Neetel Inside 文芸新都
表紙

電世海
19:Beautiful World-04

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鈍い音と振動が、拳から全身に響き渡っていた。
右手が激しく痛んだが、殴った箇所がよかったのか、骨は一応無事のようだった。

「…いってえ…!!」

初めて本気で人を殴った痛みに右手を振る沢口を、呆然と見つめる雛。
その両目には再び涙が溜まっていた。
今日何度彼女の涙を見ただろう、沢口はそんなことを思いながら声をかける。

「お前の手を汚すこたねーよ。このクサレ外道にはお前の軽いビンタよりこっちのほうがお似合いだ」
「…コウ」

痛々しく思えてきたその涙を乱暴に拭い、彼女をその背に隠した沢口は、転げ落ちた姿勢のままの羽田の前に立った。

「…こ、これだから頭の悪い奴は…!」
「悪くて結構。もう一発貰いたいみたいだな」

ボキボキ、沢口が(実際右手は痛かったので左手の)指の骨を鳴らすのに、羽田は顔を青ざめさせた。

「え、円条グループを敵に回すつもりか!」
「あ?うっせーよタコ」

沢口に理論が通じないとようやく理解した羽田の虚勢に、冷たい声が掛かる。

「……あなたこそ…私を敵に回すことが円条グループを敵に回すことだとは考えないの?」

沢口の後ろから、雛が冷ややかな言葉を投げかけていた。羽田は我に返ったのか、たどたどしく反撃を試みる。

「わ、私には会長がついているんだぞ…」
「…羽田さん。会長はまだママじゃなくてお祖父ちゃんだってこと、忘れないでね?」

そう言って、雛は努めて微笑んで見せた。絶対零度のその微笑みは雛の器の大きさをどことなく感じさせ、横目で見ていた沢口も、若干冷や汗をかいていた。
彼女はごく稀に、その育ちで身に着けた女王のような貌を見せる。

―――ピィは絶対敵に回さないようにしよう…。

いつもの雛の冷静さを感じた沢口は、雛に気取られないように小さく息を吐いた。
そう、冷静でいてこそ雛らしい。
冷めた顔をして、それでいてさほど冷たくもない。
器用なようでいて不器用で、それでも立ち回りはやはり器用。
アンバランスさを巧く融合させたのが、雛だ。

「…う…」
「歌花の製品化なんて、絶対にさせない」

毅然とした態度の雛に、羽田は少し慄きつつも小声で言い返す。

「私は歌花のデータは提供したが、プロジェクトマネージャーではない…私の一存ではどうにもならない」
「………でしょうね。でも、製品化は絶対にさせない。それだけ言っておきたかった」

沢口に殴られた羽田の端正な顔は、赤く腫れ上がってきていた。
―――この顔を母が見たら、どう思うだろう。
雛はふとそう思ったが、自分には関係ないことだと思い、考えるのを止めた。
雛は歌花の製品化を止める手段については口にしなかった。やはり羽田もそこに引っかかるものを感じたのか、雛に問い直す。

「…どうやって歌花の製品化を止めるっていうんだ?」
「………あなたには関係ない」

雛は大きく息をついて、背を向けている沢口の肩に触れた。

「コウ、行こう」
「……ああ」

振り向いた沢口に雛が弱弱しく微笑んだ。その顔にはやはり力はなく、先ほどまでの威勢は虚勢だったのだと沢口は知る。
今日一日で擦り減った雛は、いつもより一回り萎んで見えた。
去ろうとする雛に、羽田はもう一度声をかける。

「…ネットでの歌花の評判を知らないのか?アレを売らないなんてばかげてる」
「大事な人を傷つけてまで、私はグループに貢献したいとは思わない」

羽田はそれ以上雛に言い返すのを諦めたのか、搾り出すように「子どもだな」とだけ呟いた。
先に出て行こうとする雛を遮り、その手を取って羽田の私室を後にする。
沢口が雛と手を繋ぐなんて幼稚園か小学生以来だったが、なんとなくそうするのが自然な気がした。
雛の手が涙に濡れていたように感じた沢口は、一回だけ手に力を込めた。

―――大丈夫だから。

沢口の感情が伝わったのかどうかはわからないが、沢口の左手を雛の右手が弱く握り返す。
沢口はその手が『うん』と返した気がした。



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沢口と雛は、羽田の私室から何ひとつ言葉を交わさずに、真っ直ぐ雛の私室に戻ってきていた。
順路を見失った沢口の代わりに、雛が前を歩き、その後ろを沢口が付いていく。
羽田を殴った沢口の右手の痛みは、少しずつだが引いてきていた。
繋いだ手はいつしか離れていたが、二人ともそれ以上を必要としなかった。

私室の前まで戻ってきた雛は、先ほど羽田の私室の前に立ったときのように振り返る。
口を開いて数秒、言葉が出ない雛の背を、沢口は軽く叩いてやる。

「…ありがと」

ようやく搾り出した雛の言葉に、沢口はあえて返事をしなかった。礼を言われるにはまだ早い。
ドアを開けるよう顎で促した沢口に、雛は頷いてドアノブを捻った。
静かなままの雛の私室には、セスとルミナがPCの前で二人を待っていた。

「おかえり、コーちゃん、ピナちゃん」

沢口と雛の姿を認めたルミナが笑って迎える。
雛は少しだけ笑って返し、沢口は表情はそのままに「おう」とだけ返した。

「…進展はあったか?」

セスが問うのに、雛は苦笑して首を横に振った。

「強行突破することは匂わせてきたけど…私が話をする気になれなくて」
「力ずくになりそうだぜ、セス先生」

そのようだな、とセスは沢口の言に頷く。

「先ほどハッキングを試みたところだ…歌花本体のデータは難なく取り戻したが、いくつか気になる情報も手に入れた」
「歌花、『モデル』として製品になっちゃうって、来月リリース予定だって…」

『モデル』とは、そのままで使用されうる、基本性能を全て所持しているドールだ。
静かに事実を告げるセスとルミナに、雛は頷いて返した。今さら慌てても仕方ないといった風に、雛も静かに口を開く。

「うん…私たちも聞いた。させないって、それだけ言ってきたの」
「そうか」

それは好都合だ、とセスは目を伏せて肩を竦めた。

「好都合?何がだよ」
「これからまだ強行突破をしなければならなくてな」
「データは取り戻したんじゃなかったのか?」

沢口の問いに、セスは苦笑した。

「残念ながら製品用として保管されている歌花のコピーデータには手が届かなかった」
「お前が?マジデスカ」
「コーちゃん、わたしセス君がハッキングするの見てたけど、あれ人間の反応速度じゃムリ」

さすがに製品情報はさらに堅固に守っているらしく、セスは歌花のコピーデータのディレクトリに到達することができなかった。

「パスコードが16種類あって、14種まではシャティとキュアが解析したんだが、最後の2種類を解析する時間が足りなかった」
「グループの重要データの保存パスは16って決まってて、ラスト2つは4桁で短いけど、入力時間が2秒程度のはず…知ってないとまず無理」

保存方法を知っていたのか、雛が付け加える。セスはもう一度苦笑して肩を竦めた。

「役に立たなくてすまないな」
「嫌味かそれ」

沢口が顔を顰めて訊くと、セスは本心だ、と返す。
天才である前に一人の人間である友人を、沢口は軽く小突いてやる。

「何でも一人でできると思ってんじゃねえ」
「それは思っていない…で、だ」

セスとルミナが顔を見合わせ、各々ニヤリと音がつきそうな顔で笑んだ。
二人の視線は沢口に向けられている。
どことなく不穏な雰囲気を感じ取った沢口はたじろいだ。

「…な、なんだよ」
「俺とルミナ君は考えた。『歌花そのものは取り戻した。歌花のコピーデータは必要か?』」
「『いらない、いらない』」

ルミナは楽しそうに人差し指を振っている。
セスも悪戯を思いついた子どものような表情で笑んでいる。

「『では、ここに置いておいていいものだろうか?』」
「『ダメ、ダメ』」

ドール研究所にデータがあれば、それはいずれ世にリリースされてしまう。
下手をすればユキノの肖像権はおろか、プライバシーも完全に侵害されてしまうかもしれない。
ネットの情報流布の速さを侮るものなどもう誰もいない。
今ユキノの個人情報が流れていないのは、ネット住人の良心がまだもっているいるからとしか言えない。
それらは『何か』きっかけがあれば、簡単に壊れてしまう堤防のようなものだ。好奇心や物のはずみで、あっけなく倒壊してしまう。

「『では、どうする?』」
「『…歌花のデータは、消さなくちゃ!』」

セスとルミナの掛け合いに、雛ははっとした表情になるが、沢口は首を傾げている。
何を求められてセスとルミナが視線を向けるのかが彼にはわからなかった。
彼が回答に辿り着いていないのに気づいたセスとルミナは、最後の掛け合いを始める。

「『削除といえば?』」
「『コーちゃんの電子弾』」
「!あ!?」

突然自分の名前を出された沢口は本心から驚いていた。
自分の特異体質?が何かに使われることがあるとは頭から思っていなかったからだ。



「さあ、お前の出番だぜ、コウ」



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コンチネンタルGTが街を滑るように疾走している。
普段円条邸の中庭ばかり走っているその車は、久々の外の道路にはしゃいでいるかのように颯爽と走っていた。
車を運転するのは円条家に長く仕えている老執事。一昔前の執事を絵に描いたような人物で、沢口も彼をよく知っている。
年に似つかわしくないハンドル捌きを見せる彼は、街中を縫うように車を走らせていた。
車内にはセスと沢口の二人が乗っている。

雛とルミナは円条邸の雛のPCで彼らのサポートを行い、セスと沢口は空屋から円条グループのサーバにアクセスし、『最後のパスワード二つと歌花のコピーデータを削除』するという算段だった。

「セス」

緊張しているのか、セスを呼ぶ沢口の声は上擦っていた。そんな様子の沢口を他所に、セスは淡々としている。

「堂々としてろ」
「ムチャ言うなよ!」

声が大きくなりがちになったのに自ら気づいた沢口は、自分の口許に手を当てた。
鼻息が荒くなっていたのか、手に生温い息がかかる。息を噛み殺して強引に整えようとするものの、どうにも巧くいかずフーフーと呼吸を繰り返す。
ガチガチに緊張している沢口の様子に、セスは肩を竦めた。
見かけと日ごろの傍若無人さに反して、沢口はどこか気が小さいところがある。
沢口が弱気になるのは、自分の不得意なものにかんしてだ。ドールと会話できないという劣等感から、相当の心的外傷をこれまでに受けてきたのだろう。

―――自分が普通じゃないかもしれないと疑って過ごす毎日は、どんなものだろう。

セスは想像してみる。
シャティやキュアと、言葉を交わせない。何が悪いのかわからない。周囲は普通にできることなのに、自分だけが、できない。
正直、想像ができなかった。
恐らく、とてもこわくて、つらいことだろう。その程度の想像しかできない。

「…最初から失敗するくらいの気持ちでいい。俺たちがフォローしてやる」
「………ああ…頼む…」

沢口は一度だけ大きく身震いし、そして前を向いた。
永泉駅のそばに車をつけてもらい、セスと沢口は空屋に急いだ。

「店番が柑奈さんだったら絶望的だぜ」

前を走るセスの背に、沢口が声を掛ける。柑奈とは真澄の妹で、兄に似ず健康的で天真爛漫な24歳の美人店員だ。
既婚者かつ一子もちであるのだが、その笑顔に引き寄せられてのことか、もともとの空屋の需要なのか、彼女が店番の日には基本的に空屋は混みあっている。
逆に兄・真澄が店番の日は人があまり寄りつかないので、空屋の需要であるかどうかは微妙なところなのだが…。
ともあれ、雛が羽田に歌花の製品化阻止を宣言した以上、時間との戦いでもある。極力無駄な時間は使いたくない。
祈るような気持ちで二人が店の入り口をくぐる。
いつもの店先、そこにいたのは―――



「真澄ちゃん、アイシテル!!」
「いい加減俺も本気になっちゃうよコウちゃん」



真澄だった。

       

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Neetsha