運命

 ぐったりとうなだれたマリンチェの体を背負い、マンコは崖を降りて逃げ延びるべく、入ってきた窓に手をかける。あるいは、はじめからこうすべきだったかもしれない。マンコは逃げおおせるための貴重な時間を浪費してしまったことを後悔した。成り行きをしらないマリンチェが、色々とひどい誤解をしていたようであるのが気にかかったが、それも後でゆっくりと説明すればわかってくれるだろう。どう考えても、マリンチェがあのままあそこに居ていい理由などない。少なくとも、マンコにはそう思われた。

 ああ、とにかく。
 マンコは窓の外をみた。満月のあかりが、目下の崖の下に流れる速い流れを黒く浮かび上がらせている。思わず充実の笑みがこぼれる。たとえ大切なものを一度失っても、死に物狂いになれば取り戻すことができる。運命は、自分の手で切り開くものだ。それは、生まれ故郷のインカで生贄にされかけときに、自力で心と命を取り戻した経験から生まれた、マンコの信念だった。今その通りにマリンチェを取り戻すことができ、マンコはさらにその信念に自信を持った。これからどこに逃げ、どうやって暮らしていくにせよ、二人の間に苦労が絶えることは無いだろう。常に何かを失いながら生きていかねばならいのだろう。それならばそれでいい。失うたびに、取り戻せばいいだけのことだから。自分のために、愛する人のために、生涯をかけて運命と戦い続けることを、マンコは覚悟した。

 マリンチェを背にして窓から身を乗り出し、今また新たな一歩を踏み出そうとする。しかし
その門出を祝う号砲は、無情にもマンコの脇腹に突き刺さった。
「なんだ、血?」
 轟音と同時に、右脇に不自然な痛みを感じたマンコは、手のひらにべったりとついた血糊を
みてつぶやいた。右後ろを振り返ると、半分目を覚ました異国の男、コルテスが、短い筒をマンコに向けていた。筒の根元のには、消えかけたロウソクの芯を押し当てている。なんだ、何をした?理解する間もなく、全身の力が抜ける。
 落ちる。
 既に半分以上体を窓から乗り出していたため、バランスがとれない。崖の下へと、落ちる。
突然、世界がゆっくりと動き出したように感じた。ここまでか。いや、どうにか岩に捕まって
生き延びることができないか。そんな算段が出来るほどに、不思議と頭の中は冷静だった。そしてその冷静さは、マンコにまたしても非情な決断を迫っていた。
「さよならだ、マリンチェ。生きろ」
 マンコは最後の力で、マリンチェの体を部屋の中へと押し戻し、千尋の崖へ落ちていった。あの略奪者のもとにマリンチェを置き去るのは痛恨の極みであったが、ともに落ちれば、マリンチェはまず間違いなく死ぬ。マンコはマリンチェと共に生きることを望んだが、共に死ぬことは望まなかった。死んでしまえば、もう二度と会うことも出来ない。戦うべき運命さえもなくなってしまう。

 はげしく体をうちつけながら崖を転がり落ちていく間、マンコは考え続けていた。生まれ故郷のインカで、あの儀式の日の神殿で、そして今このとき。僕は三度全てを失った。だけれどもし、今を生きながらえることができたなら、僕はもう一度全てを取り戻すために戦うだろうと。