Neetel Inside 文芸新都
表紙

グレイスケイルデイズ
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「……いらっしゃい」
 「鱗道堂」の店主、鱗道灰人は愛想が良い男ではない。が、客だと窺える人物を前に挨拶もしない程の無愛想や人間嫌いとは違う。
 肩には鴉を一羽、足下には犬を一匹纏わり付かせ、生まれつき灰色の髪であっても、言ってしまえばそれ以外は大きく「普通」からは逸脱していない男である、と当人は思っている。


 事象にしろ人物にしろ、特定の要素を有したものが集まる場所というものは必ず存在する。ただ、収集している場所や人物によって集められるのか、集められる側が引きつけられる故に場所が存在するのかは――病人が多くいるから病院が建つのか、病院があるから病人が集まるのかというように――状況と場合によって解釈が分かれるところであろう。
 「鱗道堂」という質屋は確実に後者であった。店主の鱗道は単なるしがない中年男性である。だが、この男のところには奇っ怪なものばかりが集まっていた。奇っ怪なものというのが見た目華やかな美男美女とのご縁であれば、あるいは絢爛豪華たる芸術品や宝飾品であれば人生の生きがいとして語るに充分であるが、薄暗い店内に所狭しと雑多かつ雑種なものが手入れも適当に並ぶ店にそんな物が集う筈がない。

 鱗道灰人についての情報は愉快でも爽快でもない。背丈は百七十センチを少し超える程度で長身と胸を張れる程度ではなく、特に鍛えてもいなければでも大食でもないため腹筋が割れているわけでもなければ、肉がつまめるほどついているわけでもない。若い頃はタバコを吸っていたが社会における禁煙傾向が強くなるにつれて本数は減り、最近は吸うときの方が稀である。酒は嗜む程度で強くはないが笑い話にできるほど弱くもない。
  ポジティブな性格ではないが世界を斜に構えるほどの若さもなく、一方で老成に近い諦観は思考や価値観の癖と言うほど染みついていた。学力が飛び抜けてよかった試しはなく、運動に秀でた記憶もない。恋人は何人かいたが結婚に至ることはなく、四十路を迎えて数年の現在も独り身である。
 頬の肉がつきにくいのか顔はやつれて見られがちだが、学生時代に交通事故を経験して以来大きな怪我も大病もない健康体だ。年齢相応に視力が悪くなってきたので老眼鏡が手放せなくなったのが最近の大きな変化だった。
 よくいる独身中年と言えばそれまでの男である。が、そんな鱗道にも話の種になる外見的特徴が一つあった。それが生まれつきの見事な灰色の髪である。髪質は太く硬く、散髪帰りに裸足で踏んで足の裏に突き刺さり流血沙汰になったほどの強度がある。加え、黒白、ごま塩、ロマンスグレーなどという小洒落た色ではなく、毛の一本でも抜けば見事なまでに灰色なのである。鱗道の下の名前である灰人と言う風変わりな名前もあり、若い頃は多くない友人からグレイなどと小洒落た呼ばれ方をすることがあった。もっとも、年齢を重ねれば重ねるほどそんな呼び方もされなくなり、今は呼ばれることこそ稀であったが。
 鱗道は大都会へ出た経験もあるが、生まれも育ちもこのH市だ。摩天楼がそびえるほどの都会から見れば片田舎、主な交通手段は自家用車しかない本当の田舎からすればまぁまぁの都会になるH市S町に店を構えて十年と少しである。S町は海も山もあると言えば聞こえはいいが、鱗道の店近辺から海までは徒歩で三十分以上は歩くし、山は車か自転車がなければ登山口までいくこともできない。きつくもないが緩くもない坂が彼方此方にあり、風がよく通るせいで海からは砂が、山からは虫や草がよく入り込んでくる。
 しかし、電車に乗って一時間もかからずに大都会へ行くこともできるし、駅周辺は住宅地として整備されていて生活に必要な物は一通り揃っていた。町としてはそこそこの人口を保有しているが、密度は駅周辺に集中しているのも事実である。鱗道の店は賑やかな一角を抜けた先、町並みの半端な部分に立っているためにそこそこある人口の恩恵を受けているとは言いがたいが、非常に静かで賑やかすぎない立地だった。
 繰り返すが「鱗道堂」は質屋である。人が住まなくなった――今風に洒落た言い回しをすれば古民家を買い取り、住宅兼店舗としたのである。一階部分はほとんど店として使い、寝起きを含めた生活は二階部分で済ませている。看板らしい看板はなく、五枚あるガラス製の引き戸の一枚にステンシルシールで「鱗道堂」と貼り付けてあるのが唯一の店名表示であった。引き戸は古い物で開閉時にいちいち軋むようになってからは一枚を残して閉じっぱなしである。雨の時はその一枚も閉ざしていた。もっとも、雨だという認識を鱗道が持てば店はシャッターを固く閉ざして臨時休業となるのだが。
 鱗道は質屋といって譲らないが、店の雰囲気はただ古くさい物が集まっているという意味合いだけを取ってみれば骨董商と言った方が近い。表立って骨董商と呼ぶにはあからさまに質入れ品の高級そうな時計だとか宝飾品だとかブランド品が目立つ場所に並んでいるし、店の奥は古めかしい雑貨が悠々自適にのさばっていた。価値があるのかないのかわからない物が大半で、大きな壺だとか皿だとか、ブリキの玩具に日本人形、用途も出自もわからぬ箱やガラクタ、壊れているようにしか見えない時計に何かの破片――そういった物が鱗道の感性というより、勘だとか気の向くままだとか、たまたまその場所が空いていたからとかそんな理由で、ひしめき合うほどでもなければ閑散としているほどでもない具合に雑然と置かれている。世が世ならばマイナー雑誌の「奇妙な店ピックアップ」などという項目で取り扱われそうな、逆に腫れ物扱いされそうな質屋だ。
 が、鱗道という男にも唯一の外見的特徴である灰色の髪があるように、「鱗道堂」にも誰もが目を引く物が二つばかりある。それが、犬と鴉だ。
 近隣の小学校の帰宅時間となったらしく、子供たちのはしゃぐ声が店の前を通っていく。お化け屋敷やら呪われた人形があるやら、この店に対して好き勝手な噂を立てられていることは鱗道も知っている。低学年生達は悲鳴めいてきゃぁきゃぁと足早に、高学年生の特に男子となると店の奥を恐る恐る覗き込むように、時に度胸試しの一環として店内に入ってくることもある。中学年生や女子達はガラス越しの一匹の犬に手を振ったり指を追わせてみたりしながら通っていった。犬はそんな子供達全員をひゃんひゃんと子犬のような鳴き声を上げて見送るのである。
 赤い首輪を豊かな毛に埋もれさせた白い犬である。非常に人懐っこく、店の前で誰かが足を止めようものならばそれが客でなくとも――小休止するご老人だろうと、靴を直そうとする若者であろうと必ず鳴く。ただし、子犬のような鳴き声であるから喧しくはあるが威嚇の効果は皆無であった。
 豊かな毛並みに覆われた長い尻尾をちぎれんばかりに振り回し、引き戸のガラスに前足をついてバリバリと割らんばかりの勢いで大歓迎を露わにする。が、犬嫌いや苦手な者にはたまったものではないだろう。鳴き声は子犬のそれであるが、真っ白でふわふわとした毛並みを素人目にみてもざんばらに切られた犬の体高は六十センチ前後もあり、秋田犬やゴールデンレトリバー並の大型犬なのだから。店を開けている最中、一枚の引き戸は常に開けっぱなしであるが犬はそこから飛び出すようなことはない。
 子供達の声が去っても未だに犬が鳴き止まないので、鱗道は読んでいた新聞を畳んだ。店の奥はちょっとした生活スペースでもあり、茶を飲んだり寝転がったりと出来る居間としてちゃぶ台が置かれている。のっそりと立ち上がって店内に降りるためにサンダルを履いた鱗道の肩に鴉が止まり、鱗道は一度怪訝そうに鴉を見た後、店先へと足を運んだ。
 店の薄暗い明かりを受けて金属的な七色の黒羽根を有した鴉である。店の梁で防犯カメラよろしく店内を巡回する鴉は、犬と比べて極端に鳴くことがない。と、いうよりこの鴉の鳴き声を聞いたことがある客は一人もいない。それどころか一見の客であろうと、何度か訪れている常連客であろうとこの鴉を単なる剥製か置物だと思っている人物は少なくない筈だ。
 基本的には梁にいるが、時には人の手が届く場所に下りていることがある。たまたま偶然、そんな高さにあるものだから珍しさに惹かれて触れてみれば機嫌次第で――十中八九は不機嫌なので――嘴で鋭く突かれるなり、翼で乱暴に払われたりして「この剥製生きてる!」など悲鳴が上がる、というのはこの店で時折見られる光景であった。
 客人歓迎と鳴き喚く白い犬をたしなめながら、肩には鴉を乗せたまま鱗道は客と向かい合った。子供である。近所に住む子供で、先程の帰宅時間を迎えた小学校に通う少年であった。両親と買い物している時間と犬の散歩が重なれば挨拶を交わすこともあって覚えがある。
「……いらっしゃい」
 だが、鱗道は子供好きでもなければおべっか使いでもない。腰を叩きながら、挨拶もなく両手を胸の前で握りしめて俯いたままの少年を見下ろした。年齢相応にがさつき枯れて割れた声である。少年は学校帰りの筈であった。が、どうにも元気がない。犬が鱗道の脇から鼻を少年に寄せて子犬よろしくクゥンと鳴いた。
「どうした、坊主」
「おじさん、こういうの直せるんでしょ? 直して欲しいんだ」
 少年が顔を上げて見れば目には涙がたっぷりと貯まっている。傾いだ顔の前に差し出された両手には古いブリキの車が乗っていた。あちこちの塗装がはげて、屋根に突き刺さっているゼンマイにもかなりの年季が入っている玩具だ。
「ここはオモチャ屋じゃないんだがなぁ」
「でも、直せるって聞いたんだ。ネジを巻いても動かなくて。これ、死んだじいちゃんから貰ったんだ。だから」
 どうにも陰気な空気が拭えぬ少年は盛大に肩を落として、すがるような目を鱗道に向ける。向けられた鱗道としてはたまったものではない、が、近所といえば無碍に扱うことも出来なかった。
「父さんも母さんも動かないなら捨てちゃえって言うに決まってるんだ。だから、おじさん、直してください」
 鱗道は盛大なため息をついて、少年に目線を合わせるために膝を折った。ブリキの車をまじまじと眺めて灰色の髪をかき混ぜる。ちくちくと手の平に痒みが反発してきた。犬は少年の手の下に鼻を寄せ、やはり子犬のようにすぴすぴと鼻を鳴らしている。鴉は飛び立つことなく肩の上で微動だにしない。
「今回だけだぞ」
 少年の手からブリキの車を取り上げ、鱗道は膝を伸ばした。関節が小さく軋んで乾いた音を立てる。少年は意外にも、不思議そうな顔をして鱗道を見上げていた。半分以上、諦めの境地でこの店に来たのだろう。お化け屋敷だとか呪いの人形があるだとか、そんな噂が絶えない店にだ。
「明日、学校帰りに取りに来い。動かなかったら、そん時はそん時だ。どっちしろ百円持ってこい。店ってのはそういうもんだ」
 少年は何度も何度も頷いた。それからぴしりと背筋を伸ばし、お願いしますと頭を下げる。やはり礼儀正しい少年であるのだ。犬が話が終わったならばと言わんばかりに少年に飛びついて、少年は犬の体を受け止めきれずに引き戸に背中をぶつけている。コラ、と鱗道の低い一喝で犬が尾を下げて退き、少年は立ち直すとまた頭を下げて店を去った。
 鱗道の顔はけっして晴れやかではない。店の扉を閉め、一応は存在している「開店」の札をひっくり返して「閉店」に変えた。ガラス戸全てにカーテンを閉め、店内を覗き込むことも出来ないようにする。それでもさらに隅に引っ込み、大きめな品々や棚に囲まれた奥にある机の前に立つ。ブリキの車を机に置いてから電気スタンドのスイッチを入れた。最近はすっかり小型の電気スタンドが主流らしいが、古めかしい木製の机に備えられているのは白熱球で、点灯するのに何度かの明滅と時間を要するものだ。完全に点灯しきる前に鱗道は木製の椅子に腰を下ろした。鴉は変わらず肩の上、犬は机に前足と顎を乗せている。机の上には道具らしいものは一切ない。電気スタンドと、今はブリキの車だけである。
「それで、なんで急に動くのやめたんだ」
 鱗道の言葉は独り言にしては明瞭すぎた。それもその筈、独り言のつもりで発した言葉ではないからだ。返事は少しの間を置いて、貧相なスポットライトの下から酷く申し訳なさそうに上がる。
『その、なんと言いますか……ご迷惑をおかけしまして』
 どこか哀愁を帯びて古ぼけた声だ。ブリキの板をひしゃげたような多少聞き取りづらくはある音声は耳を介して聞こえる音ではない。頭に直接響く声だ。申し訳なさのアピールなのか、ゼンマイがきりりと左側に回される。勿論、鱗道は手を触れていない。
『わたくしもね、恩は感じてはいるんですよ。ですがね、あの坊、最近扱いが乱暴になりまして。この間なんてわたくしを階段から放り投げたりするもんだから、わたくしはもう我慢が出来なくて』
 祖父から貰ったと少年が言っていたように、少し年季の入ったブリキの車は少し年季の入った語り口をしていた。自らの嘆き節にあわせてゼンマイを右へ左へよじりながら、貧相なスポットライトの下でブリキの車は言葉を続ける。
『捨てられてもよいと、わたくしは思ったんでございますよ。坊の親父さんも、最初にわたくしを手にした坊の爺さんもわたくしを大事にしてくださいましたが、人の世には時代というものがございましょう。わたくしは時代遅れというものでございます。坊も時間の大半は平べったい板と向かってばかりおりますし』
 おそらくスマートフォンかゲーム機の類いだろうと、鱗道は片隅で想像する。確かにブリキの車で遊ぶような年頃ではない少年であるし、ブリキの車が重宝される時代でもない。このブリキの車は長く時を経たものだから、己を取り巻く環境の変化をきっちりと理解しているようだった。
 ですがねぇ、とか弱い声が続いて、鱗道はブリキの車に視線を落とした。きり、きりりと切なげにゼンマイが巻かれている。
『わたくしが動かなくなって、へそ曲げて、それで坊がわたくしとの縁をきっぱり切ってくれりゃぁ、未練もなくてさっぱりとしたもんだと思ってたんですがねぇ』
『直してくれってきたんだもんね! あの子、くるまさんが大好きなんだねぇ!』
 耳にはひゃん、と子犬の鳴き声。しかし、鱗道の頭には幼稚な物言いであるがさほど幼くはない快活な声がしっかりと響いた。ブリキの車の声は騒がしくもなく古き良き時代を思わせる語り口もあって聞きなじみがよかったが故に、騒がしく無遠慮な物言いをする声に思わず顔をしかめてしまう。犬は真っ黒に見える紺碧の目を更につぶらに丸めて、真っ赤な舌をだらりと伸ばしてブリキの車を見つめている。
「シロ。静かに――」
 鱗道が言葉ながらに咎めるような視線を犬――シロに向ける。視線がぶつかったシロは抗議の声あるいは返事をしようと口を開きかけたが、シロの口から鼻先にかけての口吻を鱗道の肩から離れた鴉が降り立って塞いでしまった。
『次の無駄吠えでは目玉を取り出してあげましょうか』
 鴉は嘴を開いただけである。ブリキの車同様に耳には何の音もなく、鱗道の頭には直接、凜と冴えて冷たい、あえてどちらかと言及するならば女の声が静かに届いた。鉱石をぶつけるようとも金属をひっかくようともいえる声にシロが出来たのはくぅんと情けない一鳴きだけである。口を開けようにも口吻には軽くない鴉が乗ったままだ。
「クロ、あんまりシロを虐めてやるな」
 前にシロのストレス発散行動でクッションを一つ台無しにされたことがある。鴉――クロは声は響かせなかったものの嘴を開けて無言で返事をした。諫めはしたが、クロがシロを黙らせるのは状況的にはありがたい。鱗道はブリキの車に視線を落とし、すまないと一言添えてから、
「邪魔して悪かった。続けてくれ」
『いえいえ、こちらが迷惑をかけているんです。気になさらないでくださいまし。その犬さんの言うとおりなんでございますよ……まさか、直してくれだなんて……そんな風に言ってくれるだなんて……』
 感無量とでも言うようにブリキの車は小さく震えた。すすり泣きを思わせる軋みを鱗道の頭の中に響かせながら。鱗道はこの一件はこのまま無事に片付きそうだと算段をつけて、ブリキの軋みに聞き入った

 特定の要素を有したものが集まる場所、というものは必ず存在する。「鱗道堂」は鱗道がいる故に質屋――というより、奇っ怪な物が集まる場所となった。奇っ怪な物と大きく括っているのは細分化すればキリがないのが実情であるからだ。
 今、鱗道の目の前で語るブリキの車のように魂や意思が宿る付喪神やその系統。特殊な呪術や儀式などで力を持ってしまった呪術具や神具も稀だがある。単純に心霊現象を引き起こす物や、奇妙なことが起きるが理解が出来ず、鱗道にも正体の見当がつかない謎の一品というものもある。一般の人間からすれば、奇っ怪かつ不気味な現象を引き起こす物体は厄介者であり、どうにか片付けようとするものだ。鱗道はそんな一般の人間にとってはただただ奇っ怪で理解不可能な物体や現象の声を聞くことが出来た。出来てしまった。
 厄介者を抱えた人間はどうにかして「鱗道堂」に辿り着く。たまたま鱗道が処理できてしまうと、それがまた別の人間に伝わって新しい厄介者が、時には人間以外までもが辿り着く。口コミはどんどん広がっていき、必然的に大きな厄介事と鉢合わせになり、他人の厄介事に巻き込まれて終わるのはゴメンだと鱗道が己のために足掻く羽目になる。結果としてどうにかこうにか処理できてしまうと、またそれが広がってしまい――「鱗道堂」は鱗道がいる故に「鱗道堂」という奇っ怪な質屋になった。
 鱗道の能力は生まれつきではない。中学時代の交通事故――鱗道自身、あれは事故であると信じ切っている――に遭ってから、この奇妙な能力を身につけることになり、厄介事と相対することとなった。クロとシロは単に店に辿り着く奇っ怪な物とは一線を画す存在であるが、鱗道と各々が特殊な出会いを経て、今は行動を共にしている。鱗道が巻き込まれる事態によっては彼らの力が必要となることもあるが、今回のブリキの車では彼らの力を借りずに済むだろう。

 ブリキの車は十分と満たぬ間をすすり泣き続けていたが、落ち着いたのか吹っ切れたのか、
『旦那、わたくしの話を聞いてくださってありがとうございます。わたくし、きっちりしっかり壊れるまで、今の坊の元にいようと思えやした』
「そうか、何よりだ」
 鱗道は心の底よりそう思っていた。が、上手く笑みにはならないだろう。どうにも、感情を表に出すことには長けていない。これは単なる、生まれつきの性分だ。
『ありがとうございます。本当に、ありがとうございます』
 ゼンマイが大きく軋む音を聞いてから、鱗道は電気スタンドのスイッチを切った。電球周りが熱を帯びていて、スイッチが切れて少し立つと電球ガラスがパチリとはじけるような音を立てる。椅子から立ち上がって腰を伸ばした鱗道の肩にクロが再び飛び乗った。
『なぜ、幼子に金銭などを要求したんです? 大した要件ではないことは私から申し上げたでしょうに』
 クロの響きは咎めるものではなく、単純な疑問として発せられたものだった。クロは単なる鴉ではなく、当然人間でもない。寡黙で無感動気味であるが機微を表に出せない性質なだけであり、好奇心が皆無というわけでもなく、世の道理や人間の感情的なものに興味がある。とはいえ、クロが直接問うてくることは最近では珍しいことであった。確かに少年には聞こえていなかっただろうが、クロは鱗道に玩具の機構に問題が無いことを伝えてきていた。破損でないなら心情的な問題であり、となれば会話で解決する一件であることは鱗道自身も分かっていたことである。
「仕事として頼んできたんだ。そういうのは対価が必要だってことを教えておかんと後々になって面倒事に巻き込まれるのはあの子の方なんだよ」
『成る程、社会教育ということですか』
 クロはそれだけを言うと翼をはためかせて梁の上へと離れていった。やけに堅苦しい言い方が鉤爪代わりに鱗道の背中をくすぐるように掻いていく。
「そんな大層なもんじゃないがな」
 言うが、クロからは返事がない。梁の上に君臨する鴉は宝石のような赤い目を店内の隅々に向けていた。代わりに、というわけではないだろうが、くぅんと情けない声を上げたのはシロである。クロは飛び去ったというのに律儀に黙り続けるのがシロの性分であり、長所であり、可愛げでもあった。当然、シロもただの犬ではないが喚き癖や声の加減、一部の問題などに対して目を瞑れば鱗道には無害であり有益な存在であることには違いない。
「もう大丈夫だぞ、シロ。最後まで黙ってられて偉かったな。散歩の後にホネっこやるからな」
『本当!? ホネっこ! やったね! 散歩にはいつ行くの? 今? 後? これから?』
 ひゃんひゃんと子犬のような鳴き声とはしゃぐ音声が喧しく上がったが、鱗道はシロのざんばらな毛皮をなで回すだけで咎めなかった。梁から見下ろすクロの視線が痛かったが、シロは褒めることで覚えることが多い。多少は此方が堪えてやらねばならない。
「店も閉めたし、これから行くか」
 ひゃん! と一際大きな返事に『うん!』という一際大きな声が頭に響いて、鱗道は少し背中を反らせた。シロは散歩に必要なものは心得ているのだと誇示するように、己のリードがある場所へと軽い足取りで向かう。天井を見上げるとクロの刺々しい視線とぶつかった。肩を竦め、鱗道は髪を掻く。
「……犬好きなんだよ」
『知っています』
「嫉妬すんなよ」
『していません』
 硬質な声が常に増して冷たいことにクロは気がついていない。クロはより高く、より暗い梁へと移動して鱗道の視線から隠れてしまった。シロがリードを咥えて持ってきたのは丁度そのタイミングであったので、ベストタイミングとしか言い様がない。
『クロ、どうしたの? 怒ってる? 寂しい?』
 その余計な一言がなければ、であったのだが。
『耳を千切ってあげましょうか』
「おい、行くぞ、シロ」
 闇の中より無音で響く寒々しい声から逃げるように、鱗道は手早くシロの首輪とリードを繋いで引き戸を開けた。日が落ち始めた空は橙色が濃さを増している。夜が来ようとしているのだ。自然の道理として。当然の顔をして。
 散歩中のミニチュアダックスフントに吠えかかられて、シロが驚いたように鱗道の足下に隠れる。ミニチュアダックスフントとは逆方向にリードを引いてやりながら、今日の散歩道を考えた。毎日同じ道を通ることはまずない。同じ道を通る理由も別の道を通らぬ理由も、共に何もないだけである。
 夜を迎え、人間の生活音が目立ってよく響く、それが当然の世界だ。物は語らず、犬と鴉が妙な喧嘩をすることもない。だが、鱗道には遠い世界であった。傍らの犬も店にいる鴉もよく喋り、物が語る声を聞くようになってからの方が長い人生を送っている。
 此方の世界と彼方の世界などと区別をつけたがる人間は多かろう。簡単に認識できる世界と、例えば幽霊がいるような世界であったり、死者が行く世界であったり、オカルトや怪奇現象超常現象などと称される世界であったり。鱗道は世界に明確な境界がないことを知っている。簡単に認識できることもそうではないことも一つの世界に混在していて、知るか知らぬか、認めるか認めないか、それだけが問題なのだ。
 世界を人間中心に割り切ってみたところで灰色の境界がなくなるわけではない。灰色の境界を挟んで多くの一般人が知らないまま認めないまま切り捨てた世界があり、多くの一般人に知られないまま認められないまま存在する世界があることを鱗道は知ってしまっている。
 最も、闇鍋めいて混沌とした世界について気がつかないことの方が幸福であることも間違いない。気が付かず、知らずにいれば、無理な対処に足掻く必要はないのだから。
 海の方に行くか、とシロに向かって発しそうになった声を飲み込む。犬相手に会話をするのは珍しくなかろう。シロが返事をしたとして、一応子犬のようとはいえ鳴き声は返ってくるのだから独り言としても不格好には映らない。が、慣れてしまって加減を間違え、外でも物にでも平然と語る癖になってしまえば目も当てられない。シロは傍目にただの白い犬であるし、鱗道灰人はただの中年である。S町は海と山の中間で、都会と田舎の中間で、区分的にはただの半端な町だ。人間中心に割り切った当然の世界にとっては間違いなく、紛れもなく、ただの犬とただの中年とただの町なのだ。
 この町に限らず世界の中身は何が棲んでいるのか、巣くっているのか、出来ているのか。知らず気付かずいられるというのは、灰色の境界を日々歩む鱗道からすればやはり、幸福なことであると思われた。

       

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Neetsha