青春小説集「リンだリンだ」追加
「リンだリンだ」
この間二週連続金曜ロードショーで「アナと雪の女王」「アナと雪の女王2」が放送された。元々DVDで持っている二作だが、妻が料理中に録画した方を流していた。途中で挟まるCMにザ・ブルーハーツ「リンダリンダ」が使われており、繰り返し流れるため、息子が「リンダリンダ」を口ずさむようになった。布団を敷く際に流してみると、途中はよく分かってないが「リンダリンダ」の部分では楽しそうに歌う。このようにして歌は歌い継がれていくのだな、と感じた。
その様子を見て一つ思い出した話があった。昔あるところに、地質学者兼パンクロッカーがいた。彼は日本でリン鉱石を探すことに生涯を賭けていた。日本のように火山活動の活発な地域では、堆積岩であるリンの鉱石は形成されにくい。肥料などに重要な役割を果たすリンを、日本はほとんど輸入に頼っている。彼は、いや本当のことを言おう(リンの話なのに硫黄)。地質学者兼パンクロッカーとは私のことだった。あと地質学者ではなかった。
私は日本各地の山々を巡り、リン鉱石を探し求めた。それらしき岩を見つけるたびに「リンだリンだ!」と叫んで飛び跳ねた。しかし少し検査してみれば、それはリン鉱石でないことはすぐに判明するのだった。何百回と「リンだリンだ!」と叫び、飛び跳ね、足首を痛めた。全てが空振りだった。大抵の失敗には何かしら意味が付随して「今思えばあの時の失敗体験があったからこそ」みたいな流れになるものだ。しかし元々リン鉱石の望み薄な国で、勘を頼りに適当に掘っていただけだから、失敗は目に見えていた。ただただリン鉱石探しに生きる意味を見出したい一時期があった、というだけだ。
私はパンクバンドのライブで「リンだリンだ」という自作の曲も披露した。どういうわけか「パクリだ」と非難轟々だった。偶然同じような題名の曲があったらしい。私は見せかけだけのパンクファッションで身を固め、ぴょんぴょん飛んではすぐに足を痛める、偽物のパンクロッカーだった。実はパンクロックを一度も聴いたことがなかった。あと地質学者ではなかった。
「リンだリンだ」
どろどろの ミカンに
うずもれて 死にたい
借金まだ 返せない
山の中 歩くよ
後は「リンだリンだ!」のフレーズを繰り返す。歌詞はその都度変わる。よくステージに物が投げ込まれた。あと本当はバンド組んでくれる人なんていなかったから、カラオケで演奏を流していた。持ち歌は一曲しかなかった。ライブのたびにボコボコにされた。
ここまで読んでくれてありがとう。薄々気付いている人もいるかもしれないが、上記の話は嘘だ。息子がリンダリンダを歌ったあたりまでは本当だ。歌詞の引用は駄目だからそれらしい替え歌にしてみたら、よりいっそう危ない感じになってしまった。あとリン鉱石を探し求める地質学者兼パンクロッカーってなんだ。
最近子どもたちとは「ダンダダン」「ホリミヤ(二週目)」を観ている。恋愛シーンが入ると子どもたちがいちいち私の顔を確認して「大丈夫?」と聞いてくる。恋愛シーンアレルギーで父が倒れるかと心配しているのだ。堀と宮村の手を繋ぐシーン、恋人繋ぎに繋ぎ直すシーンで、「パパは恋人繋ぎしたことある?」と煽ってくる。
だから新しい進化論を考えた。
ありもしない記憶をあったことに置き換える試みに失敗し続けているので、別の方向から攻めてみることにしたのだ。
猿は手で道具を用いるようになり、脳が発達してヒトへと進化していったという説がある。私はそうではないと推論する。手は道具も使うが、進化の道のりを速めたのは、相手と手を繋ぐ、という行為だったのではないか。仲間と協力する、誓いを交わす、親愛の情を示す、恋人に愛情を伝える、猿たちがそのように手を繋ぐようになったからこそ、我々の祖先であるヒトへと繋がっていったのではないか。他者の温もりをその手で感じることで、自他の違い、他人への思いやり、そして愛情という感情、そういうものを獲得していったからこそ、猿はヒトへと成っていった。そんなことを考えていた。
この説はまだ娘には説明していない。ちょっと難しいかなとも思う。その代わり「恋愛=ネギ論」を話した。犬はネギの類を食べてはいけない。犬にとってはアレルギーを引き起こす成分が含まれているからだ。つまり私にとって恋愛小説とか漫画とか映画というのは、犬にとってのネギのようなものであり、摂取してしまえば重篤なアレルギー症状を引き起こすために、敢えて避けてきた、という持論を展開した。
Web漫画「堀さんと宮村くん」を読んだのは大人になってからだ。アレルギーもいつのまにか消えていたのだろう。いつまでも「ベジータとブルマがくっついてた」という事実にドキドキしていた少年時代のままではいられないというわけだ。
日本にありもしないリン鉱石を求めるパンクロッカーのやっていたことは、全て無駄だったのだろうか。しかし夢というのはえてしてそういうものかもしれない。ありもしない物を夢中で追いかけているうちに、いつの間にか、傍らにあった一番大事なものに気付く、というような。いつでも隣にいた存在こそが、かけがえのない物であった、というような。たとえば、ずっと一緒に旅していた少女が、実は重要人物だった、というような。「北斗の拳」で、主人公のケンシロウと旅していた少女、彼女は実は天帝(なんか偉い人)の双子の妹だった、ということが判明する。そんな感じではないか。あの少女の名前は何といったか。そうだ、リンだ。リンだリンだ!
(了)
その様子を見て一つ思い出した話があった。昔あるところに、地質学者兼パンクロッカーがいた。彼は日本でリン鉱石を探すことに生涯を賭けていた。日本のように火山活動の活発な地域では、堆積岩であるリンの鉱石は形成されにくい。肥料などに重要な役割を果たすリンを、日本はほとんど輸入に頼っている。彼は、いや本当のことを言おう(リンの話なのに硫黄)。地質学者兼パンクロッカーとは私のことだった。あと地質学者ではなかった。
私は日本各地の山々を巡り、リン鉱石を探し求めた。それらしき岩を見つけるたびに「リンだリンだ!」と叫んで飛び跳ねた。しかし少し検査してみれば、それはリン鉱石でないことはすぐに判明するのだった。何百回と「リンだリンだ!」と叫び、飛び跳ね、足首を痛めた。全てが空振りだった。大抵の失敗には何かしら意味が付随して「今思えばあの時の失敗体験があったからこそ」みたいな流れになるものだ。しかし元々リン鉱石の望み薄な国で、勘を頼りに適当に掘っていただけだから、失敗は目に見えていた。ただただリン鉱石探しに生きる意味を見出したい一時期があった、というだけだ。
私はパンクバンドのライブで「リンだリンだ」という自作の曲も披露した。どういうわけか「パクリだ」と非難轟々だった。偶然同じような題名の曲があったらしい。私は見せかけだけのパンクファッションで身を固め、ぴょんぴょん飛んではすぐに足を痛める、偽物のパンクロッカーだった。実はパンクロックを一度も聴いたことがなかった。あと地質学者ではなかった。
「リンだリンだ」
どろどろの ミカンに
うずもれて 死にたい
借金まだ 返せない
山の中 歩くよ
後は「リンだリンだ!」のフレーズを繰り返す。歌詞はその都度変わる。よくステージに物が投げ込まれた。あと本当はバンド組んでくれる人なんていなかったから、カラオケで演奏を流していた。持ち歌は一曲しかなかった。ライブのたびにボコボコにされた。
ここまで読んでくれてありがとう。薄々気付いている人もいるかもしれないが、上記の話は嘘だ。息子がリンダリンダを歌ったあたりまでは本当だ。歌詞の引用は駄目だからそれらしい替え歌にしてみたら、よりいっそう危ない感じになってしまった。あとリン鉱石を探し求める地質学者兼パンクロッカーってなんだ。
最近子どもたちとは「ダンダダン」「ホリミヤ(二週目)」を観ている。恋愛シーンが入ると子どもたちがいちいち私の顔を確認して「大丈夫?」と聞いてくる。恋愛シーンアレルギーで父が倒れるかと心配しているのだ。堀と宮村の手を繋ぐシーン、恋人繋ぎに繋ぎ直すシーンで、「パパは恋人繋ぎしたことある?」と煽ってくる。
だから新しい進化論を考えた。
ありもしない記憶をあったことに置き換える試みに失敗し続けているので、別の方向から攻めてみることにしたのだ。
猿は手で道具を用いるようになり、脳が発達してヒトへと進化していったという説がある。私はそうではないと推論する。手は道具も使うが、進化の道のりを速めたのは、相手と手を繋ぐ、という行為だったのではないか。仲間と協力する、誓いを交わす、親愛の情を示す、恋人に愛情を伝える、猿たちがそのように手を繋ぐようになったからこそ、我々の祖先であるヒトへと繋がっていったのではないか。他者の温もりをその手で感じることで、自他の違い、他人への思いやり、そして愛情という感情、そういうものを獲得していったからこそ、猿はヒトへと成っていった。そんなことを考えていた。
この説はまだ娘には説明していない。ちょっと難しいかなとも思う。その代わり「恋愛=ネギ論」を話した。犬はネギの類を食べてはいけない。犬にとってはアレルギーを引き起こす成分が含まれているからだ。つまり私にとって恋愛小説とか漫画とか映画というのは、犬にとってのネギのようなものであり、摂取してしまえば重篤なアレルギー症状を引き起こすために、敢えて避けてきた、という持論を展開した。
Web漫画「堀さんと宮村くん」を読んだのは大人になってからだ。アレルギーもいつのまにか消えていたのだろう。いつまでも「ベジータとブルマがくっついてた」という事実にドキドキしていた少年時代のままではいられないというわけだ。
日本にありもしないリン鉱石を求めるパンクロッカーのやっていたことは、全て無駄だったのだろうか。しかし夢というのはえてしてそういうものかもしれない。ありもしない物を夢中で追いかけているうちに、いつの間にか、傍らにあった一番大事なものに気付く、というような。いつでも隣にいた存在こそが、かけがえのない物であった、というような。たとえば、ずっと一緒に旅していた少女が、実は重要人物だった、というような。「北斗の拳」で、主人公のケンシロウと旅していた少女、彼女は実は天帝(なんか偉い人)の双子の妹だった、ということが判明する。そんな感じではないか。あの少女の名前は何といったか。そうだ、リンだ。リンだリンだ!
(了)
あとがき
北斗の拳って終盤にラオウの息子が登場するのですが、原作者もあまり覚えてない設定とかで、アニメなどでもそこまでは触れられていなかったため、知らない人も多いんですよね。中学の頃「ラオウには息子がいる」と言っても信じてもらえなくて悲しい思いをしました。つまりリンダリンダを歌う息子を見て、リン鉱石を探すパンクロッカーの話が出てくるのは、ごく自然な流れだったということです。(リンの話なのに硫黄)とか、書くのを止めない時点で中年になったなと実感します。ブルーハーツで一番好きな曲は「夜の盗賊団」です。
北斗の拳って終盤にラオウの息子が登場するのですが、原作者もあまり覚えてない設定とかで、アニメなどでもそこまでは触れられていなかったため、知らない人も多いんですよね。中学の頃「ラオウには息子がいる」と言っても信じてもらえなくて悲しい思いをしました。つまりリンダリンダを歌う息子を見て、リン鉱石を探すパンクロッカーの話が出てくるのは、ごく自然な流れだったということです。(リンの話なのに硫黄)とか、書くのを止めない時点で中年になったなと実感します。ブルーハーツで一番好きな曲は「夜の盗賊団」です。