Neetel Inside 文芸新都
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漂泊者
1.ネパール「カツ丼」(2025/07/22更新)

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 一ヶ月もの間、日本食を食べなかったことがこれまでの人生で一度も無かった。それはきっと些細でありふれたことのようで実は幸福なことなのだろう。どこか日本人向けの味付けから外れたビリヤニと、ターリー、傷んだビニヤリ、それにマクドナルドかバーガーキングいずれかのバーガー。
 あの時インドで食べたきっと大釜の中で時間が経った冷えたビニヤリのせいでお腹を壊したのは明白で、体内の水分を奪っていく下痢と、食欲不振から胃が収縮していく悪循環に陥って、地上にいながら陸に打ち上げられた魚のように息も絶え絶えになっていた。
 ネパールの首都、カトマンズの雑踏。インドから飛び立った体は、二月の乾季の雲天の下、くすんだ低層のビルがぎっちりと立ち並ぶ通りの下を、這々の体で歩いていた。
 目的の場所が見つけられず何度もループしている。地図の精度が悪いのか?実は存在していないんじゃないか、脳裡で汗をかいていた。異邦で一人、どうしようもなく哀れな存在が、人知れずこの世界で彷徨っていた。
 諦めと正対する気持ちの最中で、うまい具合に風景に溶け込んだ看板が目に入った。日本料理店「絆」。ここだ。
 旗竿のようになった狭い路地を抜けると先程まであったけたたましい小排気量のバイクの往来が嘘のように消え、眼前に眩しく映える緑の植栽が現れ、人気の無い静謐な空間がぽっかりとそこに現れた。カフェのような装いのテラスの椅子に腰掛けると、斜向かいのキッチンから女性がやってきて、テーブルに湯呑みとメニューをそっと置いた。
 そっと唇を濡らすとしっかりとしたほうじ茶の味がして、胸のすくような思いがしてくる。
 野菜炒め、焼き鳥、餃子……。和食の定義を語れるほど詳しくないが、近からず遠からずのメニューには、しっかりと日本語の品名が表記されていて、最低限の質を担保されているように感じる。
 その中からカツ丼を注文した。
 暫くの間、鳥の囀りや風で草木の擦れる音に耳を傾けていると、味噌汁と漬物に合わせて提供された。
 紫、緑、橙。半円状になったカラフルな漬物。橙は人参だが、全体的にコリコリとした食感をしていた。
 味噌汁にそっと口をつけてみる。薄口ではあったが、日本にもこういうものもあるだろうなという域を出ず、まずまずといった印象だった。
 そしてカツ丼――、三つ葉ではなく青ネギが乗ったそれは、たしかにカツ丼の見た目をしていた。
 恐る恐る箸を伸ばす。
 日本で食べるカツ丼と何ら相違無くて、きっと何かおかしいところがあるとどこか粗を探すように口に運ぶうちに、手のひら大はあった丼の大半を食べきってしまった。
 支払いの際に店主が韓国人だということを知った。
 南アジアの内陸国ネパールの、韓国人店主が作った、日本食のカツ丼。どこまで行ってもイミテーションしかないものが、どうしてかうまく噛み合って、実際に本物として目の前に出てきたことが、ただひたすらに嬉しかった。

       

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