「――ご無事ですか、陛下!」
肩ごしに聞こえた兵士の声で、玉曜帝はやっと我に返った。玉座が呑まれた瞬間、彼に腕を引かれたようだ。帝はこわごわと目を落とす。投げ出された自分の足から、わずか一寸ほどの距離に、裂け目がある。帝は深く息を吐いて、皮一枚でつながった幸運に感謝した。
「この国を治めて五十年……かように巨大な”裂け目”が、宮殿にまで出るとは……」
帝は呆然と呟いた。御殿のあちこちから、ざわめきに雑じって悲鳴が聞こえた。ある女官は膝をつき、友の名を呼んでいる。ある兵士はすっかり腰が抜けて、槍で何もない空中を突いている。混乱と恐怖が、空気に広がって行く――「陛下」
底をずるりと這うような声音に、横を向く。司礼監の楚文礼が膝をつき、袖を合わせていた。自宮した人間によくある、年に合わない弾力のある肌。かん高い声がなぜか耳にさわって、玉曜帝は眉をひそめた。
「この巨大な裂け目……やはり"囚影塔"のあれではありませんか?」
幸運なことに、楚司礼監の言葉は正に皇帝の望み通りだった。楚司礼監は合わせた袖の中でしきりに手をもみしだきながら続けた。
「あの凶兆が産まれてからというもの、裂け目の出現が止まりませぬ。囚影塔には”大災”も封じられておることですし……」
「ううむ……しかし、囚影塔におるのは……」
「陛下!お心が痛むのは分かります。されど、国のためにご決断なさりませ!あの凶兆がどれほどの怪異を引きよせてきたか……!」
楚司礼監に押されて、皇帝はとうとう頷いた。
「……兵部に命じて、あの凶兆を処刑させよ」
ついに不可逆の命令を出した皇帝の顔には、深い悲しみが宿っていた。
◆
派手な服を着た芸人が井戸のふたに座って、自鳴琴の取っ手を回す。からからと鉄紙が吐き出されながら、音楽が鳴った。灰色の空が、ごろごろと鳴る。雨の気配に、子供たちはたまに不安げな表情で空をあおいだが、人形師が笹飴を配ると、けろりと忘れてしまった。井戸を囲んで座り、飴を舐めながら紙芝居を見つめる。
「さあ子供たち、今日は恐ーいお話だよ」
芸人は紙芝居をめくる。重なった小さな紙を引くと、自鳴琴の音に合わせて、道士の人形が剣をふった。
「かつてこの世に大なる災ひ降り来たりき。世の半ば『裂け目』といふ裂け目に呑まれ、裂け目より現れし化物ども、人々を脅かし惑はしたり」
芸人が語りだすと、子供たちは食い入るように絵を見つめる。
「かの大災を招きし男あり、その名をば夏一鳴といふ。人々、これを天幽老祖と呼びて恐れ畏れたり……」
◆
囚影塔――。それは旧都の跡地に作られた、罪を犯した皇族を幽閉するための塔だ。城壁で守られた王都の門を出て、五公里ほどで見える。苔むした廃墟が沈んだ沼の中にあり、高さはおよそ六十尺。全ての窓には鉄格子が嵌まり、強い結界と沼に守られて、外には絶対に『災厄』が出ないようになっている……。
「あそこに”凶兆”がいるのか」
船を漕ぐ兵士は、ぶるりと背中をふるわせる。灰色の空と、鳥の声すらしない、死の気配に満ちた沼があいまって、なんとも禍々しい。塔の頂上には燈と旗が付いているが、霞んで見えない。ここが国、ただ一人の皇女が住まう所とは、にわかに信じがたかった。
「陛下からは、凶兆を殺せとのご命令だ。……頂にいる”大災”には手を出すな、とさ」
もう一人の兵士は座って、刀を磨きながら言った。
「そうか。だから俺たち二人だけなんだな」
漕ぎ手の兵士はやっと理解したようだ。
「ああ、子供を殺すなんて、胸くそ悪い任務だが。さっさと終わらせよう」
塔の階段は、沼から半分だけ出ている。二人はそこに船をつけて、階段に足をかけた。
◆
同時刻。塔のらせん階段を駆け上る影があった。まだ幼い皇女と、その手を引いて走る赤毛の女官。女官は時々ちらりとふり返って、主が苦しげな呼吸をしながら必死についてくることに、痛ましげに眉をよせた。
「大丈夫ですか、
「うん、
仙月はうなずき、安心させようと微笑んだ。つながれた冷たい手から、笙鈴の緊張が伝わる。三つ編みの赤髪がせわしなく揺れるのも、ひび割れた石壁に反響する靴音も、仙月の不安をじわじわとかきたてる。
(この塔に逃げる所なんかない……笙鈴、何を考えているの?)
赤子のころから一緒に暮らす女官の気持ちが分からないのは、初めてだった。走るたびに、ぱさりと落ちる白髪が視界をふさぐ。この白髪が、仙月をこの冷たい塔に閉じこめ……今、殺そうとしている。仙月は髪を耳にかけて、脚を動かすのに集中した。
「ああ、またっ……忌々しい扉だ!」
笙鈴は扉に阻まれるたび、腰帯から下げた鍵を穴に差しこむ。錆び付いてなかなか開かないのを、もどかしそうに叩いた。
最上階まで駆け上がり、回廊に出る。仙月は鳳凰の装飾がほどこされた柱の向こうに広がる、灰色の空に目を向けた。雲にぴしっと電光が走り、回廊を白く照らし出す。遅れて、恐ろしい雷鳴が轟く。回廊を抜けてまた建物の中に入ると、仙月は心からほっとした。
「っ、ここはなに?」
仙月は走りながら聞いた。まっ白な壁には一つも扉がない。ひたすらに長い廊下の終点に、石造りの小さな門がぽつんとあった。赤い扉には、封印札がぺたりと貼られていた。
「ど、どうしよう。笙鈴……」
仙月は泣きそうな顔になった。すぐ後ろから、兵士たちの足音、鎧の金具がぶつかり合う音が近付いてくる。笙鈴は唇を結んで、しばらく考えて。覚悟を決めた。足を止めて、息を切らす仙月と向かい合う。
「仙月様。ここは私にお任せ下さい。これでも武門の出。足止めくらいはできます」
「で、でもっ……」
「向こうに門扉が見えますね。あれは見かけより軽いので、あなたでも開けられます。あそこを抜ければ、封印の間に出ます」
「封印の間……?それって、まさか」
「そう。大災が封じられている、忌み間です。兵士ども、さすがに呪われたくはないでしょう。ご安心ください。すぐに迎えに参ります」
笙鈴は微笑みを浮かべて、仙月の顔の部品を一つずつ、確かめるようになぞる。
「忘れないで下さい。笙鈴は、あなたを心から愛しております」
笙鈴は最後にぎゅっと抱きしめて、優しく囁いた。
「――行ってください!」
強く突き飛ばされ、仙月の足はよろめいた。同時に回廊とへだてる扉が蹴破られ、兵士たちが入ってくる。彼らは笙鈴が守る少女を見つけると、ためらいがちに武器を構えた。
「……っ、約束、忘れないで」
仙月は踵を返し、走り出す。笙鈴は満足げに目をふせて、袖からするりと鎖付きの暗器を出した。黒光りする柳葉飛刀を両手に構え、腰を落とす。――絶対に守る。敵を睨み付ける瞳には、強い意思が宿っていた。
◆
「はあっ、はあっ……」
仙月は息を切らして、必死に走った。心臓が痛い。喉がひりつく。瞬きのたびにぼやけた視界が揺れて、熱いものがこぼれた。
(どうして?私、ずっと我慢したのに!)
やるせない悲しみが、仙月の頭の中をぐるぐると回った。かびくさい、沼から嫌な匂いが上がってくる寒い塔に暮らしていた。何の罪が自分にあるというのか。友達は女官とねずみだけ。もし皇太子だった父が生きていたら……仙月は頭をふって、何回も考えた『もし』をふり切った。産まれたその日に、囚影塔に閉じこめられた。金仙月は一回も、祖父である皇帝に不満を伝えたことすらない。――その終点がこれか!彼女の中で、怒りがふつふつとわき起こる。まずはあの兵士どもから逃れて、隠しておいた船の所へ行く。
(死んでたまるか。こんな所で……絶対に、生き残る!)
仙月は門扉に辿り着くと、迷わず封印札を剥がした。全身の力をこめて、門扉を押す。
「わっ……本当に軽い。……いたっ!?」
あまりに軽すぎて、足がつんのめる。顔から転んで、仙月は「うぅ……」と痛みに唸った。起き上がり、目を暗闇に慣らそうと、ぱちぱちと瞬かせる。そこはまるで洞窟だった。岩を切り出して造られた巨大な空間は、塔の中とは思えない。大きな階段があり、薄闇の中にぼんやりとその果てをかすませていた。
「……っ!」
仙月ははっと我に返り、門扉を閉めた。錠がないのは恐いが、笙鈴の言う通り、兵士たちが呪いを恐れることを願おう。
「ここに“大災”が……?」
ためらわれるが、ほかに行く所はない。階段を上り切ると、ぽっかりとした円形の広場に出た。かつては反逆者たちの首を落としたそこは、いまは大災を封じる場所だ。
「……っ」
仙月はこわごわと『大災』に目を向けた。天井と壁からのびる鎖で吊るされたかたまりは、無数の呪符に覆われ、その下にある体は見えない。薄闇の中に浮かびあがったそれは、さながら虫の蛹のようだった。仙月はごくり、と唾を呑んで。一歩ずつ、かたまりに近付く。
「これが大災……天幽老祖、
すぐ触れそうな距離に、世界を混沌に落とした災厄がいるのは、不思議な気分だ。仙月の手が、鎖をかすめる。
「いっ……!」
指先にぴりっ、と鋭い痛みが走った。鎖は危険性を知らせるように、ほのかに赤く発光する。仙月はこわごわと手を離し、かたまりを見つめる。ぎっちりと重ねられた護符は黒ずんで、梵字の墨もにじんでいる。かたまりが微かに揺れるたび、重い鎖はぶつかり合い、ぞっとするような音をあたりに響かせた。
「笙鈴……」
仙月の足元から、じわじわと不安が上ってくる。遅い……。笙鈴は天壇を守る隊卒の娘だ。兵士くらいなら倒せる……はず。
「お願い、母上……笙鈴を守って」
仙月は指を組んで、亡き母に祈った。
◆
「ハァッ、ハァッ……くそ、手こずらせやがって」
兵士は刀を床に突き立て、膝をつく。肩で息をしながら、やっと動かなくなった女官に目を向ける。血の海に横たわる彼女は、まだ小刀をしっかりと握りしめていた。
「だいぶ時間を食ったな……おい」
壁にもたれた仲間に声をかける。返事がない。肩をつかんで揺すると、頭はがくんと落ちた。
「……っ!」
喉仏に触れて、脈がないのに息をのむ。兵士はしかたなく、ぼろぼろに刃こぼれした刀の代わりに、彼の大刀を取った。
「行くか……」
嫌な役目を一人でやらなくてはいけない不運に、ため息を吐いた。踏みだした靴底から、びちゃりと血が跳ね上がる。兵士はこわごわと靴を離し、もう動かない体を跨ぐ。その時、光をなくした笙鈴の目からひとすじの涙がこぼれた。誰にも見られることはなく。
◆
ばたん、と門扉が蹴破られた。
(笙鈴……!)
仙月ははっと気が付いてふり返る。兵士は彼女を見つけると、辛そうに眉をよせた。
「どうか安らかに、天におのぼり下さい」
兵士はそう言って、大刀の切っ先を仙月に向ける。
「いやっ……!」
仙月はまだ逃げようと後ずさる。その拍子に、袖が後ろのかたまりに触れる。指先がたわんだ紙をかすめた、瞬間。かたまりはどくんっ、と大きく脈打った。
「うっ……!」
強い光が、ぱあっとかたまりの中から放たれた。兵士は思わず目をつぶる。眩しさによろめいた仙月の手が、とっさにかたまりをつかんだ。まだ濃かった呪符の文字がすうっと消えて、ひらり、ひらりと剥がれていく。
「あれは……まさか」
瞬きの向こうに見える影に、兵士は目を疑った。絵でしか知らないが、あの石黄色の羽織。片目の隠れた黒髪。腰帯から下げた刀剣――聞いた通りの姿だ。無数の呪符が舞う中で、彼はゆっくりと目を開ける。その手は仙月の肩をしっかりと、守るように抱きよせていた。
「天幽老祖……!!」
兵士は唇をふるわせ、恐怖の表情で叫んだ。
◆
初めに感じたのは、肩を抱く手の温かさ。粉雪のように舞った無数の呪符は端からじりじりと焦げたかと思うと、ぼうっと一斉に燃え上がった。
「……!」
仙月は目を瞠る。火の粉が肌に触れたが、じゅっと音をさせ蒸発するだけで。熱くも痛くもない。
「ひっ……た、大災が……!」
兵士は恐怖で、がたがたと震えだす。へっぴり腰になって、大刀は床をこする。すっかり威圧されて、戦う意思がない。一鳴はそれを見て、はあ……と深いため息を吐いた。
「お前、禁軍府の兵士だろ。情けねえ……」
「お願い!殺さないで!」
兵士はとうとう大刀を放り出し、勢いよく土下座する。ごちんっと床に打ち付けた頭から、兜が外れて転がる。仙月は呆れ顔で、必死に命乞いをする兵士を見下ろした。
「うわっ!?」
兵士の体が、ふわりと浮いた。まるで糸で吊り下げられたように。一鳴がくい、と指を曲げれば、彼の体はぐるぐると宙を回る。
「ギャー!!助けて下さい!俺何もしません!あなたのことは喋りません!」
手を合わせて叫んだ兵士に、一鳴は「それだけか?」と冷たい声で聞く。
「こっ、皇女殿下も殺しません!天に誓います!!」
その瞬間、一鳴はぱちんっ、と指を鳴らす。兵士を吊っていた透明な糸が、ふっと切れた。
「へっ……?ぅあ、あああああ……!!!」
兵士の絶叫は尾を引いて、消える。まっさかさまに落ちた体は、床のすれすれでぴたり、と止められていた。
「ったく、だらしないな。これで皇族を守る禁軍府とは……」
一鳴は腕を組み、鼻水を垂らして気絶した兵士を眺める。紺色の袴が、じわりと濡れている。可哀想なので、仙月はそっと目をそらしてあげた。
「――おい、皇女殿下。お礼はどうした?寝覚めに助けてやったんだぞ」
ぞんざいな呼びかけに、仙月はむっと口を尖らせる。
「ありがとう。……助けてくれたのは、感謝してる」
「本音みたいだな」
一鳴は「今はそれでいい」と目を細めた。
「皇帝の命令は絶対だ。夕刻になってもお前の骸が城に届かなければ、もっと多くの兵が差し向けられるだろうな」
一鳴は淡々と話しながら、兵士の装備を漁る。
「チッ、しけてんな」
腰から下げた巾着袋をひっくり返して、転げ出たものに舌打ちする。干し肉と低品質の丹薬……霊気切れの時に服用……。あとは手作りと思しきお守り。一鳴はそれだけは、兵士の手に握らせてやった。
(むぅ……大災も、いいことするのかな?)
仙月は彼のことが、まだよく解らない。一鳴は使えそうなものだけを袋ごとかっぱらい、腰帯から下げた。
「指名手配が出るはずだ。国のどこに逃げても危ない。まずは京城を出ないとな」
一鳴は兵士の脚をつかんで、ずるずると壁際まで引きずりながら言った。
「ふーん。……って、一緒に!?」
目を丸くすると、一鳴は眉をよせる。当然だろ、と言うように。
「ああ、それとも……”箱入り”の皇女殿下は護衛などいらないと?」
おちょくるような口調に、仙月はふぬぬ…と体をふるわせ悔しがる。
「た、”大災”になんか、守ってもらわなくていいもん」
強がると、一鳴は一瞬たじろいだ。黄色い瞳に、わずかな悲しみが揺れる。伝え聞いた天幽老祖の恐ろしさとは、あまりに違う……置いてけぼりにされた子供のような表情に、仙月はぐっとたじろいだ。
「……お前を守りたい理由は、まだ話したくない。話しても信用できないだろ。お互いを知らなすぎるからな。俺は意味のないことはしないんだ」
一鳴はそれだけ言って、背を向ける。
(私を見捨てないのは、意味があること、なんだ)
ますます謎が深まったが、仙月は大人しく後を付いて行く。彼の言う通りだ。自分は何の能力も、守ってくれる人もない。この細い糸をたぐるしかない。
「……さっきは、ごめん」
「かまわないさ。誰だって同じことを言うはずだ」
一鳴は淡々と返す。仙月は苦い気持ちを噛みしめて、彼の後をついて行った。
◆
一鳴が扉を押すと、鉄錆の匂いが漂ってきた。
「笙鈴……」
仙月は呆然と呟き、よろよろと廊下に踏み出す。しゃがみこんで、まだ飛刀を離さない手を取る。微かに温もりの残る手に頬ずりすると、涙がこぼれた。
この囚影塔に幽閉されてから、笙鈴は一日と欠かさずそばにいた。
遊びたい年ごろの少女が、かじかむ手で洗濯も掃除もした。嫌いなものは代わりに平らげて、勉強も遊びも全部、嫌な顔一つせずに付き合ってくれて……笙鈴は、世界の全てだった。なら、笙鈴は?彼女は幸せだったのか?仙月の胸は鈍く痛んだ。
「ごめんね、笙鈴……」
そこで、肩にぽんと手がのせられる。ふり向くと一鳴は眉を下げた、どう声をかけるべきか悩むような顔をしていた。
「謝らなくていい。お前の気持ちは理解できるが……謝罪は、彼女の人生に敬意を払うことにならない。それに……いくら重ねても、何も生まないんだ」
「でもっ……」
「彼女の望みは?」
聞かれて、はっと思い出した。
『――あなたを心から、愛しております』
口数の少ない笙鈴が、まっすぐな言葉で告げた。口角を上げた、下手くそな笑顔。そうだ、彼女のためにできることは……生きることだけだ。
「……あなたと一緒に行く。あなたがどんな人間でも……私は、生きる」
仙月は覚悟を決める。ぎゅっと拳を握りしめ、顔を上げる。甘やかな皇女だった顔つきが変わったのに、一鳴は「よし」と満足げに微笑んだ。
「彼女を放っておいて、いいのか?」
「うん。……お母様が、連れて帰りたいだろうから」
仙月はちらりとふり向いて、血の海を目に焼き付ける。
(――ありがとう。私は生きるよ。君が望んだように)
声にせず呟いて、また前を向いた。
◆
「笙鈴が用意した”隠し階段”はここなのか?」
「そう聞いてるけど……」
仙月は自信なさげに口ごもる。二人がいるのは、ここが要塞として建てられた時にできた小部屋だった。床には古い矢や紙くずが散らばっている。部屋には見張りのための小さな窓が一つだけある……。
「わ、私から行くね……ひぃっ!た、高いっ……!」
「当たり前だろ」
仙月は窓からするりと外に出て、壁を背にして窓枠に立つ。
「くっ……」
大人の一鳴にはきついのか、腹のあたりが引っかかっていた。仙月は恐る恐るしゃがみこんで、彼の腕を引っぱる。一鳴は腹に力を入れてへこませて、どうにか抜けた。
「よっ……と、何とか出られた……で、仙月。これのどこが”階段”だって?」
一鳴は顔をしかめる。ひゅう……と風が吹き抜け、一本だけぶら下がった鎖をかちかちと揺らした。二人は上に目をやって。その鎖が頂上の宝珠から垂れ下がっているのを見た。
「笙鈴はどうやってあそこまで登ったんだろう……」
新しい謎が生まれる。一鳴は鎖を軽く引っぱって、しっかりと宝珠に繋がっているか確かめた。
「ほら、行くぞ。また地上までの階段を走るよりは速い」
「き、君は軽功があるだろうけどっ……」
仙月はこわごわと、はるか下の地面に目を向ける。ぺちゃんこに潰れた自分を想像してしまい、背中にぶるりと寒気が走った。塔暮らしで高い所は慣れっこのはずなのに!一鳴はため息を吐いて、仙月を両手でぐいっと抱え上げた。
「わっ!?」
とっさにしがみつくと、一鳴は「よし」とうなずいて、鎖を片手でつかむ。何回か引っぱって、強度を確かめる。
「行けそうだな。舌噛むなよ」
一鳴は床を蹴って、鎖を両脚ではさんだ。鎖を握りしめる手に、青い燐光が走る。重力に従って、一気に滑り降りた。仙月の耳元でごうっと風が鳴り、空がぐんぐん遠ざかる。腹の底がふわりと浮く感覚に、仙月は高い悲鳴を上げて、目を瞑った。霊気をまとった一鳴の手から、火花が散る。さすがに二人分の体重はきついのか、鎖の環は少しずつ砕けて、鉄の粉がぱらぱらと舞う。
「もってくれよっ……!」
一鳴は呟いて、手から霊気を流しこむ。鎖にまとわりついた青い光が、壊れた環をつなげる。一鳴は細い体を抱える片腕に、守るように力をこめた。地面に両足が付くと、一鳴は心からほっとする。手を離すと、霊気はすうっと手のひらに吸いこまれ、鎖は砕けて地面に転がった。まだ目を瞑って、ぷるぷると震えている少女に「おい」と声をかける。
「しっ……死ぬ……」
「まだ生きてる。だから目開けろ。子守の約束まではした覚えがないぞ」
一鳴はうんざりした様子で、しがみつく体を引っぺがした。仙月はこわごわと下りて、固い石床を踏みしめて。「生きてる……」と深く息を吐いた。二人が下りたのは、小さな石造りの桟橋だった。藁のむしろを剥がすと、小さな船がある。笙鈴は『もしも』をずっと考えてくれていたらしい。
「よし、乗って!さっきのお返しだよ」
「……その自信、信じていいんだろうな」
貸しを作りたくない仙月は、急いで船に乗りこむ。櫂を握りしめて「ふんっ……」と力をこめる。
「あ、あれっ?動かない……ふんっ!」
もう一回、全身の力をこめる。櫂はまるで石になったように、ぴくりとも動かない。一鳴はため息を吐いて「貸せ」と櫂を奪った。
「どれどれ……ああ、やっぱり。泥に嵌まってる」
一鳴は慣れた手付きで櫂を引き抜き、漕いでいく。船はゆっくりと、沼を走り出した。囚影塔の明かりが、遠ざかって行く。窓のあたりから、煙が出ている。どうやら入れ違いに兵士たちが突入して、二人を探しているらしい。
(さよなら。笙鈴。さよなら……私の家だった所)
仙月は船のふちにもたれて、空をあおぐ。陽の色から紺碧にうつりゆく空は雲もなく、星がぽつぽつと輝き始めていた。仙月は大きく息を吸って、吐く。肌を撫でる冷たい風を感じる。
(私は、自由だ)
初めて手にした自由に、仙月の瞳から熱い涙がこぼれ落ちた。彼女は思った。何が起こっても、この嬉しさだけは忘れたくないと。