Neetel Inside ニートノベル
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夜明け前が一番暗い
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先生、この病院は禁煙です。
そういうと、大林恵助教授はタバコをもみ消した。いかようにも感じられる思い出も過去もすべては記憶の外に消え、現実さえも信じるには値しない。そういう世界に生きる俺には、彼女が果たして形而学上の存在なのか、それとも実際に存在しているのかすらわからなくなることがある。
「ごめん。ごめん。大林君。どうも両親が亡くなってから調子が悪くて」
「しっかりしてくださいね」
16歳も下の子供にたしなめられる。どこか屈辱的ですらある。
かつて妻がいた。だがその妻も病気で亡くなり今は独り身である。一人というのはつらい。自分の狂いを修正してくれる人がいない。自分が何とかここまでこれたのは妻や両親のおかげである。だが、まさか妻までもが自分より早く他界しようとは。

まさかあのポストがあいた時に発症するとはね
勉強のし過ぎも考え物だとは思う。100人に1人の病気とは言え、自分がかかるとは思わなかった。まさにビューティフルマインドだ。自分には寄り添う人がいてくれたが、その人もいなくなった。結果としてこのありさまだよ。私は、だいぶ日常生活に支障をきたすようになっていった。誰にもこの病気のことを話したことはなかったが、みんな、薄々、様子がおかしいことはわかっているようだった。さすがに私は神だとは思わないが、人間嫌いの私にはより一層殻にこもりそうになる。

投資した金と貯金。それに地位もある。大丈夫だ。大丈夫なんだ
自分にそう言い聞かせる。心は折れない。REWORKも必要ない。ここまで走ってきたじゃないか。隠し通してきたじゃないか。その思いがぐらぐらと揺れるのを感じた。足元をネズミが走る。政府からの陰謀ではないだろうかと邪推してしまう。その瞬間、確かに自分は今、病識があることを確認する。でも講義もある。多元宇宙論の講義である。哲学や理系の講義はこの病気とは相性が悪い。わかっている。わかっているんだよ。でもそれを仕事にしてしまった手前、いかないわけには。

講義を終える
講義を終えた。壮年になって、知識の無意味さを実感する。知識よりも家庭の温かさのほうが大事なのだ。
「父さん」
息子がやってきた。最高学府を何とか乗り越えてくるだけのことはある。精悍とした顔をしていた。
「何だね?」
「やけに疲れた顔をしているけど、薬はしっかり飲んでるの?」
「あぁ、最近ちょっと疲れていてね。お母さんが亡くなったからかな」
「ストレスをためないようにしないと。病気の症状は出てない?」
「大丈夫だ。大丈夫なんだ」
「車の運転はしないで、タクシーを使ってね。」

独り暮らしの自宅に帰る
自宅に帰るとすぐにヘルパーさんを呼んだ。これまで妻がいたからできたことが自分ではできなくなりつつあった。寝込むことも増えた。風呂に入れないことも。個人事業主なのにこのままだと脱税してしまう。
様様な問題が降りかかる中、頭の中はやらねばならないことのパニックで思考回路はショート寸前であった。妻に会いたかった。
狂気を得るということはちせい以外のすべてを失うことと言ったのは誰であったか?
すっかり忘れてしまったが、もしそうであるのならば、俺は狂気なんてものはいらないのである。世の中には働けない人間が山ほどいるが本来は自分もそのうちの一人だったのかもしれない。

それがたまたま地位と名声と知能を得たに過ぎない
そもそもが人とは何であろうか。無限に増え無限に減り最終的にこの世を食いつぶす地球のがんのような存在ともいえるのではないか。一説によると、ここ20年でポールシフトのような現象を実際に起こしてしまったのではないかというデータもある。
人とは何であるのだろうか。知性とは?理性とは?
そんなことを考えていると、大林君が私を呼んだ。
「先生、今日も空は明るいのに散歩には行かないんですか?」
そうだ。私はやらなければならない作業があった。子供たちには財産は託したのだ。
私にはもう何もないはずなのだ。なのになぜ、「地位と名声」のことを考えているのだ?
大学教授の座だってとっくに降りている。
私は誰だ?

その瞬間、私は自分がどこにいるのかはっきりとした気がした。財産を息子に受け渡し、グループホームに転居した元大学教授。それが私じゃないか。妻がなくなったときからだいぶ前後不覚になっていた息子の計らいで、生活保護を受けることになり、財産を譲渡し、グループホームに入ったのではなかったか?
LINEで息子に連絡を入れる。
「ここはどこで私は誰だ」
息子からの返事はつれないものだった。
「父さんはグループホームに入ったんだよ。もう大学教授を辞めて8年もたつじゃないか。
他の大学の人たちには体調を崩して隠居しているって言ってあるから大丈夫だよ。」
「妻は妻はどこだ?」
「亡くなったよ。父さん、いつも首から遺骨のペンダントネックレスぶらさげてただろ?」
みればたしかにくびからぶらさげている。俺は狂ってしまったのか。俺は俺がわからなくなる。
「このおおばやしくんは」
「大林さんはグループホームの職員さんだと思うよ、知らんけど」

世の中には才能がある。
世の中には才能があるのだと思う。それが失われてしまっただけなのだ。終世正気を維持するのは一般人男性でも難しいのだ。悲しいけどね。

       

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