Neetel Inside 文芸新都
表紙

グレイスケイルデイズ
-02-

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 殆どの電球を付け終わったクロが、ゆっくりと蔵の一階、天井近くを波打つように飛行している。床や柱、天井などに物理的な危険や異常がないかを確認しているのだ。如何にも几帳面なクロらしい飛行を見上げていた鱗道に、
「そういや、なんでお前が神社の蔵を改めることになってんだよ」
 と、鱗道に続いて蔵に足を踏み入れた猪狩が問い掛けた。そう言えば話していなかったか、と鱗道は猪狩を振り返る。
「この神社は、親父よりも前から縁があるらしくてな。神社じゃ範囲外の相談事を紹介されることが時々あるんだ。こっちからも話すことがあって……俺が質屋を開けてからだと、神社の方が最適な客や品なんかを相談させて貰ってる。詳しいことは俺も知らんが……少なくとも俺や親父とは持ちつ持たれつの関係なんだ」
 鱗道達が足を踏み入れた蔵の持ち主は、H市を囲う山間にある古い神社である。規模が大きな物でも有名な物でもないが古くからH市にあり、特にお膝元とも言えるS町出身者となれば初詣や縁日の他、節目の行事などで世話になって馴染み深い。また、特に男子となれば、猪狩は言わずもがな、鱗道ですら経験があるように、この神社や境内で肝試しや度胸試しに挑んだことがない者などまずいないだろう。
「それと、ここは手入れが行き届いてて……そういう所の空気は何というか……清浄で、整ってる。そういう空気はシロの抱えてる穢れを抑えたり清め祓ったりもしてくれるもんで、散歩道にさせて貰っててな」
 境内を散策するのは鱗道だけに限らない。子ども達の遊び場でもあるし、些細な相談事にも乗って貰えるとなれば足繁く通う住民も多いのだ。ただ、それ程地域に溶け込みすぎてしまったせいで――世話になっている鱗道も神道には詳しいわけではないから――この神社の正式名称や何を奉っているかなどを知っている者が殆どいないのも実情である。
「それで、シロの散歩中に頼まれたんだ。狸爺さんに頼まれたんじゃ断れんだろ。まぁ、断る理由がないが」
「はァ? 狸ジジイに?」
 猪狩が酷く驚いた顔で、素っ頓狂な声を上げた。何をそんなに、と鱗道が首を傾いだ直後にクロから、
『一階には異常が見られませんので、このまま二階を巡回してきます』
 と、声をかけられて視線をクロへと向けた。二階に続く階段の前で停滞していたクロは鱗道と目が合うと、狭い階段を素早く飛び上がっていく。
 ああ、という零れ落ちたような短い返事は、結果として猪狩とクロの両方に成立するものとなった。


「久し振りだねぇ、鱗道さんや」
 境内の奥、普通の参拝者や散歩目的の近隣住民はまず覗かないような社の裏側を歩いている鱗道とシロに、老いた神主はにこにこと笑みながら声をかけてきた。実際に久し振りに聞く声である。鱗道はどうも、と短い返事をしながら頭を下げて、人懐っこいシロは大きな声でひゃんひゃんと鳴きながらリードの先を握る鱗道を引きずるように近付いていく。
 神社の正式名称や奉っている神について詳しく知る者が少ないように、神主の本名についてもあまり知られていない。H市S町で「神主」と呼ばれるのは、この山間にある神社の神主に他ならないからだ。また、そこに「狸」と付け加えれば、この老いた神主の他にいない。
 背も低く、鼻も顔もひたすら丸い。剃られた頭もまた丸く、笑顔は柔和を通り越して間の抜けたように見られるだろう。だが、そんな風貌に反して、悩みを抱えて神社を訪れた参拝者には多くを語らせることなく的確な助言や背中の一押し、心得を伝えるだけでなく予知めいた注意をする時がある。肝試しを行う不届きな子ども達に対しては、多少の目こぼしで楽しませた後に一人残らず見つけ出して説教をし、間違いも迷いもなく一人一人を家まで送り届けてみせた。憎まれ口と外見の愛嬌の両方から「狸」と枕詞が付くようになり、狸神主や狸爺さんと呼ばれて親しまれている。稀に、狸ジジイと憎らしげに呼ぶ者もいるが、大抵は狸神主に説教や折檻で痛い目を見た元悪童である。

 鱗道が狸神主の世話になり始めたのは、父親が死んだ後――蛇神の代理仕事を担うようになった時からである。父親の死後、葬儀の後に間もなく狸神主は鱗道を尋ねて、「困ったことがあれば相談しなさい」と静かに告げた。狸神主は鱗道家が蛇神の代理仕事として〝彼方の世界〟に関わっていることを――狸神主から明言されたわけではないが――承知しているようだった。
 神社の関係者がこの地に棲んでいる一柱たる蛇神や代理である鱗道家についてどれだけ把握をしているのか、実際の所を知る手段はない。蛇神に関しては記録が残っていないが、神社は記録が残っている分を辿ると、双方共に比肩するほど長くこの地にあるものだ。神社は神社で奉っている神がいて、神道という宗教である以上、交流や協力にも限度があっただろう。また、どの代でも良い付き合いをしていたとも限らない。だが、少なくとも鱗道の父親と狸神主は懇意にしていて、鱗道にも同じように接点を持ち続けて貰ったのだ。実際、中学二年の時から代理仕事を担うことになった鱗道は、人ならざる物の接し方などの知識面でも生活面でも、狸神主に何度も助けられている。

 なんてことのない日常会話に、小さな小さな花が咲く間、鱗道は狸神主に視線を合わせるように自然と膝を折っていた。元気にしているかね、シロくんも変わりないかね、質屋の方は順調かね――と、殆どは狸神主が喋っていたが、鱗道は相槌や返事を欠かさない。そして、
「そうそう、それでね、鱗道さん。一つ、頼まれ事をしてくれんかね」
 と、狸神主は袂から古い鍵を取り出して鱗道に差し出した。聞けば、境内よりも更に奥の山中に、すっかり手付かずになってしまった古い蔵があるという。
「何代も前に、うちの神社は一度焼けていてね。蔵にはその時に避難させたものがあるのだが、お恥ずかしい話、殆ど手を付けていないので中がはっきりとしておらなんだ。息子も頑張っているんだが、なかなか手が回らなくての」
 息子、というのは数年前に狸神主から後を継いだ現職の神主のことである。鱗道には小中高と学校の後輩に当たる人物で、父親である狸神主にはあまり似ていない。性格は真面目で几帳面、細面の長身であることから、対照的に狐神主などと呼ばれていた。こちらはこちらで、その真面目さから慕われている神主である。
「かなり古い蔵だからね、建て替えなども考えるだろうし、なにより中を改めねばならん。そういうわけでね、鱗道さん。息子には儂から話しておくから、都合の良い時に頼まれてくれんかね」
 鱗道に断る理由はない。シロの穢れを抑えて鎮め、清め祓える空気を持つほど清く整えられ、先祖代々、何らかの形で関わりがあるだろう神社からの頼みである。更には個人的にも世話になった人物だ。助力を惜しむはずもない。
 ただ、鱗道はすぐに鍵を受け取らなかった。狸神主が本当にただの確認を鱗道に頼むはずがないからだ。〝彼方の世界〟と〝此方の世界〟の境界を跨ぐ、蛇神の代理である鱗道に頼むだけの理由がある。重要なのは、理由や内容ではなく、
「……それで、中にある物はどうするんです?」
 狸神主が何を望んで、鱗道に頼んでいるか、という部分だ。狸神主は鱗道の言葉を受けて、小さな体を大きく揺すって笑った。
「今では殆ど手付かずの蔵の物じゃから、諸々の判断も含めて鱗道さんにお任せしようと思ってましてな。お眼鏡にかなうものがあれば持ち出してくださっても構いませんわ。気になる物や持て余す物があれば息子に押し付けてやってくだされ」
 再度差し出された鍵を、鱗道はしっかりと受け取った。鍵は非常に古い物で錆びに覆われ、冷たく重い。
「つまるところ、中の物に関しては万事、貴方の御存意に頼みます」
 柔和が過ぎて溶けたように見えるほどの笑みを浮かべ、狸神主は鱗道に深く深く頭を下げた。


 話をしながら、鱗道は蔵の一階をぐるりと歩き回っていた。一階にあるのは大型の古い農具や庭整備などの道具の他は一見して空の棚やいくつかの行李だけである。一つ一つに触れてみながら〝彼方の世界〟の意思や力を確認するが、ここにあるのは全て単なる物、らしい。
「で、鍵を預かって。それからお前に連絡をして、日取りが決まったんで神社に連絡して、了承だけ貰って――」
 二階に上がったクロからの報告はない。階段から二階を見上げようとしたところで、大抵の場合話を一方的に聞くとはない猪狩が、一切口を挟まなかったことに気が付いて振り返る。猪狩は蔵の出入り口近くに陣取り、屋内に入って不必要になったサングラスを畳んで胸ポケットに差し込んでいるところで手が止まっていた。口を真一文字に閉ざして押し黙っている顔色は、はっきりと青ざめている。
「どうした。顔色が悪いぞ」
「どうした、じゃねぇよ……お前、本気で分かってねぇな」
 猪狩の足は仁王立ちから、一歩引かれている。今にも蔵から飛び出そうともしている姿勢も、青い顔色も態度も猪狩には珍しいものだ。そんな有様を呈させる内容が、今の話のどこかにあったのだろうかと鱗道が眉間に皺を寄せて本気で考え込んでいると、猪狩は覚悟を決めたように強く目を閉じた後、
「お前が狸ジジイに会うのが久々だと思うのは当然だ。狸ジジイは去年死んだんだからな!」
 目を強く見開いて、重苦しくもはっきりと言い切った。
「……あ」
「あ、じゃねぇよ! さてはお前、はっきり見えすぎた上にシロも無反応で気が付かなかったと抜かす気だな! 学生ン時もあったよなァ! 誰もいねぇところで平然と喋り出して、ついさっきまでここに人が、ああアレは幽霊だったのか、なんて言い出したりしやがったことがよ!」
 猪狩の人差し指が強く鋭く、非難の意思を持って鱗道を何度も指し示す。鱗道は反論も出来ずにただ髪を掻くばかりだ。言われて思い返せば確かに、狸神主は去年に亡くなっている。遺族も認める大往生で、葬式には鱗道も参列していた。ただ、幼少時から神社の神主と言えば狸神主である。狸神主の姿を神社で見掛けることは当然のことであったが故に、違和感を覚えられなかったのだ。
 また、猪狩の言う通りあまりに自然に会話が成立していたことや、シロが通常の人と接する時と何ら変わらなかったことも原因である。こうして鍵まで手渡されていて、神社に連絡を取った時にも少々経緯を聞かれただけですんなりと話が通ってしまい――狸神主はすでに死者である、と言うことに気が付く機会をことごとく逃していたようだ。
「悪いな。グレイ。俺はユーレイ沙汰はゴメンだぜ」
 力仕事を担当すると意気込んで結んできたのだろう髪を解いて乱す猪狩に対し、
「依頼主が幽霊だったとしても、この蔵に幽霊がいるわけじゃない」
 と、鱗道は普段通りの掠れ声で言葉を返す。嘘をつく必要はなく、言いくるめるつもりもない。話を下りるというのであれば、強く引き留める意思もなかった。ただ、幽霊沙汰と言われれば違うので、それは訂正しようというだけである。
「一階は静かなもんだし、今、俺が触れて確認したのもただの物だ。二階はクロが飛んでて、少し前から賑やかなんだが……幽霊とは感じ方が違う。幽霊ってのは、未練や願望なんかの、留まってやろうっていう意思が混ざってるもんなんだが、そういうもんがない。火事の物を避難させたのは何代も前だって話で、その時の物があるとしたら年代物だろう。と、なれば、殆どが付喪神だ」
 鱗道が二階を覗き込もうとした時にはすでに、二階から幾つかの声が届き始めていた。クロから報告がないのは、クロでは聞き取れないからかもしれない。複数の声が発する言葉は、鱗道でもはっきりと聞き取れないのだ。ただ、言葉が聞き取れずとも、声の質から感じ取れるのは侵入者に対する驚きや興味ばかり。〝此方の世界〟の死んだ何かの意思が混ざっているような様子はない。最も、鱗道自ら二階に上がって確認しない限り、絶対の断言は出来ないが。
「付喪神ってのは、物のユーレイじゃねぇだろうな」
 天井を見上げている鱗道を、猪狩は疑り深い眼差しで睨み付けている。鋭い視線ではあるが、顔色の悪さが勢いを完全にそぎ落としていた。
「昔、お前に引っ張り回されてた時にもいたが、その時には説明してなかったか……付喪神ってのは、物が意思を持ったもんで――ああ、うん、そうだ。幽霊じゃないし、物自体はお前でも殴れるもんだ」
 今、この瞬間、猪狩が欲しているのは詳細な説明ではなく安心である、と気が付いた鱗道は一度言葉を句切って断言を挟んだ。判断は正しかったようで、猪狩は再び目を閉じて頷いた後に、言葉を促すように手を振る。その腕はすぐに力強く頑なに組まれてしまったが、目は閉じていても耳は開いている。
「クロは厳密に言うと違うらしいが――昔話に出てくるみたいに物そのものが意思を持ったもんだと思ってくれ。呪いや幽霊みたいな生き物由来じゃないし、俺達とは感覚や価値観が違うこともあるが、年代物だと人間の生活を知ってるヤツが多い。基本的には安全だし、話が通じる」
「俺達とは違うもんだが、俺達のことはよく知ってるってことか。基本的に、ってことは例外もあるんだろ? まぁ……知ってるのと従うのが両立しねぇのは、人間でも同じか」
 鱗道の言葉を咀嚼し終えて腕組みを解いた猪狩は、顔半分を覆うように手で撫で下ろした。乱れた髪を掻き上げながら深く溜め息を吐いた頃には顔色がすっかり戻っている。
「その通りだ。そんなわけで、ひとりでに動くものがあったら付喪神だと思って、あんまり不用意に触れんでくれ」
「力仕事担当で呼ばれたにしちゃ、面倒くせぇ注文だな」
「お前も――いや、お前は気にしないかもしれんが、よく知らん相手にベタベタと触られたら嫌なもんだ。蔵にずっと人の手が入ってないとなれば時代のズレがありそうだが……大昔って訳じゃなければ擦り合わせが出来る。まずは話をして、お前に頼むとしたらその後だ」
 猪狩は腰に両手を当てて、引いていた足も戻していた。鱗道の説明を受けて「今回は幽霊案件ではない」ということに、猪狩なりに納得したのだろう。恐らく、留まることを選んだ一番の理由は、
「まぁ、殴れるってんなら、少なくとも抵抗は出来るってわけだしな」
 ――との、一点にあるのだろう。鱗道は変わらぬ友人に呆れながら、
「抵抗しなきゃならん事態にするつもりはないぞ。俺は、叶うなら全ての事を穏便に済ませたいんだ」
 そう言い終えた鱗道が瞬き一つを挟む間に、猪狩は肩を揺らして声を殺すように笑っていた。何が可笑しい、と鱗道が不機嫌そうに言えば、
「お前も、昔から変わんねぇよなァ」
 と、喉で笑うばかりだ。ずっと睨み付けていると、猪狩は笑みを抑えきって絵に描いたような敬礼を向けてくる。すでに、普段通りの猪狩を取り戻したようだ。現時点で鱗道が把握していない幽霊が出て来ない限り、帰るだのお断りだのと言い出すことはないだろう。事の面倒さを考えると、幽霊が出たとしても猪狩に分からないままであって欲しいところである。

       

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Neetsha