Neetel Inside 文芸新都
表紙

グレイスケイルデイズ
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 この夏は、うだるような暑さであった。コンクリートの路面には絶えず陽炎が立ち上り、水平線の彼方まで眩しい程の日差しが照りつける。そんな、熱気に満ちた日々が続いていた。
 「鱗道堂」で気温変化に最も動じないのがクロである。クロは温度感覚を持たず、それに左右されることもない。本人曰く極度な低温はクロの意思が宿る液体金属の動きを鈍らせるし、超高温には液体金属も鴉の器も溶けてしまう。が、気温程度の高温や少々の氷点下ではクロの行動や意思を阻害し得ないとのことだ。
 次点がシロである。本来、霊犬であるシロが気温変化の影響を受けるはずはない。此方の世界に顕現していても同じ事だが、シロは生前の記憶や感覚を引き継ぎすぎているのが問題であった。見た目や感覚による「思い込み」が、シロの体感に影響を与えているのだ。夏の日差しを見れば『暑い』と感じ、氷に触れば『冷たい』と感じる。呼吸などしている筈もないのだが、走り続ければ『息が上がる』し、鼻や口を封じられたり水に落ちたりすれば『息が出来ない』と苦しがる。どれもこれもがシロの「思い込み」であるから、実際にシロが火傷や凍傷を負うことも窒息することもない。が、生前の感覚が強く残った「思い込み」がある以上、シロ当人にとっては気温変化も――普通のイヌに比べれば頑丈なものの――影響がある。
 そして、最も弱いのが鱗道であった。元々、暑さ寒さに堪え性はない。暑ければエアコンの効いた部屋から出たくないし、寒ければコタツや布団から動きたくない。叶うならば、四季などなくなって殆ど春か秋頃の気温で推移してくれればいいと、夏や冬になる度にシロとクロにぼやいている。残念ながら一度も同意を得られたことはないのだが。
 そんなわけで、鱗道の万年床である「鱗道堂」の二階で夏にエアコンが切られることなど滅多にない。鱗道にとって非常に幸いなことに、気温変化の影響を受けないクロと影響があっても頑丈なシロが店番を買って出ている。一人は人間社会の観察、一人は通りがかりとの交流を求めてと、理由はそれぞれであるがお陰で夏の大半を、鱗道は二階の万年床で過ごすことができた。客や厄介事が舞い込んでこない限りは、であるが。

『鱗道。起きてください、鱗道』
 風鈴のように涼しいクロの硬質な声に鱗道は目を開ける。枕元に立っていた大きめな鴉は鱗道の顔を覗き込んでいる。鱗道の視界は立派な嘴で殆どが埋まっていた。
 何かあった時のために、二階の部屋は手のないクロでも開けられるように襖である。その為、枕元にクロがいるのは何も特別なことではない。特別なのは時間帯である。
 クロの嘴を避けて体を起こし、形だけ置いている目覚まし時計を確認して鱗道は顔をしかめた。日付が変わって少し回ったところを時計の針は示している。僅かなカーテンの隙間から一筋も光が差し込んでいないことが、時計が壊れていない証明をしていた。
 がりがりと硬く短い灰色の髪を掻いて、寝起きで乾いた目元を擦りながらクロを見下ろす。クロは鱗道の枕元に立ち顔を鱗道に向け、
『シロの様子が妙なのです』
 と、鱗道が文句を滲ませた声で用件を問うよりも早く、一言告げた。
「……シロが?」
『ええ。先程、急に目覚めて動き出したかと思えば、店の入り口でずっと独り言を言っているのです』
 鱗道が首を傾ければ、ぱきっと乾いた音が肩か首の周囲から上がった。欠伸混ざりの、
「寝惚けてるだけじゃないのか」
 という言葉には、そうであればいいという願望が滲んでいる。しかし、硬質なクロの声はあっさりと鱗道の願望を打ち砕いた。
『いいえ。私には何も見えず、何も聞こえないのでシロの独り言なのですが、会話の様子が見て取れるのです。彼方の世界の客が来ているのではないでしょうか』
 クロの言葉に鱗道は深く深く息を吐いて、寝床を後にする決意を固めなければならなかった。部屋の外は暑いだろう。店を開けている時は雨でもなければあちこちの扉や窓を開けている為に風が通っていて、風向き次第では大分過ごしやすい時もあるのだが、今は未明。一階の窓も扉も全て閉じている。夏の空気が籠もっていることを考えるとなかなか腰が上げられず、夏の気温に一切の共感を持てないクロが『鱗道』と再度せっつくまで、鱗道は一階に下りられなかった。

 エアコンの利いた部屋とは比較にならない湿度と熱気が階段時点でせり上がり、鱗道の心を折ろうとしている。それでも階段を降りきったのは鱗道の後ろを飛んでいるクロから送られる風があったことと、階段を下りれば下りる程はっきりと聞き取れるシロの声があったからだ。
『うん。迷子なのは分かったんだけど……どうだろうなぁ……鱗道って飛べるのかなぁ』
「飛べん」
 居間から店内へ、灯りを付けてサンダルを引っ掛けて進んでみれば、確かに店先の引き戸前にシロが座って首を傾いでいる。ピンッとシロの尖った耳が一層強く立ち上がり、紺碧の目が鱗道を見付けて大きく尻尾を振った。
『鱗道! 鱗道あのね! 迷子なんだって!』
 未明の寝起きの頭に響くシロの大声は鱗道の頭を大きく仰け反らせた。呆れかえったようにクロが近くの棚に両足をつけ、
『本当に……この駄犬はいつになったら声量の調整を覚えるのでしょう』
 と、冷たい――ような気がする、いつもと変わらぬ視線をシロに向ける。鱗道の様子とクロの言葉を受けて、シロが慌てながら口ごもり、ついには耳も尻尾も垂らしてしまったので鱗道は大丈夫だと手を振った。クロの『貴方は本当にシロに甘いのだから』という鋭い言葉を聞き流し、シロの鼻先に目を向ける。
 何もいない。
 そこにはシャッターが閉ざされて暗い引き戸のガラスしかない。が、シロの鼻先は確かに床より少し高いところを向いているし、鱗道が覗き込むと大きな右前足が『ここ』と言わんばかりにガラス戸の向こう側を示す。だが、何もいないのだ。
『見えない?』
 シロの言葉に鱗道は頷いた。近くを見るには老眼鏡が欠かせなくなったが、シロが示すのはそれ程近い距離ではない。
「お前ほど見えないんだ。感じるにも……もしかして、かなり小さいか弱いんじゃないか」
『ふぅん……どうしたらいいかなぁ。鱗道が来て、ちょっとびっくりしてるんだよね。あ、そうだ。ジャンプしなよ、ジャンプ! それなら聞こえるかも!』
 シロが、何も見えない空間に向けて促すように両前足を高く上げる。じっとそこを見続けていても何の変化もないが、コツ、と小さな音が頭に響いた。耳にではなく、頭に直接響く音は紛れもなく彼方の世界の音である。
「ああ、いるんだな」
『聞こえた? 聞こえたって! 良かったねぇ! うん? うん。あのね、鱗道の目がちょっと怖くてね、怖がってたみたい』
 無邪気なシロによる、無邪気な通訳に鱗道はますます眉間に皺を寄せた。人間相手にですら愛想笑いの一つも浮かべない男が、寝起き様で柔和な表情を浮かべられようはずがないというのに。シロは再び、音がした場所に顔を戻すと、
『大丈夫だよ。鱗道はいい人だよ! ちゃんとお話聞いてくれるよ! 偉いヘビガミ様のお手伝いをしてる凄い人なんだから! でもねぇ、君は見えないみたい。だけど、音は聞こえたみたいだからね、ちゃんとどうにかしてくれるよ! 鱗道はいい人だから!』
「シロ。おい、いいから、ちょっと待て。シャッターを抜けて来てるんだから扉も抜けられるだろうが、必要なら引き戸を開けてやる。まず入って貰え。ガラス戸がなければ、もう少し聞き取りやすくなるかもしれん」
 未明からよく回るシロの舌を封じるべく、鱗道はシロの口吻を乱暴に掴んでやや早口で語る。鱗道の言葉を聞いたシロが『そっか!』と明るく返事をし、鱗道の手を振り払って何かがいる先に、
『聞こえたでしょ? 入ってきていいって! 大丈夫、怖いのはいないよ!』
 と、入店を促した。実際に引き戸を開ける前に、シロの顔は引き戸から店内にゆっくりと移動する。シャッターをすり抜けたように引き戸もすり抜けられたのだろう。何かを追うシロの顔の高さからして、そこに居るのは高さが十センチもない、やはりとても小さいのもののようだ。
「入って貰ったんなら……奥の机の上に来て貰え。床じゃ、話をするにも低すぎる」
 鱗道の言葉にシロが元気よく返事を寄越し、『こっち!』と何かを引き連れて店の奥――古い机の一角へ連れて行く。やれやれと肩を落とした鱗道の背にクロが言ったのは、
『風の動きがない一階は、やはり貴方には暑いのですか? 大分、耳が赤いようですが』
「……もし、お前の言葉に含みがあったとしても、今は放っておいてくれ」
 常と変わらぬ一律音声の真意を責めようにも、実際に一階は蒸し暑すぎた。

       

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