Neetel Inside 文芸新都
表紙

桜島少年少女
1話 熱気

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 桜島は高層ビルやマンションを易々と越えて、我々に雄大な姿を見せてくれる。
 それだけで圧倒的な存在感だというのに、この日は山頂から大きな噴煙を上げており、その姿は拳を掲げて皆を鼓舞する将軍のようだった。
 やはり桜島は最高だ。彼は誰よりも勇ましくて、逞しい。そして何時でも優しく俺達を見守ってくれる。鹿児島県で一番。いや、この世で一番、偉大な存在だ。
「隼人よ。私の力を分けてやる。存分に活躍するのだ」
 桜島は俺の名前を呼び、背中を押してくれた。
「ありがとうございます」
 彼のエネルギーを受け取った事で、身体の芯が温かくなり、その熱が末梢までじわじわと広がっていくのを感じる。
 これで何も心配はない。俺は嬉しくて、自然と笑みがこぼれる。
「鹿児島県民の健やかな生活を守る事は私の使命だから、礼には及ばない。胸を張って行ってきてくれ」
「はい。行ってきます」
 桜島さえ居てくれれば、どのような困難だろうと乗り越えられる。そんな自信を持ってしまうのは当然の事だ。
 威風堂々と佇む桜島に一礼し、背を向ける。
 振り返った先には、同じ大学に通う直井が顔をしかめて立っていた。
「隼人の奇行がまた始まったよ」
 直井は言った。
「奇行って、何だよ。桜島が今日も元気に活動してくれているから、彼とコミュニケーションを取るのは当然の事だ。それとも桜島の声が聞こえないのか?彼の姿を見て、何も感じないのか?」
「聞こえないし。何も感じない。鹿児島に越してきたばかりの頃は確かに感動したけど。何というか、すっかり見慣れたな」
 桜島を見慣れただと。
 ありえない。
 直井は今年の春、大学進学を機に隣の宮崎県から鹿児島県の鹿児島市へ引越してきたのである。それからたったの二ヶ月弱で桜島に飽きを感じたというのだ。しかし、どこから見ても魅力が溢れて尽きない、桜島を見飽きたなんて、あまりにも非現実的だ。
 改めて彼を見ると、精力的に活動する桜島など目に暮れず、涼しい顔で淡々と歩き続けているではないか。この世で最も偉大な桜島の姿を見ていると、腹の底から力が湧いてくるのに。直井は本当に何も感じていないようだ。
「まあ、火山灰が降ってきたら嫌だな、くらいは思っている」
「罰当たりな」
 酷い罪悪感に駆られた俺は鞄に吊り下げている桜島をモデルにしたキャラクター、『さくらじまん』のキーホルダーを握り締めた。そして、「申し訳ない」と桜島に対する非礼を詫びた。
 俺の姿を見た直井は、「怖いから」と言って再び顔をしかめた。
「直井の非礼を詫びているところだ」
 直井を睨みつけると、彼は観念したように両手を小さく挙げる。
「悪かった。俺だって初めて桜島を観た時は驚いたし、ゴールデンウィークに地元の友人を連れてきた時は感動していたよ」
「そうか。それは良い事だ。最近は県外との行き来もしやすくなったからな」
 俺は深く頷く。
 ここ数年、よく分からない新種の感染症が流行した為に、よく分からない行動制限が敷かれ、散々迷惑を掛けられてきたのだ。それがようやく緩和された事で、県外から人が訪れるようになって、桜島の素晴らしさを広めてくれた直井には素直に感謝したい。
「桜島の為に、ありがとう」
「いいよ。だけど、そこまで深く愛する桜島に隼人自身が住む事ができないのは、本当に残念だよな」
「それは言うなよ」
 桜島は俺達が暮らす鹿児島市街地から錦江湾を挟んだ先に浮かんでいる。
 桜島の麓には生活できる環境が整っているので、彼の存在をより近くで感じるために麓で暮らす事が理想なのだが、実際は桜島から離れた鹿児島市街地に住み、日々大学へ通っている。
 海を隔てているからといって、桜島から大学へ通う方法が無い訳ではなく。例えばフェリーに乗って約十五分で錦江湾を渡る事が出来るので、フェリーで通学している学生は多い。しかし、俺の身に降りかかった過去の恐怖体験が原因で、フェリーに乗って通学するのは難しい。だから仕方なく鹿児島市街地に身を置いているのだ。
 直井の言う通り、俺が桜島に住むことができていない事は悔しいし、桜島に対して申し訳ない事だ。
「話が逸れたけど、桜島からエネルギーを貰ったおかげで今日は何をやっても上手く行く気がする」
 俺は桜島から力を授かった事で、体や精神面の能力、そして運気まで向上しているのだ。根拠は無いが、俺は強く信じている。
「マジかよ。飲み会で女の子と仲良くなれるんじゃないか」
「ああ、そうか。飲み会に行くんだったな」
「残念そうにするなよ。一般的な大学生男子なら、異性と交流できる飲み会なんて飛び跳ねるほど嬉しいと思うけど」
「嬉しい事なんて何もないな」
 これから開催されるのは俺達が所属するサークル、『桜島ワンダーフォーゲル部』のメンバーが集まる飲み会だ。
 俺は大学に入学してから、『桜島ワンダーフォーゲル部』、通称『ワンゲル部』へ入部した。
『桜島』という名前を冠しているだけで心が惹かれ、俺の愛するアウトドアを主な活動としている事で、俺は入部した。しかし、記念すべき最初の活動はアウトドアではなく、新入生同士で酒を酌み交わす飲み会だった。
 何だか騙された気分である。
 この飲み会は部員同士で親睦を深める事が目的らしいが、俺は全く気乗りしていない。何故なら、大して仲良くもない連中と集まって酒を飲む事の何が楽しいのか分からないからだ。そして、飲み会に異性が参加するから何だというのか。それが魅力的だとはまるで思えない。
 そもそも俺は人との交流が好きになれないのだ。
 これまでは何をするにも一人で行動してきた。桜島を眺める時や、キャンプを楽しむ時、いつも一人だ。誰にも邪魔をされず自由気ままに心を開放する。これ以上に幸福感が満たされる事はないのだ。
 つい最近までは新型ウイルスが流行したおかげで、人との関わりが希薄になり、俺にとっては良い環境だった。それなのに、流行が収束した今では飲み会だって気兼ねなくできるようになっている。大学へ入学するタイミングでこうなるとは、運が悪いものだ。
 俺は桜島から受け取ったエネルギーを発揮する機会が無い事を改めて悔やみながら、さきほど購入していたクレープの包装を剥がした。
「何だよ、それ。いつの間に買ったんだ?」
「そこの自動販売機で買った」
「クレープを自販機で買えるのか?」
「鹿児島では常識だぞ」
「そうなのか。じゃあ、俺も買ってくる」
 俺は直井を見送ってから、近くのベンチに腰掛ける。すると同じベンチの少し離れた右側の位置に座っている長髪の女性から視線を向けられているのを感じた。
 俺も目を向けると、その女性と目が合った。
「何してるの?」
 彼女は言った。
 何してるの、とは。何だろうか。ベンチに座って、クレープを食べているだけだ。面識のない人間にわざわざ話しかけられるような事はしていない。
 よく見ると、彼女は俺と同じアウトドア系の服を着こんでいて、親近感が湧いてきた。もしかすると彼女も同じような気分なのかもしれない。そう思うと少しだけ気分が軽くなったが、その女性は顔をしかめて、フンと鼻を鳴らした。
 何だというのか。一瞬で不愉快な気分になって、何か言い返してやりたいが、彼女はすぐに立ち去ってしまってしまった。
 一体、俺が何をしたというのか。俺がこのベンチに座った事がそこまで不愉快だったのだろうか。それなりに離れて座っていたというのに、気に入らなかったのか。
 まるで分からない。分からないが、あまりにも理不尽である。
「険しい顔して、どうした?」
 戻ってきた直井がクレープを手にして言った。
「変な女に理不尽な嫌がらせを受けた」
「それはひどいな。桜島の力で運気が上がったはずなのに。もしかして、桜島に見放されたんじゃないか?」
「嫌な事を言うなよ」
「冗談だよ」
 直井は掌をひらひらと動かす。
 当然だ。桜島が俺を見放したりするものか。
 そう思いながらも不安になって、俺は桜島を見る。
「頼みますよ、桜島様」
 俺は念じながら合掌すると、すぐに心が安らいだ。俺にとって、桜島は唯一の心の支えなのだ。
「今から飲み会だっていうのにクレープなんか食べて、俺達も馬鹿だよな」
「本当だな」
 その後、飲み会の場へ足取り重く向かいながら、不快な気分を紛らわすために、桜島をチラチラと見た。





 不愉快で仕方がない。桜島から力を授かったというのに、今日がここまで悪い一日になるとは想像できなかった。
 不愉快になっているのは嫌いな飲み会に参加しているからではない。先ほどベンチで遭遇し、俺を挑発してきた女が、この飲み会の場に参上しているからだ。
 俺が入学した大学に在籍する学生は六千人を超えている。その中から、同じサークルに集まった同期の数はわずか六名。その六名の中にまさか、あの女が居るとは、あまりにも運が悪い。だから不愉快になるのは仕方がない事だろう。
 だが、一つ疑問が残る。
 今日までに数回、ワンゲル部の部室を訪れているが、例の女と顔を合わせた事は一度も無かった。それなのに何故、彼女はこの場に参加しているのか。
「隼人はどうして苛ついてるんだよ。一人だけ浮いてるぞ」
 隣に座る直井から指摘される。怒りを見せないよう努力していたつもりだが、失敗していたらしい。
「あの女がいる」
「え?」
「さっきクレープを食べていた時の、俺に嫌な思いをさせた女がこの飲み会に参加している。どうやら俺達と同じサークルに所属していたらしい」
 俺が指さす先に、直井は目を向ける。
「まさか、あの美しい高崎さんが?」
「美しいかは知らないが、俺に敵意を持っている事は間違いない」
 店に到着して案内されたテーブルのちょうど中央あたりの席に高崎は座っていた。彼女はにこやかな表情を貼り付けていたのだが、俺の姿を確認すると途端に顔を強張らせた。俺達が端の席に腰かけると、俺から距離を取るためだろう、テーブルの隅、反対の端まで移動してしまったのだ。
 その様子を見て、高崎に敵視されている事を確信した。しかし何故、このような扱いを受けるのか。まるで分からない。
「高崎さんは無口で無表情だが、話している限り、悪い人には思えないぜ。だから先入観は捨てて、みんなと楽しんだ方が良いと思うぞ」
「…分かった」
 直井の言う通り、彼女を第一印象だけで判断するのは良くない。だから今は深く考えず、この場を楽しんでやろうと思った。
 だが、アウトドアが主な活動のサークルだというのに登山やアウトドア関係の話はまるで出てこない。各々の自己紹介や地元の話題などで盛り上がっていて、退屈だった。この状況で無理に楽しんで見せないといけないのなら、やはり俺は一人で楽しむ事が性に合っていると思う。
 退屈していると、どういう訳か自然と高崎の方へ視線が向いてしまうので気分が悪い。このままでは再び態度を悪くしてしまいそうだったので、気を紛らわせるために美味しさの分からない芋焼酎をさっさと飲んでいく。絶え間なく焼酎を口に運び続けて、三杯ほど飲み干したところで視界がぼやけてきた。
 それから何となく視線を転がした先に、桜島が現れた。
 だから、「あれ。桜島だ」そんな言葉が口からこぼれ出るのは当然の事だ。だが、よく見るとそれは桜島ではなく、『さくらじまん』だった。それは俺が鞄に吊り下げているキーホルダーと全く同じ物だ。そう認識した瞬間、『さくらじまん』の姿が消えた。
 何が起きたのだろうか。ぼやけていた視界が徐々に鮮明になっていき、何かを手で覆う高崎の姿を認識した。
 混乱したまま自分の鞄を確認すると、そこには『さくらじまん』のキーホルダーが変わらずあった。
 俺の『さくらじまん』が愉快に歩き回っている訳ではないだろう。ゆっくりと状況を整理する。恐らく、俺の目の前に現れて消えた『さくらじまん』は高崎の持ち物で、彼女はどういう訳か、それを手で隠しているのだ。
 彼女の姿を改めて見ると、じっと顔を伏せていた。
「まさか、あんたも桜島が好きなのか」
 高崎に訊ねる。だが彼女は言葉を返さず、俯いたままだった。
 俺と高崎の異変を感じ取ったワンゲル部のメンバー達は沈黙して、こちらに視線を注いでいた。
 しばらく沈黙が続いた後、重苦しい雰囲気に耐えかねた同期の女子、満重が口を開く。
「高崎さんは昔からアウトドアと桜島が好きなんだってさ。だから、桜島の名前がついたこのアウトドア専門サークルへ入ったみたいだよ」
 どこかで聞いたような話だ。というか俺の話だった。
 桜島が好きで、『さくらじまん』を鞄に下げて持ち歩くとは良い心意気である。更に、アウトドアまで愛しているとは。やはり第一印象で人を判断するのは良くない事だった。
 再び沈黙が訪れると直井が、「二人の話は終わりにしてさ。羊文学の話しでもしようぜ」と、話題を切り替えた。
 直井が機転を利かせたおかげで、場の緊張感が緩んだ。流石に反省した俺は静かに過ごす事にした。
 間もなくして高崎は席を立ち、俺の背後を通り過ぎる時、俺が座っている椅子の足に蹴りを入れられた。
 その衝撃に驚き、俺は手元のカップを倒して中身の芋焼酎を派手にこぼした。
「なにやってんだよ酔っ払い」
 直井のツッコミで笑いが起きるが、俺は笑えなかった。高崎は事故を装って足蹴りを入れてきたのだ。
 高崎の事を見直した途端に、この扱いである。
 俺は芋臭くなったズボンをおしぼりで拭きながら首を傾げる。
 桜島から力を授かったことで運気が上昇し、幸福感に満たされるはずだった。それなのに、どうしてこんな目に遭うのか。
 それは間違いなく、高崎のせいだ。
 俺は縋るような想いで『さくらじまん』を握る。そして、「これ以上、悪い事が起こらないようにしてください」と、祈りを込めた。
 瞼を開くと、高崎が席に戻っていて、俺を強く睨みつけていた。
 何だというのか。
 彼女とは長い因縁になりそうだと思った。



 親睦会は盛況のまま終了した。
『さくらじまん』に祈りを捧げたおかげで、会の後半はアウトドアの話題が広がった。その中で、俺はアウトドアのギアについて一方的に話し続けてしまったかもしれないが、自分なりに楽しめたので構わないだろう。
 会計待ちの際、居酒屋の玄関や窓がきしみ音を挙げて小さく揺れた。これは建物の老朽化とか、風や地震の影響ではない。桜島が噴火した衝撃で空気が振動する事で発生する、鹿児島ならではの現象だ。
 夜の遅い時間になっても、活発的な桜島の存在を感じた事で、俺は再び力を貰う事が出来た。
 同じく桜島を愛している高崎は、噴火に対してまるで反応を示していない。その様子を見て、桜島への愛が足りないと思った。
 会計を終えて店の外へ出ると、大勢の大人たちが夜遊びを楽しんでいた。
 新型ウイルスの感染症が流行していた当時は我々、学生が修学旅行や卒業式などのイベントを我慢している中、大人達が、「早く酒を飲みに行きたい」だとかくだらない事を抜かしていたり、ルールを破って羽目を外してニュースになっている姿を見て呆れていたものだ。それが、いつの間にか俺達が酒を飲みに行く立場になっていた。
 同じ立場になっても、大人たちが何故飲み会というイベントを開きたがるのかは理解できなかった。
「じゃあ二軒目行っときますか」
ワンゲル部の同期で、まとめ役となっている長瀬が手を挙げた。
「ていうか、灰が降ってるじゃん」
 先程の揺れはやはり桜島の噴火によるものだったようで、鹿児島市街地に火山灰が降り注いでいた。
 小さい頃の俺は火山灰が降る時、嬉しさのあまりミュージカルに出てくる、お姫様のように両腕を広げてくるくると舞い踊っていたものだ。
大学生まで成長した俺が舞い踊る事はないが、心の内ではしっかりとはしゃぎ回っていた。
「最悪だな」
 長瀬が罰当たりな事を言った。
 他の面々も微妙な表情を作る中、高崎は肩にかかる灰を払っていた。こいつは本当に桜島を愛しているのだろうか。疑わざるを得ない。
 そして長瀬達が二軒目はどこへ行こうかと話し合っている様子を見て、俺はそろそろ帰ってしまおうかと思った時、直井が肩に手を掛けてきた。
「結構、楽しんでたじゃん」
「まあな。つい熱中してしまった」
「なんだかんだ言って、高崎さんとは気が合うんじゃないか」
「どうだかな。アイツも桜島が好きらしいが、いまいち信用ならない」
「そうか。まあ、よく分からんが楽しくやろうぜ」
 確かにそうだ。俺だって悪い関係を作りたい訳ではなく、むしろ、アウトドアを楽しむ喜びを分かち合いたいとは思っているのだ。それが俺に向いているかはともかく、仲間とのアウトドア体験を味わってみたいという想いはある。
「飲み会もいいけど、アウトドアのサークルなんだから、早くアウトドアがやりたいよ」
「それもそうだな」
 直井が頷いた次の瞬間、俺達が歩く前方、少し離れた場所から、「誰か」と叫び声が響いた。
 声の先には助けを求める女性と、深く被った帽子とマスクで顔を隠した人物がこちらへ駆けてくる。
「鞄を盗られました」
 再び女性が叫んだ。
 何だ、これは。
 あまりに唐突で、物騒な状況だ。だから、この場に居合わせた誰もが凍り付いて、動けなかった。
 しかし、俺は違う。
 このような状況に遭遇するのは初めてで困惑してしまったが、桜島から力を貰っていたおかげですぐに冷静になり、こちらへ走り抜けてくる窃盗犯へ果敢に立ち向かう事ができる。
 筈だった。
 もし窃盗犯が反撃してきたら、もし凶器を隠し持っていたら、急所に攻撃されて取り返しのつかない事になったら、不吉な考えを巡らせてしまうと身体は更に強張り、身動きができなくなった。
 窃盗犯が目前まで迫り、俺はいよいよ観念した。
 このまま、見逃すしかないのかと諦めかけた時。ただ一人、窃盗犯に立ち向かう奴がいた。
 それは高崎だった。
 高崎は窃盗犯の腕を掴むと、自身の上体を後方へ捩じり、相手の腕を自身の肩にかけそのまま、体幹を前傾させる。そうして生じた勢いで、窃盗犯の身体を浮き上がらせ、そのまま地面に叩きつけた。
 窃盗犯は、「があ」と呻き声を上げ、動きが止まった。高崎の活躍により、恐怖が消え、金縛りの解けた俺と直井が窃盗犯を抑えつける。続いて長瀬や周りの通行人達も協力してくれた。
 誰が通報したのか分からないが、間もなく現れた警察によって窃盗犯は現行犯逮捕され、連行されていった。
 直井が放心したような表情で、「夢みたいな出来事だったな」と呟いた。
 全くその通りである。今でも現実味が無くて、俺達は静かにこの場を見守っていた。
 被害に遭った女性は高崎に頭を下げていて、高崎は小さく微笑んで頷いている。その後、俺達も女性と軽く言葉を交えてから、この場を後にした。
 物騒な出来事が起きたが、見事に事件を解決させた達成感と高揚感に包まれて舞い上がっていたので、長瀬が、「祝勝会に行きますか」と言うと、ワンゲル部のメンバーは手を叩いて賛成した。
「大活躍の高崎さんを讃えよう。高崎さん、来てくれるかな?」
「うん」
 高崎は頷いた。
「あの男を投げ飛ばすなんて、本当に凄い。柔道とか習っていたのかい?」
 直井が訊ねる。
「ううん。習った事はないよ。咄嗟の事で、とりあえず何とかしないといけないと思っていたら。何というか、こうすればいいと、突然降りてきたというのかな。いままでテレビとかで見た動きを真似てみたら。うまく投げられたんだよね」
「すごいな、それ。かっこよすぎだろ」
 直井が感心すると、他の連中も追随して高崎を称賛し始めた。
 突然降りてきたなんて。そんなの、桜島の力に決まっているじゃないか。
 あの時、高崎が活躍する一方で俺は少しも動けなかった。という事は、桜島の力を貰ったのは俺ではなく、高崎の方だったというのだろうか。
 愛が足りないと侮っていた、高崎の方だったというのか。
 俺は次第に強い敗北感に打ちひしがれた。どうしようもなく、悔しくなって、堪えられず、少し後ろを歩く高崎に嫉妬の視線を送る。それを感じ取った高崎に強く睨み返され、「なに?」と言われた。
 俺は少し迷った結果、ここは素直に称賛するべきだと思った。
「さっきは本当に凄かったと思う」
「…そう」
 高崎はそれだけ言って、さっさと歩いて行ってしまう。
 本当に嫌な奴だ。
 彼女の背中を見ていると、敗北感は対抗心に姿を変わり、俺の中で確かに熱気が生まれたのを感じた。

       

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Neetsha