Neetel Inside 文芸新都
表紙

浪漫派ターフ。
第3R ミカサツワブキ

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2005年9月。
顔の左半分を覆う白面が印象的な青毛の牡馬が、中山の新馬戦に出走し、勝利した。
レースぶりも鮮やかで、ポンと発馬を決めるとあとはスピードにまかせてハナに立ち、そのままゴールまで一人旅。
気の向くままに走らせたせいか最後は脚があがっていたが、確かな強さを感じさせるその勝ちっぷりは、周囲に将来を嘱望させるのにじゅうぶんなインパクトを与えたものだ。
気の早いファンからはサイレンススズカの再来との声もあがっていた。
その馬の名前はミカサツワブキ。
まさに順風満帆の船出かと思われた。
だが。





午前2時。
濃密な夜の空気が大地を優しく包み込んでいる。
まるで静かな海の底のような静謐。
ときたま起こる犬の鳴き声や車の走行音は、湖に生じた波紋のように急速に広がり、薄まり、飲み込まれ、そして消えていく。
白い月明かりがあたりを穏やかに照らし、街は深い眠りのさなかにあった。
しかし。

ざぱらっ、ざぱらっ、ざぱらっ、ざぱらっ……。
砂を蹴散らし、馬が走る。
そこだけは昼間と見まごうばかりの明るさだった。
とうにレースは終わり、ましてやこんな時間だというのに。
照明は煌々と灯され、競争中と同じようにダートコースを明るく照らし出している。
馬蹄が続く。
ざぱぱっ、ざぱぱっ、ざぱぱっ……。
今度は1頭ではない。2頭だ。
「はいっ、はいっ、はいっ」
力強く馬を追う、乗り手の掛け声。
ぱしっ、ぱしっ。
皮革同士がぶつかり合う、鞭の乾いた音が夜露を含んだ空気をするどく切り裂く。

新都競馬場では馬たちの調教が行われていた。
通常、調教というと早朝~午前中にかけて行われるものだが、新都競馬場ではナイトレースとのからみで、人々が寝静まった深夜1時半ころからスタートする。
最終レース終了後4時間ほどの小休止をはさみ、深夜~午前中にかけて調教を行い、その後、また軽く休憩をとり午後3時前には第1レースがはじまるのだから、かなりのハードスケジュールといえた。
もちろん休日は週に1回定められているものの、生き物を相手の仕事なだけに突発的な事態があれば軽く吹っ飛んでしまう。
馬に関わる仕事とは、普通の会社勤めとは一線を画す、なかなかに苦労の多い仕事である。
もっとも内需無視型経済の進んだ最近では、普通の会社勤めも似たようなものになってきているのだが。

「上田センセイ」
さくらは、外ラチ沿いでじっと時計とにらめっこを続ける老齢の男に歩み寄った。
さきほどまでの勝負服ではなく、ラフなジーンズと防寒用のジャンバーに着替えている。
「ツワブキくん、言われたとおり周ってきました」
「うん、ご苦労さん」
上田と呼ばれた男は顔をあげ短くさくらを労うと、ふたたび視線を手元に落とした。
年のころは60代半ば。
白髪頭で恰幅のいい、ころんとしたシルエットの好々爺である。
その手の中にはメモ帳が一冊。
どうやらなにがしかを記入しているらしかった。
ああでもない、こうでもないと思案しつつ、ペンを動かしている。
さくらはその作業がひと段落するのを見計らって話を続けた。
「最初、センセイに乗ってくれって言われたときはびっくりしましたけど、わりと普通のコでしたね」
「ふむ」
上田はくるりと振り向くと、興味深そうな顔でさくらを真正面から見据えた。
現役時代さしたる成績を残していない元騎手の眼光は不思議と鋭く、まるで心の底まで見透かされているようで、さくらは軽いおじけを感じた。
「他には」
「え、あ、そうですね、悪さもしないし、言うこともちゃんと聞くし、でも、ちょっと戸惑ってる感じでした」
上田に短くうながされると、さくらはなぜかワタワタしながら答えた。
デビューわずか3年のペーペーの自分が、調教師歴30年になんなんとす新都競馬場の大御所に対して、おこがましい口をきいている。
「戸惑ってるってかい」
「は、はい。耳をパタパタして、ホントに走らなくていいのかって言ってるみたいに」
小さな、だがそれなりに厚みのある手のひらでジェスチャーしてみせる。
年相応の可愛らしい仕草である。
「ほっほ」
それがツボにはまったのか、上田は思わず破顔した。
さくらもその様子を見てほっと胸をなでおろした。
「そりゃお前さん、アイツも緊張してたんだろうよ。なんせ生まれて初めて女の子を乗っけたんだから」
「え、そうなんですか?」
「おう。ましてや新都競馬場一のあいどるじょっきーだ。お前さんに怪我でもさせたら、どんな目にあうか恐ろしかったんだろうさ」
ほっほっほ、と上田は自分の冗談に声をあげて笑った。
だが、さくらはあまり素直に笑えなかった。
上田の発言は聞きようによっては、自分に対する皮肉とも受け取れる内容だったからだ。

アイドルジョッキー。
自分がそう呼ばれていることについて、正直さくらは抵抗があった。
なんで自分だけ、他のジョッキーと同じようにやっているのに、色眼鏡で見られなければならないのか。
なんで女だからという理由だけで、自分がアイドルジョッキーなんてものに祭りあげられなくてはならないのか。
若手の、自分より乗れてるジョッキーは他にもいるのに、そんなものになりたいと望んだわけでもないのに、ただ馬に乗るのが好きなだっただけなのに、なんで。
昔とはだいぶ変わってきたとはいえ、競馬社会はあいかわらずの男社会だ。
女性のジョッキー、厩務員は数えるほどしかおらず、調教師にいたっては皆無にひとしい。
その中に女の自分が飛び込んでやっていくことの大変さは、競馬学校時代から覚悟していた。
しかしアイドルジョッキーなんて肩書きだけでちやほやされるぐらいなら、年に数えるほどしかレースに乗れない見習いジョッキーでいるほうが何倍も気が楽だった。
もちろん低迷する地方競馬の苦しい実情も理解している。
だからテレビや雑誌などマスコミの取材に対して、さくらは積極的に受けるようにしていた。
自分がメディアに露出することで、少しでも競馬に興味を持ってくれる人が増え、実際に競馬場に足を運んでくれる人が増えればいいと思ったからだ。
だがそんな自分の想いとは裏腹に、実際増えたのは、あの人たちは本当に競馬に興味があって来てくれているんだろうか、というような人たちばかり。
自分の正当な頑張りも未熟さに対する批判も、アイドルジョッキーという冠詞がつくことで真っ当に見られないのはとても悔しかった。
そしてそれが一般のお客さんだけでなく、競馬関係者の間にも広まっていると知ったときは、悔しいを通り越して悲しかった。
アイドルジョッキーだから勝たせてもらった。
アイドルジョッキーだから失敗したって、次もいい馬を回してもらえる。
そういう陰口を、さくらは何度となく耳にしたことがある。
そういうときはきまって誰もいな馬房の中で泣いた。

「……ふむ」
微妙な表情のさくらを見て、上田がふたたびさっきの目をした。
だがすぐに、なにごともなかったような顔になり言葉を続ける。
「……向こう正面入った時、後ろから馬きたろ。あんときはどうだった」
「あ、はい。え~と、あのときはですねぇ……」
よく見てるなぁ。
少しばつが悪そうに、さくらは鼻の頭をかいた。
「やっぱりちょっと行きたがってました。注意すれば聞くんですけど、馬が遠くに行くまで、ちょっとうるさかったですね」
「盛大に尻っぱねもしとったな」
「あ、あはははは……すいません」
しゅんとなるさくら。
「いやいや、お前さんを責めてる訳じゃないよ」
上田がフォローを入れる。
「なにせ難しい馬だ。誰が乗っても今はこんなもんだろうしな。お前さん、いいつけ通りよくやってくれたよ。ご苦労さん」
「……はい」
労いをもらい、ようやくさくらも元気を取り戻す。
「知っての通り、アイツは長い時間かけて壊れていった馬だ。だから長い時間かけて元に戻していかなきゃならん」
最後のほうは自分に言い聞かせているような口調だった。
「今日のはそのための調教だった。アイツを少しずつ馬に戻してやるためのな」
「はい」
「まあ、これからもちょくちょく頼むよ」
表情を変えずに上田は言った。
「え、あ、はい。……わたし、今日だけで終わりじゃなかったんですか?」
上田厩舎には蛇沢誠治という主戦騎手がいる。
他方、さくらは皆川厩舎の所属である。
普通、レースのときや、有力馬の調教をつけるときは、厩舎の主戦騎手を乗せるものだ。
今回のような例外はあっても、それはあくまで代打的なもので、フリーのジョッキーならいざ知らず、他厩舎の所属騎手が続けて何度も乗せてもらえるというのは珍しいことなのである。
意外な上田の言葉にさくらは面食らっていた。
「なんだ、いやなのか? 皆川のほうにはワシから言っとくよ」
ちなみに皆川調教師は上田の弟弟子にあたる。
体育会系の常で、競馬社会は先輩後輩の関係に厳しい。
おそらく上田が言えば、皆川は無条件でオーケーを出すだろう。
「い、いえ、いやじゃないです。ありがとうございます」
まだ腑に落ちていない様子だったが、上田はさくらの言葉に満足げに鼻を鳴らした。
「ある意味アレは可愛そうな馬だ。色んな人の手でこじれてしまっとる。それをジョッキーのお前さんにおっかぶせるのは筋違いかも知らんが」
ぽん、と上田はさくらの肩に手を置いた。
「時間はかかるかも知れんが、付きあってくれるか」
「……はいっ!」
しわだらけの節くれだった手から伝わる温もりは、他のどんな言葉よりも雄弁だった。
お前が必要だと言われたみたいで、さくらは勢いよく上田の頼みに即答していた。

       

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