Neetel Inside 文芸新都
表紙

グレイスケイルデイズ
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 鱗道が何か食べようと冷蔵庫に手をかけたときに、クロが出入りに使っている水回りの小窓からかたんと小さな音が立った。見れば、一匹の白鼬が一本の枝を咥えて小窓を潜っている。小さくも万華鏡のように煌めく金色の目は立ち上がっている鱗道を見付けると『まぁ』と一声上げて枝をぽとりとシンクの中に落とした。
『代理の君。目覚められましたか。お体はいかがです?』
 芽吹いたばかりの若葉、食べ頃の山菜のような独特の柔らかい声に鱗道は思わず溜め息を漏らした。普段聞いている〝彼方の世界〟の声と言えば、シロの賑やかで舌っ足らずな声やクロの硬質で安定した声、それと蛇神の乾いた砂のような荘厳な声である。落ち着く払いながらも親しげで柔らかく、思い遣りに満ちたこごめの声はしっとりと体に染み入るのだ。
 ついでに言えば、十年以上前に社で見掛けたときより一回りは小さいしなやかな体が『あらあら』などと言いながら落とした枝を小さな両手で拾い上げる仕草など絵本の世界のようである。たった一言に纏めてしまえば、癒やしそのものが動いて語るのだ。ため息も漏れるというものである。
 こごめはシンクからぴょんと跳ね上がると、自身が持ってきた枝を鱗道に見せるように掲げた。多くの棘を持つ肉厚な葉をたたえた枝には、小さく白い花が咲いている。黄色い花とは違って、こちらは見覚えがある枝だ。
『柊をお持ちしました。厄除けや守護と古来より縁の深いもの。わたくしの力を移しておりますから、シロ殿の穢れを鎮めるのに一役買ってくれましょう』
 こごめは枝を咥えて四つ足で素早くシロの横へと駆け抜けた。鱗道は冷蔵庫にかけていた手を下ろし、自身もシロの横に屈む。クロがこごめと入れ替わるようにちゃぶ台へと上がり、こごめはクロに一言礼を述べてからシロの被毛に体を沈めた。こごめは白い被毛を掻き分けて瘴気が湧くシミを見つけ出し、咥えた柊の枝で何度か撫でる。すると、湧いていた瘴気が止まりシミが小さく閉じていく。瘴気が止まるのを確認すればまた次のシミへ、とこごめは被毛を掻き分けだした。
「……手伝わせてくれ」
 鱗道がシロの背中側に座り込むと、顔を上げたこごめは微笑んだ。こごめ自身からすれば数倍の大きさがあるシロの体から離れると、
『シロ殿は、誠に良い供人を得られたのですね。それでは、お頼み致します』
 と、枝を両手で持ち直した。鱗道はこごめがやっていたように、シロの毛を掻き分けて瘴気が湧くシミを探す。見付ければこごめが柊で撫でて塞ぎ、片側が終わればもう片方だ。シロの体を返す時にはクロがこごめに代わって柊を持ち、鱗道とこごめの二人がかりで行ったのだが、シロの体はこれ程軽かったか――シロが弱っているから軽いのかもしれないと胸が痛む。両面のシミを柊で撫でて鎮め、再度こごめが自らシミが残っていないかを確認し、
『一度で完全に鎮まるものではありません。何度か重ねて行う必要がありますが、一旦はこれにて』
 と、言って柊を黄色い花と共にシロの鼻先へと置いた。
 シロの表情に変化があるわけでも、目覚めるわけでもない。しかし、シロの被毛がさらりと揺らめいた気がした。鱗道はこごめにしっかりと向き直り、
「こごめ、蛇神から話は聞いた。本当にアンタには助けられたな、有り難う」
 深く、深く頭を垂れる。羽音が聞こえた、と思えば下がった鱗道の視界にクロの嘴や翼の先端が入り込んだ。クロが鱗道の隣に並び、同じように頭を下げているようだ。クロの気持ちを有り難く感じ入っていたが、鱗道は顔を上げざるを得なくなった。後回しにされていた腹がついに耐えかね、ぐぅと一鳴きしたからである。
「……すまん」
 気恥ずかしいやら、情けないやら。顔を上げた鱗道を、こごめは口元を小さな手で押さえながら、
『シロ殿は落ち着いておりますし、話は鱗道殿が食事を摂られてからにいたしましょう』
「……本当に申し訳ない」
 立つ瀬がない、という気分である。クロからの冷たい視線を避けながら、鱗道は立ち上がった。時計の針は昼前を指している。考えてみれば、昨日は夕飯を食べずに家を出てそれっきりだ。腹も鳴ろうというものである。
「ああ……そうだ。アンタも何か食うか? いや……大したものはないんだが」
 ふと、冷蔵庫に手をかけてから思い付き、鱗道はこごめを振り返った。シロの側にぺったりと座り込んだこごめは随分と不思議そうに首を捻り、
『いいえ、お気遣いなく。ここにいるのは分身でありますし……そもそも、〝此方〟の食事は不要です』
 と、言う。考えてみればこごめの言う通りだ。本来、〝彼方の世界〟の存在は〝此方の世界〟の理と大きく違う。呼吸も睡眠も食事も必要としないものが殆どで、何かを摂食するとしても鱗道と同じ物は食べない。
「そうか……そうか、そうだよな。いや、シロが食うものだから、つい」
『シロ殿が?』
『はい。こごめ様。シロは鱗道によく菓子や食事を分け与えられています』
『あらあら。それは、それは』
『鱗道もシロに甘いものですから、自然と与えていることがあまりに多い。しかし、こごめ様の仰った通り、本来は不要な物なのですね』
 こごめの話し相手は、そのままクロに移っていった。日頃の様子を硬質な声が淡々と赤裸々にこごめに語り出している。こごめは感嘆を相槌のように挟みながら聞き入っていた。鱗道が口を挟む余地がない世間話は、話下手な鱗道には有り難い場繋ぎになる。冷凍庫の中身を見てからしばらく考えて、普段は滅多に食べないナポリタンを手に取った。当人は全く気にしないだろうが、こごめの前で米類を食べることに若干の抵抗を覚えたからである。

       

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