Neetel Inside 文芸新都
表紙

クーライナーカ
『十五』

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 およそ十時ごろの職員室で谷川はパソコンと対面していた。あさひがまだトイレに隠れていた頃の話である。キーボードを叩く谷川の指は蜘蛛のように俊敏に動き、それはまるで分身しているかのようだった。こんな夜更けまでに職員室に教師が駐在していることは極めてまれなことではあるのだが、谷川がここにいるのはそろそろ日常茶飯事のこととなっていた。年配の教師どもは谷川にねぎらいという皮肉を述べて一人また一人と職員室から消えていくのも、例えば字を消すときに消しゴムを使うことのように当たり前のようになっているのである。谷川はそのような教師たちを横目に見つつ、やっておきたいことがあるとか今日中に目を通しておきたい書類があるとかいった数種類の用件を使い分けて毎日深夜まで残っていた。深夜まで残っているのはどうかしている。そういった風潮が谷川と親しい教師間でさえ漂っているがそれも谷川は気にしない。それに悪いことでもないので結局のところ谷川が職員室にとどまることは黙認されている。誰も居ないはずの職員室に人が一人増えたところでどうでもよいと誰もが考えていたのである。職員室は夜になるにつれて人の気配は少なくなる。それにつれて人が出す音というもののなくなり谷川が聞く音はパソコンのファンの音や時計の針の音などいった無機質なものばかりとなっている。その中で谷川はずっとキーボードを打ち続けていた。カツカツと思わず身が引き締まってしまいそうな音が遠くからゆっくりと近づいてくる。谷川は人の足音と考えることもせずその人物がどこに向かっているのかも考えなかった。考えるまでもなく結論が出ていたからである。足音はその間隔を乱すことなく機械的な状態のままやがて職員室の前でぴたりとその音が止んだ。呼吸にして一拍ぐらいの間があっただろう。谷川はその音を聞いたままパソコンから視線をずらすことはない。指先は相変わらずせわしく動いている。そしてガラガラと扉が開いた。職員室よりも濃い暗闇をためている廊下が、扉に開いた隙間から見える。そして扉の真ん中に一つの灯りがあった。谷川にとってはもう見慣れている懐中電灯の光である。小さいが鋭いその光はその光の持ち主まで照らしている。ありふれた警備服を着ている初老の男性が帽子を脱いで懐中電灯を下向きにする。二人は顔見知りなのだからもはや緊迫した雰囲気も生まれない。警備員と谷川の二人の笑顔がこの場を必要以上に和ませていく。警備員は谷川を見つけるとあいさつがわりに会釈してにこりと目配せした。もう顔なじみになっている二人の間では言葉を交わす必要などないのだろう。谷川は立ち上がり顔を見せる。その後に会釈で軽くあいさつをした。一瞬警備員の姿が見えなくなるが警備員も同じ動作をしているだろう。

「何時もご苦労様です。戸締りは任せてください。」

谷川と警備員は以心伝心の域にまで進んでいるのだけど谷川はさよならの代わりにその言葉を残した。谷川のその言葉に警備員は安心したのかうなずいて職員室から出て行った。おそらく警備室で戻り帰り支度を始め、そのまま帰路へと向かうのだろう。警備員はカツカツと同じ音を響かせてゆく。谷川はその音が聞こえなくなるまで扉へ顔を向けていた。だんだんとそれが聞こえなくなる。そして谷川はふっと頬を緩める。警備員は自分の義務を果たしているだけだ。谷川もそれを知っている。しかし谷川にしては警備員はただの邪魔者でしかなかった。それが今去ってゆく。谷川はまた大きく息を吐いてキーボードに手を置いた。


 十一時を過ぎた。谷川は自分のパソコンでそれを確認すると椅子に寄りかかって深いため息をついた。すこしネクタイを緩める。縛りつけられていた自分の首が解放されて、自分の気もすこし緩んだ。おもむろに谷川は立ち上がると職員室に唯一つある外への扉に近づいていく。本来なら内側から鍵がかかっていることでこの時間には内部に入れないことになっている。勿論今日も例外ではなくシリンダー式の鍵できちんと施錠されていた。谷川はそれをためらいもせずに開ける。かちりと小さな音が重苦しく響き、それは思考を入れ替えるのに十分な刺激だった。谷川が鍵を開けたのとほぼ同時だっただろうか。扉にはめられている曇りガラスの向こうに黒い人影が姿を現した。ドアノブが回り扉が開く。できた隙間から一人、谷川にそのはっきりした姿をあらわした。

「最近あなたが真面目な教師なのかどうか分からなくなってきたわ。」

入ってきた者はマフラーをはずすと小さな唇から白い息を吐き出す。寒そうに身震いを繰り返し、やっとそれらが静まると彼女は羽織っていたコートを脱いだ。学校はもう生徒を受け入れる時間ではないのに彼女はセーラー服を着ている。几帳面であるのだがその予想ついていなかった服装に谷川は声を押し殺して笑う。口は曲がっていたからこだまもそれにつられて彼女なりに楽しそうに笑った。もっとも他人から見ればそれに邪悪さか陰険さを感じるかもしれない。

「どっちでもいいさ。どっちにしろ僕は教師だから。」

ちょっとなげやりなように手を広げ谷川はあっけらかんとした態度を見せる。こだまは谷川の態度を鼻息で吹き飛ばし丁寧にコートをたたむと抱きかかえるように自分の腕の中にしまいこむ。こだまの動作に合いの手を入れるようにパソコンがポンと少し間抜けな音を出した。

「つばめとは連絡取れてますか?」

こだまはその音に気づくやいなやひょいと身をよじり何十台もあるパソコンの中で唯一光を放っている谷川のパソコンを見ようとする。だけどこだまが居た場所からはその画面を見ることはできないと分かるとこだまは谷川のわきをすりぬけそこへと近寄っていく。

「僕に聞いておきながら自分で確認するのかい。」

憎まれ口をこだまに聞かせながら谷川はその後を追う。カーペットのようなものを敷き詰めている床を踏む四本の足は一切の音を生まない。しかしここを歩いているという気配はかすかに双方の肌を刺激する。こだまは青白い液晶を横から覗き込み動いているアプリケーションに目を向ける。やや遅れてきた谷川は自分の席にゆっくり腰掛けると唯一つ動いていたそれを最大化した。谷川が動かしているのは遠くの人物と会話できるただのチャットソフトウェアである。そこにはこだまが来るまでに谷川とある人物が会話していた記録が残っていた。こだまは後ろに回していた手を伸ばしマウスを掴む。暗い職員室の中でも白いこだまの指がホイールをバックさせていく。アプリケーションがメッセージウィンドウに表示し切れなかった過去の記録が現れるとこだまはそれを一つ一つ目で追っていた。小さくこだまの人差し指が動くにつれてメッセージウィンドウは大きくスクロールする。やや斜めになっているこだまの体から、黒い髪の毛は垂直に下がっている。後ろ髪で今まで見えなかったこだまの首周りや耳元がさらけ出される。それを見ていたくなくて谷川は少し身を引いていた。こだまは谷川が後ろに居ることを分かっているから自分の体を見せ付けていた。過去の記録をあらかた読み通したのかこだまは体をまっすぐして背伸びをする。液晶に照らされるこだまの顔は満足げであった。どうやら彼女が満足する連絡が取れているようだ。谷川は彼女がその反応をするのを大方予想していた。このチャットソフトウェアの向こうで谷川と会話しているもう一人の少女は谷川が予想していた以上に優秀していたからである。

「彼女がいて本当に助かるよ。彼女があっちに行ってくれているからクーライナーカの場 所をある程度知ることができる。」

こだまがパソコンの前にいては谷川にやることは残されていない。椅子を後ろにずらし周囲へと目を泳がせる。谷川もこだまも動かない。時間だけが平等に流れていく。完全に密閉したこの場所では空気でさえ沈んでいる。だんだんと肩に空気がのしかかっているようで谷川は息を吸うのにも軽い抵抗があった。こだまの髪の端がゆらゆらとなびている。おそらくちょっとした彼女の動きのせいだろう。こだまのことだからシニカルに微笑んでいるのかもしれない。結構な頻度でこの時間にこの場所に引き入れている谷川だからわかることだった。

「私の好敵手ですもの。期待以上の働きはするはずだわ。それでもそろそろ顔を見せても いい頃と思うけど。」

つばめを褒めてはいるのだが皮肉を言うことも忘れない。こだまらしい返球の仕方に自分の予想が当たっていたことを谷川は知った。

「はははっ。そうだね。」

「でも姿を現してもいい人はそれだけではないわ。」

こだまはそう言った刹那の瞬間に振り返る。谷川に考える暇も与えずにこだまはまた口を開く。

「谷川先生はここに来る前から大方の事情を知っていましたね。七つ目の七不思議。それ に関係しているクーライナーカ。そしてクーライナーカとひかりの関係。いろいろと谷 川先生から聞かせていただきました。でもクーライナーカと谷川先生の関係を私はまだ 知っていません。なぜ谷川先生はここに来る前から多くの情報を持っているのでしょう ね。」

小悪魔的な声がこだまの喉を震わせ、流れるように口を通り谷川の耳まで届く。奇跡的にとでもいうのだろうか谷川とこだまはぴたりとそれぞれの目線を合わせ、そして寸分のずれもなくお互いに声を殺して笑った。ふいにこだまは谷川の背後に回り込む。谷川はこだまのなすがままに椅子を引っ張られ、椅子を回される。谷川の視界が混ざり何を見ているのか認識できなくなるほどになったところでその回転はこだまの手によって止められた。こだまはただ長らく自分の中に封印していた茶目っ気のようなものを起こしたかったのだろう。ずっとこのことについてお茶を濁していた谷川をからかってみたかった。だが慣れないことをしためか谷川以上に気持ち悪さを感じていた。やや虚ろに濁っていた谷川の瞳はすぐに彼固有の形に変化する。

「知りたい?」

今まで聞いたことのない谷川の返答にこだまは胸の鼓動が強くなった。自分の要求に谷川が初めて答えてくれたからだった。

「あんまり焦らされ続けると飽きちゃいます。」

こだまはあくまでも冷静になろうと努める。ここで自分の感情にしたがっては谷川の手のひらで踊らされてしまうだけだ。こだまは小さくうなづくと谷川は同じくらいの頷きを返し椅子の上で足を組んだ。ぎしぎしと椅子が軋む音が聞こえなくなるときぐらいのことだっただろう。

「僕がこだまさんと同じぐらいの年齢だった頃だ。元々この学校には七不思議なんかなか った。そんなものがなくても誰も気にしなかった。ご存知のとおりこの学校はそういう サブカルチャーにおいて関心がない人間が多いんだよ。だけどそういう中で七不思議を 作りたいと願う生徒が現れた。」

こだまは黙って聞いている中でさまざまな思索を頭の中で張り巡らせていた。ひかりが骨折した今年の冬と去年の冬が思い出される。いろいろと違うことは含まれているものの、その二つの時期にこだまにしか気づけないある共通点があった。ひかりは去年は七不思議のことを調べたがっていた。そして今年はクーライナーカのことを調べようとした。ただの知的好奇心が湧き上がっただけだったのだろう。だけどその次の日にひかりは松葉杖で登校した。去年はただの事故だろうとしか思えなかったけど、今年の冬に同じ事を繰り返した。ただの偶然としてそのまま見過ごすわけにはいかない。その思いがこだまの中で強くなり、こだまは自分なりに七不思議とクーライナーカを探り出した。しかしすぐに限界が来てしまい途方にくれてしまう。だがちょうどそのときに谷川が声をかけてきた。担任教師として谷川とは毎日顔をあわせていたが二人だけで話すのはそのときが初めてだった。

「僕はその人を知っている。友達だったからね。」

谷川は友達の部分を強調させて再びパソコンの前に座る。だんだんとこだまの中で疑問という霧が薄くなっていく。七不思議を作ったのはよりにもよって谷川の知人だったとは、確かに可能性としては昔にあげていたがすぐに沈ませていたことだった。やけに詳しいと思っていたらそんなことがあったのか。こだまのなかで絡まっていた糸がほぐれてほぼまっすぐな状態になる。

「友達が七不思議の全てを作った。違いますか? つまりつばめがまずこまちさんに命令 して見つけさせていた七不思議はもともと友達が作ったものだったのですね。」

こだまの中には一つの結論が導き出されている。七不思議を作ったのが谷川の友達ならクーライナーカを作ったのも谷川の友達なのではないのだろうか。それは谷川の口から聞いて見なければ分からないことだ。よってそれを催促するためにこだまはその結論を谷川に聞かせた。こだまが言い終わった後に、職員室には沈黙が響いている。しーんという音さえも聞こえてきそうだ。耳鳴りがしそうな痛い無音があたりを駆け巡る中でこだまは谷川の肩が強張っているのに気づいた。キーボードを叩く音と重ならないようにその合間を縫って谷川はぽつりぽつりと話し始めた。

「その人は結構いい面でも悪い面でも几帳面でね。まるで昔からそれがあったかのように 振舞わせるため古ぼけた白紙の本をわざわざ用意したんだ。どこで手に入れてきたかと いうと図書室に資料として昔のをいくらか譲ってもらったんだらしい。昔の司書は今と 比べてある程度頭が柔らかかったんだよね。適当に嘘をついて簡単に騙せたみたいだっ たよ。それだけでは飽き足らずに七不思議ができた歴史というのも適当に偽って、まる で昔からあったかのように偽ってしまったんだ。その努力は賞賛を通り越して呆れてし まったよ。」

人事のように言っているがそこらへんはおそらく谷川の入れ知恵だろう。一見すると極めて真面目そうなこの男は時として大胆かつ突拍子なことをする。そういう性質を理解しているのは誰よりも谷川自身であるからよけいにたちが悪い。つまり自分の欲望を達成するために自分の容姿を利用しているのだ。またパソコンからポンという音がする。谷川はパソコンの前に戻ると立った今届いたメッセージに目を通し、そしてキーボードを叩く。

「元々クーライナーカは意味のない文字の羅列だった。でもそれは人を指す言葉になり、 そして意味を持った。」

カタカタとリズムのいい音の上に谷川の声が重なる。しかしそこからは何も聞こえなかった。壁に寄りかかりこだまは谷川の背中から目を離さない。メッセージウィンドウに作られる谷川のメッセージはさっぱり進んでいない。ここまで熟考している谷川をみることはこだまにとって初めての体験だった。何かに迷っている。しかしそれはメッセージウィンドウに作る文字列ではなくこだまに向かって放つ言葉に迷っている。

「クーライナーカはその友達と一番かかわりがある。そしてその友達と僕は友達同士とい う関係としてつながっている。だからクーライナーカと僕は関係があるんだ。」

椅子を回して谷川がお得意の笑顔でこだまと向き合う。

「それで満足かな。」

こだまは黙ってうなずくことにした。谷川は笑顔の度合いをさらに強めてこまちに背を向けた。キーボードを打ち始めた谷川の横顔はとても愉快そうにご機嫌な雰囲気をかもし出している。こだまの視線をよそに谷川は強くエンターキーを押した。谷川は立ち上がり、そしてネクタイを締めなおしていた。

「後もう少ししたら生徒会室に向かう。」

こだまは衣擦れの音を聞いている。ただ聞いているだけで、こだまは羽織っていたコートを腕の中で抱きしめて、その場から動かなかった。谷川がどういう気持ちでそこに行くのかはこだまが一番知っている。だって彼を誘ったのは自分自身であるし、谷川だってそれを十分把握している。だから谷川がそう言わなくても、ただ職員室の入り口に進めばこだまはすぐに察知しただろう。しかしなぜか谷川はわざわざ宣言した。それは谷川が何か覚悟を決めていたものかもしれない。ふっとパソコンがスクリーンセーバーに変わる。スクリーンセーバーが映るには早すぎる。背広を着ている谷川の背中はいつもよりもちょっと小さく見える。こだまはそれは部屋が暗いから谷川の背広の色が周りと同化しているのだろうと勝手に決め付けた。決して不吉をあらわす兆候ではない。そう勝手に決め付けた。

「昔の僕に会いに行ってくるよ。」

谷川は聞いてもいないのにそう答えるとこだまを残して職員室から出て行った。パソコンのファンが回転を増す。谷川を見送るかのような勢いのある、しかしどこか悲しげな音にこだまは軽く胸を締め付けられた。そっと振り返り谷川のパソコンに近づく。マウスまで手を伸ばそうとしたが、指先がマウスに触れるその直前でその手を止めた。うなだれた後でその手をポケットにそっとしまう。スクリーンセーバーを見せている理由はパソコンがこだまと自分は無関係であると言うかわりにそっぽを向いているようなものかもしれない。ばかな冗談だと思いながらこだまはデスクトップの電源を切る。ぶつんと液晶が消えあたりに明るいものは全部なくなった。月明かりは等しく窓から差し込んでいるのにこだまが来るところまでは届いてこない。暗闇に包まれてこだまは瞳を閉じる。体を包んでいる暗闇と自分が見つめている暗闇の二重の暗闇に囲まれてこだまは自分でも気持ち悪いほどに冷静さを高めていた。こだまもこだまとして自分の役割を果たさなければいけない。そのための準備は十分してきている。そう。誘っているのはあさひ一人ではない。

「あいつが居なければ始まらないわね。」

こだまは携帯電話を取り出して通話ボタンを押した。


     



 生徒会室で谷川は椅子に座ったまま不敵な笑みを浮かべている。谷川はえらそうな態度を取ることで自分がここに居るのをあさひに見せ付けていた。挑戦的な谷川の姿がこの暗闇の生徒会室の中でもはっきりとした輪郭を持ってあさひへと届いている。谷川がいる。それだけで肌に生えている小さな毛まで逆立ちそうだった。胃に直接熱いものが注がれていく。ふつふつと腹の中で煮えきるそれをぐっと押し止めてあさひは足に力を込める。あさひは扉の前から動かない。わずか数メートルしか離れていないが谷川が何をしてくるのかは予想がつかないのだ。いつも大丈夫なように扉の前を動かないでいるつもりだった。

「なぜあおばのことを知っている。」

谷川とは会いたくないが、ここに谷川が居たのはある意味好都合だとも考えられる。それの理由をあさひは立った今言葉にした。谷川は組んでいた腕を放して少し驚いたようにして口を丸く開いていた。谷川が椅子に座ってくるくる回るたびに金属が擦れ、神経を刺激するような音を立てる。

「単刀直入に聞くね。」

あおばの話はあさひにとって一番振られて欲しくない話題だった。それをあえてあさひは話題を振った。可能性が低いと見ていたあさひの行動に谷川が驚くのも無理はなかったかもしれない。別にあさひはそれで一本とったとかは思っていなかった。寧ろその話題を避けると思われていたことに怒りを感じていた。

「あのイヤリングに反応するなら不自然なことではない。なぜひかりとかいう奴があおば のイヤリングをつけているんだ。」

谷川は口に手を当てて考えているような仕草のまま椅子を回している。それも一瞬のことで谷川らしい表情に戻った。ただいつもより違った笑みをあさひに見せ付けている。表情の下に隠している感情がよく分かる。不敵に笑っている谷川はあさひを見下すかのように得意げだった。

「あおばは僕の知り合いだったからね。なにも君だけがあおばを見ていたわけではない。」

あおばの姿をあさひが見えていたことにあおば自身が驚いていたが他にもあおばの姿を見ていた人物がいたのか。あおばからは聞いたこともないのであさひはそのことを考えたこともなかった。まぁ聞いたこともない以上谷川があおばを見ていたことに嫉妬を感じることはない。だがあおばを見ていたのはあさひだけだったという特別意識がただの勘違いだったことに、ほんのばかしむなしさを感じていた。追い討ちをかけるように谷川はあおばのことを話し続ける。

「彼女は昼は君と一緒に居て、夜は僕と話していたんだよ。ちなみに雨が降っていたとき の昼も僕と一緒にいたね。」

谷川は立ち上がると窓を隠していたカーテンを纏める。シャーッと鋭い音がして外の光景があらわになった。しかしそれで部屋の中が明るくなるということはなく、真っ暗な部屋の中で谷川の二つの眼は相変わらずにぎらぎらした光をまとっている。広い窓の範囲を全て支配している黒い空以外に見えるものはない。白い星が光っては消え、流れては消えている。絵本で見るような夜空がある。まるでこの場所が学校ではない。宇宙に浮かんでいるかのような今まで感じたことのないどこか奇妙な感覚があさひの頭を悩ました。谷川は同じように外を見ている。谷川は何を感じているのだろう。それはあさひの知る範囲ではないのだが、自分と同じ事を考えているということは何か分かっていた。

「自慢するようで悪いけどあおばとの付き合いは君より長い自信はあるよ。」

谷川はごく自然に言った。あさひはあからさまに挑発されている。いつもならあさひは鼻息で軽く流していたが谷川が相手なら話は別だった。

「それがどうかしたのか? 消えた奴の思い出話を聞くために俺はここまで来たわけじゃ ない。」

「そうだね。じゃあ君とあおばのことについてちょっと口を挟ませてほしい。」

だるそうに谷川は振り返るとポケットに手を差し入れる。きちんときこなした背広にはその動作は似合わない。ネクタイまできちんと締められているからその動作はやはりかみ合っていない。しかしあさひはそれとは別に、サウナ室にいるときのような居心地の悪さを感じていた。谷川の態度から伝わってくるなんともしがたい迫力にあさひは吹き飛ばされそうで立っているだけでもやっとだった。無意識のうちに小指が震えていた。谷川の瞳はここに来てから初めてみたときよりもぎらついている。

「君の目の前であおばが消え去ったとき。あおばにはもう絶対に会えないと君は考えてい た。しかしこころの片隅であさひ君はあおばに会いたがっていた。だからこまちさんと 協力をとりクーライナーカの秘密を探ろうとしていた。」

粛々と谷川はしゃべり始める。台本を読むかのようになめらかにしゃべっている。あさひはただ聞いているしかない。

「君はあおばのことを誰よりも気にしていた。生徒会長が消えたとこまちさんの口から聞 かされたときも、こまちさんがいなくなったときもまず始めにあおばのことを考えてい たはずだ。」

谷川は歩き出して机の前に回るとそこで立ち止まった。自分の視線を机の面に向けている。その目は何かを考えていると言うよりもどこか物思いにふけっているようだった。あさひからはその顔は見えない。

「あおばが消えてから余計にあおばを焦がれるようになっていたのだろう?」

「違う。」

自分の口からは思わず出てしまった否定の言葉が一瞬だけこの場に沈黙を与える。たった三文字を言うだけなのにあさひの語尾はとても弱弱しかった。谷川はちょっと驚いたように自分の上半身を引いた。だがすぐに元の体勢に戻る。それどころかよりいじわるげに笑いをかみ殺していた。

「何が違うという。いつまでも強情だね。君は何時もあおばのことを映像として頭の中で 写していた。会いたい希望ともう会えない絶望にはさまれて無駄に苦しめられいたのだ ろう?」

少ししゃべりすぎたのか谷川は自分の唇を舌でぬらす。まだ口にしたいことがあるとの意志も示しているようだった。窓の向こうできらめいていた星の中で一つだけひときわ大きく輝いた後ふっと消えていった、谷川が次にいつ言葉をあさひは手に取るように分かる。あさひは谷川にそれを言われることにかつてない恐怖を感じていた。自分が誰かにいつかは言われてしまうと覚悟を決めていたのにあさひは全身で拒否感を示している。それを言うのがよりにもよって谷川であるからその嫌悪感は二倍にも三倍にも膨れ上がっていた。谷川はそれを知ってか知らないのか最後の言葉をとても簡潔に済ませた。

「その苦しみは誰よりも深い。君はあおばが好きだから。」

「だったらどうだというんだ!!」

拳を握りしめたままあさひは谷川に向かって吼える。一気に谷川の傍まで詰め寄ると傍の机に平手を叩きつける。自分の手がひりひりとしているのは無視した。怒りがあさひの何もかもを塗りつぶす。谷川はじっとあさひを見ているだけだった。その顔は仮面のように何も読み取れなかった。大事なときに谷川は何も反応を見せてくれない。あさひは感情に身を任せてあさひに叫び続けた。谷川が何か反応をしてくれるのを無意識に望んでいたからあさひは口を閉じることをやめなかった。

「 そうだよ。あいつに会いたいんだ。あいつが居なくなって変わってしまった自分の環 境に耐え切れなかった。忘れようとしてもちょっとした刺激であいつの笑顔とか歌声と かを思い出してしまう。もう脳裏にへばりついて離れないよ。だけど認めればあおばが 戻って来てくれるのか? 俺の目の前で消えてしまったのにどうやってあいつと再会す ればいいんだ。無理なんだよ。あいつはもう居ないんだから。それは俺が一番よく知っ ている。だから会おうとしても会えないんだよ!! そんな奴への恋心を実らすことなん かできない。結局枯らすことしかできないんだよ!!」

あさひは谷川の肩を掴んで自分が考えていたことをありのままに叫ぶ。自分の胸に秘めていてどうしようのなかった自分の気持ちを谷川に全部告白した。だけど後に残るのは気持ちよさでもなくむなしさとけだるさだけだった。あさひは自分の悩みをどうしても解決できない。自分の力の関係なしにそれは覆せない事実だった。だからたとえいくら吐露したとしても、あさひに晴れ晴れとした心地よさは訪れなかった。谷川は今までにない表情であさひの頭を見つめていた。それはあさひをからかう類のものではない。だが慣れていないためかその目はどこかよそよそしい。しかしその目に宿す気持ちに偽りはなかった。

「そう自暴自棄にならなくてもいい。」

しっかりとした口調で谷川は強く自分の体を掴んでいたあさひの両手に触れると優しくほぐしていく。いきり立っていたあさひの興奮もほんの少しだけ冷たくなってゆく。

「クーライナーカを作ったのは僕だ。僕はその言葉を友人と学校に残した。」

「残すということは?」

あさひが見上げるさきにある谷川の顔はもういじわるげではない。谷川としての地なのか、教師としてのなのかは関係なく谷川は普通に笑っていた。

「僕が生徒だった頃にね。僕の母校はここなんだ。今の七不思議を作ったのは僕の友達だ けど、七つ目の項目を作ったのは僕なんだ。」

あさひは谷川から離れた。一時とはいえ少し感情的になってしまったことが恥ずかしくて、それも今まで秘めていた自分の本音をぶちまけてしまい、あまつさえそれを谷川に告白してしまった。谷川は何も言わずずれてしまった自分の着衣をただしている。谷川はどう思っているのかだけが気がかりだった。

「結論からいうとあおばは消えていない。消えているように見えただけで君が誤解してい るだけだ。あおばは学校のどこかにいる。もっとも君を待っているのかと問われると僕 は答えられない。しかし会おうと思えば会える。ただしそのときに姿を現すのはあおば ではなくクーライナーカだ。」

会おうと思えば会える。昔にも同じ人物に言われたことだ。そのときは鼻で笑っていた。だけど谷川がクーライナーカとあおばのことを知っていると言うならば、前のように笑うことはできなかった。昔の自分がいたなら今のあさひを指さして笑うかもしれない。しかしあおばに会えるかもしれないという望みにかけてみたい。今まで何度も押し殺していた自分の気持ちにもう支えがきいていなかった。あさひはあおばに会いたかった。

「それでもあおばを探すというのなら探せばいい。どんな言葉を贈るのも君の勝手だ。」

谷川は最後にそう宣告した。あさひの背後で扉が閉まる音がする。その音ではっとして我に返った。

「待て!! 話はまだ終わっていない。」

扉を開けて谷川の後を追う。雲が月を隠してしまったのか廊下は黒一色でどこを見てもその濃さに違いはない。扉の向こうでは、谷川の姿はどこにも見えなかった。右にも、左にも、廊下が直線に伸びているだけである。谷川を探そうと一歩踏み出して、つづく二歩目を踏み出そうとしたときに形容できない違和感があさひを襲った。例えば靴下の左右を履き違えたような感覚。気づいていなくても生活できてしまう奇異なものにあさひは五感を支配されていた。考えるということも忘れそうになりながらあさひは必死に目の前に映るものを冷静に対処する。そしてようやくその違和感の原因に気づいた。

「どこだ? ここ。」

学校であることは間違いない。けどあさひはそれが信じられなくて呟いてしまった。そのたった一言が重低音となってあさひのなかでエコーしていく。

     


灰色一面の空から舞い落ちる羽のようにようにしとしとと雨が降っている。目に見えない細い糸のような雨玉が光を反射してきらきらと白い光を放っている。のぞみは傘にあたる雨粒の音を耳に挟みながら携帯電話を耳に当てていた。着信が誰かなどお見通しである。あさひがのぞみがあまりにも怒ったからそのお詫びとして電話をかけて来たに決まっている。激昂して図書室から出て行ったのぞみはその怒りの臨海値はいくらか下がり始めたがしかしやはりまだ体の中は熱く煮えたぎっていた。すぐに嘘を認めるのはそれなりに許される行為ではあるが、それでもまだのぞみはその怒りを静めるわけには行かない。無視を貫いてもよかったのだが文句の一つでも言いたかった。

「はい。」

気乗りのしないのぞみの声がのどの奥から震えだされる。

「もしもし。」

やけに陽気な声がのぞみの耳を貫いた。その声は両手で押さえ込んでも指の隙間から漏れている。今からピクニックにでも行くかのようなわくわくした子供のような気持ちがありありと読み取れた。使い古された雑巾のような色をしているこの天気に反している。相手の気持ちにけちをつけるわけではないがのぞみはこのときこの声を聞いているだけで倦怠感がどんどん積み上げられていった。しかしそれだけでこの電話に感じるのぞみと相手との微妙なずれを説明するには足りない。相手はのぞみと隔てなく話そうという意志がさっきの四文字に込められている。のぞみの方はどうだろうか? まだ相手に対する警戒はとけない。そもそも相手がどういう人物なのかが皆目見当につかないのだ。いろいろとその声の調子をのぞみの記憶というふるいにかけるが、誰にも該当しなかった。たぶん間違い電話なのかもしれない。のぞみは電話の相手には聞こえない程度のため息をして傍の柱に寄りかかる。

「誰?」

知人だとこの反応はまずい。しかしのぞみは相手を知らないという自信は揺らぐことなかった。この人はのぞみの知らない人物で間違いない。それに相手も気づいたのかあっと一言発すると気まずさを紛らわすかのようにごほんと大きく咳をした。

「はじめまして……でもないかな。倉中です。」

誰もいない中、のぞみは首をかしげる。たった二文字にこれほど困惑するのは貴重な体験かもしれないが有難いものとは思えない。倉中など聞いたこともない。のぞみの知っている人物に倉中などという苗字を持つものは誰一人として存在していない。やはり間違い電話に違いない。なんだかやるせない気持ちが冷たさとなってのぞみの足裏から浸透してきた。あさひにからかわれたうえに間違い電話までかかってくるなんて、不運というものは連鎖していくものなのだろうか。

「電話番号のかけ間違いではないですよね。」

「そんなわけないじゃないですか。私はのぞみさん本人とお話がしたくて今こうして話しているのです。武久井のぞみさんとね。あはは。」

のぞみは電話の相手が最後に笑いながら語尾を上ずらせたのが気になった。のぞみと会話するのに緊張しているのではない。倉中という人物は何かをこらえている。まるで今すぐ笑いたいのを必死で我慢しているようだ。のぞみは倉中のことを知らない。倉中がどういう人物なのか。見た目はおろか、その素性も真っ白なのである。しかし倉中はのぞみを知っているらしい。どれほど知っているかはまだ倉中の口から語られていない。だが一方通行に知られている。それが気持ち悪くてのぞみは首筋に視線を感じ振り返った。灰色の柱がのぞみの背中に密着していることを思い出しのぞみは軽く苦笑いをする。電話の向こうにはまだ倉中が待っている。何も言わないがその向こうから自身の気配を存分にのぞみへと伝えてきた。ぽつりぽつりと振っている雨がのぞみの足をほんの少しだけ濡らす。髪の毛が湿気を吸い取り何時もよりも重たく感じた。無駄に通話時間だけが進んでいく。考えあぐねて何か言おうにも、何を言ったらいいのかすこしも思いつけない。なぜ倉中はのぞみのことを知っているのだろう。倉中は一体何者なのか。学校の姿を下から見上げてのぞみはそのことだけを考えていた。

「さっきものぞみさんの近くに居ましたので。彼の冗談にたいそうお怒りのようでしたね。しかしのぞみさんが彼と知り合いなのは驚きました。友達は女性だけに限ると思っていたので。いつも二人のお友達と話していられますよね。けど今は少しそのお友達とは疎遠になりつつあるようですよ。私から見たらそう思えますわ。」

倉中も図書室に居たのだろう。人影はそれ以外に見あたらなかったが死角はいくらでも在る。その死角でのぞみとあさひの一部始終を見ていたのだろうか。しかしそれだけでは自分の交友関係や、そしてそれはのぞみの電話番号を知っている理由にはならない。でものぞみにとってそのようなこと関係なくなった。倉中はのぞみの生活まで知っている。もう恐怖を感じている場合ではない。携帯電話を握り締める手に力がこもる。

「人の友達関係を語って楽しい?」

「すみません。楽しいです。」

倉中は簡潔に、率直にのぞみの問いに答えると吹きだした。のぞみがこういうのをあらかじめ見計らっていたのだろう。そのタイミングはのぞみでさえ舌を巻きそうになったからだ。耳は携帯電話に集中しているがのぞみは目を細めそっと視線を泳がす。倉中はのぞみを知っている。その交友関係や電話番号まで倉中は知っているらしい。のぞみの胸の中に小さな波紋がいくつもできてゆく。体は知らない内にゆれていて、大きな振動が感情をうねらせてゆく。それは津波のようにとても激しく、凶暴な感情だった。

「悪趣味ね。もう切っていいかしら?」

彼女がなぜのぞみの電話番号を知っているのかは知りたいが、このまま赤裸々に語られるのは我慢できない。唇をかみ締め、赤い唇が少し肌色に近くなる。いつか現物で倉中を見つけたら文句の一つでも言ってやらないとのぞみの気がすまない。ただでさえ最近機嫌が悪いのぞみなのだ。このいらだちを少しは発散させたい。倉中はのぞみの返答を聞くと笑っていたのをぴたりと止めた。急激な変化だったからのぞみは携帯電話から耳を離すことを一瞬ためらった。その隙を倉中は見透かしていたのだろう。ピンポン玉のようによく弾む声でまた話し始める。

「あっ。待ってください他人の関係に口を挟むのは失礼であることを承知して最後に言いたいことがあります。」

のぞみは何と返事を返す代わりに黙っている。気に食わないことがあればすぐさま通話ボタンを押せばいい。倉中はのぞみの意を受け取ってありがとうございますと簡単にお礼を述べた後にすぐ自分の言いたいことを言った。のぞみのすぐ近くからは赤の他人である生徒が真っ赤な傘を手に、学校の外へと消えていこうとしていた。のぞみはその他人には少しも気がつかなかった。

「ひかりさんとはもう元の関係には戻れませんよ。」

電話の向こうから響く笑い声が止まらない。神経を刺激するような大笑いではなく、それをこらえているがためにおもわずこぼれてしまうかすかな笑みだった。聞きたくないのなら携帯から耳を離せばいいだけなのにのぞみはそれもできなかった。それを考える余裕さえなくなっている。雨は激しさを増し、地面に作る水溜りも広くなっていた。倉中はもう笑っていない。

「そしてひかりさんはあなたをもう必要としていない。」

倉中はその意見を誰がどう否定しても曲げないだろう。その意志を口に出した言葉以上にいやらしくのぞみに伝えてきた。もともと大きいのぞみの瞳が必要以上に開かれる。激しくなっていた雨がのぞみの体を濡らす。しかし顔は雨で濡れていない。頬に流れ落ちるその水玉はのぞみの冷や汗だった。

「あなた……誰なの?」

怒りが勝っていた倉中に対する思いはいつのまにか恐怖のほうが高くなっていたらしい。自分でもなぜこのようなことを聞いているのか不思議に思う。倉中は電話の向こうで息を吸い、鳴りそこないの笛のような音がかすかになった。

「ですから、私は倉中です。」

「そうじゃない。どうして私やひかりのことを知っているの。あなたはこの学校の生徒なの?」

自分でも気がつかないうちにのぞみの声がすこし高くなっていた。動揺が激しく駆け巡る。電話の向こうの倉中はいないかのようにその息づかいさえ聞こえない。

「私は倉中です。それしか言えません。」

「教える気がないということ。」

「ばれちゃいました。あはは。」

倉中はひとしきり笑った後にごほんとまた咳をつく。何かが来る。得体の知れないものにのぞみはこめかみからたらりと汗を流した。倉中はのぞみの意に反して待ってくれない。

「さようなら。これからひかりさんの隣に居るのは私だと思うので。もうひかりさんとは一緒になくてもいいですよ。」

倉中は大きく笑った。のぞみを同情するとか哀れむとか考える頭を持ち合わせていないのか、倉中はのぞみをばかにした。

「ひかりさんもそれを望んでいるようですし。」

これを最後に倉中はもう何もしゃべらなくなった。ところがのぞみは携帯電話を話さない。

「ばかみたい。」

誰にも聞かせるつもりはなく、のぞみは呟いて、その姿勢のまま走り出す。傘を差すことも忘れて雨の中のぞみは飛び出した。耳から携帯電話が離せない。雨で町の色がいつもよりも濃く、そして町はのぞみが本でしか見たことのない異国のようだった。何かを振り切るためなのか走る速度は増してゆく。本当にばかみたいだと思う。のぞみは自分で自分のことをばかみたいだと何回も罵倒した。大体付き合いは一年を満たしていないとしてもだ。友達のひかりよりも今日初めて会話し、しかもこの声しか分からない得体の知れない人間の言うことを真に受けるのだろうか。電話が途切れたことを知られる無機質な音が何度も繰り返された。自分の衣服が水を吸い顔は濡れている。最後の言葉がいやらしく耳に張り付いている。どんどんと入ってくる雨音よりも、とても耳の深いところに倉中の言葉は入り込んでしまっていた。のぞみは忘れようにも忘れられなくなっていた。


     



 一気に自分が見ていた光景が変わる。紙芝居を見ていたかのように劇的な変化にのぞみは対応できなくて自分が見ているものを確認できなかった。頬に当たる硬い感触から自分の顔を離しだるい体に鞭打って上体を起こす。蛍光灯がちりちりと音を立てのぞみの髪の毛を照らしていた。その光が少しまぶしくて蛍光灯のスイッチに手を伸ばす。蛍光灯は抗うことなく蓄えていた光をどこかに拡散させた。ノートを枕代わりにして寝ていたらしい。机の上に広がっているノートはのぞみが寝ていたためか皺ができていた。それを直そうとのぞみは指を伸ばすがすぐにめんどくさくなりノートを閉じる。直せないなら見なければいい。やろうと考えていた宿題もさっぱり手をつけず机の上は綺麗に片付いていった。あっさりと片付いた自分の机の上を見ると宿題をしようとしていた自分の努力がとても淡白に見えてすこしむなしくなる。実際宿題は遅々として進んでいないから否定はできそうになかった。一日ももう終わりが近づいている。窓ガラスはガラスとしてではなく、鏡としてのぞみを映していた。髪の毛がぼさぼさで目は少しも開いていない。不機嫌そうに口を一文字にきつく閉め顔全体にはどこか不気味な影を落としている。

 のぞみはあれから解のない問いに苦しめられている。倉中がきっかけを投げかけのぞみが作り上げた問いに自問自答を何回も重ねていた。倉中という人物が自分の周囲に居るのかどうか簡単に調べたがそのような苗字を持つものはやはり皆無だった。それに倉中という苗字さえ作り物かもしれない。それに気づいたときのぞみは倉中を探すことをやめた。それに探したって倉中に何をしようとか少しも考えていなかったのだ。ひかりとのぞみはもう元通りの関係にはなれない。倉中を探したってひかりに感じる困惑は前に比べてより一層のぞみを塗りつぶしている。倉中の予想は当たってしまった。のぞみはひかりに心配はかけたくなかった。だから自分がひかりと一緒に居るときに感じる動揺を悟られたくなくてひかりから離れていた。ひかりが嫌な思いをしないようにとのぞみができる最大限の配慮だった。ただそれはひかりを遠ざけていることに過ぎなかった。あの鈍いひかりでさえそれを感じ取ってしまったのだから、のぞみの行動はとても分かりやすかったのだろう。でものぞみはそれに気づけなかった。そしてひかりに不本意な発言をしてしまいひかりを安易に傷つけてしまった。弱そうなひかりを突き放してしまったのだ。そしてもう謝れない。ひかりは学校に来ていないのだから。後悔はいくらでもできる。ただそれで全てが元通りには戻らない。一度だけこだまにひかりのことを心配したときがある。その時こだまは不安そうにひかりの安否を気にするのぞみの声を背中で聞いていた。学校の廊下をのぞみが横を向きながらさりげなく呟いたのだ。こだまは聞いていないかったのか歩いているのをやめなかった。立ち止まっているのぞみから自然と距離が開く。こだまは鴉羽根のような自慢の髪の毛を振り子のように揺らしていた。こころなしかこだまの髪の毛は伸びている。毛の先は骨盤辺りまで届いていた。のぞみがそれに気づいたときにこだまは立ち止まっていた。上半身だけをのぞみへと振り返らせる。前髪に隠れて目線はどこを向いているのかは分からなかった。

「さあ。」

そう言ってこだまはまた髪の毛を揺らしながら歩き出す。のぞみはただついていった。こだまはひかりがどう思っているのか知っていそうだ。いや知っているに決まっている。それなのにのぞみには教えてくれない。光がこだまの後姿を輝かせている。その後ろで影に足を踏み入れてのぞみはこだまの後姿を穴が開くほどに睨みつけていた。そしてそのままだらだらと数日が過ぎていった。

 削岩機のような音で我に返る。携帯が机の上で震えていた。こだまからの着信だ。疲れが抜けないまま通話ボタンを押す。携帯電話の先からは聞きなれた声が届いてきた。

「起きてる?」

こだまはあまり抑揚のない声で端的に用事を述べる。こだまらしい言い方も今は少しありがたい。眠たい目を擦りながらのぞみは疲れをこねくり回す。ちょっとおっくうな気にもなるけどこだまからの電話を切る気に離れない。言葉とともにためた疲れを吐き出した。

「まぁね。」

一言一言口にするだけでも頭がくらくらする。椅子に寄りかかったときに背骨から気味悪い音が鳴り響いたがそれは気のせいだろう。のぞみがかなり疲れきっている様子はこだまなら今の言葉だけで察しそうだがそれで電話を切るような彼女ではないことは大体分かる。こだまはそうと一言呟いた。窓の外で意気揚々にはしりまわっている風が窓を叩く。音という音はそれくらいでのぞみとこだまは黙ったままだ。それは微妙な違和感だった。こだまは何か迷っているのだろうか。言いたいことがあるならさっさというのがこだまなのでこの沈黙にはそういう意味が込められてそうだった。

「私ね。今学校に居るの。」

特に大きい声量ではない。ただこだまの言葉に反応してのぞみは携帯電話から耳を離した。目をしかめながら今の時刻を確認する。机の上においてある時計はまぎれもなく午後十二時を指している。こんな夜更けになぜこだまは学校に居るのだろう。嘘ということではない。こだまはそのようなことを言わないのはのぞみといえど分かっている。だからこそなぜこだまは夜の学校に居るのだろう。?

「今何時だと思っているの?」

「それがどうかしたの?」

こだまの意味もなく高圧的な口調はのぞみにはそれなりに効果はある。わがままにしか思えないこだまの言い分だがのぞみは言い返すことはできなかった。やはりこだまは言い出したら聞かない。さっき感じた違和感はただの気のせいのようだ。

「まぁそれはいいとして、何で私にそのことを話さなければいけないの?」

のぞみは半ばあきらめていた。こだまにはこのままでは逆らえない。こだまはこんなことを自慢しない。のぞみにちゃんとした用があるから電話しているのだ。

「のぞみ、今すぐ私のところに来て。職員室で待ってる。」

案の定とんでもないことを言い出した。

「なんで?」

もうここまできたら断れないことは知っている。だけど理由の一つや二つは聞き出しておきたい。

「ひかりのためなの。」

こだまの口調も命令ではなく懇願するようなものになっていた。こだまのその変化にのぞみは事がどれほどおおきいかその全体像を見通せたような気がする。のどが締め付けられつばを飲み込むときでもその音が体の中で鉄槌を叩くような音に変化していた。ひかりのため。今ののぞみにとって何よりも聞く刺激だろう。だからのぞみが言うべきことは変わらない。ただのぞみの中にある意気込みのようなものに明らかな違いが生まれていた。

「分かった。すぐに行くよ。」

「お願いするわ。」

こだまは最後にそう言葉を託すと電話からは何も聞こえなくなった。夢の中でも聞いた機械的な音がこだまを考えさせることに助けてくれた。こだまがなぜ今からのぞみに学校に来いと要求したのかは分からない。こだまは何か目的があるかもしれないがのぞみには教えてくれない。こだまはいたずらでそのようなことをするとは思わない。のぞみに対する秘密ごとは数多い気がするのだが無駄なことをするとは考えにくい。戯言に聞こえるこだまの口先に踊らされている自分というのは我慢できないが最後にこだまが言った言葉がとても気になっていた。

「ひかりのためか……」

のぞみはそれだけ呟くと立ち上がり自室から出て行った。立ちくらみも気にせずに階段を下りる。水場で適当に顔を洗いあらかじめ持ってきたリボンでポニーテールを作る。目の下にくまはできているが見れる顔にはなったようだ。しだいに表情が柔らかくなり息継ぎもゆっくりになった。気持ちに余裕が生まれると自分の体がどれほど汗ばんでいるか分かった。自分の肌に鼻を押し付けてみるとやはり汗臭い。

「服を着替えてから行こう。」

のぞみが新しい服を選ぶのに数分はかからなかった。時間がないから熟考するつもりがなかった。適当に白いワイシャツと丈の長い冬用のスカートに着替えると気持ちも新しくなったようだ。生まれ変わったといっても過言ではない。起きたときののぞみの容姿は今では微塵にも残っていなかった。そしてのぞみの仕度は完了した。ひんやりとしたドアノブをさわる。ドアの隙間から冷風が入り込んだ。コート越しからでもその冷たさがのぞみの体温を乱暴に奪っていく。もしかしたらひかりも一緒に居るかもしれない。もし居たらひかりにどうあいさつをしよう。そのことを考えつつ外に飛び出し、結局考えが纏まらないうちに学校に到着した。

       

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