Neetel Inside 文芸新都
表紙

グレイスケイルデイズ
-09-

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 バシン! と上がった音の痛々しさに、鱗道は思わず目を瞑った。猪狩が自身の両手で思いっ切り頬を叩いたのである。次いで唸り声が聞こえ、鱗道は恐る恐る目を開けた。目線の先では、猪狩が歯を食いしばって唸りながら茶髪を掻き混ぜている。一種の錯乱に見える行為も、短い間。
「……これだから、準備もせずに臨むのは嫌なんだよ、畜生め」
 苦々しく噛み締めるように、低く発せられる声は歯切れが良い。大きな両手が前髪を掻き上げて顔を晒す。自ら叩いた頬が赤いので、普段よりも精悍さに欠けていたが、強気に笑んでみせる顔には似合いに思えた。
「マジ格好悪ぃな、くそっ! グレイ! お前、やっぱり飯も奢れよな!」
 準備不足の危惧や不安、非日常における緊張や疑心の全てを振り切ったわけではない。だが、振り切ろうとしているのは見て取れた。横目で鱗道を笑う目は如何にも意地が悪そうで、そのままの視線が〝藪〟へと向けられる。前のめりだった姿勢を直し、立てた左膝に肘を置いて額を支える。頭部の位置を保つためというより、髪を抑えるためのようだ。
「……ああ。わかった。飯だけでいいのか」
「当然、酒もだ。遠慮しねぇからな」
 鱗道もまた、隣に胡座をかき直した。足の上で手持ち無沙汰な両手を組めば自然と背中が丸まってくたびれた風に見られようが直そうという気はない。そもそも、鱗道はくたびれた中年なのだ。肩も凝るし腰も痛む。新聞やスマートフォンを見る為には老眼鏡が必要だ。隣の友人が異質なのである。
  財布の中身を心配し始めた鱗道の眼前に、猪狩の指を三本立てた手が突き付けられた。
「ちゃんと答えがあるってんなら、関係する生き物ってのには見当が付いてる。怪しいって段階なら三択、グレイの話を聞いて二択、んで、さっきの〝藪〟の答えで一つに絞れた――が」
 言葉に合わせ、指が三本から二本、一本と折られていく。それも最後に濁った言葉で折られて緩い拳になって離れていく。鱗道が猪狩の手から顔へ視線を動かすと、
「俺は箱の中身を当てるつもりで絞ってたんで確定が出来なくなっちまった。俺じゃまるっきり分からねぇ領分の話になっちまう。んで、ゴタゴタする前の話に戻るわけだ。お前に聞きてぇことがある」
 猪狩の目は困り切っているように力が抜けていた。肩肘張るのも疲れたと言わんばかりに、盛大に溜め息さえ吐いてみせる。
「なぁ、グレイ。お前は、〝藪〟はなんだと思う? 付喪神でも幽霊でもねぇなら、お前のカミサマと似たもんか? お前のカミサマについても、大雑把にしか知らねぇけどよ」
 猪狩の言葉は不明瞭で終わった。尋ねられて、鱗道は組んだ手を解いて顎を掻く。鱗道自身も〝彼方の世界〟の存在は自分の経験や蛇神から聞き及ぶ範囲で区別をしているだけだ。それも厳密な区分は存在しておらず、蛇神も人間に代理をさせるにあたって円滑に話を進めるためにそれらしい言葉を当てているだけのものもある。その分類を尋ねられて何の役に立つか、鱗道には知る由も想像も付かないが、〝藪〟が付喪神ではないと気が付いた時から考えていた内容を整理するには良い機会だ。
「蛇神のような、一柱や神に相当する存在じゃない。本人も否定しているし、〝藪〟は蛇神を御柱様と呼んでる。序列というか……俺達の感覚で言うと地位、かね……それは、土着神や土地を治めるような存在より低いようだから……恐らく、精霊の一種なんだと思う」
 セイレイ? と猪狩の片言の繰り返しに、鱗道ははっきりと精霊と言って返す。思考の整理だけではなく、猪狩に説明しなければならないとなると骨が折れそうだ。考えることに集中するため、鱗道は目を閉じる。
「〝彼方の世界〟生まれの力の塊が、〝此方の世界〟の物に宿ったもんだ。ざっくりと言えば……ゲームなんかによく出てただろ? 自然の力が形を持って云々って言う……イメージはそれでいい。付喪神は長く使われた物に力が宿ることで始まるが、精霊は力に始まって物に宿るんだ。系統は似てるが、純粋に力から始まってるせいか付喪神より強力なもんが多い。蔵の付喪神が〝藪〟の言うことを聞いてるのも合点がいく。
 〝藪〟の箱を包んでる帯だが……日用品にしては高級そうだ。蔵は神社の物だし、火事で持ち出されるほどのものだから、〝藪〟の掛け軸も帯も、元は奉納品じゃなかろうか。奉納品として込められた強い願いや祈りに、〝彼方の世界〟で集まった力が惹かれて掛け軸に宿って精霊になった。だから〝藪〟の正体と掛け軸の絵は関係があって……問いが成立する」
 脳内の引き出しから引っ張り出した知識を並べていく鱗道が、ようやく目を開けるとにやつく猪狩と目があった。
「出典はカミサマとクロのどっちなんだ? 鱗道堂さんよ」
「聞いておいてからかうな」
 それもそうだ、と言うように猪狩が一笑いし、
「その精霊、ってのはなんか生き物に関係すんのか?」
「俺も数に出会ったわけじゃないから断言できんが……葉っぱの塊かでかいバッタみたいに感じるもんやら、最近ならホタルみたいなモンで結局なんだかわからんヤツもいたし……目的は分からんが、それを捕まえてた笹の虫篭に足が生えたヤツは穢れを持ってたが……成り方は精霊と同じだろう。全部山に居たもんだが、生き物と言えば生き物っぽかったな。
 蛇神に聞ければ確実だが……願いや祈りといった意思に惹かれた力が自分の形を対象に寄せることは良くあることだ。だから、奉納品に精霊が宿ったとして、奉納品に込められた願いや祈りが生き物絡みだったなら……〝藪〟の姿形がその生き物に似ても不思議じゃない」
鱗道の言葉を、猪狩は随分と熱心に聞き入っていた。このように〝彼方の世界〟について詳しく話すのは学生の時以来であったかも知れない。昔より真剣に聞いているような気がするのは、鱗道の説明も昔よりは達者になったからだろうか。それとも――猪狩は、鱗道の仕事を手伝う報酬に飯の種を要求していた。この話も、何らかの形で紙面に載り、猪狩や猪狩の家族の腹を満たすのだろうか。
「……そういうことなら、俺が考えてたのは無駄骨にならずに済みそうだな」
 猪狩は顔の付け根を指で掻いて、じっと〝藪〟を見た。帯に包まれた箱は、ずっと沈黙している。
「俺は、箱の中身をカイコだと考えてた」
「カイコ? ああ、あの……虫の?」
 猪狩の顔を離れた指は手首を捻りながら鋭く音を鳴らし、そのまま改めて三本指を立てて鱗道の視界に割り込んだ。
「まず、〝藪〟はカミサマ限定のもんじゃなく、マイナーな存在でもねぇってのは確認済みだ。んで、クロを捕まえてんのは和紙だとか霞だとか薄っぺらいもんで、糸がうんたらなんて話が良く出てる。糸を出すものなんてミノムシとクモ、カイコぐらいなもんだ。が、〝藪〟は自分の糸はミノムシほど細くねぇなんても言ったそうじゃねぇか。ってことは、ミノムシは除外だ」
 その内一本が折られ、
「クモかカイコかってとこだが、どっちもミノムシより糸は太ぇ。コイツを絞るのはさっきの、姿も形も変わるが呼ばれ方は変わらねぇっていう〝藪〟の言葉だ。クモは卵から孵ってもずっとクモの形のままだが、カイコは変態する。イモムシ、サナギ、成虫と姿も形も変わるが、全部カイコで通じるだろ? 形が変わっても、呼ばれ方が変わらねぇのさ」
 さらに一本が折られ、残った一つは、
「カミサマが火事のトラウマ……ってのは俺にはピンときてねぇ。ただ、、カイコは完全に家畜化された虫で、野生じゃ自力で生きられねぇ。その点が蔵から出されるのは死ぬと同じってのと合致する。
 更に、ヘビのカミサマやイヌのシロをやたらと持ち上げるのは、ネズミ避けになるからだろうぜ。蔵の厄除けやネズミ避けのお守りに、ヘビやイヌは書かれてることがある。聞けば、ネコも御ネコ様なんて言うかもしれねぇな。クロを嫌うのは、カラスなんかの鳥はネズミに並ぶ天敵だからだ。そりゃァ、毛嫌いするってモンだぜ。
 ついでに言えば、掛け軸の表装――飾りン所には絹を使うモンもあるし、あの帯ももしかしたら絹物かもな。自分の身を守る為ってのもあるかも知れねぇが、繭に籠もってるみたいで安心するってのもあるんじゃねぇか?」
 自身の記憶や知識を思い返し、繋ぎ直し整え纏める暗示のように、猪狩の指が糸車を回しているかの如く宙でくるくると回される。猪狩の無骨な指では大雑把に綿アメでも掻き集めているようというのが率直な感想であるが、カイコの話をしているからこそ糸を手繰るようと言った方が相応しいだろう。
「お前……色々と詳しいんだなぁ」
 舌を巻く鱗道に、猪狩はいかにも得意げな、されどくすぐったがるような笑みを浮かべ、足下近くに置いていたスマートフォンを指で示す。今は、画面に何も表示されていないが、
「文明の利器ってのは、使ってなんぼだぜ。鱗道堂さんよぅ」
 思い付くことや可能性を調べるなり、確認するなりと機会や隙を窺って操作していたのだろう。それでも、いつの間にという思いが強い。操作しているのを目の当たりにした記憶はないし、直近では鱗道が目を閉じて話している間くらいだろうか。鱗道もスマートフォンは持っているが巧みにどころか、写真を撮るのと決まった連絡以外に使った例しが殆どない気がする。宝の持ち腐れと言われても仕方がない。
「俺に思い付くのはここまでだ。箱ン中にカイコが入ってると思ってたんだから、そんなもんだろ? ただ、箱に入ってるのが掛け軸で、絵柄当てとなるとお手上げだった。普通、カイコなんざ幼虫だろうが成虫だろうが掛け軸の画題にするなんざ聞いたことがねぇ。が、お前の説明で合点がいった。奉納品って線は、俺は考えつかなかったからな」
 思考の糸車を回していた指が、鱗道の額を指してピタリと止まる。ここからはお前の領分だろうと言いたげな指に言葉に表情に、と鱗道は投げられたバトンを受け取って考え込む。猪狩のように流暢でなくとも、軋みを上げつつ何とか糸車を回してみれば――
「……ああ、養蚕の繁栄祈願か。それなら、カイコが描かれていてもおかしくない」
 共に収められた帯が〝藪〟に献身的なのも、多くの願いが〝藪〟の宿る掛け軸に乗せられていたからであることは想像に容易い。それだけの願いを持った掛け軸に〝彼方の世界〟の力が宿ったとすれば、蔵一つを治めるほどの精霊であるのも頷ける。
 だが、それ程の奉納品が、このような蔵の片隅に放置されているというのは妙な話だ。奉納品であり、精霊である〝藪〟が火事の恐怖を忘れられずに出たがらないと言っても、今までの歴代神主が誰も出そうとしなかったのか――あるいは、誰も問いに答えられなかったというのだろうか。だが、それで放置するだろうか? 別の手段を探りそうなものであるが。
「だろ? それなら、カイコはほぼ確定で良いだろうぜ。が、カイコで正解! ってのは妙な言葉遊びで引っ掻き回すにしても簡単すぎらぁな。何か、他に描かれてるモンがあるんじゃねぇかと思うわけだ」
 猪狩の舌の回りは非常に良い。鱗道が返した「味方だ」という言葉が様々な――少なくとも、この蔵の中での葛藤を吹っ切るに足りたのだろう。だからこそ、だろうか。臆病さと裏表の慎重さを併せ持つ男が妙に平然と〝藪〟の問い掛けだけに集中していやしまいか、と引っかかる。
「んで、他に描かれてるモンってのがどうもなァ。他に、何個の画題が書かれてるかも分からねぇし、奉納品も掛け軸も俺は縁遠いから見たこともねぇし、調べても出て来ねぇ。そういうもんは、お前の方が目にしてんじゃねぇか? なんか、思い当たる節はねぇかよ」
 猪狩の言葉は、鱗道を質屋の主人と蛇神の代理仕事を担うものとの両方を見込んでの言葉である。引っかかりは残りつつも、鱗道は猪狩に振られた質問を考え始めた。掛け軸は厄介な代物としても単なる質草としても店に持ち込まれたことがある。数は少ないが、そのいくつかを広げ――あるいは勝手に広がって絵柄を見る時に、クロが必ず口にする日本画の定番とやらはなんであっただろうか。クロの手を借りられれば早いだろうに、と思いながら腕を組む。美術や芸術に疎い鱗道でも聞き覚えのある言葉であった筈なのだが。
 しかし、日本画の定番は果たして奉納品にも通用するだろうか。掛け軸に限らないが、奉納品には殆ど触れたことがない。蛇神の代理仕事は殆どが領地内であり、シロの一件のように外に出向くのは本当に稀なことだ。そうなれば蛇神の領地内の神社など数は知れているし、大体は神社がしっかりと管理している。
 ささくれのように、思考がまた別の疑問を引っ掛けた。大体の奉納品は、神社がしっかりと管理している。この神社は、普段の清浄な空気からしてそう言ったものを蔑ろにしていない筈だ。で、あるのに何故か〝藪〟は蔵の中に閉じこもり放置されることに成功している。神社の関係者であれば奉納品そのものを把握している筈だし、年月が記録や記憶を曖昧にし、問い掛けそのものが不意であって問いに答えられなかったとしても、やはり他の手立てを考えなかったことが妙なのだ。狸神主も幽霊になってから、鱗道に頼みに来ている。それは、何故だろうか。
 狸神主に頼まれたという話をした時、〝藪〟は『糸が外れた』と口走った。それは猪狩にも話した記憶がある。猪狩も、その言葉は聞いたはずだ。だが――それについて、一切触れていない。蔵に入って間もない頃には「何故、死んでから頼みに来たのか」と訝しんでいた男が、疑問の答えになり得るものを目の前にして追及もしなかった。まるで、見えていないかのように、聞き流したかのように。
「――猪狩、お前」
 軋む鱗道の糸車が、今更ながら可能性に辿り着く。猪狩であればもっと早く、その糸を手繰っていたはずだ。なんなら、問いの前後――決まりの説明の最中にでも、確実に気が付いて疑念を取り除くはずだ。明らかにするはずだ。
 現に、一度は触れている。問いをかけられるより前、猪狩に状況説明をしている時に、「クロがどんな目に遭うか分からない」と、猪狩は鱗道を責めたのだ。だが、それっきりである。言い合いは〝藪〟によって中断され、鱗道と猪狩の二人がかりで問い掛けに挑むことが許されて――
「問いに間違えた時の、代償について確認したか?」
 ――ただの人間には気兼ねが要らぬ、妙な鴉より悪戯しやすいと、薄布一枚で隔てられた一瞬があった。
 鱗道の言葉を聞いた猪狩が、呆気にとられたような表情に変わり、更に瞬きを一度挟んでから顔をしかめた。頭痛を抱えたように右手でこめかみ辺りを押さえて、
「グレイ、お前」
 自分が言う言葉が信じられないというように、顔面蒼白の有様である。
「今、俺に、なんて言った?」
 鱗道もまた、背筋に氷柱を差し込まれたような強烈な冷たさを感じていた。猪狩は鱗道の声を聞いている。聞いてはいるのだが、言葉や内容を理解できなかったのだ。そして、理解できていないという自覚がある。鱗道は問いを繰り返さなかった。視線を〝藪〟へと向ける。煌びやかな帯の中に鎮座する煤けた木箱。笑うかのように揺れることも、覗くかのように開くこともなく、
『申し上げたはずであろ。代理殿。人間の方が悪戯しやすい、と』
 華奢で陰気な声が、ねっとりと笑うかのような声を鱗道の頭に塗り込めるように届く。
『誤解めさるな。問わせまいとしたのは一時のこと。いずれ明らかにするつもりではあった。ある程度、その機会は妾が計ろうとしただけよ。卑怯と謗られようがこれも妾の策の内。それに、そちらにも悪くない機会を設けるためでもある』
 カルタは今までの〝藪〟の言葉を表していない。ひっそりと〝藪〟がカルタに言いつけていたのだろう。その証左でもあるように〝藪〟は、
『カルタや。今度は捲っておやり。これよりもう一度、退く機会を与えよう』
 カルタに呼び掛けてから言葉を続け、カルタは従順に言葉を表す。音を立てて捲れていくカルタを猪狩の目が追っていた。言葉は、わざと焦らすかのようにゆっくりと、カルタの捲れる速さに合わせて鱗道に届く。
『誤答の代償をこれより話す。聞いた後、どちらか一方は退いても構わぬ。下階に降りれば退いたと見なし、問いに参加はせられぬが、妾も代償を求めはせぬ。退くは、これが最後の機会ぞ』
「……そういや、聞いていなかったな。聞こうとも思ってなかったぜ」
 これは猪狩の独り言であった。忌ま忌ましい感情の矛先は、〝藪〟より猪狩自身に向けられている。何故という所までは考えが及んでいないのだろう、想像も出来ないのだろう。数多の〝彼方の世界〟に触れてきた鱗道ですら、この期に及んでようやく朧気な輪郭を掴んだ程度だ。ただ、朧気な輪郭からですら、残酷な形状をしていることを察していた。
『きおく』
 カルタはたった三文字を猪狩に向けた。それを読んでも余るほどの間を挟んで、
『妾が頂くのはこの蔵に関わる記憶。この蔵に辿り着いた記憶。この蔵に辿り着く可能性がある記憶。虫食いのように粗くなどは済まさぬ。徹底的に残さず蝕み潰し、妾の糸で縛り上げる』
 ゆっくりゆっくり丁寧に、文章は綴られていく。しかし、カルタよりも更に丁寧に、
『代償について問わせなかったように、妾にはそれが可能であることはお分かりであろ?』
 鱗道に〝藪〟の声は、泥水のように浸透していく。
「はっ――そうかよ、俺が全然聞こうと思ってなかったのは、お前のお陰ってわけかよ」
 猪狩の言葉も声も、快活なままである。妙な怒りや苛立ちもなく、思考の及ばない理外の出来事を体感したのもあって言葉通りに受け取っているのだろう。
「でもまァ、随分思わせぶりに言った割には大したモンじゃねぇじゃねぇか。お前が命を賭けてる、みてぇなことを言ってるもんで、命でも取られるんだと思ってたぜ」
 ただ、その軽妙な言葉も、尻すぼみに薄れていく。と、言うのも視線をやった先の鱗道が、両手で顔を覆っていたからだろう。どうした、と猪狩が問うまでもなく、
「すまん、猪狩」
 鱗道の声は常より掠れて乾き、
「一階に下りてくれ」
 大きな鉛をぶら下げたかのように重苦しい。
 自らの言葉や声が発する重さを、鱗道は分かっている。痛感している。呻き声を上げようとするのをなんとか堪えながら、言葉を絞り出さなければならないことも分かっていた。当然、猪狩が、
「はぁ? たかが、ここに来たってことを忘れるだけだろ? 酔って忘れちまうのと何が違ぇよ」
 聞いてくるからだ。不可解だ、理解が出来ない、補足しろ、と。それが鱗道の役目であると、鱗道自身分かっている。だからこそ、鱗道は自ら言葉を振り絞った。
「違う。全く、何もかもが違うんだ」
 〝藪〟は策だと言った。代償について猪狩に仕掛けて問わせなかったことも、明らかにする機会を計っていたことも。そして、それらについてカルタには捲らせずに鱗道にだけ知らせたのも策の一環――
「狸爺さんが……死んでから俺に頼んで来た理由が、その代償のせいなんだ。死ぬどれだけ前の出来事かは分からんが、あの人は問いに正しく答えられず、記憶を奪われて死ぬまで思い出せなかった。一対一で取られた記憶が、それ程のもんなんだ」
 ――ただの人間である猪狩に、鱗道が説明する義務を負わせるための、この問い掛けから退くように説得させるための策なのだ。〝藪〟は沈黙を続けている。たった一言、たった一音とて漏らさない。全て、鱗道に言わせるつもりなのだろう。それが、最も効果的だと判断したからだ。
「ここに来たことを忘れるだけじゃない。ここに辿り着く可能性も、なんだ。お前をここに連れてきたのは俺で……俺も蔵に関する記憶を失えばいいかもしれん。が、俺が蛇神の代理仕事をしているもんで、〝藪〟は俺に手が出せない。俺がいる限り、お前はここに辿り着く可能性がある。その可能性を潰すってのは――俺に関わる記憶を潰すってことだ。そして、狸爺さんがそうだったように、生きている間は二度と思い出せない。徹底的に潰すとなれば、当然、シロやクロのことも――巡り巡って、お前の家族に関しての記憶を失う可能性がある」
 鱗道と同じ町に生まれ、育ち、古くからの友人であるからこそ――猪狩から失われるものはあまりに大きく、多く、甚大なのだ。
 ――もし、そうなってしまっても、鱗道は再び蔵に来られる。だが、〝藪〟が決まりを強いて問い掛けをするとは限らない。蛇神の力を降ろして〝藪〟を食らったとしても、〝藪〟が決まりに則っている以上は、決まりを破った罰則が何らかの形で下されるのだろう。罰則がなくとも――記憶を縛る糸が消えるとは限らない。
 鱗道は、猪狩の顔を見られなかった。顔を覆って上げられない。大袈裟なことを、と猪狩は笑うだろうか。勘も良く頭のいい男だから、鱗道が考えついていることにも気が付いているだろう。ただ、実感が湧くのは時間がかかるはずだ。記憶を縛るなど、失わせるなど、理外にも程がある。
 蔵に連れてくる時も、連れてきてからも、こんな大きな出来事に巻き込むつもりはなかったのだ。年代物の付喪神に、話をして説得をして、整理して纏めて、目録めいたものを作ればいいのだろうと思っていた。二階でクロが異変に巻き込まれた時に、猪狩に待っていろと告げてもこの男が大人しく待ち続けると本心から思っていただろうか。クロに何かあった時点で猪狩を帰すべきだった。狸神主の死後の依頼だと気が付いた時でもいい。猪狩を巻き込まないで済む岐路は、幾つもあったはずだ。
 その岐路で鱗道が猪狩を帰さなかったのは――聞こえよく言えば、猪狩の自主性を重んじたからで、本心を晒せばこの男を頼っていたからに違いない。鱗道が思い付かないことを思い付き、知らないことを知っていて、どんな状況でも打開策を見出す男を、死者からの奇妙な依頼だからこそ、クロの奇妙な異常だからこそ、頼ろうとしていたのだ。
 それがこんな事態を招くとは露とも思っていなかった。だが、考えておくべきだったのだ。〝彼方の世界〟は〝此方の世界〟の善良さなど持ち合わせていないことを、鱗道は知っているのだから。
「グレイ。お前、本気で言ってんのか」
 低く、落ち着いて、明朗で聞き間違いを許さない声が聞こえても、鱗道は顔を上げなかった。苛立ちも非難もない声が、より一層鱗道の背中にのし掛かる。
「ああ。出来るヤツは出来るし、平然とやる。こっちの都合も、想像も理解も、向こうは考えちゃ――」
「違ぇよ」
 床が軋み、猪狩は半ば立ち上がったようだ。猪狩の手が鱗道の胸ぐらを掴んで顔を上げさせる。鱗道が見上げさせられた猪狩の表情は険しい。鱗道の酷い顔色を見て、より一層硬くなった。
「俺に下りろって言ってんのが、本気かって聞いてんだ」
 険しく、硬く尖った表情であるが猪狩の声にはやはり鱗道を責めるニュアンスは僅かも無い。むしろ、その険しさは鱗道の過度な自責を懸念しているが故の気遣いから来る厳しさだ。鱗道の胸ぐらを掴む手に力が込められているのは鱗道を逃がさないようにという意図ではなく、崩れ倒れかねない鱗道を乱暴ながら支えようとしているらしい。
「……本気だ」
 真っ直ぐに見下ろす目に対し、鱗道は視線を逸らすことも出来ず、ただ正直に答えるより術がない。屈強な手を振りほどくだけの力もなければ、猪狩が求めているのは――
「そうか」
 付喪神が幽霊か否かと聞いて来た時と同じように、詳細な説明や言い分ではないからだ。猪狩の溜め息のように短い言葉はあっさりとしたものだが、明瞭さに欠けつつある。
「まぁ……賭け事に対価は必須だって分かってんのに、ついさっきまで代償なんざ考えちゃいなかったしな。〝藪〟の仕業だってのも、狸ジジイの一件まで引っ張り出されちゃ……そう言うモンだと思うほかねぇか」
 鱗道の懸念が――猪狩から失われる記憶が、対価として全く見合っていないほど膨大なことが伝わった結果、猪狩が苦悶の表情で強く目を閉ざすのを、鱗道はただ見ていることしか出来ない。猪狩の手が離れなかったこともそうだが、巻き込んでしまったという罪悪感が目をそらすことを許さなかった。いっそ責められれば気が楽だ。苦悶を全てぶちまけて、なんてことに巻き込んでくれた、と言ってくれればいい。だからお前を守る為に下りてくれ、と強く言える。言うことが出来る。
 猪狩が家族を大事にしていることは、当人以上に鱗道は知っている。大事だとか、生きがいであるとか、そんな言葉ではくくれない程の存在である筈だ。妻である麗子に関しては学生時代そのままの一途さで今も語るし、二人の子どもに関しては学生時代は想像も出来なかった親の顔が今ではすっかり板に付いている。イベント毎に人目も憚らず駆けずり回って、親バカを揶揄されても気にするどころか喜ぶ有様だ。
 そんな家族を天秤の皿に載せられた時、もう片方に何を載せれば釣り合うだろうか。どれ程のものならば傾くだろうか。鱗道には勿論、猪狩当人にも分かるまい。それ程の存在だ。存在の筈だ。だからこそ、猪狩も退くだろう。そう思った。これ以上巻き込まずに済むことを、どこかで安堵していた。
「お前の気持ちは有り難ぇが、残らせてくれ。グレイ」
 だからこそ、猪狩の言葉は思い掛けないものであった。強く目を閉じ、歯を食いしばり、俯いていた猪狩の顔が上がる。鱗道を掴む右手はそのまま、左手が垂れ落ちていた前髪を掻き上げた。そのまま、頭に爪を立てている。
「途中下車は、もうゴメンなんだ。俺は」
 強く閉ざす瞼を押し開く、茶色味を帯びた目。右目の僅かなくすみも気にならないほど、強い意思を抱え込んだ瞳。それに対して声も言葉も歯切れの悪いこと。頭に立てた爪も、未練も葛藤も苛むほど強くあることを物語っている。だが、
「俺は、生きてねぇも同じには、なりたくねぇんだ」
 猪狩らしくないか細い声が、鱗道の胸ぐらを掴む手が震えている。独白のような言葉には縋り付くような響きは――直近に聞き覚えがある。声の主は〝藪〟だ。役目があり、準じようとするのは当然の事だと語った〝藪〟の、疼痛を伴う声に似ている。〝藪〟は当然のことだと謳う自らの言葉によって痛みを感じているようだった。己は、それが出来ていないと嘆くかのようだと――猪狩の様子を見て、思う。猪狩は、ここで退けば自分の役目を放棄することになると、その事をもう片方の皿に載せ、天秤を揺らしている。
「よく考えろ。なんで、命賭けてる〝藪〟野郎が、ここで俺達のどちらかにでも逃げ道を提示したんだ? 慈悲か? 同情か? 罪悪感か? そんなの持ってるヤツなら、こんな賭け事しねぇだろうぜ。上から目線で言ってるが、俺達は、〝藪〟の野郎の近くまで来てんだ」
 揺れる天秤に踊らされるように、猪狩の声は聞き慣れないほど不安定であった。ただ、天秤の揺れはいつか止まるように、猪狩の声も手の震えも徐々に落ち着いてくる。〝藪〟の言葉遊びに血が上った猪狩を止めた時の鱗道と同じだ。相手に言いながら、本当に言い聞かせているのは己に対して、なのだろう。
「相談はご自由になんて言ってやがったのに横槍入れて、お高く見せてなんとか体面を保とうとしてるが、やってることは命乞いだ。決まりってのはやたらと厳密らしいじゃねぇか。それを曲げようって言うくらい追い詰められてんのさ。俺とお前が内輪揉めした時にはお前が治めちまったから、今度はお前から手を切らせようって魂胆なんだろうぜ。カルタは捲れなかったが、お前、〝藪〟に何か言われてたろ?」
 鱗道が真正直に目を剥いたので、いつもの快活で剛気な発声で語っていた猪狩が堪えきれないというように笑う。実年齢には不相応な、外見的にはお似合いの子供っぽさが抜けない笑みで。すでに歯切れの悪さも、未練も葛藤も見られない。猪狩の天秤は、動きを止めたようだ。恐らくは釣り合ったのではなく――
「グレイのくせに、偉く流暢に喋りやがるからそうじゃねぇかと思ったぜ。いいか? もし俺が下りたとしても、お前の分は結局クロが払うのは変わらねぇんだろ? なら、やっぱり俺だけ安全圏に退けるかよ。間違えた時に取られるモンが二つか一つかってのは大きな問題か? 取られなきゃいいんだよ。その為に正解を出すんだ。で、俺達は近ぇとこまで来てる。お強いカミサマがバレねぇように命乞いをするとこまで来てんだよ。なァ、グレイ。もう一回聞くぜ」
 ――天秤など捨ててしまうことを選んだのだ。
「俺に、下りろと、まだ言うかよ」
 言うことは、出来よう。猪狩の手を振り払って、それでも下りろと言うことは、出来る。取れない責任を背負いたくないのだと、鱗道自身とクロで手一杯なのだと言えばいい。この段階ならば、最悪の手段だったとしてもシロを呼んで穢れが活性化するのも承知の上で暴れて貰えばいいだとか、蛇神を降ろして力尽くで片付ければいいだとか、解決策も一緒に上げれば猪狩はこれ以上言い張らないだろう。
 だが、鱗道がそれを選んだならば、猪狩は「生きていないも同じ」になるのだと言う。鱗道の拒否は、猪狩の中の何かを殺すことになるのだろうか。最愛の家族が乗る天秤を、一度は揺らした程の何かを失わせることに、なるのだろうか。
「……そうだな。お前の言う通り、俺の分はクロが払うんだ。答えを出さなきゃならんのは……お前がいてもいなくても、変わらんな」
 鱗道は目を閉じて頭を強く掻き毟る。喉の奥で呻きすらした。コレだから小難しいことを幾つも考えることは不得意なのだ。普段見えているもの、聞こえているもの、考えているものを簡単に見失う。これが人一人の限界だ。人間に出来る程度の低さを知っていなければ、人間の理外で動く〝彼方の世界〟と相対せないことなど、蛇神の代理仕事を通じて嫌というほど知っているというのに。人間の限界は知れている。だからこそ、目的のために手段を選ばず、手助けを必要とする時は素直に助けを請わねばならない。それは――相手が無二の親友であっても、
「すまん、猪狩。巻き込んで、すまん。だが、手を貸してくれ、俺は」
「穏便に済ませたい、ってか」
 無二の親友、だからこそ、だ。
 猪狩の手がようやく鱗道から離れ、そのまま首裏を示す。促されて触れば、細いがざらりとした感触が指先に触れた。自分の頭を掻き毟っていた鱗道の右手は、首の裏に幾つか引っ掻き傷を作ったようだ。
「しょうがねぇなァ、鱗道堂さんよぅ、まぁ、今日の俺は元からお前の雇われ人だ。力仕事担当予定がちょっと変わっちまったぐらいさ。これで間違えて色々と忘れちまったらそん時は」
 猪狩が座り直した。今までとは違う、背筋を真っ直ぐに伸ばしてどっしりとした胡座で。
「どうにかお前に辿り着いてぶん殴って鬱憤晴らして。んで、麗子も見付けてまた惚れる。えらく叱られるだろうけどまぁ、それくらいは許容してやらぁ」
 そして、蔵中に響くような大声で笑った。鱗道もまた服を正して座り直す。元より胡座である。猪狩と違って肩も背中も丸い胡座だ。ただ、しっかりと〝藪〟に向き合うように、体の向きをきっちりと正した。
「……間違えたら、それも出来なくなるって話なんだが」
「出来る出来ねぇじゃねぇ。やるんだよ」
 この男ならばやりかねない――そう思うからこそ、鱗道は猪狩に手伝いを求めたのだ。実際にここまでの大事は想定していなかったし、分かっていたならば避けるか事前に説明をしていただろう。ただ、多少の出来事であれば何があっても、この男がいればどうにかなると、手段を見出してくれると信頼していたからこそ、今までも、
「そうだな。その時は、気長に待ってるんで、そうしてくれ」
 これからも、手を借りる時に真っ先に思い描く人間は、猪狩のままだろう。

       

表紙

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Neetsha