逃亡

 マリンチェを背負い走り続けて何刻になるだろうか。夜は既に白み始めている。マンコはそこでようやく足をとめ、荒い息をついた。アステカの首都テノチティトランは、テスココ湖を干拓して建設された水上都市である。その湖からから流れ出る水が、朝霧をたてる青黒い河となってマンコの目前に広がっていた。ここまで来れば、追手もそう簡単には見つけられまい。
まだ眠ったままのマリンチェを木の陰に隠し、マンコは河水に体を洗った。何本かのあばら骨と左の鎖骨が折れている。数え切れぬ打ち身でいたるところが腫れ上がり、そのいくらかは割れて血が噴出している。冷たい水が傷口にしみる。その激痛は同時に、マンコの心の傷をもかきむしるようだった。

「あなたの故郷の人たちは、神様の怒りを買っていないかしら。あなたではない誰かが、かわりに生贄にされたりしてないかしら。私の幸せは、その人たちの不幸の上にあるのかしら。」
 この期に及んでようやく、昨夜のマリンチェの言葉の真意を知ることになろうとは。マンコは、己の鈍感が情けなかった。そしてマリンチェの選択が恨めしくもあった。そう、マリンチェは自分との生よりも、アステカの民の為の死を選んだ。その「皆」の中に自分も含まれているとしても、それは到底納得できるものではない。
「死なせはしない」
 手のひらをすり抜けてゆく水を捕まえるかのように、マンコは拳を固く握り締めた。あるいはマリンチェはそれを望んでいないかもしれない。追手のこと、生活のこと、困難は常に付きまとうだろう。それでも。

 地平線から太陽が八割がたその姿をあらわしていた。そろそろこの場所を発たなければならない。マンコは水からあがり、重い体に衣服をまとったところで ――崩れ落ちた。無理もない、常人なら起き上がれぬほどの傷で、人を背負って一睡もせず走りぬいたのだ。もはや体力も気力も限界に達していた。
「マリンチェ」
 薄れ行く意識の中、搾り出した蚊のようにか細い声。マンコの心中は、愛する者を守りきれぬことへの悔恨に満ちていた。
sage