過去

「今、わたしは、あなたのもの」
マリンチェはゆっくりと、確認するように言った。
「あなたは、わたしのもの」
「うん」
「あなたのことが知りたい」
「……僕の過去」
「あなたの過去」
 まいったな。苦笑してマンコは少女の顔を覗いた。まったく、かなわない。彼女の瞳に隠し事はできないようだ。しかし、彼女になら話してもいいだろう。マンコは心をきめた。
「話すよ、昔のこと。それはもう、過去のことになったから。」

 インカの生贄の選別は、その子供が生まれる前から既に決定されている。インカの下級貴族の子であったマンコは、運悪くその「名誉ある役目」にあたってしまった。贄に選ばれた子供は、一切の苦痛から隔離される。労働の義務もなく、食事は座っていれば目の前に運ばれてくる。いたれりつくせりの生活は、共同で生贄を出す村ぐるみで支えられる。まるで家畜を肥え太らせるように。神のもとへ捧げられるその日まで。すなわち、マンコは生まれたときから死んでいた。父も母も兄弟も隣人も、マンコを神のごとくに、あるいは死人のごとくに扱った。わざとらしい安楽。自分がゆるやかに、確実に死に向かっていることを知りながらも、マンコは逃げ出すことができなかった。大人たちは、マンコに自分の足で歩くことすら教えてくれないのだから。マンコの精神は、シロアリが朽木を蝕むようにゆっくりと崩れていった。

 ついにきたその日。マンコは朝から大量のチチャ酒を飲まされた。荷物のように縛られてリャマの上に載せられる。朦朧とする意識の中で、家族や村人が自分を送り出すのが見えた。他人の葬式のような、よそよそしい静けさ。村の男衆はマンコを雪の中に置き捨てると、そそくさと帰っていった。このまま自分は死んでいくのだ。そう理解しマンコは静かに目を閉じた。するとそのとき突然、マンコを強烈な吐き気が襲った。胃の中の酒が一気に逆流する。急激な覚醒。それは、マンコの中にかすかに残っていた生物としての本能だったのかもしれない。生まれてはじめて覚える恐怖という激しい感情。マンコは大声で泣き叫んだ。そこから先は良く覚えていない。ただ、ひたすらに歩いた。初めて自分の足で歩いた赤子のような、たどたどしい足取りで。酒のせいでガンガンと鳴り響く頭の中で、声が聞こえたような気がした。「生きろ」と。