理由

 西暦1519年、エルナン・コルテスはアステカの首都テノチティトランに入城した。アステカ王モクテスマ二世は、コルテスたちスペイン人をケツァルコァトル神の化身であると誤認し、国を彼らに返却することを約束した。こうしたアステカ人の信仰心を利用した征服戦略の背景には、コラボレイターと呼ばれる征服者に協力する現地住民の作戦立案があったと言われる。


「ハッハ、どうだマリンチェ。これでこの国は俺のものだ」
 コルテスは上機嫌で宮殿の玉座にふんぞり返っている。下座に居並ぶアステカ王と
その家臣たちの苦渋の表情は、愉悦の材料でしかないらしい。
「お見事な演技でした」
 マリンチェはまだ少したどたどしいスペイン語で答えた。
「傑作だな、爵位だの王位だのを通り越して、俺が神だとよ」
 コルテスはマリンチェに促し、黄金の杯に酒をつがせた。よほど嬉しいのだろう、いつもの悪酔いではなく、珍しく楽しそうに飲む。そして、マリンチェのふくれた腹に何度も耳をあてながら、同じ冗談を何度も繰り返す。
「だったらこのガキは神の子か? イエス様か? ハッハ!」
 通訳で修道士のアギラールが嫌そうな顔をしたが、もはやこの男に諫言できる者など、少なくともこの場には誰も居ない。
「マリンチェ、男を産めよ。男だ。そしたらそいつを、俺の跡継ぎとしてこの国の王様にしてやる」
 そのような勝手が、スペインキューバ総督のいち部下でしかない男に許されるはずもない。少し事情を知っていれば、それくらいは誰にでも想像がつく。しかしマリンチェはそれに気付かぬふりをして、嬉しそうに微笑んだ。
「神様に、乾杯!」
 コルテスが杯を高く挙げ、次いで一気に飲み干した。白人の部下たちの間から、追従の拍手がおこる。マリンチェは彼らに合わせながら、細めた目の下で冷ややかにコルテスの
ことを見ていた。

 下品で、幼稚で、強欲な、愚かな男。この男が神ではないことなど、会って三日もすればすぐにわかった。姿かたちは違えども、その行動原理は、どこまでも人間的な欲望に忠実であった。それに気付かないふりをして――あのとき、マンコに嘘までついて、この男のもとに残った理由。それは、この男の魔手から、アステカの人々を守りたかったからだ。生贄として一度捨てた命、人々のためにその責を全うしたいと、願ったからだ。征服者たちにとらわれている間、コルテスたちの軍隊の強さと残虐さを間近で見て悟った。アステカは負ける。そして彼らは、戦って負けた者に一切の容赦をしない。ならば、少しでも血が流れぬ方法、アステカの無血開城を。そのために自分が出来ることを。そう考えついたとき既に、私の身の振り方は決まっっていた。

 マンコには、本当にすまないと思っている。あのまま逃げて彼と一緒に暮らしていても、私は幸せな人生を送れただろう。だけれど、そうなった場合、やはり後悔はしたはずだ。私は、彼のように何もかもを捨て去ることができないのだ。彼と同じくらい、義父や、アステカの地のことも愛していて、どれかを選ぶことができない。マンコのように、自分だけを信じて、自分の幸せのために生きていくことが出来ない。
 すれ違う運命だったのか。そのあまりにも悲しすぎる結論を下すのは、まだやめておこうと思う。彼は強い人だから。まだどこかで、きっと生きながらえている。そんな願望のような、しかし確信に近い予感を私は持っている。それに。たとえこの先、不幸にも二度と彼と会うことが出来なくても、彼が私のそばにいた事実は決して消え去ることはないのだから。





「おお、動いた動いた」

コルテスが、マリンチェの腹に手を当てて無邪気に笑った。マリンチェは聖母のような凄絶な笑みでそれを見つめている。ああ、愚かな男。その子供は。