Neetel Inside 文芸新都
表紙

グレイスケイルデイズ
-04-

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 老紳士、であった。スーツの良し悪しを鱗道は判断出来ない。が、ネクタイをしていないのが不自然なほど、艶やかな生地は痩せた体にぴったりと沿っていてオーダーメイドであることは窺える。一見してただ者ではない老紳士は、両手に風呂敷包みを抱えて黒塗りの車から降りた。駆け寄って歓迎の鳴き声を上げるシロを見下ろしておやおやと穏やかな笑みを浮かべながら、
「こちらが「鱗道堂」さんでよろしいでしょうかな」
 と、見た目相応に、乾きながらもはっきりとした発声で言う。来客に喜び勇んで飛びだしたシロを追った鱗道は、質屋には場違いな雰囲気の客にも普段通りの愛想のない挨拶で迎えた。傍目には、風通しだけを追求した服装であった鱗道の方が余程くたびれて見えたことだろう。
 老紳士は挨拶もそこそこに、
「見て頂きたいものがあり、持参致しました」
 と、語り、加えて、
「こちらの「鱗道堂」さんは、奇妙なものを見て頂けるだけでなく、場合によっては解決してくださるとか」
 と、鱗道を真っ直ぐに見て言った。鱗道は短い灰色の髪を掻いて、
「ここは、ただの質屋ですよ」
「ですが、「鱗道堂」さんで間違いはないのでしょう?」
 曖昧な返事でけむに巻くことは出来そうもない。老紳士の視線は真っ直ぐであるし、僅かだが値踏みされているような気もする。何より、老紳士は「鱗道堂」を質屋としてではなく、「鱗道堂」として尋ねてきたようだ。老紳士が抱えてきた物は間違いなく厄介事の種である。が、老紳士の足下からシロは離れない。となると穢れや瘴気絡みの物ではなさそうだ。厄介事ではあるが、その度合いや危険性は高くないと見積もれる。
「まずは……見るだけ、でもよければ」
 鱗道は言いながらに、適当な腰ほどの高さがあるチェストを指差した。老紳士は一つ頷くとチェストの上に風呂敷包みを置き、結び目を解く。露わになったのは木箱である。蓋を開け、さらに取り出されたのが煤竹色に乳白色の釉薬が垂らされた壺であった。見た目には何ら変哲のない古い壺である。シロが興味深げにチェストに前足を乗せ、鼻先を壺にぴったりとくっつけている以外には。
 壺の良し悪しはスーツ以上に判断が出来ない。鱗道とシロがじっと見つめている最中、梁の上で俯瞰していたクロが静かに壺の横に着地した。
「おや。カラス、ですか?」
「ええ、まぁ」
 クロが客の前に自ら姿を現すことは珍しい。客が急な動きもなく、佇まいも落ち着いた老人と言うこともあって下りてきたのだろう。老紳士は驚きながらも、クロの様子を観察しているようだった。クロの興味は壺そのものではなく、木箱に向いているようだ。蓋や木箱の側面を一通り眺め、書かれている崩し字や落款などを見て、
『調べます』
 と、鱗道に嘴を開いて飛び去った。梁を経由して老紳士には見えないように居間に向かうのだ。そして、居間でパソコンを駆使して壺の情報収集をしようというのである。キーボードはいくつかキーが割れたり壊れてなくなったりしているが、配列を覚えているクロには支障がない。
「……ええと、それで」
 老紳士はクロが飛び去った梁を見ていたが、鱗道に促され顔を降ろした。ぴしりと伸ばした背筋を一層胸を張るように正し、
「これは、どうも奇妙な壺なのです。話を聞いて頂けますかな? 必要ならば、相談料もお支払い致しましょう。また、もし、この壺が飲み込みましたブローチを取り出して貰えたならば、言い値をお支払い致します」
 と、一息に言い切った。猫背気味に壺を見ていた鱗道は、老紳士の言い放った言い値という魅力的な言葉――ではなく、まさに奇妙な言葉に顔を上げる。
「壺が飲み込んだブローチ? その……壺を買い取れ、という話ではなく?」
 「鱗道堂」には奇妙な物が持ち込まれる。その大半は、奇妙な物を買い取ってくれだの引き取ってくれだのという話であった。稀に奇妙な現象が発生するので解決したら返して欲しいなどという話もあるが、クロに頼んで数えれば両手で足りる程度の筈だ。わざわざ「鱗道堂」に来る客は、奇妙な物を手放したがって持ち込んでくるのである。
「壺は割って頂いても結構です。弁償代なども要求いたしません。もっとも、それが出来れば、ではありますがな。私の目的はあくまで、中のブローチでございます」
 老紳士は頷きながら、しみじみと語った。買い取れ、引き取れ、という話には言外に壊されても構わないという思考はあろう。が、明確に壊して構わないと言われることは非常に稀だ。まず記憶にない。鱗道は首を傾いで眉間に皺を寄せながら、壺の匂いを嗅ぎ続けているシロを見た。シロは鼻先をぴったりと壺にくっつけて、ときに鼻をすんすんと鳴らして嗅いでいるが、ピンとくる匂いがないのか首を左右に傾けている。
「話を聞いてくださいますかな、「鱗道堂」さん」
 鱗道が返事をしないまま、じっと壺を見ていたからだろう。老紳士は丁寧な口調で鱗道に尋ねた。鱗道はもうしばらくシロを観察した後、シロに変調がないことを確認してから店を見回した。失礼、と一言発してからその場を離れ、店内に転がっていた適当な椅子を持ち寄り、
「うちは、その……まぁ、質屋なんで……聞くだけで料金は取らないんで……ごゆっくり」
 普段通り、溌剌さに欠けた口調で言いながら、老紳士に着席を促す。老紳士は一礼の後、椅子に腰を下ろして静かに壺の奇妙さについて語り始めた。

 老紳士は自らを、とある金持ちの邸宅で世話係を務めている人物――ざっくりと言えば執事であると名乗った。年老いた先代が事業や家柄から身を引いたことで家督は長兄――これは鱗道より一世代上の人物らしい――に移され、邸宅も現家長となった長兄に引き継がれた。その折、邸宅の整理をしている最中に倉庫の最奥から発見されたのが木箱に収められたこの壺である。
 木箱には崩し字で何やら書かれていたが読めるものは誰もいない。先代にも確認したが、先代も壺のことは知らなかった。木箱を開けてみれば、ぱっと目を引く良さのあるものではないが、逆を言えば生活に難なく溶け込むような味のある壺だ。その素朴さが気に入ったのか、現家長によって壺は客間の床の間に置かれることになった。程なく邸宅に住まう誰もが壺のことなど意識することはなくなったが、時期を同じくして邸宅の中で失せ物が増えだした。
 失せ物と言っても些細なものである。例えば小さなネジや道具の部品、貝のボタン、磁石、メイド達のヘアピン、現家長の孫娘が遊ぶ玩具の宝石やビーズなど、精々手の平に握り込めてしまうような大きさのものが少しずつ気が付けば無くなっている。些細なものではあるのだが、急にあれがない、これがない、先程まであったはずなのに、等と言われ出したのだから誰もが気になり出し、気になり出せば確認される機会が増えて失せ物の数は増えていく。大抵の物はいつどこで無くなったかなどは分からずじまいであるが、いくつかの物はあの壺が置かれた客間で落としたまま見つからなかったり、無くなっていることに気が付いたりとしたようである。とは言え、掃除くらいでしか近付かない床の間付近で落とした可能性も低ければ、失せ物で大きく跳ねるような物はない。あの客間で物が無くなると囁かれ出しても、壺の口がさほど大きくないこともあって誰も壺の中など覗き込まなかった。
 いよいよ大騒ぎになり始めたのは、ブローチ――現家長の妻のものである本鼈甲のブローチが無くなったことからであった。しかもその時まで身に付けていたブローチが無くなっていることに気が付いたのは、誰もいない客間を後にした直後のことだ。
 本鼈甲のブローチとなれば他の雑貨とは一線を画す。客間に入る前にあったことは間違いないが、どのようにして気付かずに外れて無くなっているのか等と話し込んでいるときに幼い孫娘が現家長の裾を引いた。床の間の壺を指差して、この中に入っているよと言ったのである。
 狭い口を覗き込めば、確かに壺の中で何かがキラリと光っている。孫娘は時々壺の中を覗き込んでいたようで、壺の中に色々な物が入っていることに気が付いていたらしい。身に付けられていたブローチが壺の中に入る可能性は低かろうと思われたが、万が一もあるし取り出してみようということになった。しかし壺の口は狭く、成人では手を窄めなければ入らない。握ってしまえば抜けず、摘まめば取れるだろうが中が見えないのには変わりない。壺を振ってみれば複数の物が壺の内側を擦る音がする。真っ先に逆さにされた壺であるが、何度か振ってみても不思議なことに中身は一切落ちてこない。何かが引っかかっているのだろうかと首を傾いでいると、孫娘が手を上げて、
「私がやる!」
 と言い出した。確かに、幼子の手であれば握った拳でも壺の口は通りそうだ。壺を傾けてやりさえすれば、底まで届かずとも中の物を掴めるだろう。一応、失せ物の中には尖った物もあるから危険であるとなだめてみたが、やると言い出したら聞かない年頃を迎えた孫娘は諦めない。現家長も仕方なし、痛いと思ったら手を引くようにと言い聞かせてやらせることにした。あくまでブローチだけで良いのだから気を付けて、と周囲の大人が重ねて言う。
 では、と執事が壺を傾けて持ち、孫娘が中に手を伸ばす。ハラハラと現家長やその息子夫婦も見守る中で孫娘の右手は肩近くまですっぽりと壺の中に入ってしまった。誰もが固唾を飲み、気が気でないと見守っている中心で、孫娘はぱっと表情も晴れやかに、
「あった!」
 と明るい声で言った。
 ほっと安堵の瞬間である。あとは壺から取り出して、ブローチの確認をすれば良い。それじゃぁ手を抜きなさいと大人達に言われた孫娘は、次の瞬間にしくしくと泣き始めた。一体どうした、何があったとざわめく大人達に、
「手が抜けない!」
 と告げると、孫娘はわんわんと声を上げて泣き始める。
 そんな筈がない。入るときはすんなりと肩近くまで飲み込んだ壺である。物を握り込んだ手が引っかかるというならばまだしも、細くなる一方である腕が抜けないはずがない。しかし孫娘を引っ張ってみても、壺を引っ張ってみても孫娘の腕は抜けず泣き声が一層大きくなるばかり。割ってしまうにしても腕が入ったままでは不可能だ。やれ石けん水だ、ぬるま湯だと大慌ての大人に囲まれながら孫娘は、
「ごめんなさい、ごめんなさい」
 と、わんわんわんわん泣いていた。あっと最初に声を上げたのは誰であったか定かではないが、誰もが呆然と口を開けて泣きじゃくる孫娘を見つめることとなる。なにせ孫娘は、いつの間にやら両手で顔を擦りながら泣いていたのだから。
 ぎょっとしたのは大人達である。あれ程抜けなかった孫娘の腕が抜けているのだ。抜けた瞬間は誰も見ていないし、安堵もあれば不気味さもある。泣きじゃくる孫娘から聞ける話はどうしても要領を得ないし、大泣きっぷりからは贔屓目なしに嘘をついていたとは思えない。母親が確認したが孫娘の手には幸いなことに傷などは一切なかった。ただ、抜けなくなったことに驚いて手を開いたらしく、ブローチはやはり取り出せなかったようである。
 これに憤慨したのは現家長であった。目に入れても痛くない孫娘を泣かせ、大事なブローチを飲み込んだと思しき奇っ怪な壺を、
「こんなもの!」
 と、感情にまかせて畳に叩き付けたのである。慌てふためく人目の中で、壺はごろりと畳の上を転がっただけであった。確認したところ、あろうことか罅の一つも見られない。畳ならば、もしかしたら、壺の球状が運よくか悪くか働いて云々と思えよう。が、現家長の腹の虫は到底収まらず、壺を抱え上げると今度は鯉も泳ぐ池のある日本庭園へと飛び出した。現家長が壺を振り下ろす先には大きな庭石がある。
 がしゃん、と陶器と石のぶつかる音は確かに鳴った。しかし、玉砂利を転がる壺はやはり割れていない。 現家長は何度も庭石に壺を叩き付けたが、つるりとした煤竹色の表面に罅はやはり見付けられず、後に執事が見たところ傷や釉薬の欠けが確認出来た程度であった。
 それから、中の物を取り出すべく思い付く手段を試してみた。掃除機で吸い出そうとしてみたが失敗。長い棒の先に両面テープを巻いた物を突っ込んでみたが、両面テープを中に残して棒だけが抜けてしまった。孫の手で掻き出そうとしてみても、いざ壺の口が近付くとてんで手応えがなくなってしまう。一番手の小さなメイドに頼み込んで手を入れて貰ったが、中の物を指先で摘まんだところでやはり手が抜けなくなった。ちょっとしたパニックに陥って、摘まんだ物を離し、涙ぐんで「ごめんなさい」と謝り出すとするりと抜ける。
 中は一体どうなっているのか。なんとか気を落ち着かせたメイドに話を聞けば、物を摘まんだときにしっかりと手が固まってしまったそうである。壺の口がすぼまったのではなく、壺全体がぎゅっと締まったような感覚であったそうだ。冷たいも硬いもなく、ただ本当に手が抜けず、動かなくなってしまったというのである。
 さて、思い付く限りは試してみたが全て失敗に終わってしまった。案は絞り尽くされ、皆が疲労困憊である。何より、もはや壺の不気味さが次の一手に二の足を踏ませてしまう。そんな諦観がのさばる中で、現家長に申し出たのは他ならぬ執事――この老紳士である。
「隣県のH市には、奇っ怪なものを収集し対処する、奇っ怪な質屋があると聞いたことがありますぞ」
 と。

 壺が置かれたチェストは今、鱗道の斜め後ろにある。ガラス戸を貫く夏の日差しを避けて、通路上に鱗道と老紳士は向かい合っていた。老紳士に椅子を勧めた後、自分も適当な椅子を引っ張り出して座ったのである。シロの姿は店中にない。隙を見ては壺に前足を伸ばして触れようとするので、倒すのを懸念した鱗道が一々咎めていたからだ。話し込めば鱗道も老紳士もシロを構わない。そうして、退屈を極めたシロは居間へと上がってしまった。居間ではクロが調べ物をしているが、構ってもらいに行ったのだ。
「それで、引き受けてくださいますかな」
 話し終えた老紳士は、鱗道に真っ直ぐな眼差しを向けた。強い意志を感じる眼差しに鱗道は居心地が悪く視線を逸らし、腕を組み直して考え込んだ。壺の近くにいながらシロには異変がなく、シロも異変を訴えない。壺がもたらす異変は邸宅の中でも物がなくなり、取り出せない以外はないようだ。肉体や生命に即効性の害がある物ではなさそうだからこの場で突き返す理由はない。それに、鱗道が個人的に気になっていることもある。
「……出来なかったら、出来なかったとだけでお返しすることになるとは思いますが」
 鱗道が右手で首を掻きながら横目で老紳士を伺うように言うと、意外にも老紳士は驚いた表情を浮かべた。それから、
「貴方は、荒唐無稽な話だと仰らないのですな」
 と、言う。その言葉を聞いてから鱗道はああ、と口の中で呻いた。中身を取り出せず、岩に叩き付けても割れない壺。そのような話はそもそも一般的には受け入れられはしないものだ。ただの質屋だと言った手前、何か言うべきか、取り繕う理由もあるまいに、と考え出した矢先である。
 ガシャン、と鱗道の背後で音がした。老紳士は鱗道越しに、そして鱗道は硬い体を捻るように音の元を見やる。特に変哲もない壺が、チェストから落下して硬い床を転がっている。音を聞きつけて店に降りてきたシロは壺の脇をすり抜け、
『鱗道。こっち。音、二つしたの、一つはこれだよ』
 と、ひゃんひゃんと鳴いたのは店の外に向いた棚の足下であった。鱗道には一つしか聞こえなかった音であったが、同時にもう一つ鳴っていたらしい。老紳士に一言告げてから立ち上がって覗き込めば、シロの前足や鼻先で示された床にはガラス瓶と小さな真珠が散らばっていた。ガラス瓶に詰めて飾られていた、もう何の曰くもない小さな真珠だ。が、元はネックレスであった真珠は床に数粒しか落ちていない。しかもそれらは、壺に向かって点々と続いているように見える。
 ガラス瓶と真珠を確認しながら拾い上げる鱗道は、背中に老紳士の視線を感じていた。単純にガラス瓶と真珠は壺の仕業と考えていいのだろうし、真珠の大半は壺の中にあると想像出来る。一応、真珠は店の売り物だ。壺の中にあるとしたら引き受ける一押しには充分である。
「……まぁ……その、本当に何か出来るかは、分かりませんよ」
 鱗道が深く溜め息を吐いて立ち上がり、髪を掻くのを老紳士がどう受け取ったかは分からない。が、老紳士は椅子からすっと立ち上がると手早く風呂敷を畳み、
「ええ、それで結構です。何かあればこちらにご連絡を」
 と、胸ポケットから名刺を差し出した。名前と電話番号、それと都会一等地の住所が書かれている。鱗道がどうも、と頭を下げながら両手で受け取ると、「鱗道堂」さん、と老紳士に静かに呼び掛けられた。
「貴方にお任せ出来て良かったですよ」
 目元口元に寄る皺の一筋すら、上品そうに見えてしまう。鱗道が質屋を営んでいなければ――それも、老紳士の言葉を借りれば、奇っ怪な質屋でなければ出会うことのなかった人間であろう。鱗道はいつものように不明瞭に、曖昧な返事と礼を述べた。老紳士は携帯電話を取りだし、短く連絡をすると失敬と店の外に出た。見送りを兼ねて鱗道は、どうにも出来ない可能性があることを繰り返し念押しする。程なく店先に現れた黒塗りの車に乗り込みながら老紳士はそれでも構わないと頷き、
「貴方は私の話を最後まで笑うことも否定なさることもせずに聞いてくださった。結果がどう転ぼうと、それでもう充分」
 と、涼やかに微笑むと、来店したときと同様に颯爽と去って行った。

       

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Neetsha