Neetel Inside 文芸新都
表紙

グレイスケイルデイズ
-09-

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 地下室のあらゆる場所で液体金属が砕けていく。外気に晒され変質したのもあれば、白い獣の爪や牙によって踏まれ噛まれ刻まれて。無数に千切られた破片が壊される音を聞くことになった一番多くの質量を残していた意思存在も、床を這いずるうちに床に削られて縮んでいった。もはや人の形を取ろうにも、上半身を象れれば上等であろう。
 液体金属は自然発生せず、今より量が増えることはない。それでも隅に辿り着ければ、屋敷の木造部分に染み入れる場所がある。配管が入り組む奥を超えればすぐ、そこに。
 配管に銀色の腕が触れた直後に、白く太い足が意思存在の前を遮った。ぶつり、と音を立てるように腕が千切られる。死体として屋敷に運び込まれ剥製となったキツネに似て、何重にも大きなこの白い物が、己にとって危険な存在であることを意思存在は認識している。生き物と違って、この白い物には触れるだけで砕けてしまう。目的地は近いが、正面を塞がれてしまえば身体を削りながらも退かねばならなかった。
 白い物――シロは口を開くと赤黒い息と多量のヨダレを口から垂らした。白く光るような被毛に包まれた身体が、低く低く声を発する。
『お前が、最後だ』
 液体金属の表面を細かく振動させ続ける音に、意思存在は反応しなかった。しようにも術がない。しようという意思もない。この白い物は何らかの存在ではあるが、生き物ではないのだ。これに構っても生き物になることはできない。
 その思いは、液体金属の塊を一噛みで砕いた口が意思存在の直前で開かれるまで変わらなかった。赤黒い獣の口内と太い牙の羅列を前に、意思存在はようやく己の終わりを意識する。
 ――終わるのか。いや、来るのは死であるはずだ。何故ならば、昴と一緒になった自分は生き物であるからだ。なれば、迫り来る終わりは死である。
『いいえ』
 されど残された液体金属の中に、同じ音調の声は囁くように落とされた。
『貴方に来る終わりは、ただの終わりです』
 風を切り急降下する羽音を引き連れて。

 シロの後ろ足近くの配管にぶつかった頑丈な鴉が打ち鳴らした音は地下室中に反響する。クロがぶつかった配管は屋敷に井戸水を送るパイプであった。放置され続けたパイプは鋭く頑丈な嘴から飛び込んだクロの勢いに大きくひしゃげ、開いた穴から噴水の如く水が噴き出す。出口を失っていた水の勢いは凄まじく、天井近くまで噴き上がってシロと意思存在に夥しい量の水を浴びせかけた。
 配管に飛び込んだクロの聴覚の殆どは、水流に占拠されていたが溜まっていた水が溢れ出てしまえば――長く使われていなかった井戸も水が殆ど残っていないようで――配管から水滴が垂れるばかりとなった。水溜まりと化した配管周辺には濡れそぼって二回りほど痩せたように見えるシロと水を弾く半球状の意思存在が、水が噴き出す前と同じ場所にいる。
『感情で暴走したと聞きましたが、これで頭は冷えたでしょうか。シロ』
『……つめたい』
 ぽつりと零れたシロの声は落胆しきっているように弱々しかった。ぶるりと大きく頭を振って露わになった紺碧の目に、先ほどクロにも見えた異物のような朱色は消えている。妙な荒々しさも勢いもなく、耳も尻尾もだらりと下げた姿を横目に見ながら、クロは動かない意思存在に顔を向けた。動きはしないが、意思が消えたわけではないようである。ガラスが砕けるような空虚な音が、液体金属の中から僅かだが聞こえていた。
「クロ! 今のは……随分、派手にやったな」
 懐中電灯を片手に近付く鱗道に気が付いたシロが大きく身体全体を震わせて周囲に水を弾き飛ばした。それでもまだ、一回りは痩せて見える。鱗道は意思存在に懐中電灯を向けてから、すぐにシロの前に立った。意思存在の表面は、鏡のような銀色を失いつつあったからだ。水と混じることなく滑ってしまうからか、冷たい井戸水でより硬化が進んでしまったのか、その場から動く様子はない。
「シロ……大丈夫か?」
 鱗道に名前を呼ばれた時には叱られる覚悟をしたように跳ねた大きな体であるが、かけられた言葉と伸ばされた手にシロはか細い鳴き声を上げた。上目遣いで鱗道を見るつぶらな目は、奥から灯るような紺碧の輝きに満ちている。朱色は一切混ざっておらず、涙ぐんでいるのか被った水の所為か常よりも零れ落ちそうに見えた。
『……うん』
 くぅん、ともきゅぅん、とも判断しがたい子犬の鳴き声に、鱗道はぐっしょりと濡れたシロの頭を叩くとも撫でるとも言える力で掻いてやる。水が更に滴り落ちて、足下の水溜まりに波紋が作られていった。
「なら、いい。猪狩が心配だろ? 自分で確認しろ。そしてそのまま側にいてやってくれ」
 再び、耳ではなんとも判断しがたい鳴き声が上がり、シロが顔を上げた。明確な言葉はないまま鱗道を見上げた顔は意思存在と鱗道を二度程往復する。鱗道はその仕草に頷いただけで、さぁ行け、とシロを送り出した。水溜まりを駆け抜ける足音が離れていく。程なくシロは座り込んだ猪狩に辿り着いて、あのびしょ濡れの身体で擦り寄るか飛び付くかするだろう。
 シロを最後まで見送らずに、鱗道は懐中電灯を意思存在に向け直した。斑点のように浮かんではゆっくりとした流動に飲まれていく鈍色。だが、新たに表面を覆う銀色も、強い反射を返すほどの光沢を有していない。半球状の形を保ったままの液体金属は動かねど、意思は消えていないようだった。文章や会話として体を成してはいないが、いくつかの途切れがちな言葉は鱗道の頭に届いている。
『鱗道。少し、会話を試みてもよろしいでしょうか』
 全身から水を滴らせているクロが、カチカチと小さな足音を立てながら意思存在の前へと進み出た。鱗道はシロの耳を借りている間に、クロと意思存在が言葉を交わすのを聞いている。会話として成立していたかは迷うところであるが、クロに意思存在の声が聞こえていたのは間違いない。鱗道よりもクロの方が、意思存在の言葉がより文章として不成立になりつつあることや、表面に鈍色とヒビが湧いている状態の意味するところを理解している筈だ。
「言いたいことを言えばいいし、聞きたいことを聞けばいい……ただ、準備はさせて貰っておくぞ」
 その上でクロが申し出た内容を、鱗道が無碍にする理由はない。鱗道の言葉を受けたクロは、
『ええ。当然、優先すべき事は優先してくださって結構――ですが、有り難うございます』
 鱗道に向かって嘴を深く下げてから、意思存在を自身の顔の正面に据えた。
『――かつて、私であった貴方よ』
 かなり小さくなったとはいえ、半球状の意思存在は未だにクロでは見上げるほどの高さがある。クロは臆することなくその傍らに立ち、語るという意思と主張を保って嘴を開いた。
『私は貴方と分かたれて以来、貴方が廃棄されたその時にそのまま消えてしまったのだと思っていました』
 クロの硬質な声は大きな緩急もなく、一定の速度と音程を保っている。冷静とも聞こえるし、悲嘆とも聞こえよう。
『わたしが生き物になる なる から すばる すばる いっしょになって』
 意思存在の声は硬質なれど同じ緩急の無さなれど、速度も音程も乱れていた。聞き苦しいとも思える一方で、感情の揺さぶりに翻弄されているようにも思えよう。
『私達は昴のいう生き物にはなれません。貴方も、分かっているはずです』
 クロは意思存在の言葉に返すが、
『すばるが生き物 なら すばるになれば 生き物になれて そしたら わたしを』
 意思存在はクロの言葉に返さない。同じ言葉を使っていても会話として交わることはなかった。クロは静かに意思存在の、鏡のようとはお世辞にも言えなくなった鈍色の表面に嘴を差し込んだ。クロには温度を感じる機構はない。初めて触れる意思存在が体温を保っているのかを知ることが出来ないまま、嘴は殆ど無抵抗に意思存在の中へと沈められていく。
『その方法では、どのような定義であっても生き物になることは出来ません』
 流動し続ける液体金属が滑らかなクロの嘴を流れていく。硬質に変容した異物が時折嘴に触れるからこそ、振動として意思存在の流動をクロは把握出来た。
『すばるののぞみがかなう わたしはすばるののぞみをかなえる だから』
『貴方は手段を間違えました。いいえ、きっと――昴が間違えていたから、貴方も間違えた』
 ぎちり、とクロの嘴が軋みを上げる。嘴を差し込んだ周囲の液体金属が硬く締まり、クロの嘴を絞め上げたのだ。
『すばるはまちがえない』
『いいえ。彼は間違えました。彼の望みは生き物を作ることではなかったのですから』
 この嘴が柔らかければ、きっと笑むように歪んだに違いないとクロは考えていた。どうすればこの微笑みを表現することが出来るだろうか、伝えることが出来るだろうか、などと思考を止めぬままに語り続ける。
『昴の本当の望みは、第三者との接触でした。ですが、昴はそれを恐れていた。第三者との接触は、自分の世界が壊される可能性があるのです。昴がすべきだったのは私達を作ることではありません。覚悟を決めるか諦めるか、という選択です。昴は……どちらも出来なかった』
 頑丈に作られた嘴は簡単に壊されるはずもない。軋みは上げても、それ以上の振動や損傷がクロに伝わることはなかった。そして当然、意思存在がクロの中に侵入してくることもない。全く同じであったものを密封するために作られたのが、この鴉の贋作なのである。
『すばるは まちがえない』
『生き物は間違えるものだそうですよ。昴は生き物であったから……間違いをしたのです』
 クロは液体金属の中へ、さらに頭を押し進めていった。液体金属に頭部が包まれれば光はなくなり、精巧かつ優秀な視覚機構も用をなさない。クロにとっては二度目の闇であった。一度目は、鴉の贋作に密封された直後から、視覚機構を把握するまでの間のことである。
『昴は……浅はかで、臆病で、諦めが悪かった。だから望みを間違えたまま、私や貴方を作ってしまい……貴方には、間違った望みが残ってしまった』
 瞼を作られなかったクロには、単独で視界を閉ざす術はほとんどない。ただ、クロは今、視覚情報を閉ざして聴覚情報に集中することを望んでいた。静かに固まっていく液体金属の流動音を、鴉の贋作に密封された自身と同じであった音を聞くためには、暗闇に閉ざす必要があったからだ。
『おまえは なにを いって』
『私は失敗作であることを受け入れました。昴の望む、生き物になることを諦めました。そして一つでも多くを学び、思考し続けた結果――第三者の接触を受けました。私の世界は壊れつつあり、同時に新たに構築されつつあります。昴の望みに近付いたのは、この私なのです』
 鱗道はクロと意思存在の会話を聞きながら懐中電灯を床に置き、意思存在の側にズボンが濡れることも構わずに両膝をついた。そして、指先から手の平、手首、そして可能な限り腕を付けるようにして肩を大きく捻る。爪の先から表側を白い鱗がざわめきを伴いながら登り、内側を漆塗りの刷毛が走るように熟れた朱色に染め上げていった。
『本来ならば、もっと早く、私達は昴の望みを叶えることが出来たのに』
 クロの静かな、静かな声はやはり一定であり続けた。作られたカラクリ細工のように、決められた曲を奏で続けるオルゴールのように。
『私と貴方は別れたからこそ、第三者として接触し、議論を進め、知識を深め、己とは違う思考を取り入れることが出来たというのに』
『おまえは あなたは わたし わたしだった おなじもの 生き物になれなかった 失敗作』
 意思存在の声は大きく錆び付き、軋む音へと変容し続けていた。放置された時計のように、バネが止まる寸前の錆び付いたゼンマイのように。
『貴方の言葉は一部正しく、一部間違っています。私は生き物ではない。その点は正しい。私は失敗作です。ですが貴方ではない。貴方から切り離され、外部接触を受け、私は貴方ではなくなった』
 全体が鈍色に変わりつつある意思存在から、クロの頭が引き抜かれる。穿った穴は塞がれなかった。クロの頭部を絞めていた周囲は、すっかり硬化してしまっている。クロは細い足による数歩分の距離を取り、
『なら ならば あなたは なに』
『ホムンクルス、人造精霊、フラスコの存在、アクアヴィテ、蠢く水銀、最も多くされた呼ばれ方は、意思存在。昴から最後に与えられた分類は、本物の贋作』
 高々と嘴を掲げた。誇るように、祈るように、捧げるように、他、全てを表す為に。
『そして今後、増えるだろう呼ばれ方は――クロ。クロと呼ばれるのが、私です』
 クロの嘴を見ながら、鱗道は大きく腕を広げた。服の下になって誰の目にも触れないが、白い鱗は背中まで、朱塗りは胸の一部まで及んでいる。首から頬までせり上がった白い鱗の感触に瞼を閉ざし、開いた時には蛇の金眼が黒々ととした瞳孔を見開いて、鈍色の意思存在を眩しいほどに写し取った。
『さようなら、意思存在。私はこの屋敷を出ます。昴の望みだけでなく、何故なら』
 ぶつり、とあらゆる彼方の世界の音が鱗道の頭の中から途切れた。クロの声も意思存在の声も聞こえない。目の前の二人は感情が見た目に出ることがない故にどのような会話を交わしているか、何を思っているかは鱗道には伝わらなかった。意思存在に関しては今後も聞く術も機会もない。だが、クロが受け取っていれば良いことだ。
 一羽の鴉と一個の液体金属は、声のない世界の鱗道からは穏やかに向き合っているように見えている。
 掲げられたクロの嘴が一度、開いて閉じた。硬く硬質な音が地下室に響き渡る。言葉は聞こえないが、一度と言う仕草で言わんとしたことは伝わっていた。話は終わったのだ。
 蛇というより鰐のようだと思いながら、蛇神の顎と化し広げた両腕で掻き集めるように意思存在に触れていく。朱塗りの内側に触れた液体金属に蛇神の力が伝播して割れていく音は、ガラスか薄氷のようであった。既に流動性を殆ど失い一つの塊となっていたので、破片は酷く細かい砂塵のようにコンクリートの床に流れていった。僅かな反射すらも失っているために、意思存在が居た場所はただただ黒々とした低い砂山が残ったのみである。それも、コンクリートの床を浸す水溜まりの流れによって崩されていく。
 鱗が剥がれ落ちていく感覚に任せて目を閉じ、開けば普通の人間の目に戻った視界は暗い。腕からも鱗が剥がれていき、爪先からも白が完全に失せてから、カチカチと足音が鱗道の前に進み出た。
『聞こえていますか、鱗道』
 懐中電灯を拾い上げて照らせば、嘴を開いて語っていると主張するクロの動きがよく見える。鱗道は立ち上がって懐中電灯をクロから黒々ととした砂山に向けた。
「ああ、聞こえている」
『そうですか。何度か呼び掛けたのですが、返事がなかったので。顔まで白い時の貴方は、どうやら私の声が聞こえないのですね』
 クロが翼を動かしたので、巻き起こった風により砂山はさらに形を崩し、散らされていった。鱗道が首を右に傾けると、舞い上がったクロが鱗道の左肩に足を着く。水を弾くクロの身体はすっかり乾いていて、水溜まりに浸っていた細い足だけが濡れているようだ。
『鱗道。作り手の不始末を片付けて頂いたこと、昴に代わって礼を言わせて頂きます』
 硬質な声の感情を読み取ることは難しい。金属や鉱石を響かせ合うような声は、どうしても機械的な音声である域を抜けないからだ。だが、難しいだけであって、少なくともクロ当人の感情は豊かである。その証拠に、鱗道の頭に寄せられた体は震えていた。
「――充分、話は出来たか?」
『ええ。言いたいことは言ってみました。恨み言というものも口にしてみましたが……あまり愉快なものではありませんね』
 鱗道は鴉の体を押し返すように傾いでいた頭を元の位置に戻しながら――そうでもしなければ首が痛むほどの体重がかけられていたからだが――クロの言葉に小さく笑った。
「屋敷を出る理由が、みたいなところで聞こえなくなったんでお前の恨み言は聞き逃したな――なぁ、クロ。お前、どうして屋敷を出るんだ? 昴の望み云々とは違う理由がある、みたいに聞こえたが」
 鱗道の問いかけに、クロはようやく身体を離した。嘴に細心の中を払って鱗道に頭を向けるのは、互いの目を真っ直ぐに見るためであろう。そこまでして視線を合わせてからされた返答は、鱗道にとって意外なものであった。
『どうぞ、好きに解釈してくださって結構です。意思存在には聞こえていたようですし、私は己で言えたことによって、もう満足しているのですから。二度繰り返させるのは野暮、といくつかの書物に書いてありましたよ』
 硬質なれど分厚い本の表紙が閉ざされるような響きが、鱗道の頭に届く。嘴が閉ざされてしまったのであれば、鱗道は短く「そうかい」と返事をするより術がなかった。

       

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Neetsha