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気まぐれブラッドベリ
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気まぐれブラッドベリ
                                    音無伊予

        
 目が覚めると(別に寝ていたわけではないのだが)横にいたのは一人の女だった。
美しい女だった。裸だった。鏡に幾度も反射させたかのような光沢のある黒く長い髪が、今すぐ首を締めて殺してしまうのがその美しさを保つ最善の方法なのではないかと思えるほど艶やかな白い肌を、乱れるままに切り取っていた。怯えたような表情だった。
俺はその美しさにギョッとしたが、視界の端に別のものが映ったのでそちらを見た。
俺の正面に立っていたのは、今度は人間ではなかった。
そいつに眼球はなく、顔の中心に、扇子のような立体物が二つ、ぶら下がるように着いている。そして裸である。
想像上の宇宙人よりもよっぽど人間の美的感覚に親和性のない青ぐろい生き物から目を逸らして左を見れば、そこにもまた、人間以外の生物がいた。
それは人間とも、青黒いそこの化け物とも、犬や馬や虫や植物とも形が違っていた。○の形をした半径一メートルほどのなかなか大きな薄い薄い膜が、ビクビクと脈動していた。蜃気楼のように、それが揺れることでしかそこに何かがあることを認識できない透明なのだが、少し角度を変えると赤色を帯びたりした。
それが生き物だとわかったのは、絶えず「びりり、びりり」という耳障りな音を立てているからだった。下等なのか高等なのか、それを判断する基準を俺は持っていなかった。
女、青黒、○、俺。
都合四体の生物がここにはいる。
とりあえず俺は、きょとんとしている女に手を差し伸べ、一方その表情というか顔面の周辺をいくら観察しても、きょとんとしているのかどうなのか読み取れない宇宙人二匹から距離を置いた。
女は立ち上がって
「何、あの人たち」
 と言った。
「さあ。でも離れたほうが良さそうだ」
 雌雄も生態もわからないこの生物らから与えられるものの最有力候補は、暴力に違いなかった。
 その証拠に、じっとしていた青黒が立ち上がり(足はなかったはずなのだが突然生えてきた)触角のようなものを手の様な場所から生やし、顔と思わしき場所に生えていた扇子状の器官を怒張させた。
 憤怒、激怒の状態にあるのかと思ったが、顔全体から粘液がぷつぷつと吹き出始めたのを見て、おそらく交接欲を昂進させているのではないかと予想が立った。俺か女を犯そうとしているのだ。
 俺は近くにあったゲンコツほどの岩を青黒に投げつけた。青黒は回避する気もさらさらないように岩に対して無反応であり、岩は青黒の顔、もとい股間に直撃した。
 柔らかい打音の中に、決定的な器官が砕けるようなコリっとした音が聞こえた。青黒は、黄色と白色の二つの液体を撒き散らした。二つの液体の粘土は違い、白色の方はスプリンクラーのように飛び散り、俺たちは飛び退くようにそれを避けた。一方黄色い液体はドロドロした触感のようで、音を立てて青ぐろの足元に落ちた。
「ははは、気色悪い」
「ねえ、何笑っているの」
「色気のない種族と見た。あんな大っぴらな場所に性器をぶら下げて生きていられるなんて、どこぞの理想郷だ。喧嘩もしたことないんだろうし、女も男を選ばぬ星なのだろう」
「星?」
 俺と女はしばらく歩いた。
 青黒を殺した━もしくは不能にした━という感覚は著しく闘争本能を活性化させ、そのためしばらくは体が暑かったが、それが静まるとここがちょっぴり肌寒い場所だとようやく気がついた。
 そして、さっきは自然と口をついて出たが、ここが地球ではないことを再認識した。夜だが、空に月がなく、かわりに果てしなく大きい星が視界を遮っている。今この星は、あの巨大な惑星に墜落している最中なのかなとも思った。だがいつまで経っても墜落は始まらないので、違うらしい。
 女と俺は寝床になりそうな滑らかな岩盤と水場が接する場所を見つけ、そこの水が飲めること、そこに泳ぐ魚が食えることを発見した。
 夕食を食べると、昼間ぶりに二人とも、事務的ではないことを話す気分になった。
「あたし、サキっていうの」
 偶然にも俺の妻の名前と同じだった。妻の早紀は利発で猫のような美貌だったが、目の前のサキには妻の様な知性はなく、妻をゆうに上回る美しさがあった。
「ねえ、ここってどこなの」
「わからん。地球じゃあないということしか」
「・・・」
「君はどこから来たんだね」
「地球よ」
「地球のどこ」
「福岡」
「ほう、同じだな。奇遇だな。福岡のどこだね」
「天神」
「ほほう、隣町じゃないか」
 
 やがてこの星に来てから一年が経った。
 どうしてこんな場所、こんな星に俺とサキがやってきたのか、それは一向にわからなかった。俺もサキも記憶が朧げで、ここに宇宙船でやってきたのかどうなのか、というか宇宙船が地球の技術力で実現できていたのかどうか、それすらも覚えていない。
それにしても、重力や大気や食生が人間の生存に適していることは奇跡だ。
 さらに言えば、あの青黒と○も、この環境に適応する生物だったのだ。両者とも、俺たちのように動物をかり、水を飲み、生きながらえているかもしれない。(まあ青黒の方には相当の深傷を与えてしまったが)
 いや・・・奴らだけではない。
この星で生きる生物は俺たちや奴らだけではない。
 俺とサキはこの一年の間で、二百種類以上もの生物に出会った。飢えを凌ぐため、食欲を満たすために、何十種は殺してそのうち三分の二ほどは美味かった。だが大多数の動物は遠くから見たり、お互いに警戒しながらすれ違ったりしただけ。こちらと同様に武器を携えたやつもいたが、お互いにそっとすれ違うだけ。だが奴らはこっちが二人連れであることを、大変珍しそうに、また羨ましげに見てきた。
 今日までに分かったことは、つまり羅列するとこういうことになる。
 第一に、ここが地球ではないということ。
第二に、何らかの理由と手段で俺やサキやその他様々な生物たちはこの星にやってきたということ。
第三、この星に原生するものは、植物や魚類や小動物、もしくは目に見えない微生物のみであるということ。
結論、俺たちは差し当たって、生存してゆくことができそうだということ。
そして一年間、注意深く観察して気がついたことがもう一つ。半年を過ぎたあたりから、もしやこれは、とあたりをつけてこの星にやってきた数々の生物の姿に注目してみて分かったこと。
この星には俺とサキを除いて、同じ生物学的分類にいる生物が一匹たりともいなかった。
全員が別種であり、言語によるコミュニケーションや、交配ができないようなのだ。
「ほうらサキ、またやってるぞ」
「なぁに? 何をやってるの?」
「異種格闘技戦だ。おい、あいつあんな場所からペニスを」
「ヤァよ、見たくないわ」
 サキはこういう話題や、行為を、話すのも見るのも実際にするのも好かなかった。出会って五日目くらいに、何せ毎日一緒にいるのだから距離が十分縮まったかと思ってさりげなく誘ってみるとやにわに断る。普段の好意的な態度と裏腹に寝台での態度は宗教的な決心と言えるほど頑に拒否を示してきて、そのくせ翌朝には腕を絡めてくる。そんなんだったので、この女、俺をからかっているのか、そして俺がその復讐を劇場的な暴力で晴らすことを期待しているのかなと思ってガバッと抱こうとしたこともあったが、思いっきり頬を殴られてしまったので、以降二週間は会話もなくなった。
「チェ。もったいないことするよお前。ほら、やっぱりダメだった。規格違いなのさ。旅行先で、ホテルのコンセントと持ってきた充電器のワット数が合わないでショートするのと同じだ。無理やりやろうとすると、ほら」
「ねえ吉田センセ、昼ごはんはどうするの」
「ガハハハハ。ペニスの方が千切れたか! フニャチンめ。そんなんじゃあダメだぜ。俺ならちなみにああは行かない。エアーズロック。オリハルコン。なあサキ、そろそろ俺の話がまるっきりの嘘っぱちじゃないって確かめたくないか。俺だって久々に確かめておきたい。じゃなきゃあの哀れな生き物たちを心置きなく笑えないんだ」
 俺はサキにお預けを喰らわされている間、なんと一回たりとも自慰をしていなかった。もちろん夢精によって生殖機能のメンテナンスが行われていることを自覚しているからこそ自慰をしていないというのもあるが、とにかくまだものにすることの出来ていない、この前にしゃなっと座るサキへの欲望は限度を知らなかった。
 サキの美貌は、不思議なことに日々磨きがかかっていった。
 自分が抱くことでその美貌に内実を伴わせたかった。
俺は芸術家肌らしい。この頃わかってきた。
「まあ、うん」
「は?」
「いいよ、今日は」
 サキがそう、平気な風で言った。
「おい、今お前なんて言った?」
「許したげるって言ってるの」
「なあサキ、そう言って直前で俺を殴ったりしないか。今度そういう態度でまた門前払いされたら、俺だってお前を殴ってしまうかもしれない」
「ヤァよ、殴られたくないもん。いいわ今晩。何回も言わせないで」
 
 他の生物が自分と同じ種族を見つけられず、無理なセックスを試みて玉砕していくこの狂った星の上で、俺とサキはその晩初めて結ばれた。記憶の限りではまごうことなく一番の性交だった。意外にもサキは楽しみ、笑い、そしていよいよとなると泣いた。五、六回目には啜り泣くサキを連れて岩の上に登り、またもや交接失敗中の模様である生物の一対を見つけ、見下ろすように迎えた頂きは、魂からの絶叫を伴った。

 そしてまた一年が経った。
 出産と子育ての疲労からか、サキは熱を出した。今日まで健康だったことが仇となって、俺たちは薬草の分布や漢方となる生物を調査し損ねていた。
「いいわよ、汗でびちょびちょだもの」
「それがいいんだ。ほら、俺の服も羽織れ」
「うん・・・。そういえばあなた、初めて会った時から服を着てた」
「そう言えばそうだな。今でこそ他の化け物どもも、服を着る習慣のあるやつは自作して着衣してるが」
「あなただけが特別だったわ。リュックサックも背負っていたし」
「ああ、うん。そう言えばそうだ」
「この星に来る前から持っていたのよ。あなただけ。中に何が入っていたの? 一度も見せてくれてないじゃない」
「それはお前が見せろと言ってこないからだ」
「じゃあ見せて」
「いや。見せたくはない」
「なぜ」
「妻と子供の写真だ」
「えぇ、見てみたいわ」
 俺はさすがにムッとなった。自分より醜い俺の妻を見て優越感に浸りたいのだ、このバカは。証拠に火照った顔でニヤニヤして嫌がる。
「ええい黙れ。そういうのは地球に万が一帰れた場合に修羅場となってからいざ解決すべき問題だ」
「はぁい」

 それから三日たっても、サキの熱は下がらなかった。俺はいよいよ時間が過ぎるのをただ待つことをやめ、薬草探しの旅に出なければいけなくなった。サキの体調が治らないとカズヒコに乳をやるのも難しくなってくる。授乳の時だけ息子を母に近づけているが、カズヒコにウイルスが移ったらもっとやばい。
「俺は薬草を探してくるぞ。ここで待ってろ」
「ほんとう!?」
 サキは一瞬、蓄積した疲労も忘れたかのように顔を輝かせた。
 どうやら彼女なりに、俺を一人探検に出させるのに遠慮していたらしく、申し訳なくなった。
 サキにそういう慎ましさや配慮や遠慮といった感情があるとは思っていなかった。
 彼女の精神にはところどころ不思議な点があった。態度や行動、特に俺に対するそれに一貫性がなかったり、小心者なのかと思えば狩りの時は躊躇なく相手を殺せたりもした。あれだけ俺に抱かれるのを嫌がっていたのだから妊娠の兆候が出た時は彼女が堕胎を提案したりしてもおかしくないと思ってはいたが、素直に懐胎を喜んでいた。
 いまだにサキのことはよくわからない。
 時たま、恐ろしくもなる。
 だから俺はサキに、彼女の過去のことなどを尋ねたりしたことがなかった。俺のように記憶を失っているようだが、それを確かめる気にはならない。それは何が待ち受けているかわからない小さな空洞に手を突っ込むようなものだった。
「まかしておけ。俺は過去の記憶が朧げだが、無学じゃないみたいだ。薬くらい判別できるだろうし、持ってこれる。万が一それが叶わなくても別にお前は重い病気じゃない。カズヒコに栄養を与えられる食事も考えよう。二日、三日待っておけ」
「うん。でも一人は心細いわ」
「弓と槍がある。隠れておけ。万が一襲われても相手は一人か一匹だ。誰も群れられないのがこの世界の幸福な点だからな。とにかく誰か来た瞬間に殺せ。俺の時はいつも通りエーデルワイスを歌うから間違っても射るなよ」
「うん」
「よし、じゃあな」
「待って、火が欲しいわあなた」
「火は危ない。狼煙になる」
「でも火があったほうが子供にいいわ」
「ぬぬう。じゃあわかった。昼だけにしろよ。火を炊くのは昼だけだ。わかったな。じゃあ俺はすぐに出る」
 俺はここに来た時にポケットの中に入っていたライターをサキに渡し、禿げたような草原を小走りで駆け出した。

 水筒が半分になったのを引き返す目処としようと決め、それから一日も歩かないうちに幸運にも俺は薬となりそうなものを見つけた。一つは薬草で、それは小腹が空いて殺したハンマー状の生き物を殴殺した際、そいつが妙に熱臭かったから近くを探し、齧った後のある植物を見つけたのがきっかけだった。これで治療を試みていたというワケだから、俺が毒味をして問題なかったので持って帰ることにした。
 もう一つはツノの生えた小さなサイのような動物の角。こいつは発語が出来、命乞いのようなものをしてきたが容赦は無しだ。首を絞めて殺して角をもぎり取っておいた。裏付けのない知識だが、薬になる気がした。そしてこれを砕いてみて、自分が飲んでみたが問題なかった。こいつも持って帰ろう。
 
 帰り道は星空の下、久々に孤独を味わった。いかに美しい妻と玉のような子供がいようと他人がいる限り精神は圧迫を受ける。そこからの解放は痛快だった。
 このまま真っ暗闇を歩くと、不意に現れた谷などに滑落するおそれもあるので、俺は手頃な洞窟を見つけてそこで一晩を過ごすことにした。
「サキは元気だろうか。もっているだろうか。カズヒコはどうだ」
 サキは気がついていないだろうが、カズヒコには未来がない。子孫を残そうにも適切な相手がいないのだ。しかし主に俺の都合で産んだからには精一杯一緒に生きねばなるまい。これからカズヒコが大きくなったら、他の人間を探す旅に、本格的な旅に出よう。それだけが俺たちの掴める未来だ。
 俺はリュックサックをおろして中身を取り出した。
 妻と子の写真はそこにはなく、代わりに入っていたのは何かの装置だった。
 装置といっても両手で掴めるくらいに小さい。そして完全に近い球体に思える。これがどういう代物なのは俺にはわからない。何せ記憶がない。色はまるでサキの髪の毛のように漆黒であり、だが光をちっとも反射しないのが異なる点だった。
 三つのボタンが付いていて、押そうと思っても固くて押せない。三つのボタンの真ん中には二つの小さな発光部品がついている。一つは赤いランプが明滅していて、充電なんてもちろんしていないのに二年ほど前からそれは消えない。
 しかし一方は暗いままだった。
 こちらは二度とあかりを灯さないような、そんな気配がした。
 暗闇の中で怪しく光る赤い光がだんだん目障りになってきたので黒い球はリュックにしまい、俺は目を瞑った。
 
 夢に現れたのは早紀だった。かと思えばサキになったりした。早紀は現在の俺の妻のイメージを受け、記憶にあるよりもよほど美しくなっていた。
俺は早紀と過ごす毎日の中で、ただ美しいだけのあの魔女を忘れていった。温もりがあった。
謎の星で出会ったこの女のことなどすぐに忘れてくれると確信し、ある晩早紀の胸の中に顔を埋めたが、いつの間にか早紀の顔はサキになっていた。
「もうおやすみなさい。あなた。夢を見れないからって、怖がらなくていいの。眠っていても私の肌を感じていて。そしたら、今日の自分と明日の自分が同じだって、ちゃんと確信を持てるでしょう」
 サキの薄く、血の気のない、だが鋭利で魔的に美しい唇から出てくる声は、いつものような呆けた声ではなかった。その声は早紀のものだった。久しぶりに聞く、意味のある言葉だった。

 よく朝俺は心地よく目を覚ました。
 そしてサキを愛したいという欲が無性に湧き上がってくるのを感じた。
 俺はサキに、彼女にとって良いものを与えただろうか。嘲笑の流儀と、無知を許されるものの屈辱しか与えていなかったのではないか。きちんと話さなかったのは俺もではないのか。

 往路よりも早い足取りで、汗を垂らしながら俺は西にまっすぐ走った。
 やはり仲間を見つけられない、憐れな畜生どもが、終わらない悪夢をその眼前に映しているかのように、またその悪夢を振り解こうとするかのように、親を失った子供のように、首を回して立ちすくんでいる。
 俺はこいつらとは違う。
 言葉の通じる人間がいる。分かり合える人がいる。今まで愛しているのかわからなかったが、おそらくこれから愛することのできる人がいる。
 子供がいる。カズヒコがいる。そして健二を思い出す。もしも今生きていれば二十歳になる。二度と戻れないかもしれぬあの青い惑星にいたあの幸せの結晶。今はどうしているだろうか。しばらくあいつのことは辛くて思い出せなかったが、今日からはあの思い出の日々を再び思い返すことができよう。俺は強くはなってはいないかもしれないが、身を裂くような悲しみに立ち会う勇気を与えてくれる、幸せの源が、今妻の手の中で眠っている! 小さく、だが邪気を孕まぬ純粋な心を持つ天使が、今再び俺の目の前に現れたのだ。
 家であり、拠点である小さな岩盤の折り重なり地点が見えてきた。
 細々とではあるが、煙が上がっている。
 どうやらサキは火を使っているようだった。
「まあ昼間だから構わんさ。確かに今日は暖かいとは言えない」
「待て。ひょっとすると俺のためにシチューを、滋養のある暖かい食べものを用意してくれているのかもしれないぞ」
 普段よりも数段美化されているサキの虚像は、普段であれば絶対にしないもてなしを俺にしてくれるという空想までを膨らませた。

 しかし岩に近づくにつれて、不安になってきた。
 煙が細いのだ。
どうやら普段熾すような火ではないようだ。
 今にも燃え尽きそうな火を連想させる煙だ。
 あんなのでは水も沸かせない。根も茹でられない。
 ひょっとして何か変事があったのではないか。
 もしも、万が一火を放たれてしばらく経っていたとしたら、ああいう煙が上がるだろう。
 俺は駆け足のペースを早め、草を踏み荒らすように加速した。
「サキ!」
 近くにいた小型の知的生命体がこちらを振り返った。子供のような見た目だが、上も下もびっしり毛が生えそろっている。
 こいつは人畜無害で、たまに夜に歌を歌う。いい声をしているのだ。気のいい隣人のようなものだった。
 俺はもしサキに何かあったとしたらこいつに拷問し、何が起こったのかを徹底的に知ることを決めた。
「サキ! いるなら返事をしろ!」
 岩をよじ登りながらそう大声を出すと、サキの声が返ってきた。
「なぁに?」
 熱気が腹の底から噴き出して胸にみちるように、安堵が広がった。
「何もなかったか?」
「ええ、なにも」
 やけにうっとりしたような声だった。
 色気のある声だった。
 俺はこの美しい女から、色気というものを感じたことがあまりなかったのを常々不思議に思っていた。生理的に誘われる何かがあるが、そこには理性の息の根をだんだんと止めていくような色気がなかった。
 しかし今はそれを感じた。
 岩を登った先にいるサキに一刻も早く触れたいという衝動が湧き上がる。
 俺は岩を登り切った。
 顔を上げると、俺はまず煙の発生源に目を奪われた。
 それは焚き木などではなく、煙草だった。
 サキは肘をついて寝っ転がりながら煙草を手に持ち、恍惚といった表情を浮かべていた。
「どうした、それは」
「ふ。作ったわ」
「そりゃあ、よかった。なんだって今まで作り方を知ってて作らなかったんだ」
「うぅん」
 俺はサキの隣に腰をおろした。
「一本くれ」
「いいわよ、あなたのだもの」
「うん?」
 俺はライターで貰った一本に火をつけた。
 一息吸う。
「ん?」
 カズヒコの髪の毛の匂いがした。
 ような気がした。
「おい、カズヒコは」
「ん? ふふ」
「サキ。あいつはどこだ」
「うしろよ。もう。ああ。髪の毛、そろそろ切らなきゃ。ねえあなた。あっ。何よそんな怖い顔して。はいほらどいたわよ」

 俺は咆哮した。

「ねえ、こんばんはいいわよ」


 口論は特に意味がなかった。
 サキは異常だった。
 俺の熱気が全く伝わらなかった。俺の怒りや恐怖が少しもあいつには伝染しなかった。
 一時間、言葉にならないただの嗚咽混じりの奇声をサキに浴びせ、1時間俺は沈鬱した。そしてカズヒコで作った煙草をなおも吸いやめないサキをしばらく見つめ、この女を殺して俺も自殺することにした。
 サキは自分が殺されると分かった途端に全身がバラバラになるかのように暴れて、岩の上から突き落とす瞬間、俺の顎を蹴飛ばして、そのまま下に落ちていった。
 二つの事実が分かった。
 俺は記憶を取り戻す術を持っていた。サキに蹴られた衝撃で奥歯に仕込んでいたカプセルが砕け、かつての俺の好物だったマスタードの味覚が舌の奥に広がると、通常味覚記憶しか起動させない味覚刺激が、なんらかの過去の脳手術で脳回路を横断し、海馬を刺激し、全てを思い出させた。
 そして弾けた記憶とは別に、眼下で散らばったサキの五体をみて、サキが人間ではなかったことを知った。
 小さい脳のような機関が破けた右腕と左足から、二、三個ずつ溢れていた。上腕の骨は一本のようだった。いや、全体的に骨が少なかった。密度の凄まじい筋肉が骨を不要とさせていたようだった。
 俺はこの生物がメルコという生命体だったことを思い出した。交易先のかなり離れた惑星の生物だった。自分の生んだ子をエネルギーにして食う魔の一族だった。
いくつかの脳を持つことで第六感を備えていた。いわゆる読心能力があり、さらに美貌だった。人間に限らず、相手の心を読んで、親しみを持たせるために騙る。雌雄同体であり、女王個体が子孫を残す以外、労働個体はたとえ子を産んでも食い散らかすだけの享楽的な生き物。
どこかの誰かが料理と煙草を教えたせいで、元々最悪だったこの生物が輪をかけて残忍になった。おかげで俺のカズヒコはあの無惨な姿になった。

 俺はその用途を思い出した装置をリュックサックの中から取り出した。
「ははははははは!」
俺は発狂が近いのを感じた。今すぐ飛び降りたっていいが、かつての俺の野望に従うことにした。
俺は知的生命体の脳から放たれる固有の電磁的振動をキャッチする装置を、半径五千万光年規模で振動を感知可能にするように改良したのだ。そして発射式分子分解・組み立て装置と組み合わせた。
広大な宇宙に存在するすべての一定知能を持つ生物の座標は暴かれ、そして高周波の光波によってあらゆる肉体が分解され、そして完全に同じ肉体と分子構成になるように任意の座標で再組立されることを、俺は可能にしていたのだ。
そして二年ほど前、それを起動した。
「ふ、ふふふ、くく」
俺はボタンに指をかけた。
それを押せばどうなるかは分かっていた。
まずは赤いランプが点灯を止める、そして。
「俺は嫌気がさした! 嫌気がさしたのだ! だから全てを入れ替えた! 誰も何も残せないようにな! 二匹の豚がいる囲いの中から豚を消し去り、一匹のキリンをぶち込んだのだ! それを宇宙で! なんという温情! 分解の時点で再構築をやめれば全ての生物を消せたというのに!」
 俺はボタンを迷わず押した。
 それは再構築を行わず、全ての知的生命体の肉体の分解だけを行うプログラムだった。
 やはり全ては地獄だった。
「五千万年の範囲か! だが十分! 全ては無に帰る! だがその外側で生命は脈打つだろう! しかしそんなことは無関係なのだ! 自殺などしないぞ! 俺だけ助かるなんて真似はしない! さあ行こうぞ! 諸君らには一年ばかし、地獄を味わわせてしまった! その償いは半日後に始まる消失を持って詫びよう! 隣にあるからいけないのだ。そう思っていた。だが違った! 何が悪いのかと言えば・・・」

 夜になった。
 岩のうえで叫び続けて、喉が潰れても叫び続ける男がいた。
 その生き物は、あの吉田という男に興味はなかった。
 その生き物は歌う生き物だった。太陽が登れば草をはみ、夜になると歌を歌うだけだった。
 その生き物は今日も歌った。
 二番目に好きな歌を歌った。長い歌だった。一番好きな歌は明日歌うことにした。
 だがその晩、全ての生命は砂よりも小さな粒になり、空気の中に溶けてしまった。その時、その生き物は歌い疲れて眠っていた。
 

       

表紙

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Neetsha