Neetel Inside ニートノベル
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格闘衝動(※再々掲)
第2話『路上衝動』

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 俺には――十四歳のちっぽけなガキには、やはり空手しか武器がなかった。
 街で殴っても警察に通報しなさそうなやつらを見つけて、殴って、何度も殴って、必要以上に殴って、二度と泣いて謝ることすらできなくなるぐらいに殴って、財布を奪って漫画喫茶で寝泊りした。
俺はタガが外れていた。
相手が動かなくなって飽きるまで、とにかく殴り続けないと仕方ない。空手を人に使うことを親父にずっと禁じられていたのだ。もはや我慢は必要なかった。俺は今までの人生で奪われてきた正当な暴力性を取り戻さなくてはいけなかった。その刹那的な充実感は、鉛色の修行の日々にはないものだった。
 しかし、そんな生活も一ヶ月ほど続くと退屈になってきた。俺は血に飢えていて、人を殺すのも時間の問題だと思ったが、相手が動かなくなると止めを刺す気持ちは萎えた。拳で人を殺すということは意外と難しい。人ひとりを躊躇なく殺すという精神面の難しさではなく、単純な物理的な難しさがある。つまり、人間を死に至らしめるには単純に威力が足りないのだ。
 空気抵抗のようなそれは萎え気味な殺意をますます失速させ、殴れば殴るほどに俺の拳と『殺人』の間にある強固な壁の分厚さを思い知らされた。
 俺はなんだか親父が教えてくれた空手に少し失望している自分に気がついてしまって、もはや死にたくなっていた。そんなことで落ち込むなんて。俺はますます荒れ、とにかく誰かを殴り続けたが半殺しよりも先には進めなかった。中途半端な『気晴らし』は腹の底に居座ったフラストレーションをますます高純度に濃縮させる。
 初めて拳が届かない相手と出会ったのはそんなときだった。

 
 動きからして、そいつはボクサーだった。
 漫画なんかだと相手の仕草を見ただけで実力が分かるとかいうシーンがあるが、所詮は漫画だったらしい。ただの雑魚だと思っていたら、拳が届かなかった。まるでハエだ。ムキになってもう一度殴ろうとしたらあっさりカウンターを合わせられ、顎への一撃で俺は昏倒した。洗練された動きで、芸術的とすら思えた。芸術なんざクソったれだ。
「いいのが入っちまったな。吐き気とかは大丈夫か?」
 脳震盪から回復した俺に向かって、やつは心配そうにそう言った。俺はもう元気いっぱいで、そのまま掴みかかって首を絞めようとした。脳内で分泌されたアドレナリンが濁流となって動脈のバルブを流れる。しかし、なんだがごちゃごちゃと取っ組み合いをしているうちに俺は後ろを取られて裸締めを喰らい、再び意識を落とされた。
 それから何度かそいつとは街で遭遇したが、手も足もでなかった。
 打撃で戦おうとすれば縦横無尽のフットワークで避けられて最後にはカウンターを喰らい、組みついてボコボコにしようとすれば今度はアスファルトに叩きつけられて失神した。そいつは柔道もやっているようだった。俺が言えたことではないが、変わったやつで、その二つの格闘技をミックスするのが路上の喧嘩で最適化された戦法という考えを持っているようだった。独自の理論だ。求道者の一種みたいだが、なんだかオタクっぽさもあった。ただ、そんなことを本気で実践しているという点で、俺と同じ方向に振り切れた人種ということは確かだった。
「最も優れた格闘技の在り方を模索している。これは俺の人生におけるテーマだな」
 まるで哲学者のような神妙な顔で、やつは己の珍妙な趣味に関してそう語った。俺の前で『最も』だの『格闘技』だのという単語を口にすることは侮辱だ。その鼻っ柱をへし折ってやれないことに、俺は心底怒りを感じる。それは己への怒りでもあった。
 拳を交わすうちに友情が芽生える、ということをその柔道ボクサーは期待していたようだが、いつまで経っても俺が眼を血走らせて向かってくるので、一ヶ月ぐらいで諦めムードになった。その間、殺意を込めた俺の拳がやつを捉えることは一度たりともない。俺は己の空手に失望し、それは物事が思い通りにならないこととはまた別種の怒りに着火して、例のあの感覚が追いすがる後ろめたさのように己の心臓を鷲掴みにするのが分かった。
 倒壊しかけた橋を支える、一本のワイヤー。
 こんなのは今までと何一つ変わらないじゃないか。俺はまだ自由にはなってはいない。最強になれ。いつかの親父の声が耳元で俺を捲し立てる。
 ふざけるな。
 あの男は、たまに『格闘技立ち技テクニック』とか『ボクシングディフェンス入門』みたいな本を枕代わりに置いて行くこともあったが、ブックオフで小銭にもならなかった。余計な世話だ。
 いつの間にか路上で雑魚を殴る時間は減り、代わりに部位鍛錬に費やす時間が増えていた。砂袋ではなく、路上にある電柱やブロック塀に己の拳を打ちつける。一人で強くなるための方法はそれしか知らなかった。たまに通行人がジロジロと俺のことを見てきたが、人睨みするとやつらは逃げた。そういう手合いをいちいち追いかけてボコボコにする程度では、この苛立ちは解消できない。俺は自分がボコボコにした同級生のことを考えていた。やつの顔の原型は思い出せなかったが、今の自分が何かを痩せ我慢していることは確かに分かった。強くなるためには必要なことだ。親父の言葉を思い出したが、そんなのは糞喰らえだ。俺はこの世の理不尽に対する怒りを込め、血だらけの拳を鍛える。それは己自身が一つの理不尽となるための修行だ。俺は修行は嫌いだったが、ひたすら倒すべき相手への憎しみを高めることでそれを誤魔化すしかなかった。クソったれ。
 結局、その拳が報われることはなかった。
 あの柔道ボクサーに俺の攻撃は届かない。今の俺が自力で強くなるのには限界がある。環境の変化が必要だった。忌々しいことに、そのきっかけを俺に与えたのは倒すべき相手本人だった。
 脳震盪を喰らって伸びた俺を放置して帰ることに遠慮が感じられなくなったある日、目覚めた俺の手には一枚のメモが握らされていた。あいつが残していったものらしい。
 それには住所が書いてあった。

       

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