Neetel Inside 文芸新都
表紙

グレイスケイルデイズ
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 賑やかであった居間が一気に静まりかえってしまった。普段、ここまで静かならば店の方にいる雑多な〝彼方の世界〟の声が聞こえてくるのだが、蛇神の巣穴が狭くなっている鱗道には耳を澄ませてみようと聞こえてくるものはない。
 こごめが言い残していったとおり、鱗道がすべきことは夜に備えて休むことだ。こごめの蝋梅や風呂に浸かり飯を食ったりとしたお陰で、痛みも気持ちも落ち着いているが完全に消えたわけではない。怠さや関節痛までが引いたわけでもないし、不安材料はたっぷりと残っている。シロと並んで寝るなりして、蝋梅の恩恵に与って置いた方がいいだろう。だが、確認だけはしておこうと鱗道はゆっくりと店に下りた。
 古い机の古い電気スタンドのスイッチを入れる。大きな引き出しから蛇神の木箱を取り出し、中身の枚数を確認した。夜に出かける前に残したきっちり十枚。うち、五枚は海に撒くとして予備は五枚。この五枚以内とこごめの柊で鹿に立ち向かわなければならない。
 山中に陰を刻む、純黒の鹿。角から重油のように瘴気を垂れ流し、首元まで濡らした姿。ギラギラと輝く鉄錆色の双眸――角で貫いたシロを誇るように笑ったあの、顔。
 木箱に蓋をして握った手の力が弛んだのは、耳に鳴き声が届いたからだ。くぅん、という弱く幼い鳴き声が。鱗道は木箱から手を離し、弾かれるように顔を上げて、電気スタンドも何もかもをそのままに居間に戻る。すぴ、と鼻を抜けるだけの鳴き声。シロの身体は動いていなかったが、
『――りんどう』
 舌っ足らずが悪化したような、非常に緩慢な声が鱗道の頭に届く。鱗道が駆け寄ったときは丁度、シロの目が薄らと開いていくところであった。雪だるまのような純白の頭から、紺碧の目が薄らと見えてきて、
「シロ。ここだ。大丈夫か」
『りんどう……りんどう、だいじょうぶ、だった?』
 細い目が瞬きをしてから、ゆっくりと前足が動いた。立ち上がろうとしているのか、鱗道を探しているのか。どちらにも見えたものだから、鱗道はシロの頭の側に座り込んで、その大きな頭を抱えてやった。
『ごめんね、ぼく……やられちゃった……りんどう……たよってくれたのに……』
 ふぅ、とシロの口から溜め息が漏れる。鱗道に抱えられて安心したのか、思い込みの息継ぎなのか、体が痛み怠いが故の息なのか。体に一切力が入っていないが、尻尾がゆっくりと一度だけ振られた。
「いいや……お前は、よくやってくれた。俺は大丈夫だ。お前はどうなんだ。痛かったり、苦しかったりしないか?」
 胡座をかいた足の上にシロの頭を置いて安定させると、鱗道は手の届く範囲でシロの体を撫でた。手の平に熱く感じる箇所があれば毛を掻き分け、ふつりと黒い瘴気が滲み出しているのを確認する。
『……ちょっと、おなか、ぐるぐるする……あついのが、ごろごろ、あちこちにあるみたい……』
 シロの言葉はずっと緩慢なままだ。鱗道はシロの鼻先にあった柊と蝋梅を手に取り、蝋梅はシロの鼻に花が当たるように顔の上に乗せた。シロの鼻がすぴすぴと鳴いて、
『おやまのにおい……ずっとしてた……いいにおい』
 尻尾がぱたん、と音を立てて振られる。そうか、と言いながら、鱗道は片手に持った柊を見ていた。シロの頭を足に置いたままでは毛を掻き分けてそこだけ柊で撫でる、という器用なことは出来そうにない。取り敢えず手の届く範囲だけでも、と柊で体を全体的に撫でてやることにした。
『……ちくちくする……ふふ……ちょっと、くすぐったい』
「楽になるから我慢しろ」
 チクチクするというのが、毛が棘だらけの葉に絡むからなのか、それとも瘴気が祓われる感覚なのかは分からない。身悶えしたそうに目を瞑るシロに言い聞かせながら、鱗道はシロの気を逸らす為も兼ねて空いている手で鼻先の蝋梅を揺らした。
「あのな、この花はこごめが持ってきてくれたもんだ。お前のいた社に咲いた花だそうで……お前に見せようと持ってきてくれたんだと」
 鼻先で揺らしすぎたのか、シロが小さなくしゃみをする。枝を退かそうかとしたが、シロは離れる蝋梅を追うように頭を動かした。
『こごめ……あの時の、しゃべるイタチさん……あそこの、かみさまの、鼬さん……?』
「そうだ。蛇神に話を聞いて、手伝いに来てくれたんだ。お前を助けてくれたのもこごめなんだ。今はちょっと出掛けてるが、後でお前も礼を言うんだぞ」
 シロの鼻が蝋梅を追うので、花のにおいが嗅げるようにシロの顔に乗せてやる。故郷のにおいは心を鎮める一助になるとこごめが言っていたが、まさにその通りらしく、シロの体から力が抜けて寛ぐように頭の重さがずっしりと鱗道の足にのし掛かった。それから、布を一枚挟んで氷を乗せているような冷気が足から伝わって体を上がってくる。鱗道が目覚めてすぐに触れたシロの頭は生暖かかったことを考えると、シロが普段通りに戻りつつある――穢れを鎮めつつあると言うことなのだろう。
『――あの、鹿』
 柊で体を撫でて、蝋梅を鼻先に置いて。しばらくそうしていた後のシロの声が、若干明瞭に戻ってきた。その声に鱗道は、柊を動かす手を止める。
『あの鹿……すごく、嫌な鹿だった……殺したことがないって……うらやましいって……気持ちいいって』
 ああ、そんなことを言っていたなと思い出して、鱗道は顔をしかめさせる。クマを殺したのが最高だったとか――まるで愉快げに語っていた様子は恐怖よりも嫌悪感が勝るものだった。殺すことを楽しみ、蹴散らし踏み潰すことを楽しみ、それらを誇るように語りながら、あの鹿はシロを嘲笑ったのだ。
「シロ、そんなもん気に――」
『かわいそうだ』
 シロの言葉に、鱗道は言いかけた言葉を飲み込んだ。
『殺したことがないのなんて、山にはいないよ……お腹が空いたら食べるし……小さいのは踏んじゃうし……そんなの、分かってるはずなのに……なのに、あの鹿には……特別なことになってた……一緒にいるのが変なことになってた……そんなの、変なのに……鹿だって、群れで一緒に過ごしてたはずなのに……』
 ぽつぽつとシロの言葉は雨垂れのように落ちた。大きな頭がぶるりと一度震え、
『僕も穢れがぐるぐるすると……色々と分かんなくなっちゃう……とても、怖いんだ……僕がなくなっちゃうみたいで、みんないなくなっちゃうみたいで……すごく怖いの……
 あんなのは……違う……シカじゃない……変わっちゃってる……嫌な鹿に、されちゃった……前のシカがどこにもいないから……いなくなっちゃったから……自分が変わっちゃったことも気付けない……』
 シロが紺碧の目を閉じると、頭はまるで雪玉のようになる。新雪が降り積もった雪の塊は冷たく、柔らかく――そして、奥には熱いものが轟いているために、
『……あんなの、かわいそうだ』
 一部が溶けてついと流れ落ち、少しだけ鱗道のズボンを濡らした。
 鱗道はただただ黙って、シロを見下ろしていた。思うところは沢山ある。なにも自分の体を貫いて嘲笑った相手に、そんなに思いを寄せなくとも良いだろう、どこまでお人好しなのだ、と。穢れに対する恐怖を聞いたのも、鱗道は殆ど初めてだ。普段から口にすればいいのに、もっと気を付けてやれるのに、とも思う。ただ、これがシロなのだと改めて噛み締めた。
 シロが強い力を持った切っ掛けは、生前に世話になった人々に恩を返したいという一念だった。一人残された社で穢れを抑え込みながら終わりの到来を待ち続けたのは、シロは大事なものを傷つける側になりたくないと願ったからだ。穢れは、そんなシロの力を腐らせ、浸食し、瘴気に変えて、全てを塗り潰そうとしていた、シロの全てを奪おうとしていた――あの、荒神と成り果てた鹿のように。
 シロが思っているのは、荒神に成り果てた鹿だけではないのだろう。ほんの少し、本当に少しだけ何かが違ってしまっていたら、シロもまたあの様に歪に変じていたのだということも、分かっているのだろう。
「……シロ。あの鹿は、助けられんぞ」
 鱗道は柊から手を離し、シロを撫でた。鼻先、耳、頬、頭に首に胴体にと、順繰り順繰り丁寧に力一杯撫でていく。鱗道の言葉を染み込ませるようにでもあり、ここにあるのはシロだということを互いに確認出来るように。
『分かってる。あの鹿は、もう、シカじゃないから』
 シロは鱗道の手に甘えるように頭を擦り寄らせ、はっきりと言い切った。シロの体から異常な熱はかなり引いている。それでも、冬が形を得たかのように冷たいシロの体から、熱塊のような穢れが消えることはない。ずっと抱えていかねばならないものだ。
『――僕は、嫌だな……やっぱり、あんな風に、なりたくない……ひとりは、さみしいよ』
 シロの言葉を叶えるためには、シロはずっと穢れを眠らせ続け、鎮め続けなければならない。
『――僕には、鱗道とか、蛇神サマとか、クロとかがいて良かった……』
 大切なものを失わないように、奪われないように、
『それなら、ちょっと、出来そうな気がするもの』
 大切なものを失わないために、奪われないために。
「お前には……蛇神とか、クロとか、俺がいるんだろ」
 シロの気弱な言葉に対し、鱗道はシロの眉間を強く指で押した。シロには願いを叶えるだけの力があるというのに妙なところで自信がない。だが、これもまたシロである。そして思い込むと水も毒に変えてしまいかねない犬だから、
「ちょっとじゃない。お前ならちゃんと出来るさ」
 道に迷っているようであればリードを引くように、少し背中を押してやらねばならない。こごめが言うほど大したものではないが、それがシロと共に歩む供人となった鱗道の果たすべき責任である。
 鱗道がただただシロを撫でるだけの時間、シロは何か思いに耽っているようだった。尻尾はゆっくり柔らかく振られ続けていたが、急に力なく畳に張りついてしまう。鱗道の手が何往復目か分からないほどシロの顔を通り過ぎた後に、紺碧の目が雪を割って芽吹いた。くぅん、と甘えるような一声が漏れる。
『……鱗道、僕……お腹空いた』
「冷凍モノで悪いが、唐揚げでいいよな。今日は、俺に少し分けてくれればいいから……ああ、まったく」
 鱗道は肩を揺らして笑った。シロの頭を抱えるように両手で持って、被毛をぐしゃぐしゃと混ぜながら溜め息をつく。その言葉は、
「いつになったら言うかと思ってた。やっと言ってくれたな、シロ」
 鹿と対峙してから、ずっと鱗道が待っていた言葉であった。

       

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