Neetel Inside 文芸新都
表紙

グレイスケイルデイズ
-06-

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 椅子を軋ませて立ち上がった猪狩は、四角い鞄を円テーブルの上においてゆっくりと歩き出した。ステンドグラスに背を向けて偏光グラスを外した直後は細められた目だが、すぐに茶色味を帯びた瞳の大きい切れ上がった目に形が戻る。丁度、シロが頑丈そうな扉の前に座り込んでいたものだから、猪狩は体を震わせるようにして笑った。
「そうか。シロ、お前は分かったのか?」
 シロの頭を叩くように撫でて、重い靴音が扉の前で止まる。手がかけられたドアノブから少し錆び付いた音が立つのは、やはりこの屋敷自体に人の出入りがないからだろう。エントランス側からは押して開く扉が床に擦る音は、玄関の扉に匹敵するほど重たいものだった。
 猪狩に撫でられ尻尾を振っていたシロの紺碧の目が、鱗道も近付いて来たと見るやきらりと揺れるように光った。
「どうした、シロ。何か気になるもんでもあるのか」
「臭うんだろうさ」
 答えたのは猪狩であった。押し開かれた先が明るいのは、照明のスイッチが入れられっぱなしになっていたからだろう。
「臭う?」
『たくさんの動物のにおいがする』
 今度はシロが答えた。ひゃん、と短い鳴き声であるが、言葉や語調には戸惑いが滲んでいた。
『けど、知らないにおいがする。お山じゃ嗅いだことのないにおい』
 嗅いだことのない臭いとやらが鼻につくのか、猪狩によって扉が開かれてからはしきりに前足が鼻を擦っている。猪狩がその仕草を視界の端に見付けたのか、気にかけるように、
「鼻が痛むのか?」
「いや、動物のにおいの他に知らないにおいがして、それが気になるらしい」
 成る程、という返事を残して猪狩が先に室内に入っていく。鱗道はシロの鼻先を擦ってやりながら、
「もし、嫌いな臭いならここで待ってていいんだぞ」
『ううん、そういうんじゃないんだけど』
 言いはすれど、やはり戸惑いが強いらしい。改めて、無理はしなくていいと告げてから目の間を擦ってやる。猪狩に続くように室内に入った鱗道はその光景に息を飲んだ。多くの動物の目が、一様に鱗道を見つめているかのような錯覚を起こしたからだ。実際には、何も映さぬ虚ろな視線である。数多のガラス製の目に鱗道が映り込んでいた。それでも、多くの眼差しに間違いはない。
 キジやヤマドリなどの鮮やかな鳥類、フクロウやタカなどの猛禽類、タヌキやウサギなどの小型哺乳類、シカやイノシシは首だけになって壁に下げられ――そのどれもが薄く埃を被り無機質な目をたたえている。そんな中、明るい室内のあちこちに点在する黒い塊はカラスであった。他の動物より圧倒的に多く、室内のあらゆる場所にカラスが群れを成していた。だが、それらは一切、当然、動くことはない。
「――剥製か」
 鱗道がやっとのことで発した言葉に、後ろで扉にもたれ掛かって立っていた猪狩が、大層愉快げに笑い声を上げた。
「驚くよな。最初は俺もびびったぜ。これが昴爺さんの趣味だった。猟師からは綺麗な死体を買い取ったり、譲り受けたり、剥製作りを頼まれたりとしてたから交流があったのさ。勝手口から直接運び込めるこの部屋が作業場で、隣の部屋は防水処置がされてたから解体場だろうな。別に何も残っちゃいねぇから、ここほど楽しかねぇよ。死体や薬品を取り扱うから臭いが漏れないように、ここだけ壁や扉が分厚いってわけで――」
 猪狩の言葉――特に、解体場、という言葉に鱗道が奥歯を噛むのを見て、猪狩が喉で笑った。
「お前、昔からこの手の話が苦手だよな」
「……正直、平然としていられる奴の気がしれん」
 猪狩の言う通り、鱗道は昔からゲームや映画であってもゾンビやスプラッター等と言ったグロテスクなサバイバルホラーを苦手として薄目で見てきた。げんなりと言葉を吐く鱗道の足の隙間を鼻先で押し開きながら、意を決したシロが室内へと入ってくる。ぴたりと止まった前足を見るに、やはり鱗道同様に驚いているようだった。
「俺は幽霊なんかの方がよっぽど嫌だがな。アイツら、俺じゃ殴れねぇからよ」
 殴れれば平気だ、と言っているような猪狩をジト目で見返す。確かに、怖い物などないと公言しながら歩いているような風体の猪狩であるが、幽霊話なぞは昔から避けていた。どんな流行り物でも呪いや怨霊などと言う古風なホラーだと知ったならば頑なに見ようとしない。鱗道の代理仕事を検証すると連れ回していた時期でさえも、幽霊絡みとなるとはっきりと物怖じした事もある。幽霊物を苦手とする理由は殴れないから、とその頃から一切変化がない。
『動物のにおいはするけど、動かないんだね。動かないのに、死んでる臭いはちょっとしかしない。変なの』
 一度は足を止めたシロだが中央に据えられた大きな作業台を一周してきた頃には平然とし、棚に前足をかけて顔を近付けて剥製の臭いを嗅ぎ回っている。ふぅん、と溜め息交じりのように漏れた鳴き声を聞いた猪狩が鱗道に通訳を求めた。
「動物で動かないのに、死んでる臭いってのが少ししかしないのが不思議らしい」
「あー、そうか。シロは山ン中にいたんだったな。死体は知ってても剥製は知らねぇか」
 意を得たりといった顔で猪狩が扉から背を離し、棚からウサギの剥製を一つ手に取った。この屋敷を譲り受けた時に、中にある物も全て譲渡されたと言っていたので、この剥製も今は全て猪狩の物ということになるのだろう。
「死んでる臭いってのがなんのことかまでは、俺には分からんが」
「死んでる臭いってのはそのまま、死んでる臭いさ――死臭ってやつだろうぜ」
 猪狩が剥製を手に取ったことに気が付いたシロが近付いていく。屈んでシロを迎えた猪狩は、シロの鼻先でウサギを揺らしてやった。舐めようと噛もうと構いはしない、という態度であり表情である。
 何らかの、シロの感性独特の表現だと思っていた鱗道は、意味が通じているような猪狩を意外に思って見下ろした。
「俺は元警官だぜ? 現場にも遭遇してんだよ。死体には臭いがあんのさ。病理は詳しくねぇが、腐敗臭の一種で変に甘さのある臭いだ――これでも充分、お前の嫌いな話だよな」
「……全くだ。聞かなきゃ良かった」
 猪狩の言葉に明らかに顔を歪めて、鱗道はシロを跨いで棚と作業台の間を進む。部屋に入った最初は、多くの目に見つめられて驚いた。それが剥製だと分かってようやく気分が落ち着いたところに、猪狩やシロの言葉で剥製の元は死体だと示された気がして再び気分が悪くなる。
「昴……爺さんの趣味の一つ、って言ってたな」
「呼び捨てで構わねぇよ。お前の爺さんじゃねぇんだから」
 鱗道の不自然な言葉の途切れを、猪狩が気にするなと笑う。なら、と鱗道は髪を掻いた。
 壁には木の枝に留まった形で作られた鳥や小動物、首だけになったシカやイノシシの他に剥製作りで使われていたと思われる道具が並んでいる。大小様々なナイフ類や手斧、大ぶりの鉈に木製ハンマー、後は見たことのない道具が殆どである。金属部品は錆び付いて腐食が進み、酷く黒ずんでいた。刃物として使うことは出来そうにない。
「この趣味でも充分に変わってると思うが、持ち出せないという話に繋がりそうもないな。昴には別の趣味があって、そっちがお前の本題か?」
 おう、と返事をした猪狩はシロが軽く歯を立てるウサギの剥製を棚に戻す。シロはウサギの剥製を追うように棚に前足をかけて、不思議な死体である剥製を観察するようにじっと見つめていた。時折、耳がぴくりと跳ねる。
「お前を誘った時に、俺が言った言葉を覚えてるか?」
「確か、オカルトじみた空き家だか廃墟だか……」
 ふと、鱗道が視線を流した先には、イノシシ頭の剥製の下に集められたカラスの剥製の群れがある。その中に埋もれるように潜り込んでいた物が、部屋の灯りを鈍くも反射させていた。カラスの剥製を丁寧にどかして手に取ったものは古い写真立てだ。写真が挟まっているようであるが、ガラスには埃が積もっている。鱗道は埃を手で拭った。
「物を持ち出せねぇってのも、オカルトみてぇな話だが、昴爺さんのもう一つの趣味ってのが、そのものズバリでオカルトなんだよ」
 長く放置され色褪せた写真には一人の男が写っている。背景の鱗状のタイルから察するに、この屋敷の前で撮られた写真であるようだ。汚れたエプロン姿で、一羽の立派なキジを大事そうに両手で抱えた――
「――猪狩?」
「あ? なんだよ、急に」
 エプロン姿の男は無表情に近い。頬は痩け、肌は青白く、シャツから覗く腕は細い。はっきりとした比較対象が写っていないが、手にしているキジを見るとそれほど背の高い人物でもないと思えた。緩いウェーブを持った髪は、無精そうに乱れている。
 猪狩が近付いて来て、鱗道は写真の人物と猪狩をはっきりと見比べた。見れば見るほど、似てはいない気がする。だが、
「お前を呼んだわけじゃない。ただ、写真があって……」
 全く似ていない、とも思えなかった。写真の男には――厳密には、無表情に近い表情を浮かべる顔には見覚えがある。猪狩が鱗道の手にする写真立てに気が付いて覗き込み、驚いたような声を上げた。
「こんな所に写真があったのか。そこに写ってるのが昴爺さんだ。叔父貴に見せて貰った写真より老けてんな」
 鱗道が写真と猪狩を見比べていることに気が付いた当人が、皮肉げな笑みを鱗道に寄越す。ころころと表情を変える男と見比べれば、写真の人物はやはり見間違うはずがない。
「まさかお前、写真に写ってるのが俺だと思ったとか言わねぇよな」
 そもそも写真という物も一瞬の切り取りである。だからこそ見比べるならば対象もまた一瞬を切り取るべきだ。鱗道は猪狩を見ずに写真立てに目を落とした。それと比べるべきなのは、飲み込むことも出来ずに脇に置いたあの能面のような表情の猪狩だ。
「残念だが、その通りだ。お前が写ってると、確かにそう思ったんだ」
 健康の度合いや体格、年齢的な外見の違いは当然ある。それでも、同じような表情を知ったならば見紛う程の根源的な相似点が確かにあるのだ。猪狩は鱗道の手から写真立てを奪うと、右目を細めながら睨むように見ている。皮肉げな笑みから、猪狩が笑うか怒るかすると思っていた鱗道にとって、猪狩の反応や表情は想定外のものだった。
「昴爺さんを知ってる爺さん婆さんや叔父貴より上の親戚連中は、昔っから俺が昴爺さんに似てると言ってたらしくてな。それを聞いたから、叔父貴は俺にここを譲ったのさ。うちの親戚連中なんて、オカルトなんざどんな些細なもんでも鼻で笑い飛ばすような人達ばっかりだが」
 ふっと崩れた笑みは、懐かしむ思考に耽るような暗さのある笑みであった。その顔も、写真の人物――昴と似ている部分を感じさせるものがある。この一枚の写真を通してでしか知らない人物であるというのに。
「俺と昴爺さんを間違えて、屋敷が言うことを聞くんじゃねぇかと思ってんのさ」
 ひゃん! とシロが強く鳴いた。強めの鳴き声と同時に『どいて!』というシロの声が聞こえていた鱗道は咄嗟に体を引いていた。が、鳴き声は聞こえても言葉は聞こえない猪狩はシロの咆吼に驚いたように写真立てを置こうとしていた手を止めただけだ。壁に掛けられているシカの剥製が大きく揺れる。
 シロは鱗道の脇を抜け、大きな体に勢いを付けて猪狩の足にぶつかっていった。大型犬に匹敵する体格のシロは、体重もまた大型犬に匹敵するかより重いくらいだ。勢いを付けたその重量が不意にぶつかってきて体勢を維持していられる者がどれだけいよう。少なくとも猪狩には無理であった。写真立てを手放した腕が棚に並んだ中型から小型の剥製をなぎ倒していく。
「いってぇ!」
 悲鳴と共に一度上がった鈍い音は作業台に頭を打ち付けたもののようだ。鱗道が手を差し伸べる前に、倒れ込んで頭を抱えた猪狩の上になぎ倒された多くの剥製が降り注いでいった。その中にはシカの頭も含まれていたが、作業台と棚に大きな角と土台が引っかかったことで直撃は免れたようだ。
「大丈夫か!」
 鱗道の言葉に猪狩が右手を振るが、左手は後頭部を離れず言葉は出て来ていない。シカの剥製を作業台に引っ張り上げようとした鱗道はその重量に唸った。こんなものが直撃したならば、当たり所によっては軽傷では済まない可能性が容易に想像できる重さだったのだ。
「シロ! お前、もう少しで大惨事に――」
 言いかけて、鱗道は口をつぐんだ。理由は二つ。シロが猪狩にぶつかるより先に、吠えた時には既にシカの剥製が大きく揺れていたのを思い出したからだ。そしてもう一つは、当のシロが拙くも唸り声を上げていたからである。口吻に皺を寄せ、耳を真っ直ぐに立て、白い被毛をざわめかせながら紺碧の目は壁を渡ってエントランスを睨み続けている。再び、威嚇するようなひゃん! という強い鳴き声を上げて、シロは剥製部屋から飛び出していった。
「……っ、てぇ……危なっかしいな、シロの奴……どうしたんだ、海ン時みたいなもんか?」
 ようやく頭から左手を離した猪狩が、自身に降り積もった剥製をどかしながら頭を振った。猪狩の言葉にまさか、と口にしたものの、鱗道にはっきりと否定出来ない。目の色は確かに紺碧のままであったが見えていたのは片方だけだ。シロが脇を抜けるときも穢れの動きは感じなかったが、一瞬の出来事であったから気が付かなかった可能性もある。鳴き声も子犬のように拙いままであったが、滅多に聞かない唸り声を上げていたのも事実だ。
 剥製を落とし終えた猪狩は作業台や棚に手をつきながら立ち上がりつつある。迷う鱗道に、ふらつきながらも猪狩が追えとジェスチャーを送った。すまん、と声をかけてから鱗道は大きく作業台を迂回してシロを追い、扉の隙間を抜けて剥製部屋からエントランスへ出た。
「おい、シロ! シロ!」
 剥製部屋から声を荒らげて飛び出した鱗道であったが、シロの姿はすぐに見付けられた。照明とステンドグラスの光指すエントランスの中央に立って耳をそばだてている。神妙な佇まいからは、やはり穢れの動きは感じ取れない。シロは、シロのままであるようだ。では何故、あんなことをしたのか。そして今、何を聞いているのか。
 シロに近寄ろうとした鱗道の背後で、分厚い扉が勢いよく閉じた。背中に風が吹き付けるほどの勢いに振り返ったが、そこに猪狩はいない。ただただ分厚く頑丈な、意匠も何もない扉が剥製部屋を閉ざしているだけだ。
「は……? 猪狩、おい、猪狩!」
 ヒャン! と鳴いたシロが風のように素早く駆け寄り、閉まったばかりの扉を前足でばりばりと掻き始めた。鱗道も扉を拳で叩いたが、拳に伝わる湿り気のある感触は壁を殴っているかのようで手応えも返事もない。剥製作りに関わる臭いを漏らさぬようにと作られた頑丈な扉は、中から音も漏らさぬようだ。
 扉を閉ざしたのが猪狩だとは思えなかった。ジェスチャーを送る直前も猪狩はふらついていたのだ。あれが演技だと思えないし、扉を閉ざす理由もない。
「――外からなら、勝手口があった筈だ」
 剥製の材料を外から直接運び込める、という話も出た剥製部屋の隅の扉を思い出す。屋敷の外を回っている時に見た西壁の北端にあった扉は簡素な作りであったはずだ。あそこならば、少なくとも室内の様子は窺える可能性が高い。
 そうして玄関へ向かおうとした鱗道の足は、数歩進んですっかり止まってしまった。ステンドグラスの寒色の光が波打ち際のように揺れている。剥製部屋を飛び出した時から少し違和感があったのは事実だ。それよりもシロを優先していただけのことで、今でなくとも、この状況でなくとも、必ず気が付いた光景である。気が付かずにいられないような光景なのだ。
 玄関の扉が完全に閉じている。蝶番の下に噛ませた石などなかったかのように、僅かな風の隙間すらないほどぴったりと。
「……馬鹿な」
 ふらりと玄関の扉に近付き、ドアコックを捻るがただの飾りのように動きもしなかった。体重をかけて引こうが押そうが微動だにしない。扉を壊せる道具に思い当たるものなどない中で、鱗道は扉に手の平を押し付けた。剥製部屋の扉でも妙な湿り気を感じた記憶がある。それが、玄関の扉にもあるような気がしたのだ。
 鱗道には触れることでようやく分かる程の稀薄なもの。だが、確実に何かがそこに在る。此方の世界では感じず、手を濡らすこともない結露、湿り、湿度の感覚。シロの言っていたトカゲを潰した時のようなぬるっとしたものというのはコレのことだ。鱗道が気が付いてからも扉から感じ取ることの出来る湿り気――〝乾いた湿度〟は薄れていく。コレが玄関の扉を閉ざしたのか。似たものを感じた剥製部屋の扉を閉ざしたのもコレなのか。
「どうなってるんだ……」
 漫然と屋敷を見渡す鱗道の足下にシロが擦り寄ってきた。くぅん、と情けない声に視線を下ろすと、シロは酷く申し訳なさそうに、
『ねぇ、猪狩、ぶつかっちゃったの、大丈夫だった?』
 自分がしでかしたことを分かっているようだ。やはり、猪狩にぶつかったのはシロが自ら意図した行動だったのである。耳を伏せさせ、尾を力なく垂らしたシロは閉じた玄関扉と剥製部屋の扉を交互に見た。
『なんかがあちこちの壁の中にいるみたい。時々集まるんだよ。集まるとはっきり分かる。それがシカを揺らしたの』
「シカを? ああ、あの、剥製」
『そこに、猪狩がいるんだもの。シカ、落ちそうだったから。だから』
「それで猪狩にぶつかったのか。直撃しないように」
 シロが吠えたところで猪狩がその場から移動するとは限らない。シロの言葉は猪狩に直接通じることはなく、鱗道を介する必要があるし、注意を促したところで間に合うかどうか不確定だ。現にシロの言葉を聞いて足を下げたのは鱗道だけであり、猪狩は鳴き声を聞いて手を止めただけだった。シロが思い付き、出来ることは猪狩にぶつかってその場からどかすことだけであったのだろう。シカの剥製の重さを思い出せば、鱗道はシロを責める気にはならなかった。
『すごい音が鱗道達の方から聞こえてたから、大変なことしちゃったかもって思ったけど、壁の中のも追わなきゃと思って……でも、部屋から出たらわかんなくなっちゃった……』
 きゅんきゅんと泣き出しそうな声を上げるシロの頭に鱗道は手を伸ばした。シロに手を添えて体に触れてやりながら、改めて屋敷を見渡す。扉に触れてようやく感じた乾いた湿度を触れぬままに感じ取ることは出来なかった。壁の中にて時々集まるというシロの言葉から考えるに、触れることでようやく分かる鱗道が感じ取るには分散されてしまうと屋敷が広すぎるのだろう。
「猪狩は……大丈夫だ。作業台に頭をぶつけてたぐらいだよ。そのことは後で謝ろうな」
 扉や窓が開かなくなるという話と、開いていた扉や窓を閉めることが出来るという繋がりは想像の範疇に収まりそうだった。重たい物や重い物を持ち込もうとするとそもそも扉が開かないという話も、屋敷に棲んでいる何かが扉を閉めるのに支障が生じると判断した物を除外しているという可能性が高い。屋敷全体に広がっていて、目的を成す時に壁の中を移動して集まってくる何か。シロにも分かり、鱗道にも分かると言うことは、彼方の世界の要素を含んでいるものに間違いない。問題はその正体は何か、であり、もう一つ――
「猪狩は何も持ち出そうとはしてなかった。ウサギの剥製は棚に戻してたし……写真立てを手に取って戻してないのは俺なんだ」
 物を持ち上げる、移動するというのも屋敷が人物を閉じ込める禁忌行為に触れるというのであれば、写真立てを手に取った鱗道も標的にされる筈である。だが、鱗道の方が長く写真立てを手にしていたにも関わらず、鱗道の側にあったカラスやイノシシの剥製に動きはなかった。
「それに……シカの剥製を意図して落とそうとしたなら、攻撃じゃないか。物を持ち出させないように閉じ込める、なんて範囲の話じゃないぞ」
 この屋敷の異常に関して、猪狩は「持ち出せない」「屋敷から出られなくなる」と言っていた。叔父も「奇妙な廃墟」「元の場所に戻せば済む話」と言ったが、危険であるとは忠告していない。重量のある剥製が倒れてくると言うような明確な危険があるとしたならば猪狩が黙っているとも思えず、あの叔父ならば他人を入れることにもっと明らかな警告をしそうなものである。
『鱗道、どうしよう。猪狩がいるとこ、開かないよ?』
「外に別の扉があっただろ。なんとか外に出られればいいんだが」
『それなら、窓があるよ!』
 不安がっていたシロの声と言葉と表情が一気に晴れやかになった。窓? と首を傾いだ鱗道に、シロが得意げに鳴き声と言葉を続ける。
『窓! 猪狩が壊したって言ってた窓がある!』
 シロの言葉に少しの間を置いて、ようやく鱗道も思い当たった。前に来た時にも閉じ込められた猪狩が、ダイニングルームの窓を踏み台で壊して脱出したという話である。窓は不自然に修復されていたようだが、猪狩が素手で壊せるほどの脆さだ。あそこならば、鱗道でも少しの道具があれば出られるかもしれない。
「そう言えば、あの踏み台は結局猪狩が屋敷から出した、ってことになるんだよな……屋敷に棲んでる物がそれを覚えてて、猪狩を閉じ込めてるんじゃないだろうな」
 そんな単純な話であればいい、と思いながら鱗道は北側の両開きの扉へと向かった。猪狩がざっと屋敷の間取りを口にした時、ダイニングとキッチンに通じていると言っていた扉である。踏み台が落ちていたのも北側であった。その扉に手を触れかけて、鱗道は手を止めた。
 前も、猪狩は閉じ込められている。屋敷に足を踏み入れるのは鱗道を連れて来た今回が二度目であり、一度目の時に閉じ込められた猪狩は窓を破って脱出、その時は下見だけである、と言っていたはずだ。それが嘘や間違いではないならば、猪狩は一度目も何も持ち出そうとしていないにも関わらず閉じ込められたことになる。
 何故、と思考を巡らせる鱗道が思い当たるのは写真立ての昴である。鱗道も一度は見間違えたほど、そして親戚からも言われるほど面影に相似点のある二人。まさか、本当に、屋敷に棲んでいる物が見間違えているというのか。ならば何故、攻撃的な行動を取っているのだろうか。
『鱗道』
 ダイニングへ向かう扉に手を伸ばしたまま止まっていた鱗道のジャケットを、シロが甘噛みで引いた。はっと我に返った鱗道がどうした、と口にする前に、
『鱗道、何か聞こえる。上から聞こえる』
 シロが顔を上げるのに倣うように、鱗道もまた顔を上げた。見上げてもダイニング前から見えるのは南の階段から上る吹き抜けの廊下である。数歩下がって確認しても、何かの影があるわけでなく、閉ざされたままの扉があるだけだ。二階にあるのは確か、書斎と寝室である。
「俺には何も聞こえんが……」
『ここの上だよ。でも、ちょっとズレてるかも。でも、ここの上なの。人の声かな……でも、ちょっと変な感じ』

       

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Neetsha