探して口封じするってのは難しいだろうぜ」
 毒の使用が知られれば、『四天王』はウィン対市ヶ谷の対戦に難色を示すだろう。それは市ヶ谷が駒としての価値を失うことを意味していた。
 もはや、俺の要求を呑む場合より、呑まない場合のマイナスのほうが遥かにデカい――と思わせる状況はそろっている。実際には、噂を流す件もハッタリだ。しかし、むこうにそれを確認する時間はない。今頃は、本日の第一試合は始まっているころだ。
 俺のようなイカれたガキから拷問で真実を聞き出す自信はないだろうし、自白剤の使用も、本当だった場合収集がつかなくなる(無理やりケージに上がらされたとしても薬漬けでヘロヘロな俺に市ヶ谷が毒を使う可能性はゼロだし、俺の様子がおかしい場合も毒の噂を流す指示を出していると言えばそれで脅しになる)ので躊躇うだろう。
 どんなに疑わしいと思っても、俺が嘘をついていると断定するのはリスクが高すぎる賭けだ。
「……もう一度言うぜ。俺が勝とうが、負けようが、そっちにはメリットがある。だから、俺を市ヶ谷と闘らせろ」
 チェックメイト。
 白スーツはしばらく目をつぶって考えていたが、ため息をつくと観念してこう言った。
「要するに、分かった上で自分から毒を喰らいに行くつもりってことだよな……つくづく狂ったガキだ」
「億が一でも、負けた場合は毒で死ぬって意味だ。俺は百パー勝つけどな」
 無表情だった口原が、最後に鼻で笑っていた。

 

 自由になった俺は、先ほどレスラーをブチのめした控室に連れ戻され、そこで自分の出番を待つことになった。床には、まだ乾ききっていない血の後が残っている。警備員二人が見張りに付いたが「地下なんだから逃げれるわけないだろ」という必死の説得と、シャツの裏に縫い合わせ隠していたなけなしの十万円(汗びっしょり)を二等分することで、なんとか部屋の外で待たせることに成功した。ここまでで、それが一番大変だった。
 左腕の包帯を巻きなおしていると、俺とは別口で自由になったユキトが控室に顔を出した。
「俺の言った通りになっただろ」
 得意顔の俺をユキトは無視した。やつもまた自分の監視役を買収して控室の外に待たせていた。説得するのには手こずったらしい。
「外のやつらを待たせるのに百万づつ払うことになった。お前についてたやつらも含めて計四人」
 ユキトも俺と同じく十万ほど隠し持っていたが、それだけでは足りなかったらしい。交渉ベタが。
「勝手に決めたんだから、お前が自腹を切れよ」
「そっちの警備員がすでに外で待ってて、俺のも追加で待たせようとしたら、どうやったって怪しまれるだろ。黙らせるには必要な金だ。そういうときは惜しむなって言ったのはお前だぜ」
 愚痴ばっかりの屁理屈野郎だった。俺は溜息をつく。多少は見直していたが、ユキトはやっぱりユキトだった。
「……で、拳銃は?」
「取られたままだよ、取り返すのはさすがに無理がある。むしろ返すやつはアホだろ」
「使えねー、クソが。粘れよ、交渉しろ」
 今度はユキトが溜息をついていた。それを見ながら、俺は自分の履いていた靴の中敷きをひっぺがし、その中に入っていた金と、爺さんの診療所からパクってきたメスを取り出した。金は左右の靴底の分を合わせて百万。ユキトの靴底に入っている分も合わせると、二百万ある。
 使い道が決まっている金だった。警備員の買収なんて、つらないことには使えない。俺の命を左右するかもしれない金だ。ジジイのメスもそのための道具だった。上手くいけば、そこに拳銃が加わるはずだった。何より、俺はそれらを使う人間に関して一抹の不安を覚えている。もっとも、やらせる以外に道はないが。
 本当ならジジイあたりが適任だろうが、残念ながら試合後に俺を治療するという優先すべき役目がある。リスクを冒す仕事をさせるわけにはいかなかった。
「アメとムチを上手く使い分けろよ。刃物は視覚的な脅し向きだ。やるなら、指を折るほうがいい。一本目は不意撃ちで折って、二本目からは勿体ぶって折るのがコツだ。痛みに対する恐怖心が倍増する」
「イカれ野郎」
 俺の有り難いアドバイスに対して、ユキトはしかめっ面で返したが、控室を出て行くときの後ろ姿はどこか楽しげにも見えた。俺はやつに命を預けるが、そのことで自尊心は傷つかなかった。そんなことなど気にならないくらいに、楽しいことがあるからだ。
 しばらくして、出番を告げる連絡スタッフがやって来る。
 メインイベント。いつか誰かに言った、最高に盛り上がる復帰戦。
 今が、そのときだ。

 
 リングに上がるまでは夢のような時間だった。
 入場ゲートからコンクリ製のリングまでは、観客エリアをど真ん中を横断するランウェイを通る。フェンスごしに、観客たちは血走った眼で俺に手を伸ばし、喚き散らしていた。
 歓声と熱狂。足元にある、俺の頭蓋を砕きかけた人殺しの硬さにすら、妙な懐かしさすら感じる。
 この三週間、本番までは時間がないと思っていた。
 矢のように時間が過ぎて行く、と。
 だが、今はずいぶんと久しぶりのような気がしていた。ここでの戦いは、俺にとっては一種の麻薬だ。カラカラのスポンジのようになった脳ミソに、返り血の潤いを与えてくれる。俺は中毒者で、ずっと禁断症状が続いていたのだ。何とか意識しないよう誤魔化してきたが、一か月前、ウィンの戦いを戦いを見たとき、俺は衝動に抗うことができなかった。
 この一か月も、ずいぶんと我慢をした。もう我慢をする必要はない。
 俺はリングの上に立つ。
 睨みつけた先には、遅れて入場して来た市ヶ谷の顔。身長約二メートル、今夜のメインディッシュ。
 俺は縫った傷口が裂けて再び開きそうなほどの思い切りの笑顔で、策に溺れた狩人を威嚇してやる。まだまだ、お前には溺れてもらう。もっと、奥深くまで。
「驚いたよ。どんなマジックを使ったんだ、お前」
 市ヶ谷が、肩をすくめてそう質問してきた。余裕を見せるという、それもある種の威嚇。主導権を握るための悪あがきだ。俺には通じない。
「無理するなよ。表情が引きつってる。自尊心を保つための余裕ほど、実際見苦しいもんはないぜ」
 そう返すと、市ヶ谷は舌打ちをして眉間に青筋を立てた。キレたフリだ。やつは今、考えている。こちらに勝つ公算があるかどうか。俺が『運営』を言いくるめた手段。不測の事態。己のミス。駒の裏切り。あらゆる事態を想定に入れ判断を下すはずだ。
 一方で、俺もやつのことを観察している。
 不審な点が二か所。まずは両手首に巻いた、テーピング。下手な打撃で拳を痛め、掴む動作に支障が出るのを防ぐためのもの。もう一つは、胴に巻かれたバストバンド(胸部部固定帯)。一か月前、俺が折ってやった肋骨を固定するためのもの。どちらも着けていること自体は自然だが、毒の隠し場所としては十分怪しい。
 両方毒か、片方毒か、どちらも陽動か。
 分からない以上、その二つには警戒するしかない。よって、こちらの動きは不自然になり、そこから毒の存在を警戒していることがむこうにバレる可能性は高い。それぐらいの頭はあると仮定しなければ、市ヶ谷には勝てないだろう。
「その左手、まだ治ってないのか。そんな状態で勝てるとでも? プライドで自殺するやつはこの世の間抜けだ」
 市ヶ谷は包帯を巻いた俺の左腕を指さした。苛立ちを隠す気もない声色だった。偽の苛立ちと思え。試合開始直後の機を制するために、油断を誘っている。同時に、こちらの注意を左腕に向ける陽動でもあった。
「……心配すんなよ。そっちも怪我人に見えるぜ。これで対等だ」
 俺は思ったことをそのまま言った。化かし合いをするつもりはないし、それで勝てると自惚れもしない。すでに、考えていた中でも最も理想的な条件が整っていた。それを百パーセント活かすことに専念すればいい。
 『運営』は対戦カードの変更はしたが、『四天王』ルール+市ヶ谷サイドの制限時間十分という設定は変わってはない。今更通常ルールに戻せば、せっかく集金した金を観客に一度戻さなければならない。下手に観客の熱狂に水を差すよりは、このまま継続したほうが利益は確実だ。ついでに言えば、『運営』は観客エリア内での追加ベットという行き届いた対応ぶりを見せていた。あくまで追加で返金はなし。とことんガメる気だ。
 もちろん、『運営』と市ヶ谷の間に信頼関係がないからこその対応だった。終わってみれば俺の読み通り、勝って当然の賭けだった。あるいは、当初の条件で『中学生ぐらい』卒なく始末できなければ、『四天王』相手には期待できない、ということか。どちらにしろと、致命的なのは一か月前のヘマだ。俺かウィンか、どちらかを始末しておけばこの事態は防げた。決定的なところで、判断が甘い。
 それは弱いということだ。
 俺より弱いということだ。
 俺は再びやつの顔に視線を戻す。明るめの褐色の肌に、彫の深い顔だち。身長以上に恵まれた手足の長さは、純日本人のものではない。
 市ヶ谷セルジオ純一。それがやつの本名だった。どうでもいいが。
 元自衛隊員、そしてブラジル人のハーフ。異色の経歴の持ち主。
 そいつは自衛隊徒手格闘、そしてブラジリアン柔術を使う。
 格闘家としても、混血の男。
 その上、毒だと? 忌々しい。忌々しいことこの上ない。俺は心の底に芽生えた僅かな苛立ちを縊り殺し、市ヶ谷を睨み、その先にいるはずのウィンの嗤った顔を思い出す。ケージが降りる。
 開始の合図だった。
 奇しくも一手目は同じ、左の直突き。
 踏み込みのタイミングは俺のほうが一瞬先だ。だが、リーチと体重では完敗。つまり俺の拳が先に当たっても、やつの拳が遅れてクロスカウンターを決める。そうなれば、体重差で怯んだところを組み付かれ寝技の餌食だ。
 普通なら。
 ヘビー級の長身が揺れた。
 こちらの縦拳は命中し、むこうは空振り。ただし俺は回避行動をとってはいない。むこうが勝手に外したのだ。へし折れた歯が数本、コンクリの上を跳ねる。予想外のダメージに怯んだ市ヶ谷は、すぐさま距離をとった。
 追撃するほどの優位性はない。しかし牽制としては十分機能している。
 市ヶ谷は、異様なダメージの正体を理解したようだった。騒ぐか? いや、ルール変更がなかった時点で『運営』の助けは当てにはできない。試合が止まる確証はない。下手な隙を見せるほうがこの場合は危険だ。
 言ったはずだ。
 そっち『も』怪我人に『見える』ぜ、と。
 これで『対等だ』、と。
 檻の中に、武器を持ち込んだのはそちらだけではない。
 俺の左手の親指骨折と刺し傷はほぼ完治している。包帯は金属製のメリケンサックを隠すためのものだ。
 ここからは悪夢。
 市ヶ谷にとっての悪夢の始まりだ。

       

表紙

龍宇治 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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Neetsha