Neetel Inside ニートノベル
表紙

格闘衝動(※再々掲)
第22話『愚か者(前)』

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 昔、ひとりの愚か者がいた。


 血の気の多い男だった。
 突き刺すような血の気に、肉袋を被せたような凶人だった。
 まともな仕事はする気がなかった。人の言いなりで安い駄賃を貰うより、力づくで奪うほうが容易いから。たとえ相手のポケットに小銭しかなくとも、男にとってそれが己の強さに対する十分な報酬だった。金額の問題ではない。己の傲慢な『力尽く』を誇示することこそが、男の唯一の興味だった。
 奪い続けているうちに、男の周りには人が集まった。
 男を恨む人間たちだった。
 そういえば、と男は一度だけ思ったことがある。派手なシャツやスーツを着た、柄の悪いやつら。他よりは金を持っているから、腹が空いたときは狙い目だと思ってよく虐めた。あいつらは、ひとかたまりの仲間だったのかもしれない。なるほど、と男はひとりで納得したが、次の瞬間には仲間を引き連れ報復しにやってきた男たちを返り討ちにして、脳みその奥にすっと風が通るような興奮ですべてを忘れていた。
 実際、男はヤクザを敵に回していた。
 個人なら心を折ればいいが、ヤクザは組織だ。世間に恐れられているという事実が彼らの社会的権威の根拠だった。つまり、たった一人の喧嘩自慢にやられぱなしで終わるという『ダサい』事態はあってはならない。あとは泥沼。どれだけ仲間を連れてきても、どれだけ銃を用意しても、男を殺すことはできなかった。全て返り討ち。やられればやられるほど、後には引けなくなる。
 結局、不毛な争いは三か月ほどで終わった。ヤクザ側が男に和睦を申し出たののだ。端からか奪いとるだけの対象、男からすれば和睦もクソもなかったが、相手の提案は魅力的なものに思えた。
『俺たちの準備する闘技場で戦ってくれたなら、酒と女と食い物と、住むところの世話をしてやる』
 男にはそれが己の強さに対する報酬としては十分であると思えた。
 話を持ち掛けた若い幹部は、しばらく後に組のトップになった。和睦に反対する別の幹部たち――その幹部にとっては政敵になる邪魔者たちを、男がそのときにごっそり始末してしまったからだ。若い幹部の目的は最初からそれだった。
 男との抗争、それに続く内紛で組織は疲弊していた。空中分解状態。組を抜ける者、別の組に移るもの、新たに組を立てる者。しかし、それらの混乱はすぐに治まる。
 男ひとりの手によってすべての敵対者が一掃された後、町の地下には一つの檻ができた
 凶人の玉座。あるいは危険な獣を閉じ込めて、安全な見世物にするための檻。金の成る木。金の卵を産むガチョウ。誰もが麻薬のように陶酔する熱狂を、その檻は纏っていた。だから多くの人間は、その檻の奥底にいるものが、人喰いの化物であるということをやがて忘れ去った。
 いつしか、檻の周り群がるのは愚か者だけになった。
 愚か者は、また別の愚か者を芋蔓で手繰り寄せる。己の人生が何かに振り回されていることすら理解せず、喰い漁る側か、喰い漁られる側かを押し付けあう、地の底の無限螺旋の『足掻き合い』。仕切るヤクザも、賭ける観客も、喰らい合う闘犬も皆同じ。
 背丈を争うどんぐりは落葉焚に一緒くたに燃やされて、実りの秋はやがては終わる。まだ、ずいぶん先の話にはなるだろうが、いずれは必ず。
 何にせよ、件の地下闘技場はそうしてこの世に生まれることになった。
 それが四十年以上前の話。



 そして現在。



 檻は変わらずそこにあった。
 観客たちの罵声と血走った眼差し。今夜のメインは近年稀に見る盛り上がりを見せる。
 その中心で対峙するは大小二匹の獣。
 両者、共に凶人。共に手負い。コンクリの床の上に座り込み、今は相手のダメージを量り合っている。
 大きいほうのダメージは、右足のアキレス腱の噛み跡がもっとも深い。自立歩行は困難。あとは利き手の薬指と前歯が折れている。ただし、アドレナリンで痛みはそれほど感じていなかった。逃げ足を亡くしたのが相手も同条件ならば、柔術家にとっては逆境でこそあれ、十分に『まだやれる』という範囲内。
 一方で小さいのほうは、左肘と右膝を破壊されている。打撃主体のファイターにとって、四肢の半分が丸々重りになるということは、腕一本分の不利というには大きすぎる著しいダメージ差。ただし、痛みは初めから無視している。同様に、己の不利も、体格差も、戦術の足らなさも、全て関係はない。狂犬の本懐は相手の喉笛を喰い千切ることにある。その点で言えば、相対する者とっては依然として十分な危険性を保っていた。
 もしこれが通常の試合であれば、大きいほうの勝ちは確定的。両者がフットワークを失った以上、寝技の展開は避けられない。
 しかし、この闘いはただの殺し合いではない。
 試合開始から六分零秒ちょうどから六分九・九九秒までの十秒間。
 その時間内に相手を仕留めることが、大きいほうの獣――市ヶ谷に対して『運営』が課した条件だった。試合を盛り上げ、己の実力を証明する。地下に君臨する次期『四天王』として相応しい存在なのか。同時に『運営』に効率よく利益をもたらす八百長師としての実力を測る、二重の意味で試金石となる試合。
 そして、市ヶ谷本人にとっては対『四天王』戦の隠し玉の威力を図る実験の場でもあった。
 その武器とは生物毒。
 アフリカに棲息するブラックマンバの牙は、ニホンマムシの六十倍の毒性を持つとされる。体重六十キロなら致死量はおよそ十五ミリリットル。ただし、毒単体で相手を殺しきる必要はない。あくまで動きが鈍らせ、組技で絞殺するための手段。毒性の高さならさらに強力な蛇は存在するが、即効性の高さという点でブラックマンバが選ばれた。
 市ヶ谷はペースト状にしたものを加工した剃刀の刃に塗り、ゴムケースの中に仕込んで蝋でコーティングしてから右手のテーピングの中に仕込んでいる。剃刀は三角形のナイフ状にカッティングされ、刃の逆側を折り曲げて小さなでっぱりが取り付けられていた。そのでっぱりを押し込めば、逆手に持ったナイフのようにゴムケースを突き破って刃が露出する仕組みだ。刃自体は長さ三センチほど。有刺鉄線の金網に囲まれたこの檻では、その程度の裂傷は珍しくもなんともない。
 檻の周囲に設置されたタイマーの表示は、現在四分二十八秒。
 あと二秒で、観客たちは五分〇秒までの三〇秒カウントを始めるだろう。
 五分とは市ヶ谷が試合前に予告した試合終了時間。観客の多くはその予告時間に金を賭けている。
 偽の終了予告で観客のベッドを偏らせ、あえて時間をずらして相手を仕留めることで賭け金を総取りするというのは、まだ『運営』と『四天王』が協力関係にあった時期、小遣い稼ぎによく使われた手だ。つまり市ヶ谷に『運営』が課した条件とはかつての『四天王』の再現ということになる。
 同時に、五分という時間は毒を打ち込むのに最適なタイミングだった。
 ブラックマンバの牙がひと噛みで獲物に打ち込む毒量は、百ミリリットル以上と多い。即効性の高さは毒の威力だけでなく毒量にも関係している。剃刀の刃に塗れる量では十分な毒の効果――運動に支障をきたすレベルの麻痺が表れるまで多少の時間は必要だった。
 その時間はおよそ一分。 
 これまで野犬で十数回、人間で三回実測した結果だった。もっとも、三回のうち二回は相手は栄養状態の悪いホームレスと、薬物中毒のチンピラだったので当てにできるかは怪しいデータだったが。闘技場のファイターとは筋肉量が違いすぎる。もっとデータが欲しかったが、実験のためにいちいち殺人の証拠を消すのは手間が多すぎた。
 幸い三人目の実験台、市ヶ谷と対戦予定だったレスラー崩れのファイターに毒が作用したことで、試合中に使って十分な効果が得られるという確証は得られた。檻の外で試したので対戦相手を闇討ちするという噂(事実)が流れたが、物証は残していない。
 あとは檻の中で試すだけ。
 カウントダウンが始まる。
 市ヶ谷は観客の中にサクラを仕込み、観客がカウントをするよう仕組んでいた。タイマーを確認する余裕がない場合に備えた保険だったが結果的に必要はなかった。
 理想的な試合運び。完璧な状況。
 アキレス腱へダメージは予想外だったが、市ヶ谷はあえて現状を度外視した。もはや状況は出来上がっているのだ。迷いは切り捨てる。驕りも疑いも不要。
 ここは獣の檻。人喰いの檻。
 己が喰う側であると信じた者が生き残る。
『『――殺してやる』』 
 引きつった笑みと同時に、独り言が小さく漏れた。
 刹那。
 市ヶ谷は、三十秒の合唱の中で、対戦相手の少年が自分と同じ言葉を呟くのを確かに聞き取った。
 狙いすましたようなタイミングで。
 『なぜ』という疑問にすらならない、ほんのわずかな違和感は泡のように破裂し消える。
 血が滾る。 
 蜘蛛が獲物に飛びつくように、市ヶ谷は四つ足を使い相手との距離を詰めた。
 少年は逃げはしない。身体を低く構え、臨戦態勢を取る。
 追い詰められた窮鼠。
 そのひと噛み目は、先端にメリケンサックを仕込んだ腱の切れた左腕。
 痛みを無視しながら市ヶ谷の頭を狙い大きく振りかぶる。回避余裕の攻撃だった。
 つまり、相手の狙いは本日数度目の姑息な毒霧。血の目つぶし。
 ワンパターンすぎる。
 市ヶ谷は少年の左前腕部をあえて受け止め、同時に目をつむり、顔を伏せる。
 顔を血が生暖かい血が濡らす感触。
 即座に少年の顔面に蹴りを叩きこむ。目を閉じていても、掴んだ腕から身体の位置は正確に予想できた。
 ツギ跡だらけの醜いガキめ。
 そんなに顔を見られるのが恥ずかしいなら、瞼を閉じたまま殺してやる。顔にかかった血をぬぐうよりも、そちらのほうが早い。
 左腕を掴み、顔面を蹴ったことで、市ヶ谷は身体を位置を入れ替え前三角締めのポジショニングをとった。
 少年の首、頸動脈が瞬時に極まる。
 同時に耳を澄ます。観客の声。残り十六秒。余裕はたっぷり。前三角は相手を仕留めるための技ではない。頭部を固定するのが目的だ。
 フィンガージャブによる目つぶしはこちらも印象付けた。
 市ヶ谷は左手で少年の顔に手を伸ばすが、その手首を少年の右手が掴む。ガードせざるを得ない。フリーだった右手、つまり少年にとってもっとも有効な攻撃手段の位置が判明した。視覚を塞いだことによるアドバンテージはほぼ消えたと言っていい。
 前三角を瞬時に解除した市ヶ谷は、捕まえた右腕への腕菱木に技を切り替える。
 同時に、仕込んだ剃刀の刃を展開した。
 この右腕はあえて折らない。
 あからさまに反撃手段を奪いすぎれば、六分までの時間稼ぎが不自然になる。動かせなくするのは、あくまで毒による効果でだ。
 腕菱木をくらった体勢から少年がふくらはぎ、あるいはももへの噛みつきで反撃してくることは予想できた。そのダメージを嫌がり、いったん距離を取るふりをして離れる。それでいい。勝ちは確定。残りは消化試合。
 カウントは十二秒。
 少し早いか。
 腕に力が入らないふりをして二秒焦らす。
 腕菱木に抵抗する少年。もっともらしく足掻いてくれるおかげで、観客が盛り上がる。十分だ。
 相手の前腕に剃刀の刃を注射のように斜めに刺した。根本まで達した小さな刃、その表面に塗られた神経毒が血中へと溶け出す。
 少しの抵抗と、ふくらはぎへの噛みつきの感触。
 計画通り。
 しかし、同時に違和感があった。

 相手の噛みつきの痛みが、鋭すぎる。
  
 アキレス腱への噛みつきとは明らかに違う。人間の歯ではなく、鋭利な刃物による裂傷の痛みだ。
 市ヶ谷は腕菱木を解除し、相手を蹴って即座に距離を取った。
 予定通りの動きのはず。いや、実際に上手くいっている。毒は食らわしたのだ。相手の勝ち筋はない。
 問題は、今喰らった噛みつきの正体だ。
 顔についた血をぬぐい、ふくらはぎを見る。やはり刃物の刺し傷だった。かなり深い。いや、それよりも。
 この痛みは何だ。 
 異様な激痛だった。傷口の奥が焼けるように痛い。ただの刺し傷ではない。
 まさか。

「言ったはずだぜ」

 少年が。
 少年が、笑っていた。膝立ちでこちらを見下している。
 満面の笑み。一月前、ウィンに叩き潰され壊れた顔面の継ぎ跡を、千切れそうなほど歪ませながら。 
 その口元には、血まみれの金属製の刃が白い歯と一緒に並んでいた。
 上顎と下顎の一部。入れ歯を加工して剃刀を仕込んでいる。
 今まで気づかなかったはずがない。その上から別の入れ歯のカバーを取り付け偽装していたのだろう。
 つまり、仕込んでいたのはこちらだけではない。
「これで『対等』だ」
 少年の言葉の意味を、市ヶ谷は瞬時に理解した。
 このガキは初めから、分かっていた。どうやって? 
 いや、それよりも。 
 
 俺は何の毒を喰らったのだ?
 
「――待て、血清を用意してある。取引を――」
 その言葉は興奮した観客たちの耳には届かなかったが、奇しくもカウントがゼロで終わるのと同時だった。
 一斉に飛ぶ、怒号とブーイング。まるで姑息な負け犬に王座への挑戦権はないと言わんばかり。
 いや、むしろそれは歓迎だったのかもしれない。
 貴様のような負け犬にこそ、この檻の中で嬲り殺しにされる生贄にふさわしいと。
 狂犬の餌になる、文字通りの噛ませ犬だと。
 狂気の渦は最高潮に達した。俺たちの金をドブに捨てた屑を殺せ。観客たちは口々に喚き、罵り、しかしその口元は笑っている。
 その渦の中心で、少年もまた狂気じみた笑みを浮かべながら。

 ――刃の生えた咢で、自らの右腕の肉を食い千切った。

       

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Neetsha