Neetel Inside 文芸新都
表紙

桜島少年少女
7話 ブリーチング

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 八月下旬。
 桜島で合宿を行う日が遂に訪れた。
 高崎の父が経営する旅館に宿泊するので、アウトドアではないが桜島に上陸できるというだけで心が躍り、この日を待ち焦がれていた。
 俺と野村は直井の運転する車に乗って、桜島の麓へ向かっていた。
 鹿児島市街地から桜島まではフェリーに乗ればあっという間に到着するのだが、過去のトラウマによってフェリーに乗れない俺は長距離の陸路を移動しなければならない。更に、運転免許を持たない俺の為に車を出してくれる直井と付き添ってくれる野村には頭が上がらない。
「フェリー移動組で、長瀬、満重カップルの中に入り込んでいる山中さんは気まずいだろうなあ」
 直井が呟く。
「そういうものかね」
 俺が首を傾げると、直井は、「隼人はもっと人の気持ちを学ぶべきだな」と言った。
 相変わらず人の気持ちには鈍感だ。先日、久しぶりに再会した高崎の無愛想な様子は理解できないし、今でも腹が立つ。だからといって今日、高崎と顔を合わせるのが憂鬱かと言えば、そういう訳でもない。自分の事さえ良く分からないものだ。
 まあ、くだらない事は考えなくていい。
 今はそれより大切な事がある。
 窓の外を眺めて、桜島へ徐々に近づいている事を感じると、興奮が抑えられなくなった。だから小刻みに身体を上下させると、直井が鬱陶しそうな目で睨みつけてくる。
「せめて身体は止めてくれ」
 直井に注意されたが、それは難しい。何せ桜島へ上陸するのは久しぶりで、浮かれた俺の心はシラス台地の遥か上空を飛び回っているからだ。長瀬達はとっくに上陸し、満喫しているのだろう。羨ましいものだ。
 後部座席に腰掛ける野村は俺達の様子を見て、クスクスと笑っていた。
 元々、桜島へ向かう旅路は俺と直井で二人きりのつもりだったが、先日、俺の抱えるトラウマについて野村に話した時、どういう訳か野村は涙を溢してしまった。俺は笑われ、蔑まれる事まで覚悟していたので、彼女の反応には困惑した。いや、正直に言えば不気味だった。そのやりとりの後、直井の車に野村も同乗したいと希望してきたのだ。
 あの時の野村がどういう感情だったのか、やはり分からない。

 車を走らせて二時間ちょっと。いよいよ大隅半島の垂水市へ突入した。あと少しで桜島へ到着するが、休憩を兼ねて道の駅に停まり、野村がオススメするカンパチ丼を食べたり、少し離れた位置に見える桜島に手を合わせたりした。カンパチ丼は絶品で、桜島の景観も良かったので、道の駅では充実した時間を過ごす事ができた。
 再び車が発進すると、あっという間に桜島へ上陸し、旅館へ到着した。
 車から降りて、桜島の台地に足を着けると、彼のエネルギーをヒシヒシと感じた。身体から力が溢れ出しそうで、常に全身を動かしていたいような気分になる。
「じゃあ、行こうか」
 直井が言った。
 今回の目的は旅館でワンゲル部メンバーの交流を図る事だ。動き回りたい気持ちを一先ず堪えて、旅館の中へ向かう事にした。
 旅館は和風でやや古びた雰囲気の建物だが、それが持ち味なのだろう。野村はそんな外観を気に入ったらしく、すぐに撮影会が始まった。
 直井がカメラマンを担当し、撮影は盛り上がっていた。その様子を見て、我慢ならなくなり、俺も飛び跳ねたり、早足で歩きまわったりした。そうして騒いでいると、旅館の中から従業員が出てきた。
「こんにちは。娘が所属するサークルの皆様ですね」
「はい、そうです。こんにちは。高崎さんの、お母様ですよね」
 直井が訊ねる。確かに、どこか高崎に似た女性だった。
「そうです。お姉様に見えたら嬉しいんですけど」
 高崎母は冗談を言った。娘は冗談を言えない性格なので、そこは似なかったらしい。
「アハハ。でも、若くて綺麗なお母様で、高崎さんが羨ましいですよ」
 直井の言う通り、若く見える母親だった。まるで二十代のようだ、なんて薄っぺらい褒め文句は出てこないが同世代の母親達より若く見えるだろう。
「ありがとうございます。それではご案内しますね。先に来られた方々は既に部屋で過ごされていますよ」
 高崎母に招かれて、俺達は旅館の中へ入る。古めかしい外観に反して中の設備は真新しく、全体的に清潔感があった。高崎母の話によれば、数年前に改装されたとの事だ。
 小さい旅館ではあるが、この日は満室になっているらしく、チェックインする宿泊客や、これから出かけるらしい家族などでフロントが賑わっている。
 先に到着した長瀬達がチェックインを済ませているので、俺達は手続きなどをする事なく部屋の前まで案内してもらえた。高崎母は「ごゆっくり」と頭を下げて、さっさと去っていく。
「忙しそうだな」
 直井が呟いた。
「本当だな」
 高崎から招待されたとはいえ、何だか申し訳ない気がする。
 気の毒に思っていると、直井が部屋の扉を開けた。
 扉の先では、長瀬達が笑顔を見せて手を振っており、不気味なほど陽気な姿だった。
 既に酒を飲んでいるのだろう。ワンゲル部メンバーが全員集合するのは喜ばしい事だが、ダラダラと酒を飲むだけで時間が過ぎていくのではないかと不安になった。
「遅かったじゃないか。直井達も早く飲め、そして俺達に追いつけ」
 何に追いつけと言うのだろうか。気後れしている俺をよそに直井はさっさと缶ビールを開ける。
 不安は的中した。今日は和室二間の広い部屋で、男女別に部屋を分けて宿泊するのだが、部屋の境は薄い襖一枚なので、その境目など無視してひたすら酒を飲み、騒ぎ立てて一晩を明かすつもりなのだろう。
 そんなのに付き合っていられない。俺は俺のやりたい事をやる。せっかく桜島へ来たのに、散策しないなんてあり得ないだろう。だから自分の荷物を整理するとすぐに部屋を出た。
 玄関に向かって廊下を歩いていると、偶然、高崎と鉢合わせた。
 質素な造りの制服は高崎の落ち着いた外見によく似合っていた。落ち着いた制服とは対照的に高崎は髪を乱しており、それは現場の多忙さを表しているようだった。
「仕事、大変そうだな」
 彼女と目が合ったので声をかけると、高崎はフンと鼻を鳴らし去っていた。
「何なんだよ」
 まるで高崎と初めて知り合った頃のような態度の悪さだった。先日、フェリー乗り場で会った時以上に酷い。
 彼女とは様々な出来事を通して打ち解けたつもりだったが、それは俺の勘違いなのかもしれない。
 気分の悪いまま旅館を出て、桜島の御岳を眺めていると、「どこに行くの?」と声を掛けられた。
 振り返ると野村が立っている。
「桜島の散策をするんだ」
「やっぱり、そうだと思った」
 彼女は俺の目を見つめて言う。
 何だか見透かされているようで、嫌な気分だ。
「私も、一緒に行っていいかな?」
 断るべきか、迷ってしまう。
「別にいいけど」
 以前の俺なら一人を楽しみたいからと言って断るだろうに、自分らしくないと思った。
「やった。どこに行くか、決まってるの?」
「決まってない。適当に歩き回ろうと思っていたからな」
「そうなんだ。実は、ちょっと遠くまで行きたいところがあって。直井君にお願いしたら、車を貸してくれたんだ。だから、私が運転していこうか」
「それは助かる。お願いするよ」
「うん、任せて」
 あてもなくブラブラする事も旅の醍醐味なのだが、猛暑の中、歩き回るのは苦しいので、野村に運転を頼む事にした。
「それで、野村はどこに行きたいんだ?」
「私は、長渕剛の石像と、火山灰で埋まった鳥居が見てみたいの」
「良いな。じゃあ、早速行ってみるか」
 どちらも最高のパワースポットであり、強い力を貰えることは間違いない。これまで何度も訪れている場所だが、そんなの関係なく楽しめるだろう。
 目的地が決まったので、さっさと直井の車に乗り込み、発進した。
「無理矢理つきあわせたみたいで、ごめんね」
「問題ないさ。俺は桜島を散策できれば、何でもいいからな。あてもなくうろつくのも楽しいが、自動車移動なら鬱陶しい陽射しを避ける事ができて丁度良い。何より、ドライブは立派なアウトドアだしな」
「そっか。隼人君らしいね」
 俺らしいとは、理屈っぽいという意味だろうか。
「あてもなく歩くのは、楽しいかな。私はやったことない」
「もちろん楽しいが、それだけじゃない。世間を見て、学びを得たり。無心になって身体を動かしたり。これまでの何だかんだを振り返ってみたり、色々な意味がるんだ。それは旅の醍醐味といっても過言ではない」
「何か、凄いな。今度私もやってみたいな」
「ああ、是非やってみてくれ」
 それにしても、内気な野村が俺をドライブに誘ってくれるとは意外だった。これまで何回か活動を共にした事で、多少は心を開いてくれたのかもしれない。
「野村は運転免許を持っていたんだな」
「うん、初心者のペーパードライバーだけどね。車、持ってないし」
 確かに、速度の安定しない粗っぽい運転だった。それに運転中、野村は頻繁にスマホのナビを確認しているので、更に恐怖が増して、背中に寒気を感じた。
「ちゃんと前を見てくれよ」
「うん」
 不安に包まれ、落ち着く間もないまま、長渕剛の石像がある広場へ到着した。
「旅館からこんなに近かったんだね」
「ああ」
 車から降りて、俺達は長渕剛の石像の前に立った。
 石像の正式名称は『叫びの肖像』という。名前の通り、長渕剛は桜島の空へ向けて鬼のように険しい形相で雄叫びを挙げている。
「近くで見ると、凄い迫力だね。それに、目力とか、口の造形とか、細かいところまでよく造られてる」
「ああ、長渕剛の事は詳しく知らないが。これは凄いよな」
「うん、凄い。この石像は昔、桜島で開催された大きな規模のライブの記念で作られたんだよね」
「俺達が生まれるより少し前に開催されたらしいな。当時は相当な盛況ぶりだったらしい。桜島を盛り上げてくれるのは有難いよな」
「本当に、有難い」
「そして何より重要なのはこれが桜島の溶岩で作られた石像だという事だ。つまりこの石像は桜島の力の結晶なんだ」
 俺は石像を撫でまわしたい気持ちを抑え、両手を合わせて石像を拝んだ。
 ふと、隣を見ると、野村が眺めてきている。
「なんだよ」
「なんでもないよ」
 野村は首を左右に振る。やはり、よく分からない奴だ。
 それから野村の写真撮影会が始まったので、俺は近くのベンチに座り、その様子を眺めていた。
 撮影が終わると、すぐに埋没鳥居へ移動する事になった。
 鳥居までは距離が離れており、しばらく恐怖の運転を味わう事になった。道中は錦江湾が広く見渡せたので、絶景をじっくりと眺めて恐怖を紛らわせた。
「何か見えるの」
「ん。まあ、イルカでも居ないかと思って」
「イルカって、海に住んでるイルカ?」
「ああ。錦江湾では稀にイルカが集団で泳いでいるんだ」
「ええ。見てみたいな」
「そうだよな。イルカは居るか?なんつって。だはは」
「…うん」
 俺が放った渾身のギャグは虚しく流された。
「私は、一度も見た事ないな」
「探しとくから、野村はしっかり前を見てくれ」
 本当に事故を起こされそうで怖かった。
 その後もしっかり錦江湾を監視していたが、イルカは見つからずに埋没鳥居前の駐車場へ到着したので野村は不満そうだった。
 目的地である『黒神神社』の入り口に立つ『埋没鳥居』は名前の通り、鳥居の根元から頂上の左右に突き出た笠木の真下あたりまでが火山灰で埋もれている。これは大正時代に桜島の大噴火が起きた際、火口から噴出した火山灰や軽石など大量の流出物によって埋もれてしまったらしい。
「本当に埋まってる。それに、思ったより、大きい鳥居だ」
 初めて埋没鳥居を見た野村は、その埋もれ具合に大変感動しているようだ。
「この鳥居の高さは三メートルくらいらしい。地面から飛び出している部分を考慮すると相当な量の火山灰が降ったんだな」
 この鳥居だけではなく桜島の町全体が火山灰に埋もれたのだろう。
 看板の説明には、桜島の恐ろしさを後世に伝えるため、当時の状態のまま鳥居を保存していると記されている。しかし俺は桜島の恐ろしさより、その偉大さが伝わってくるのだ。だから俺はこの場所が好きで堪らない。
 いつか。それほどの大噴火が起きた光景を見てみたいと思うのは不謹慎だろうか。
 鳥居の歴史に思いを馳せていると、またしても野村が俺を眺めてくる。俺より鳥居を見ろ。
「隼人君は、桜島が本当に好きなんだね」
「当たり前だ」
「ほかに好きな事はあるの?」
「アウトドアがあるだろ」
「ああ、そうか」
 野村は拍子抜けした様子で溜息をつく。やはり、よく分からない奴だ。
 それから恒例の撮影会が始まった。
 スマホで写真や映像を撮るだけの作業だというのに、よく飽きないものだ。
「じゃあ、そろそろ帰るか」
 撮影が一段落したところで野村に声を掛けた。
「他に行くところはないの?」
「もういいかな。まだ満足してないけど、そろそろ風呂に入りたいし、旅館の食事も時間が決まっているからな」
「それもそうか。じゃあ、最後に。隼人君と一緒に写真も撮っていい?」
「いや、そういうのは、苦手だ」
「そうだよね、ごめん」
 野村は肩を落とした。そして鳥居から離れる時、野村が名残惜しそうに辺りをキョロキョロ見渡す。その姿を見て、後ろめたい気持ちになった。
「帰り道に寄りたい所があるんだけど、いいか?」
 申し訳なくなった俺は、こんな提案をしてしまった。
「うん、いいよ、行こう。どこに行きたいの?」
「退避壕だ」
「たいひごう?」
「この桜島には三十か所以上あって、ここに来る途中にもあったんだよ。まあ、行ってみれば分かる」
 車に乗って、退避壕へはすぐに到着した。
 退避壕とは分厚いコンクリートで三畳ほどの狭い空間を囲っただけの建造物だ。出入り口の扉などない開放された空間で、中はベンチが設置されているだけの殺風景な様子である。
「じゃあ、中に入ろうぜ」
 野村は退避壕の何が魅力的なのだろうかと不思議そうにその全貌を眺めている。
 俺は構わず退避壕の中へ入り、ベンチに腰掛ける。
「勝手に入っても、いいのかな?」
「普段から地元の人が休憩の為に入ったりしているから、問題ないだろう」
 それを聞いた野村は俺の隣に座った。
「ここは、桜島が噴火した時に逃げ込むようなところ?」
「その通り。噴石や溶岩から身を守るシェルターみたいなものだ。だから、こうして座っていると桜島が大噴火した時の気分を味わうことができる」
「それっていい気分なの?」
「ああ。桜島の圧倒的な力を感じるし、瞼を閉じれば桜島から噴石が降り注ぐ様子が浮かんでくる。堪らないぜ。野村はどうだ、それを感じないか?」
 野村は瞼を閉じてから、「んん」と唸った。
 どうやら感じていないようだ。
「もしも、いま。桜島が本当に大噴火したら、どうする?」
「それは喜ばしいけど。危険だから、このままじっと座ってやり過ごすしかないだろうな」
「そうだよね」
 どういう訳か、野村は微笑んだ。
 やはり彼女の感情は分からない。野村の感情表現が下手なせいか、それとも、俺が人の気持ちに鈍感なせいなのだろうか。
 考えるのが面倒になったので、しばらく外を眺めた。ここからは沿道の木々とその隙間から錦江湾が見える。
「そういえば、イルカ。居ないね」
 同じように錦江湾を眺めていた野村が言った。
「意識している時は見つからなくてさ。だけど、ふとした時に突然、現れるんだよな」
「なんか、神秘的だね」
 二人してしばらくイルカを探し続けていたが、最後まで姿を見せる事はなかった。
「じゃあ、そろそろ帰るか」
「うん。イルカが来れば、良かったのにね」
「鹿児島水族館にはイルカがたくさんいるぞ」
「それはそうだけど」
 野村は微妙な反応をした。飼育されたイルカには興味ないのだろうか。
 ここまで野村と長い時間を共有してきたが、彼女が何を考えているのか、余計に分からなくなった。
 帰り道の野村は安全運転だった。危険な運転に怯える俺の様子を感じ取ったのか、ゆったりとした速度で車を進めている。少し遅すぎる気もしたが、安心して道中を過ごす事ができたので指摘はしなかった。
 旅館に帰りついて玄関をくぐると、しかめ面の高崎が立っていた。
「お客様かと思った」
「お客様じゃなくて悪かったな」
「いや、一応。お客様だったね。じゃあ、ご勝手に」
 ここまで酷い接客の言葉は未だかつて聞いた事がない。
 高崎の姿は野村とは正反対で分かりやすいものだ。
「高崎さん、本当に忙しそうで。なんというか、可哀そうだね」
 野村の言う通り、俺達が遊び惚けている一方で高崎は働き詰めになっているというのは気の毒である。これまで高崎の機嫌が悪かったのは自由に過ごしている俺達を疎ましく思っているからではないだろうか。
 高崎の事を心配しながら旅館の自室へ戻ると、直井達は温泉へ行く準備をしていた。
「思ったより早かったじゃないか」
 直井が言った。
「もっと楽しんでくればよかったのに」
 長瀬は含みのある言い方をした。
「うるさいな」
「あと、さっきまで高崎さんが部屋に来てたんだぜ。休憩中に顔を出してくれたんだ」
「俺も玄関で会ったよ」
「それは良かった。忙しくて疲れているだろうに明るく振舞っていたよ。流石は高崎さんだぜ」
 何だ、それは。俺は冷たい態度で適当にあしらわれたというのに。相手によって態度を変えていたようだ。
 心配するだけ損であった。とはいえ高崎が大変な思いをしているのは間違いないので、ここは寛容になろう。
「そんな事より、深酒して入浴する事は禁止されているけど、二人とも大丈夫か?」
「問題ないな」
 二人は頷く。
「分かった。じゃあ、行こうか」
 気持ちの整理をしながら準備をして温泉へ向かった。

 温泉の脱衣所はロッカーなどない開放的な造りで、衣類を置く棚は木が所々朽ちている。浴場の中はタイル張りの壁と床でヒビが入り、露天風呂の岩場には硫黄が固まって染み着いている。改装された旅館の内装とはまるで異なる空間だが、それが良い。
 この時間は偶然にも他の宿泊客がいない貸し切り状態だったので非常に贅沢な気分になれた。
 そんな中、最も感動したのは錦江湾を見渡せる眺望の良さだった。
 今日だけでも何度、錦江湾を見てきたか分からないが、温泉に浸かりながら眺める景色は格別だ。
 のんびり景色に見惚れていると、隣に長瀬が寄ってきた
「それで、野村さんとはどうなんだ。付き合う事になったのか?」
「長瀬はそればかりだな」
「大学生はまだまだ思春期真っ只中だからな。いや、俺は死ぬまで思春期だ」
「はいはい」
「それで、どうなんだ?」
「付き合っていないし、そんなつもりもない」
「本当かよ。直井はどう思う?」
「嘘をついているとは思えないが。実際、隼人は野村さんに言い寄られたら、どうするんだ」
「何だよそれ。そんな事、ありえない」
「野村さんは隼人に惹かれてサークルに加入した訳だし、今日だって旅館を抜け出した隼人についていったんだ。脈ありだと思うぜ」
「無いな」
「あるだろ」
 直井の言葉で、これまでの野村の言動を思い返した。
「…いや、無いな。そんな様子は無い。仮に脈ありだとしても、今の俺と野村が優先すべきなのはアウトドアだ。そんな事に現を抜かしている暇はない」
「その考えこそ、現を抜かしている気がするけどなあ」
 直井は腕組をして呟いた。
「でも、隼人は異性に全く興味がない訳ではないだろ」
「まあ、それはそうだけど」
「なら、いいじゃないか。その時は、真剣に向き合うべきだ」
 その時なんて訪れないと否定したいが、食い下がってくる事が目に見えているので沈黙した。
 少しすると、直井達は追及を辞め、早くも風呂から上がっていった。
 飲酒をしていたせいで湯の熱さに耐えられなかったのだろうか。この温泉を長く楽しまないなんてもったいない。
 改めて錦江湾を眺め、なるべく無心になろうとしたのだが、野村や高崎の事を思い出してしまう。
 野村はアウトドアとSNSに夢中で、それ以外、余計な事をするべきではない。今日だって、桜島の景観と、その撮影に熱中していた。色恋なんてつまらない事に目移りしている筈がない。もちろんそれは俺だって同じだ。
 高崎は、何なのか。俺に対してずっと厳しいじゃないか。慌ただしい毎日に嫌気がさして、あらゆるものに尖っているのなら理解できるが、そうじゃないようだ。俺が何かしたというのか。まるで、見当がつかない。
 結局、俺が他人に共感する能力に欠けている事が原因なのかもしれない。だが、どうすればいい。解決策がない。これだけ悩むのならば、やはり、一人で過ごすのが楽ではないか。
 分からない。自分が何者なのか。人生の目標とは何なのか。学長の言葉が思い浮かぶ。
 そんなもの、簡単に見つからない。
 駄目だ。
 落ち着かない。直井達は本当に余計な事をしてくれたものだ。

       

表紙

若樹ひろし 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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Neetsha