Neetel Inside 文芸新都
表紙

電世海
26:Days (you love)

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沢口が帰宅した時間は、23時を回っていた。
携帯は何度か母からの電話とメールを受信していた。そのことに、家に帰って叱咤されてから気がついた。
ともだちが大変なことになったんだ、と母に告げると、母はそれ以上何も訊かなかった。

「……ひどい顔。お風呂沸いてるから、さっさと入ってきなさい」

その言葉に頷いたのか、何か言葉を返したのか、それさえはっきりしないまま、気づくと沢口は湯船に身を沈めていた。

髪から水滴が落ち、顔を伝う。
もう髪は洗ったのだろう。
しんと静まりきった浴室には、湿度と静寂が満ちている。
湿度は圧迫感に変わり、静寂に耐えきれなくなった沢口は、バシャバシャと音を立てて立ち上がり、浴槽から上がった。
何分くらい湯船につかっていたのかわからないが、立ち上がるとくらりと目の前が眩む。
―――大丈夫だ、まだ立っていられる。

意識を強く持ち、両足に力を込める。
立てるなら、両手が動かせるなら、自分にはまだまだできることがあるはずだ。

気が軽くなったわけではなかったが、まだ『ここに存在していい』ような気がした。



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一部の人間に何か特別なことが起きても、朝は変わらずやってくる。
ひと一人の事情などかまってなどくれない。

もしも、今。
時間が止まってほしいと願う人間がいたとしても。
早く時間が過ぎ去ってほしいと願う人間も必ずいるはずだ。
そう考えれば、どちらかの願いはかなえているのかもしれない。
誰かの願いを叶えることが、誰かの願いを掻き消すことになる。
―――尤も、時間が止まることをすべての人間が願ったとしても、時間は止まることはないのだが。


朝の、いつもの駅。
いつも沢口より先に駅にいて、ホームに立って彼を待っているはずの雛の姿はなかった。
沢口は携帯を確認するものの、メールの着信もない。
昨日あれだけのことが起きたのだから、今日は学校に来れないかもしれない。
構内に滑り込んでくる電車には、いつものようにたくさんの人が乗っている。
乗り込むと、昨日と乗車率は変わっていない気がした。

雛が一人減り、昨日いなかった誰かが増えている。
そうやってこの世界はバランスを取っている。
吊革につかまり、電車の窓から外を眺める。慌ただしく過ぎ去っていく朝が、隣にいない一人の少女との会話がないだけで、緩やかなものに感じられた。


永泉駅から学校までの通学路。
セスがいるだろうかとあたりを見回してみるものの、見慣れたブロンドアッシュの長身は見当たらなかった。
―――セスも今日は学校には来ないのだろうか。
セスは、実は母国で一度高校を卒業している。あまつさえ大学に通っていた身だ。
どうしてこの学校に入ったか、どうやって入ったのかなどは聞いていないが、学校を休んだからといって彼にはあまりリスクがないだろう。
セスが学校を軽んじている様子はないが―――。

今日は金曜日。明日と明後日は学校が休みだ。
雛も、ルミナも、セスも、片倉ユキノも、おそらくはゆっくりと静養ができるだろう。

教室に入り、席に着く。雛の姿は、ない。
HRが始まり、担任が雛の不在に首を傾げていた。やはり雛は休みのようだ。
片倉ユキノが体調不良により休みだと、そのことは告げられた。

無理もない、沢口はそう思う。
雛の反応が正常であるべきなのだろう。では、こうやって学校にのうのうとやってきた自分はどうなのだろう―――?
気分は重苦しい。しかし、体がどこか不調であるわけではない。

電子弾を初めて使った日の翌日は、ひどく疲弊していた。
だが、今日はなんともない。
気の持ちようだったのかもしれない。もしくは、電子弾を撃つのに慣れただけかもしれない。
どちらにしろ、今日のコンディションは、学校に来ることができる程度のものだった。だから、彼はここにきて、いつものように教科書を開いている。
それは、『普通』のことなのだろうか。

一時間目が終わり、隣のクラスを覗く。
そこにセスの姿はなかった。もちろんルミナの姿もない。
沢口は一抹の寂しさを感じ、入口付近の席にいた女子に、セスのことを尋ねる。

「ごめーん、わかんないや。先生はHRでは何も言ってなかったけどねー?」
「そっか。ありがとな」

沢口は踵を返し、教室に戻る。
いつもなら早弁して過ごす休憩時間も、今日はお腹が減っていなかった。
ざわつく教室に、雛とユキノの二人の姿はない。
二人減っただけで、沢口はここがとても寂しい場所になってしまった気がした。
どうにももどかしくなり、雛に、「大丈夫か?」とメールを飛ばしてみる。

だが、何時間か経っても、雛からの返信はなかった。



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「コウ」

昼休み。
10分程度で食事を終え、廊下を歩いていた沢口に背後から掛った声は、よく知った人のものだった。
それだけのことで、一瞬にして嬉しくなった沢口は、ばっと振り向いて相手を確かめる。

「セス!?」

肩から鞄を下げた見慣れたブロンドアッシュの少年が、微苦笑を浮かべて立っていた。

「驚きすぎだろう」
「いや、だって誰もいなくてよ」
「悪かった、連絡できなかったんだ」

沢口の言葉は、驚いた理由にはなっていない。だが、セスはそれでも沢口の心情を汲み取ったようだった。

「大層な重役出勤じゃねーかよ……連絡できなかったって何してたんだよ」
「寝てた。いろいろと調べごとをしていたら寝るのが遅れてな……。5時に寝て、起きたら昼近くだった」
「……そらそーだろ……」

沢口が寝たのは午前1時だった。それでも、起きるのが相当辛く、母に何度も起こされたのだ。
そんな時間に寝ていたら、むしろ学校が終わる時間まで寝ていただろう。

「よく来ようと思ったな、あと二時間じゃねえか」
「学校は嫌いじゃないからな」

セスはそう言ってかすかに笑っている。沢口も、学校は嫌いじゃない。
電子工学の授業も、それ以外の授業も、眠くてもだるくても先生がむかついても―――嫌いではないのだ。
朝起きて、駅のホームに雛がいる。学校に行けばセスがいる。ルミナもいる。
くだらないことを話して、笑って、ご飯を食べて、水曜日には学食のカレーを食べて―――。
―――そうか、だから俺学校に来たんだ。
セスに問いかけていたつもりが、その問いは自分にも当てはまるものだった。セスの回答は、自分自身がここにいる理由と同じものだった。
学校が、嫌いじゃないから。友達に会えるから。

この重い気分の原因は、友達がここにいないことを知っていたからと、その原因の一端が自分にあるからだ。
それに気づいてしまった沢口は、口を噤んでしまう。

「コウ?」

何だか無性に泣きたくなったが、我慢した。
自分以上に、泣きたいはずの人がいる。
彼女は涙を見せなかった。

「セス、おれ放課後ルミナの見舞行くよ」
「……そうか。おれも行くと言いたいところだが、おれは円条家に呼び出されてる。雛君の様子もできたら見てくるよ」
「雛が休んでたこと、知ってたのか?」

沢口の問いに、セスは首を振る。

「知ってたわけじゃない。そうだろうと思っただけだ」
「……そっか」

取り残されていたわけじゃないことに、沢口はどこかでホッとしていた。
なぜホッとしたのかはわからない。だが、安心したことで芽生えた一つの感情。それは。

「今ものすごくカレーが食べたい」
「は?」

時計を見る。昼休みはあと25分。いける。

「おい、コウ」
「行ってくる!!!」

呆気にとられたまま立ち尽くすセスを置いて、駆け出す沢口。弁当を食べたばかりだったが、不思議とお腹がすいていた。
今日は水曜日じゃない。熟成カレー(700円)が半額の日ではない。
―――そんなの知るもんか。



メニューに存在しないわけじゃない。

学食にはたくさんの人間がいたが、昼休み開始直後ではなかったためにレジや注文口は空いていた。そして、沢口は数あるメニュの中から熟成カレーを選び、食堂のおばちゃんに告げたのだった。
それから―――



「オナカイタイ」
「お前は馬鹿だな。知っていたが」



午後の授業を、沢口は保健室とトイレの往復で過ごしたのであった。

そして、腹の調子がどうにも戻らなかった沢口は、今日はおとなしく家に帰ることにした。
仕方なしに、ルミナにメールを送る。

[今日は腹壊して見舞い行けねーけど、明日は絶対行くから!]

沢口がメールを送って1分弱。すぐにルミナからのメールを受信する。
ルミナはメール返信の早さには定評がある。

[わーい^^ありがと!!待ってるね!コーちゃんはおなか、おだいじに♪]

いつもと変わらない、メールだった。
変わらなさすぎて、変に勘ぐってしまいたくなる。彼女は、大丈夫だろうか。
…………大丈夫なわけはない。

いつも両手で器用にメールを打っていたルミナの姿が沢口の脳裏に過ぎる。
でも、このメールは、右手ひとつで作成されたものだ。

居た堪れなくなった沢口は、[また明日な]と、メールのやり取りを止める一言を投げる。
すぐにルミナからのメールが返ってくる。

短く、
またね、と。
笑顔の絵文字をつけて。



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永泉大附属病院、216号室。
ルミナは、右手で携帯電話を閉じて、サイドテーブルの抽斗の中にそれを仕舞った。
病院での携帯電話の使用は、電子機器の機能の飛躍的な向上により昔よりも咎められなくはなっていたが、表立って使うのは躊躇われた。
この病室は個室で、誰も他者はいない。それでも、気になってしまうルミナは、こそこそとケイタイを使用していた。

ベッドの上に座っているルミナは、自分の両の手を見遣る。
ほぼ左右対称のかたちをしている右手と左手。左手のほうがやや細く、指輪のサイズが右よりやや小さい。
色・日焼け具合もほぼ同じ。違っていたとしても、目視では判別できない。

右手と左手はとても似ているのに、決定的に違う。
左手はやはり動かなかった。

しかし、体は左手を覚えている。
ふとした瞬間に左手を使おうとする。だが―――動かない。そこで現実を思い出す。

先ほどケイタイでメールを打とうとしたときもそうだった。
いつものように両手でメールを打とうとしたルミナだったが、左手に力が入らなかったため、ケイタイを床に取り落としてしまった。

時折ふと感じる、えもいわれぬ感覚。
この感覚を、ことばで表してはいけない。ルミナの本能がそう告げる。

その感覚を、口にしてはいけない。
明るい場所に、雛の、セスの、コウのいるあの明るい場所に、戻れなくなる気がする。
不安な思いが膨らんだルミナは、抽斗の中の携帯電話を引っ張りだした。
メール受信ボックスの中の、先ほど沢口から送られてきたメールを再度読む。

明日、沢口は絶対ここにくると約束してくれた。
思わずルミナは口元がゆるんでしまい、慌てて口元を左手で抑えようとして、左手が動かないことを思い出す。
ただ、先ほどより不思議と悲愴感はなかった。

[明日は絶対行くから!]

この短い文が、明るい場所にとどまらせてくれている。
メールを読み返したルミナはまた嬉しくなってきて、一人ベッドの上で小さく跳ねていた。



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土曜日の朝は、皮肉なほどの好天。雲ひとつない空に白い鳥が飛んで、青いキャンバスに白を乗せている。
行楽日和の休日の電車には、親子連れやカップル、友人同士等、楽しそうな笑顔が並ぶ。
楽しそうな笑みを浮かべている彼らには、沢口一人の憂鬱など微塵も感じないだろう。
沢口自身、彼らの楽しい気分が何一つ理解できない。いつもであれば確かに感じているはずなのに、ここ数日『晴れの日』を感じない。
自分が暗くなってどうする、とも思うが、どうにも明るくもなれない。ネガティブなつもりはないが、ポジティブにもなりきれないらしい。人間そんな簡単に二つに分けられるもんでもないだろう、そう自分に言い聞かせる。
カテゴライズして、定義して。そうすれば考えやすくなるだろう。
安易な考え方がしやすくなるだろう。

でも、二項対立で世界が成り立つなら、自分はきっと不思議な位置に立たされる。
『呼吸をしていること』と『生きている』ことを同じ方向に括るなら、沢口は『呼吸をしている』のに、『生きてない』。
今ここで、簡単なほうに逃げてはいけない。
『生きていない』は、『死んでいる』とは限らない。



「コーちゃん!!」

ルミナは、いつものように元気だった。いや、いつもよりも元気なようにも見える。
無理してんのか?と沢口は一瞬思うものの、ルミナの表情にはいつもと同じく翳りがない。

「ほんとに来てくれた!しかも早い!まだ午前中だよ!?」

ルミナのテンションがやけに高い。
確かに休日の沢口は、一日寝て過ごしたり、午後から活動したりすることが多いが……。
ルミナはひとり、楽しそうにカラカラと笑っている。

「んーだよ。待ってるんじゃなかったのかよ。お呼びじゃないのかよ」

ひとり笑うルミナの意図が掴めない沢口は、そう嘯いてみせる。
ルミナは慌てて首を横に振りながらも、なお笑う。

「違うの、待ってたんだけど予想してたよりずっと早くて、心の準備ができてなかった!」
「……なら、出直すか?」
「ちょ、待って!!……いいの!違うの!」

沢口には何がなんだかよくわからないが、ルミナには『良く』て『違う』らしい。
沢口にはオトメ心は難解すぎて、理解を放棄するほど縁遠い。
よくわからない。というか全然わからない。
沢口の表情にそれが出ていたのか、ルミナはもう一度頭を振った。

「……いいの!来てくれてアリガト」



『良く』て『違う』と言った、ルミナの笑顔はいつもと同じものだった。


       

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