Neetel Inside 文芸新都
表紙

グレイスケイルデイズ
-02-

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 帰り道になるとシロの足は大抵鈍る。シロほどの体格の犬に本気で抵抗されれば鱗道には為す術もない。会話は出来るが人目も気になり真正面から懐柔できた試しはなく、大抵は散歩の後の菓子や飯でつってなんとかする日々である。その日も店までの上り坂でシロは足を鈍らせだした。見下ろせば申し訳なさそうなつぶらな瞳と、その割には全体重を後ろ足にかけた姿勢と首回りの肉を持ち上げる首輪の抵抗が目に入る。今日はすでにブリキの車の一件でシロに菓子をやる話になっているので、それを言い出せばすぐに歩き出すだろう。嘘をついたり誤魔化したりとした結果にはならず、クッションや畳が八つ当たりの犠牲になることもない。
 が、鱗道が言い出す前にシロは鼻をひくつかせ、何かを嗅ぎ取ったらしく自ら歩み出した。否、歩み出すというほど可愛いものではなく、鱗道などを追い抜いて引きずっていく勢いで大きな体を揺らしながら駆け出した。鱗道とて体重の軽い男ではないのだから、シロの勢いは大分削がれている。コンクリートを爪が削る音がしてもシロに構う気配はなく、結果として鱗道は大きく引っ張られるようにして坂を上る羽目となった。
 街灯の明かりだけに照らされる「鱗道堂」が見え始めたとき、シロが駆け出した理由が目に入った。鱗道は車道を走る車がないことを確認した上でリードから手を離す。シロの勢いに任せて坂を上り続けるのはいささか足に堪えるものがあった。
「おう! シロ! 元気そうだなぁ!」
 鱗道という錘から解放されたシロは、店の前に立っている派手なシャツにサングラスの大柄な男の体に飛びついた。ひゃんひゃんと子犬の歓声を上げるシロを捕まえた大男は全くたじろぐことなくシロの体をなでくり回している。
「よう! グレイ! 相変わらず日に当たってねぇ面してんなぁ!」
 その大男は右手でシロをあしらいながら人懐っこい笑みを鱗道に向けた。鱗道は盛大に肩を落として見せながら、己も左右を確認して車道を渡る。
 猪狩晃は鱗道と同じくH市S町に生まれ育った幼馴染みである。が、鱗道と並んでも同い年だとはあまり信じられたことがない。常にくたびれた風情を醸し出す鱗道とは正反対に、洒落っ気と活気にあふれた男であるからだろう。
 身長は少しばかり鱗道より高く、百八十センチは越えている。若い頃からスポーツや運動に打ち込んできた甲斐があるのか、腕も足も体も歳をとってなお太く逞しい。今でも夏にはサーフィン、冬にはスキーやスノーボード、そうでないときには登山など完全に趣味をアウトドアに振り切っているはずだ。
 昔から明るく活動的な性格で、良くも悪くも騒動の中心にいるような男であった。年齢を重ねた今でも髪は茶色に染めて、長さも髪型もしょっちゅう変えている。今では顔に多少の皺はあるが、それでも紳士向け雑誌のモデルにスカウトされたことがあるとか、実際学生時代にも雑誌社から声をかけられていたりと、整った顔立ちをした男前だ。流行り物には大抵飛びついていて、悪く言えば落ち着きがない。が、堅実なところはしっかりと堅実で、高校時代から交際を続けた妻と最愛の一男一女に一切の苦労はさせておらず、十年以上前に警察官を退職した以降もジャーナリストかルポライターか――情報を仕入れる伝手を活かして記者めいた仕事を続けている。
 何もかもが鱗道とは正反対だが、互いに互いが最も付き合いの長い友人であった。様々な方向に秀でた猪狩であるが当人がそれを鼻にかけず努力も惜しまず、よく言えば大らかで懐深く、悪く言えば大雑把で他人への思いやりに少々欠ける性格となれば、やっかみや嫉妬を存分に買って敵が増えるのも必然である。鱗道は良くも悪くも我が道を行く性格であり、猪狩をやっかむにしろ嫉妬するにしろあまりに対極過ぎてそんな気にもならなかった。フラットな関係というものは年齢を重ねれば重ねるほど貴重な存在となって、方や情報の最先端を走る情報業、方や物の声を聞く奇妙な質屋となった今現在まで交流が続いているのである。
「あんまりはしゃいで汚れるとシャワーに突っ込むぞ、シロ」
 シロは猪狩に非常に懐いていた。元々人懐っこい犬であるが、猪狩に対しては一層懐ききっている。というより、シロの尊敬を最も集めている人物が猪狩である。シロを連れて猪狩に会ったとき、シロはほとんど全力で猪狩と遊び倒したが――砂浜を何往復もしたり、フリスビーキャッチをしたり、ロープの引っ張り合いをしたりという犬の遊びである――そのほとんどが引き分けか、ロープ引きであれば猪狩の勝ちであったのだ。犬は階級社会を作ると言われているが、シロの中では一位に猪狩が君臨している筈である。鱗道は、おそらく、また別枠である――と、願望ではなく、思う、のだが。
 猪狩の足下で腹も舌も出していたシロであるがシャワーの言葉にはっと顔を上げた。大抵の犬がそうであるように、シロもシャワーを苦手としている。その割には暑ければ海にも突っ込むし、何かを見つければ藪にも突っ込むしと室内飼育に不向きの性格もあってシャワーの頻度は多い。明らかにしょぼくれた顔をしたシロを見て猪狩は豪快に笑った。
「いいじゃねぇか! 綺麗にしてもらって、気持ちいいだろうよぅ」
『やなものはやなの! イガリもいじわる言う!』
 シロのひゃんひゃんと上がる抗議の声はただの鳴き声として猪狩に届く。決して鳴き声以外の物が伝わることはない。猪狩はただの一般人だ。だが、
「お、なんか文句言ってんな? 通訳しろよ、グレイ」
「……意地悪だとさ」
 猪狩は鱗道が物の声を聞くことが出来ることを知っていて、そのことを心の底から信じている。他人と長く交流を持つことがない鱗道が猪狩とだけ長く付き合っていられるのは、猪狩が交流を持ちかけてくるからだけではなく、その大きすぎる度量による部分が多くの割合を占めている。

 中学二年の時、鱗道は大きな交通事故に遭った。登校中の鱗道に巨大なトラックが突っ込んできた不運な事故で、鱗道は生死の境をさまようことになる。そこで、とある奇妙な夢を見た。その夢を見た結果、鱗道は無事に生還し、奇妙な物の声を聞く能力を得て、父親を失った。全ては一ヶ月以内の出来事である。
 中学二年の少年一人に抱えておける内容ではない。誰かに話さずにいられなかったが、話を聞いた同級生の大部分は揶揄したりからかったり、妙な同情を向けてきたりと様々な反応を返すばかりで誰も信じなかった。当然のことだ、と鱗道は反応を受け入れていた。自分がそんな話を聞かされる立場だとしたら間違いなく大半の反応に準じていただろう。
 猪狩だけが違った。最初は鱗道も猪狩を疑ったが彼は本気で信じたらしく、奇妙な能力に対して懐疑的な鱗道当人を引っ張り回し検証しようと言い出したほどだ。そして言い出した当人だからと、検証中に発生した全ての出来事に付き合い続けた。互いの進学によって道が分かれる高校卒業までの全てにである。
 正直に言えば少しばかり疎んじていた時期もある。物の声が聞こえる等といった奇妙な現象を他人事だから面白がっているだけだろうと。実際に猪狩は面白がってはいただろう。だが、それは他人事だからではなく、在ると言われるものをただ素直に受け入れ信じ、我が身に起きたことだとしても面白がれる度量を持っていただけの話だ。徐々にそのことに気がついて度量の大きさという物が理解出来るようになると、猪狩の大きくて大雑把な懐に救われていたことに気がついた。一人では抱えておける内容を抱えてくれる他人がいるというのは、とても心強いことである。

「意地悪? ああ、そうか、シロはシャワーが嫌いか!」
 猪狩は膝を折って目線を合わせると、シロの不満げな顔を大きな両手でぐしゃぐしゃにかき混ぜながら大きく笑う。鱗道は特に補足をしないまま店の引き戸の鍵を開けた。直接、居住スペースに入れるような勝手口もあるが、
「酒はないぞ」
「用が終わればすぐ帰るぜ。夕飯が待ってらぁ」
 一応は客人の猪狩がいる。裏に回らせるのも気が引けた。猪狩はシロから手を離すと、鱗道が開けた引き戸をくぐって暗い店内に入っていく。シロがそれに続いて、最後に鱗道がくぐった。引き戸を軋ませながら閉めると、肩にクロが止まった。赤い目が鱗道を見たのは一度だけ。嘴さえも開かず肩をつかむ足に力を強く込めて、再び店の梁――それも酷く奥へと飛んでいった。猪狩が見つけた照明のスイッチが押されて店内が明るくなろうと、すでにクロの姿を見つけることは鱗道にも出来ない。
「おや、クロはいねぇのか? 俺が来ると、アイツいっつもいねぇな」
 猪狩が天井を探しているが十中八九見つけることは出来ないだろう。
「まぁ……そうだな。周囲警戒中……みたいなもんだ」
 シロとは対照的に、クロは猪狩を嫌っていた。気持ちは分からなくはない。クロは他人との直接接触を好む性格ではなく、物静かに過ごしていたい性格だ。故に、普段無駄口も叩かず、物音も立てず、平々凡々淡々黙々と日々を過ごす鱗道と共にいる――というのは全てではないが要因ではある。そんな鱗道とは正反対の、快活として声も大きく、スキンシップも好む猪狩を嫌うのは当然だ。
 クロを鱗道が引き取ることになってから、クロと猪狩の対面は毎回一筋縄ではいかなかった。クロが剥製のように店の片隅に鎮座しているのを見掛けると、猪狩は毎回手を伸ばす。不用意に触れられることを嫌うクロは大抵が翼、時折嘴で猪狩の手を払うのだが――クロを剥製だと勘違いした客のように、通常であれば手を引っ込めて終いである。が、猪狩は生憎一般人ではないが故、鷲掴みにして返し、抵抗するクロとちょっとした格闘を演じることまでするのだ。猪狩からすれば接触は生存確認のつもりらしく、その後の鷲掴みは猪狩にとって撫でようとしただけであるし、格闘は遊びの延長線上だという認識なのである。クロは触れられるのを嫌うということを説明すると理解を示すのだが、やはり気になってしまうようで暫くするとまた手を伸ばし――の繰り返しであった。
 そんな事が何度も続いて以降、クロと猪狩が顔を合わせることは両手に少し余る程度の回数しかない。ちなみに、猪狩は己がクロに警戒はされていると理解しているものの、嫌われ避けられているとは思ってもいないらしく、店に来るたびに毎回クロの姿を探す。そしてクロは、猪狩が来るたびに彼に見つからぬように鱗道の肩に一度だけ止まり、抗議と不満を最大限に込めた視線と足の爪で訴えて姿を隠すのである。
「なぁ、グレイ」
 昔からであるが猪狩は鱗道のことを「グレイ」と呼ぶ数少ない人間の――というより、ほぼ唯一の人物だ。切っ掛けは中学時代に見たという映画かドラマで、親友同士か同僚同士が色の名前で呼び合っているのが格好良かったか憧れたという猪狩の中で巻き起こったブームだった。友人達は軒並み名字か名前に入っている色か想起される印象で渾名が付けられ呼ばれ始めたが、クラス替えの時に「青山」と「青木」が同じクラスになったことで少なくとも渾名付けはそこで終わった。が、すでに付けられた渾名は撤回されず、名前に「灰」と明確に含まれていた鱗道は以来、猪狩からグレイと呼ばれ続けている。
 猪狩は店の中に入って適当な椅子に腰を下ろした。足の間にシロが滑り込んで猪狩の太ももに顔を乗せている。シロの無防備で分厚い耳を弄りながら、
「ここ最近、通り魔が出ているのは知ってるか」
 せめて茶は出そうかと居間の方へ足を乗せかけていた鱗道は猪狩を振り返った。猪狩は店内に入った時点でサングラスを外していて、胸のボタンに引っかけている。少しくすんだ右目が店の暖色明かりにうっすらと映えていた。昔からを知る友人であろうと、ぱっと見では気が付かないだろう。義眼、というわけではないそうだ。そこまでの大きな怪我ではないという。仕事中の事故だったと聞いている。以来、右目の視力が落ちてしまい、それが切っ掛けとなって猪狩は警察官を退職した――のだと、聞いた。深く込み入った話をしたことはない。鱗道にはどうにも出来ない話であるし、聞いて欲しければ猪狩から話してくるはずだ。
「……聞かないな」
「だよな。俺も初めて話した」
 シロの左右の耳を倒したり伸ばしたり、口吻を握ってみたりとシロの顔を弄びながら猪狩は乾いた声で一度笑い、
「でも、多分通り魔だよ。んで、そこらの人間にはどうしようもできねぇ通り魔だ」
 皺があろうと男らしく切れた目を鱗道に向けて笑むように細める。笑みはシロによって浮かべられたものではないらしい。少なくとも猪狩の表情は愉快そうには見えなかった。何かを見抜くような顔付きは警察官時代に習得したものだろうか。
「俺は――」
 鱗道は首の後ろに手を回し、爪を立てて掻く。ごりごりと皮膚の表面を掻き毟るように荒っぽく。億劫だ、面倒だ、と感じたときの癖だった。鱗道が癖を発露させたのを見て、猪狩の肩が大きく揺れる。今度ははっきりと笑っているようだった。しかし、愉快げというよりは苦々しい笑みであるようだ。
 鱗道の癖を初めて指摘したのは猪狩である。億劫がったり面倒だと感じたりすると必ず首の後ろを掻く、と。高校に上がった頃の話だったと思うが。
「――治安維持に勤しんでるわけじゃない」
「お前にそんな正義感がないことは俺だって知ってるぜ。でも、お前はしなきゃならねぇんだろう」
 その癖についての口上には続きがあった。左手で掻くときは何があろうと絶対にやらないと決めたときであり、右手で掻くときは何があろうとやらねばならないと決まっているときだ、と。そんなことがあるはずがないと思いながらも鱗道が首を掻くとき、猪狩は時々今のように苦くか意地が悪そうに笑うことがあった。そういう時に――そして今も、鱗道が首を掻いている手は、
「チラチラとカマイタチみたいな怪我人が増えてるって話を聞いてな。だが、カマイタチってのは血はすぐ止まるってのが相場だろ?」
 右手だった。鱗道は首から手を離してだらりと下げる。合いの手も入れず、ただただ黙って猪狩の低い声が長く途切れるのを待った。
「が、当の怪我はそうじゃない。まだ皮を切ってる程度みたいだが、そこそこ出血が多くて縫わなきゃならねぇほどの怪我も出てきた。当然、犯人なんざ目撃もされてない。警察が動くわけもねぇ。が、どうにも匂うじゃねぇか。ただの怪我で終わるうちの方が知らせるにゃいいと思ってよ。お前さんも楽なんじゃねぇかな、ってな」
 そこで猪狩の言葉が途切れた。言葉だけではなく、話としても終わりなのだろう。止まっていたシロの耳を弄る手が動き始めている。鱗道は浅く息を吐いた。話は分かった、という返事でもあり、言葉を続ける予備動作でもある。
「親切痛み入るよ」
「どういたしまして、っと。ほぉら、シロ。ご主人様んとこ行け。俺はもう帰るぜ」
 乱暴に足から顔を下ろされたシロが不満げにくぅんと一鳴きする。それでも猪狩の太い足は二度シロを寄せ付けず、立ち上がりながら鼻先をあしらう。
「ま、気をつけろよ。グレイ。ヘマをしたら墓を掘り返してお前の周りで酒盛りしてやるぜ」
「日本式じゃ出てくるのは骨壺だけだ……お前が酒盛りを始めたら周りの奴らをけしかけてやる」
 洋画やドラマの見過ぎだと鱗道は呆れかえった返事を投げる。きっと今も、そういう物を多く見ているに違いない。立ち上がった猪狩は引き戸のガラス越しに町の暗さを確認して、持ち上げかけたサングラスを胸にぶら下げたままにした。我が物顔かつ慣れているように引き戸を開けるが、軋みは鱗道がどうやっても鳴らないほどに喧しく喚き立つ。それでも引き戸を割ったことも外したこともない。妙なところで器用な男だと感心する。
「じゃぁな、カミサマによろしく伝えといてくれ」
 言いながら雑に手を振り、猪狩は引き戸も開けっぱなしで自宅の方へと帰って行く。此処から遠くはない距離だ。ぶらりと店に寄ったように、ぶらりと歩いて帰るのだろう。鱗道は店を出てまでは見送らなかった。シャッターを閉じるべく店の奥から金属柱を取り、猪狩が開けっぱなしにしていった扉をくぐる。
 海も山も近いこの辺りでは台風ほどでなくても少し風が強く吹けば石などが飛んできて大きなガラス張りの引き戸は割れかねない。億劫な作業であるが無碍に出来ない仕事の一つだ。開店当初は真っ白だったシャッターも潮風を含む空気にさらされサビが浮き出している。金属製の棒でシャッター引き落とすときの音が犬には堪えるらしく、シロの姿は店の奥に消えていた。二枚中一枚を落としきり、もう一枚も引きずり落とす。店側に入り込んでからトドメのように足で踏み押さえて鍵をかけた。閉店作業はこれで終いだ。鱗道の表情は晴れやかでもなければ、疲労に濁ってもいない。
「猪狩の奴、時間帯は言っていかなかったな――まぁ、そういう時は夜が相場か」
 シャッターしか見えなくなった引き戸を閉じると鱗道の肩にクロが乗った。が、嘴は開かず何も言わない。赤い目はじぃっと鱗道と同じ視野を共有し続け、店舗区画から居住スペースに上がる。鱗道が水場の小さな窓を開けると、ばさりと鴉の羽が広がった。野生の鴉とは違い、もっと乾いて硬質な高めの羽音だ。
「すまんな。クロ。何が欲しい?」
『何も要りません。私はどこぞの駄犬と違って必要がないものを食べる器官はないので』
 メタリックな黒い嘴が開いて、やはり音はなく声だけが鱗道の頭に響く。シャッターの音から逃げていたシロが、店舗内に置かれている足拭き用のタオルで器用に四肢をこすって居間に上ってきた。鱗道の隣で座り込んで不満げに、
『ホネっこおいしいのに、残念だねぇ』
 否、食べられぬクロに同情を抱いて尻尾を己の体に巻き付ける。クロに瞼はないのだが、あれば赤い目を不満げに細めたに違いない。皮肉を言って真に受けられるほど格好のつかないことは滅多にないのだから。
「それなら、レコードはどうだ」
『ああ、それは良いですね。ジャズにしてください。クラシックは種類が多すぎますから』
 クロの声は明確ではないにしろ多少は跳ねている。知的好奇心とざっくりしている割に狭い嗜好以外でクロの興味を引く物は滅多にないが、レコードはその一つだ。蓄音機のラッパの前に立って音の振動を全身で浴びるのが心地よいらしい。蓄音機にいる動物と言えば犬だろうという鱗道の言葉は理解されなかったが。
 鱗道の了承を聞いて、クロの姿は窓をすり抜けて夜に溶けていった。本物の鴉と喋ったことはない――物の声が聞こえるとはいえ、動物そのものの声が聞こえた試しはない――ため、鴉の夜目がどれほど利くのか知らないし、鳥目というのだから夜には何も見えそうにないがクロには無関係な話だ。そもそも本物の鴉の目は赤くなどない。
「俺たちは飯でも食いながら待つか」
『ホネっこ! ご飯! 鱗道は何食べる?』
 窓を閉じ、機嫌が大変よろしいシロを蹴り飛ばさないよう、鱗道は冷蔵庫へ向かった。開けるのは冷凍庫部分で、
「チャーハンと唐揚げ」
 取り出す食材は電子レンジに任せっきりに出来る一人暮らしの友である。
『からあげ! からあげはいいねぇ! おいしいねぇ!』
「唐揚げはやらんぞ」
 まさか、そんな! そんな極悪非道な言葉が出るなんて! と、言わんばかりに口を開けたシロを見下ろし笑いながら、鱗道は棚から皿を漁る。犬に唐揚げなど以ての外であろうが、シロは当然ただの犬ではない。本来なら何も食わずともよいらしいのだが、食欲というものがあるようでなかなかに貪欲だった。
 この店には、それらしい姿をしていても本来とは異なる物ばかりが集まっている。店主の鱗道もまた似たようなものだ。

       

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Neetsha