Neetel Inside 文芸新都
表紙

電世海
30:Lumina-03

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月曜の朝は曇り空。先日まで晴れ続けていた反動のように、世界は薄暗い。
雛は3日ぶりの外に、小さく息を吐いていた。

先刻のこと。
――今日こそ、外にでなくては。
そう意気込んで、決死の思いで扉を開けた。扉の重みはいつもと変わるわけでもなく、何の抵抗もなく開く。
雛は心のどこかで、扉が開かないことを願っていた。物理的に外にでられないのであれば、学校に行かない雛には非がないはずだ。
だが、そんなことがあるわけがない。扉は開き、雛は外に出ることができた。
また、今までみたいに電車に乗り、学校までの道のりを歩き、校門をくぐり、上履きに履きかえて、教室まで行って。

そして。
――何から話せばいいんだろう。
ユキノと、ルミナと、沢口と、セスと。
いつも深く考えて話をしていたわけではなかった。そのとき感じたことを、感覚に一番近いと思しき単語に置き換えて、言葉にしていただけだ。何より、言葉を使うだけなら15年以上は毎日、繰り返してきたはずだ。
それなのに、自分がどうやって話をしていたのか、わからない。3日程度、ややブランクがあるものの、それだって、一言も喋らなかったわけではないのだ。
雛はただ、いつもの通りでいいのかどうか、判別がつかないだけなのかもしれない。


次の曲がり角を左に折れれば駅だ。
――コウ、いるかな。



彼女の思惟はそこで途切れた。



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「おっはよ、ルミナ!!」
「おはよー、し-ちゃん」
「どうしちゃったのさ金曜?メールしても返事ないしさー」
「ごめんね、立て込んでたから」

週明けでざわつく教室に姿を見せたルミナに、クラスで一番仲のいい女子の『しーちゃん』が話しかけてきた。いつものように気丈に笑うルミナだったが、左腕を庇っていることに気付かれる。

「何、左手どったの?髪も下ろしちゃってるし」

左手の利かないルミナは、いつもの結ったヘアスタイルにできず、長い髪を下ろした状態だった。友人はルミナが言い淀んでいることには気付かず、「ルミナ髪の毛伸びたねえ」と言いながら肩胛骨の下ほどまである黒い髪を撫でている。
さらさらと髪に触れる、自由に動く友人の左手。

「下ろしてるのもイイかもね。セイソに見えるよ」
「『見える』ってそれ、ヒドくない?」

二人は一瞬顔を見合わせ、次の瞬間声を立てて笑う。
――大丈夫、いつもと同じだ。
意を決したルミナは、目の前の友人に事実を告げる決心をした。

「あのね、しーちゃん」
「んー?」

ルミナよりも少し背の高い、『しーちゃん』がルミナを、彼女が右手で軽く持ち上げて示した、動かない左手を見ている。
彼女は、ルミナの左手の異変を、少し感じ取ったようだった。

「左手……どうしたの?」
「……わたしの左手ね、事故で動かなくなっちゃったんだ」
「……え」

『しーちゃん』の表情が凍り付いた。日常のなかで、非現実的なものに突然出会ったときの表情だ。驚愕・懐疑・困惑。それらを混ぜ合わせたような表情をした『しーちゃん』は、言葉を詰まらせて、ただ黙った。
黙ってしまった『しーちゃん』に、ルミナは二の句が継げない。

「……うそでしょ?」

ようやく絞り出したその一言に、ルミナは静かに首を横に振る。

「ほんとなの」
「…………」

そう言って、動かない左手をもう少し右手で持ち上げてみせる。ルミナの左手の指先は作りもののように、だらりとして力を失っていた。その左手を凝視し、『しーちゃん』は表情を固まらせ、そのまま立ち尽くしていた。

「しーちゃん、……わたし」

朝のHRに担任の教師が教室に現れたことで、二人の会話はそれ以上続けられなかった。
扉が開いたその瞬間、『しーちゃん』は確かに安堵の表情を浮かべていた。二人のやりとりを少し離れた席から見守っていたセスは、『しーちゃん』のその表情に気付いてしまった。しかし、『しーちゃん』の反応に傷ついた様子のルミナに、この距離では声をかけることも適わない。

すぐにHRが始まった。教師はルミナを呼び、この後職員室に来るようにと告げた。
セスの席より前方に座っているルミナの表情は、セスからは窺えない。
――きっと、努めていつもの顔をしているのだろう。セスはそう思った。

朝のHRの時間はあっと言う間に過ぎて、いつものようにチャイムが鳴った。
ルミナは『しーちゃん』のほうに顔を向けたものの、『しーちゃん』は必死にそれに気付かないように俯いて、予習しているフリをしている。
ルミナはそれに何も言わず表情も変えず、教室を後にした。

教室を出る直前振り向いたルミナと、セスの視線が交差する。セスは小さく頷いて、彼女を送り出そうとした。セスのその動作に、ルミナはくしゃりと表情を崩し、ようやく笑った。



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ルミナの左手が動かなくなったという事実は、すぐにクラス中に広まっていた。クラスの中だけではなく、他のクラスの人間にも少しずつ広まっていっているようだった。
廊下を歩けば、直接的に何か言われることはなくても、注視される。通り過ぎた後に、何かこそこそと話している感じがする。
――何ともない、何ともない。ルミナはそう自分に言い聞かせていたものの、少しずつ疲れ始めていた。

きっと、このまま、好奇の目だけで終わるなら、まだ何ともない――かもしれない。
しかし、おそらくはこのままでは終わらないだろう。

『自分と違う』ものを一頻り珍しがったあとは、人間はそれを厭うのがセオリーだ。ルミナは自分が『異物』と化してしまったことを感じていた。
――どうして、とまで考えて、止める。
これ以上考えると、誰かを責めてしまいたくなる。


4時間目の電子工学の授業が終わり、電算室から教室に戻る。『しーちゃん』は他の女子を捕まえて、さっさといなくなってしまった。セスはといえば他の生徒に捕まり、残ってコーディングをしている。電子工学の授業のあとは、割といつものことで、ルミナの視線を感じたセスは、申し訳なさそうに片手をあげていた。
ルミナはセスに向かって頭を振って見せてから電算室を出た。そして、一人ぽつんと廊下を歩いていた。

ルミナは堪えていた。しかし、自分でもそう長くは続かない気がしていた。
動かない左手。奇異を見るような眼差し。孤独。
いつも前を向いているはずの視線が、自然と下がる。
ぼんやりと力なく歩いていたルミナに、背後から声がかかった。

「ルミ!」
「コーちゃん!」

ルミナは沢口に向かっていつものように微笑みかける。沢口は少し戸惑いながらも、同じようにルミナに笑いかけた。
沢口はルミナが右腕に抱えていた教科書やノートの類を取り上げ、彼女の隣を歩いてくれる。

「大丈夫か?」

先ほどまでのルミナは、大丈夫ではなかった。だが、今は違う。

「うん、ありがと」

――まだ、大丈夫。



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「もうすぐさー、夏休みだよな」

沢口がそう言い出したのは、学校帰りのことだった。
ルミナを送るために乗った逆方向の電車。普段乗客の顔など確認していないのに、どこか雰囲気が違う気がする。
隣に掛けている沢口とルミナの距離は近く、沢口がこちらを向くたびにルミナは少し体を傾けて距離を取ろうとしていた。そうすると、隣のサラリーマンと少し体がぶつかってしまう。縮こまりながらも距離を保とうとするルミナだったが、沢口は意に介した様子もなくルミナの方を向いて、夏休みのことを話していた。

「休み入ってすぐ、近所の神社で夏祭りがあるんだけどさあ」
「うん」
「ちっさい頃から行ってるからか、アレ行かないと夏休みが始まった気がしねんだよなー」
「……お祭りかあ……楽しそうだよね」

お祭り。
その単語に、ルミナは気にしていたはずの沢口との物理的な距離を忘れていた。一人っ子で、『おとーさん』が不在がちなルミナは、お祭りに行ったことがなかったからだ。
テレビドラマなどでしか見ることのないお祭りに、憧れなかったわけではない。ただ、暗い場所が好きではなかった彼女は、夜一人で外に出る恐怖を感じずに住む室内の電光と、外で繰り広げられているであろう電光の囃子を天秤に掛け、後者を切って捨てていた。
学生になり、何度か友人に――『しーちゃん』にも――夏祭りに誘われたことはあった。だが、ルミナは闇への漠然とした恐怖に抗うまでの意思は持てなかった。
何気なく感嘆の言葉を発したルミナに、沢口が訊ねる。

「『楽しそうだよね』って、ルミ夏祭り行ったことねーのかよ!?」
「え?……う・うん」

ルミナが小さく頷くと、彼女の暗闇恐怖症を思い出した沢口は、一人で「あー、そっか」と納得していた。

「祭りは昼間もやってんだぜ?ルミ」
「あ、そうなんだ。てっきり夜がメインなのかと」

花火、夜店、行灯、提灯。ルミナの持つ『夏祭り』は、マスメディアによってもたらされたステレオタイプなイメージでしかなかった。

「夏祭りに行ったことがないなんて日本人として勿体なさ過ぎだぜ!?」
「そう、なのかなあ」

ルミナにとっての『憧れ』は、さほど近づかなくても眩しくて、眩しさに温められているうちに満足してしまう類のものだった。彼女は、傍に行けないことを悲観しなかったから。
その程度しか憧れていなかっただけかもしれないが。

「そうだよ!ぜってーそうだよ!」
「でも、明るい部屋からでも、遠くの花火は見えるもん」

ルミナの憧れたものは、手に届かなくても痛くないものばかりだった。願ったものが手に入らないことが多かった彼女は、願うことを、心のどこかで避けるようになっていた。

たとえば、夏祭りに出かけること。
父親が家に帰ってきて、傍にいてくれること。
母親の存在。

明るい部屋からでも、遠くの花火は見える。
傍にいなくても父親は生きていて、時折帰ってきてくれる。
母親の存在は――どうにもならなかった。それでも、生きていくことはできた。勿体なかった瞬間は確かにあったのかもしれなかったが――。

「じゃあ今年は一緒に行こうぜ、日本人なら夏祭りだろ」
「!」

不意をつかれ驚いた顔をしたルミナに、沢口はいつもの顔をして笑った。

「絶対ルミナを暗いとこに置いてったりしねーからさ、一緒に行こうぜ」

その言葉に、ルミナは虚を突かれた表情のまま「ウン」と頷いていて、自分のリアクションにルミナ自身が驚いていた。
――ここで、頷くはずじゃなかった。
計算なんてどこにも存在しなかった。

「じゃ、約束な!絶対だかんな」
「ウン」

不思議と怖くなかったのは、その約束にどこか現実感がなかったからかもしれない。



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「ただいまあー」
「コウ!!」

ルミナを送り届け、自宅に戻ってきた沢口を迎えたのは、今日も母だった。
しかしその表情は昨日の思い詰めた表情とは全然違う。逼迫した空気が瞬時に沢口にも伝わった。

「母さん?どうし……」
「あんた、どうして携帯持ってるのに電源入れてないのよ!!」

学校では携帯電話の電源を切っている沢口は、放課後電源を落としたままで過ごしてしまうこともままあった。今日はルミナを送っていくことばかりに気が行っていたため、電源を入れるのを忘れていたのだった。
それにしても、連絡がつかなかっただけで母がここまで狼狽えるわけがない。状況が今一つ分からない沢口は、母に肩口を両手で掴まれ、大きく揺さぶられた。

「雛ちゃんが、雛ちゃんが誘拐されたって……!!」
「――な!?」


沢口が落とした鞄は床とぶつかり、やけに大きな音を立てた。
その音は廊下と沢口の脳味噌に響きわたっていた。

       

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Neetsha