「……ぁあ、っもう!」
私は、いよいよ我慢が出来なくなり、急に方向転換すると、そのままさっきまで歩いていた道を引き返す。
私の後ろを歩いていた人たちが、その急な動きに驚き、すぐに不快そうに顔をしかめる。私はそれに取り合わず、ただ歩く。
足早に、駅前の混雑をかき分けるように道を行く。
引き返してどうするつもりか、というと私にも分からない。分かるわけがない。
頭に血が上っていた。気分は最悪だ。
腹が立って仕方ないのだ。どいつにもこいつにも、イライラして仕方ない。
ムカつくのだ。吐き気がするほど怒りがこみ上げる。
あの女性が困ってるのは明らかじゃないか。助けてと叫ばなくても、そう思ってるのは明白だ。馬鹿でも分かる。こんなに人がいて馬鹿しかいないわけじゃないだろう。
馬鹿じゃないからこそ、賢明にも避けている。見ない振りをしている。誰もがそうだ。
私だってさっきまでそうだった。今引き返してるからと言って、他人を批判する権利なんてない。それも当たり前だ。
権利どうこうなんて関係なく、ただ腹が立つ。ムカつくから噛みつく。それだけだ。
いよいよ例の場所に近づいてきた。もう女性と男性達と私の間に距離はない。
女性は片手を男性に掴まれている。男性達、正確には四人ほどの男達の一人、短い髪を茶色に染めた若者がそうしているようだ。周りにいるそれ以外の男共は私からはよく見えない。ただ、茶髪を咎めるような常識を持っていないことは明白だ。なおさら肩が粟立つような熱さを感じる。
私の今の心境を簡単に言うと、ブチ切れ金剛、というところだろうか。いや、自分でもよく分からない。より簡単じゃ無くなった気がするけど、今はどうでもいい。
ただそんな建設重機喧嘩バトルを仕掛けたくなるほど、私は頭に血が上っていた。
いよいよ距離が近づき、私は駆け出す。回りの通行人に迷惑をかけようがお構いなしだ。単なる障害物に思うところは無い。
っていうか、むしろ……邪魔だ、どけッ!
「……ぉぉおおおおおおおッ!」
私は駆けながら、そんな声を出す。特に意識してない。声に気がついたら、その声は自分が出してた。まるで猪武者だ、なんて冷静さは今はない。
猪武者のような私は、そのまま猪のように特攻した。
茶髪のチャラい馬鹿野郎は私に背中を向けているから、それに気がつかない。ほかの馬鹿共が私に気がついたらしくギョッとしてる。
あぁ、もう! 間抜け面さらしてんじゃねぇッ! 猿かお前らはッ!
「――オラァアアッ!」
――あ、やっちゃった。
我に返ったのは、声を上げながら飛び膝蹴りを茶髪の背中に放った後のことだ。
あ、やっちゃった。じゃないわ。
やっちゃった私は今更それに気がつく。
茶髪の男性は背中に一撃を受けて、よろけた。でも、よろけただけだ。どうやら体格差がありすぎて、倒れるまではいかなかったようだ。
でも、女性の手は離れた。やっちゃって血の気が引いた私でもそれが分かった。
あぁ、だったらもう破れかぶれだ。
「そこの人、逃げてッ!」
私は体勢を立て直しつつ叫んだ。
女性は言われるまでもなくその場を逃げ出した。礼の一つも言わない態度に、むしろその女性の不安を感じ取り、そうではなくなったはずだ、と勝手に判じた。
それも直ぐに終わる。そんな暇は無くなった。
「……んだァァッ?! このガキッ!」
茶髪の若者もその周囲の男達も、突然の乱入者に驚いてはいるが、戸惑いはない。むしろ、いきなり武力介入されて、頭が直ぐさま臨戦態勢に移ったようだ。血気盛ん、とはこのことか、なんてことを私は思い浮かべる……余裕も無い。
後先考えず特攻したから、当然、後のこと、つまり今の事なんて考えてない。
あ、これヤバくね?
若者達は私を凄い目で見てる。今更、どうして私はこんな事をしてしまったのか、と後悔する。
いや、後悔する、じゃないわ。
今どうにかしないと、と考えて今更足がすくんでることに気がついた。男達に睨まれ、足が震えてしまってる。今すぐ立てなくなるんじゃないか、というくらい力が入らない。
私は思わず周囲を見渡す。助けてくれる誰かを無意識に求めた。
でも、誰も助けてはくれそうにない。むしろスマホのカメラを向けてくるような馬鹿がいて、あっちも同じ目にあわせてやりたくなる。でも、そんな馬鹿に構ってる余裕もない。
「おいッ、どこ見てんだァ?!」
男達は殺気立ってる。そう気がついて、いよいよ身体全体がすくむ。乱暴な大声と雰囲気に、頭も身体も萎縮してしまっていた。
腹パンじゃすまないな。
いよいよ人生が終了か、と私は考えて、今更に血の気が引いた。あからさまに暴力的な空気を感じて、背筋が凍えるような恐怖を感じる。
茶髪の若者がおもむろに近づいてきた。それに続くように他の男達も歩いてくる。
私はどうすることも出来ずにそれを――
「――逃げてッ!」
声が聞こえた。
誰の声か分からない。どこから聞こえたのかも判らない。
ただ、その言葉の意味は分かった。
まるで馴染むように頭に入り、理解した。
理解して、私は直ぐさま萎縮しきった身体を動かし、固まっていた足に無理矢理力を込め、反転し、脱兎の如く走り出した。
「! テメッ、待ちやがれゴラァアッ!」
私の逃走に反応が遅れたらしい若者達は、まず吠えることで己を主張した。その荒々しい声が背中に聞こえ、でもその声の通りにする気はない。
大勢の人の間を縫うように走る。途中で何人も肩をぶつけ、身体をかすめさせ、それでも足は止めない。
それほど速く走れない。そもそも体育は不得手だ。不得手になってしまってもう長い。運動は嫌いじゃないけど、目立ちたくないからいつも手を抜いた。そのツケを今払う羽目になってる。
振り返ると、若者達は意外なほどすんなりと走れてる。どうやら乱暴な空気を感じ取った通行人達は、進んで彼らに道を空けているようだ。関わりたくない気持ちが分かる、とは思うけど、せめて障害物くらいにはなってくれ、と情けない願いを思い浮かべる。
願ったところで現実は変わらず、障害物の多い運動の苦手な私と、そもそもの歩幅が大きく、そして発達した筋肉を持っている若者がすいすいと走るのだ。結果は直ぐに見える。
このまま捕まるのか、なんて考えて、でもそうなるわけにもいかない。後のことさえ考えなかった、正に考えなしな私でも、捕まって痛い目を見たくはない。
でもこのまま道を逃げても、先はない。
私はふと放置自転車達に目をやった。自転車に乗ろうとしたわけじゃない。そんな暇は無い。
ただ、記憶が正しければ、もうすぐでその自転車できた垣根が途切れる。街路樹の植え込みがあるせいでそこまでしか自転車を留められないのだ。
その植え込みを登り、車道を越えて、無理矢理にでも道の向こう側に渡る。そうやって、どうにか逃げ出すしかない。
道の向こうには交番があったはず。とはいえ、駅前だから車道も道幅が広いし、交通量も多い。距離はおおよそ五十メートルかそれ以上くらい。それを横断しないといけない。
後ろをもう一度振り返ると、もう直ぐそこまで若者の一人が来ていた。茶髪のヤツだ。
腕を伸ばしてきた茶髪に、私は限界まで足を動かし身体を反らしてどうにかその腕を避ける。避けて、でも避け続けることは難しい。もう息が上がってしまってる。鉄の味が喉の奥に感じられて、そのイガイガした不快さと痰が絡むような不愉快さが限界を知らせてくれる。
いよいよ駄目か。
なんて諦めかけたその時、ずっと続いてた自転車の垣根が途絶え、目指してた植え込みに到達したことを知る。
若者達はいよいよ距離を詰めてきてた。もうほかに逃げ場がない。活路はここにしかない。
茶髪はまた腕を伸ばしてきて、私はもう一度どうにかそれを避ける。今度も身体を反らして奇跡的に回避は成功した。今は茶髪の若者しか視界に移らない。他の若者の姿を捜す余裕は無い。避けて、すぐに植え込みに駆け上がった。
「オイコラァ、逃げんなッ!」
若者は吠えるように声を出し、その乱暴さに今更ながら怖じ気づき、ますます逃げるしかない。足を止めて捕まったらどうなるかわからない。
植え込みに駆け登り、そして、車道が見えた。
奇跡はもう一度起きたらしく、車道は空いていた。
のに。
「――待てやぁッ!」
すぐ脇から茶髪とは違う若者の声がして、私は虚を突かれた。
でも、声の方を見ない。見るほどの余裕がない。だから反射で動いた。
反射的に車道へと逃げ出す。正確には飛び出した。
空いてるし、向こうまで行けば助かる。
そう思って、私は車道に飛び出したのだ。
――パパパァアアアアアアア
音が聞こえた。
それが車の出す警告音、いわゆるクラクションだ、と気がつけたのはどうしてか。
そんな余裕なんて無かったのに。
無かったからこそ、そうやって車道に飛び出したのに。
そういえば、いつか聞いたことがある。
あれだけ素早く動ける猫が、どうして道路で亡くなるのか。
道路に飛び出した際、車に衝突されそうになった猫は、危険を目の当たりにし、反射的に動きを止め、向かってくるソレに見入ってしまうらしい。
見入ったまま足を止める、ということは、逃げることも避けることも出来ない、ということ。
いきなり飛び出してきた動物に、ドライバーはとっさの判断が追いつかない。急ブレーキを踏んでも距離が足りない。それを難しい言葉でなんとかとか言ってた。
そんなことを言っていたのは誰だっけな。
私は、その話の猫のように足を止め、向かってくる強い光を見ながらそんなことを考えた。
そうすれば、どうなるのかを、その誰かは言っていたのに。
それこそ、猫たちが道路で亡くなる理由の話なのに。
私は同じように、足を止めてしまって、ドライバーにその難しいなんとかを強いた。
強いて、でも間に合わない。
目の前に迫ってくる光の塊。車のライトってこんなに眩しかったんだ、とどこか冷静でもある。
いよいよその光との距離が近づく。恐怖は感じない。
ただ見て、理解した。
これはもう助からない、と実感した。
脳裏にあの頃につるんでた四人が浮かぶ。
あの娘とあいつとあの子、そして彼のこと。
幼かった彼ら彼女のことを鮮明に思い出す。まるで今、目の前にいるようだ。
走馬燈とはこのことか、なんて呑気を思い浮かべられるのは余裕のためか、それとも神様のくれたプライムタイムとやらか。
あぁ、違うか。
“プライムタイム”という表現が違うわけじゃない。
違うのは、思い浮かんだのが“四人”という部分。
本当に思い浮かんだのはたった一人。一人だけだ。
あの時、あの頃。
正義を騙り、正しさを驕った私が、そのせいで失った……殺してしまった友達。
その友達、ただ一人だけだ。
皆も私も、あの頃、猫太郎と呼んでいたあの彼のこと。
その子の姿が脳裏に浮かび、私は後悔した。
またやってしまった。
正義なんて無く、正しさなんて不在で、優しさは余計なお世話に過ぎない。
そんなこと、とっくの昔に知ってたのに。
――馬鹿だなぁ、リーダー。
あの子にそういわれた気がして、それが最後だった。
私こと、瀬名美言が思考できたのはそこまで。
最後でそこまでな私は、それで終わった。
終わったのは当然、命で人生だ。
享年十七歳。
死因は交通事故による頭部陥没、内臓損傷、骨折箇所多数、その他。
そうやって、私は死んだ。
…………。
……だったら、今の私は何だって?
いや、こっちが聞きたいんですよ、それ。
幽霊? エーテル体? 意識体? 思念体? 情報統合思念体?
よく分かりませんな。