Neetel Inside 文芸新都
表紙

怠慢な粗粒子
外側

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 外側にあるのかもしれないと、僕は考えた。

 よくよく分析してみれば、皆が内側にあるものだと考えていることに気付く。
 そしてそれは、いざその気になって観察してみれば、誰もが誰も、ミルクがカップに入るのが自然であるように、容器の中に物質が入っているに違いないという先入観から結論付けたものでしかないことに気付ける。
 当然だ。
 ミルクが容器から抜け出して、空中にふわふわと浮いているわけは無いのだ。
 それは、不自然なのだ。
 しかし不自然というものは、それこそがなんと不自然なのだろうか。
 自然というものを不便だと判断し、不自然で世界を構築した知的生命体が、自らが粉々に粉砕した自然の是非を判断し、それを不自然だと判断するのだ。
 水とは元々、川をせせらぐものであると認知している者は、あと何億人いるだろう?
 風とは元々、空を凪ぐものであると認知している者は、あと何万人だろうか?
 重力とは元々、地球を構成する絶対摂理において最も力が弱いことを認知しているのは、あと何百人だ?
 自然とは、不自然の前に淘汰された存在である。にも関わらず、不自然の子である人間は、淘汰したはずの自然に常に畏敬し、恐怖し、時に感謝する。
 実態が、判らぬからだ。底が、知れぬからだ。
 人が石ころと棒切れを組み合わせて棍棒を完成させた日から、どれだけの時が経ったのかを、正確に証明することは出来ない。端数を端折って数字を出すことは出来るが、そのような曖昧な算出を、僕は好まない。
 しかし間違いなく。
 人は、知性を持ってからこれまでの膨大な時を持ってしても尚、自然を正確に認知することが出来ないでいる。
 である以上、僕の説が不自然であると判断することは、出来ない。人にとって、自分達が理解出来ないことは自然の仕業に違いないと結論付けるのが常套手段である以上は。

 意識とは。
 心とは。

 外側に、ある。


                    ・


 千九百九十二年 八月二十三日。
 太陽がコンクリートを焼く音と蝉の鳴き声のフーガが終章に差し掛かる頃、僕はマンホールの蓋の上に裸足で立ち呆け、考えた。

 熱いとは、どこから来るのだ?

「熱い」という言葉はそのものは、両親或いはそれに似る誰かに教わるものなのだろう。一体いつどの時代のどの民族がそれに「熱い」という名前を付けたのかは、この際些細な問題である。
 この、足をジリジリと刺すような痛覚に訴えるこの感覚は、どこの誰が植えつけたものなのだ?
 足を焼くその感覚は、やがて脳髄を刺し、毛根が凝縮するような錯覚を覚えさせる。それが体が脳に危険を訴える信号であることを、僕は知っている。習ったからだ。
 この危険信号を創作したのは、どこの誰だ?
 例えば今、この程よく熱されたマンホールの蓋に、百人の人間を立たせたとする。
 人選は、完全なランダムであろうが、選り選りの精鋭であろうが、何でもいい。人間であればいいのだ。
 百人が百人、同じ感覚を覚えるはずである。
 例外は、あるのかもしれない。言葉は悪いのかもしれないが、そういう人間も、存在する。
 しかし考えても見て欲しい。
 違う環境で育ち、違う物を食み、違う者を愛で、違うものを見て、感じてきた者達である。
 そんな百人がすべて、同じ感覚を覚えるのだ。

 おかしいではないか。
 恐怖すら感じた。
 何故、誰もそれを訝しまないのだ? 貴方がたは常々、理解不能であることを「不自然だ」と罵ってきたではないか。
 こんなに不自然なことなのに、人はそれを無意識で自然なことであると判断しているのだ。何故だ? 何を根拠に? それが自然なことであると何者かに教わったのだとして、それは文字通り何者なのだ? その何者かは、何を知っているのだ?
「本能」と「無意識」という言葉は、それはそれは便利な言葉であると思う。その言葉を使うだけで、大抵の理論をゴリ押しすることが出来る。必要なのは、それらしい理屈だけだ。
 だがしかし、限度はある。

 熱されたマンホールの蓋に裸足で立つと、足の裏と脳髄に刺すような刺激が伝えられるのは、本能なのです。

 ──馬鹿げている!

 隠しているのだ。ポリモーダル受容器が侵害性熱刺激に反応し、それにより生まれたパルス信号がC線維を通って痛みとして認識されると、それらしいことを言ってはぐらかしているのだ。
 何故ならば。
 ポリモーダル受容器。
 C線維。
 神経ペプチド遊離作用。
 細胞膜Na透過性の上昇による脱分極。
 ご大層な理屈を並べてはいるものの、人はそれらを誰が作ったのか、何の為に作ったのかを、知ることが出来ずにいる。

 何故、それが自然によって生まれたものだと断言するのだ?
 何故、そこまで自分達が祖であることを自負することが出来る?
 何故、そのような根拠も無いような自負に縋って、日々を生きることが出来るのだ?

 百人が百人、同じ感覚を覚える。
 幼い頃から何不自由無く育った御曹司も、日々スラム街で命の危険と隣り合わせて生きてきた孤児も、近い例を出せば近所の悪ガキも、いけ好かない上司も、皆だ。
 そこには、明らかな人為があるじゃないか。
 イレギュラーこそ確かに存在はすれど、標準というものが定められているこの現状に、人為を感じないのか?

 僕達の意識とは、単一なのだ。
 心とは、一人一人の胸の中に淡く渦巻いているのではなく、人体という器の外側から、見えない管のようなものを通して注ぎ込まれる「外側の存在」なのだ。そう考えないと、この現象に説明がつかない。
 スポーツカーのプラモデルを組み立てた時、その製造主によって何百通りものスポーツカーの模型が誕生するのは、自明の理だ。
 或いは塗装をするだろう。或いは削りをかけるだろう。或いは不必要な部品を追加するだろう。
 そうして、全く違うものが完成し、それは違うものとして認識されるのだ。
 祖は、同じなのに。
 それと同じだ。我々が一人一人違うのは、それは心が内側にあるのではなく、余分な塗装や装飾を施した結果である。
 祖は、同じなのだ。祖は同じで、どこかの誰かが作った、数寸も違わぬ祖が、あるのだ。
 その祖は、人が火で肉を炙ることを覚えたその日から今まで、僕達を制御している。

 制御されているのだ、僕達は。


                    ・


 僕なりに分析した上で捻出した証拠を提示しよう。
 例えば、僕らが生きるこの世界には、何百万種、或いは発見されていない生物の存在も視野に入れるとするならば、何千万種、それ以上の生物が、この世界には存在する。
 それら生物を、一つの空間に余さず集めよう。余さずだ。
 コミュニケーションを取ってみようと考えるのは、どの種だろうか?
 ナカムラサキフトメイガは、ヨツメトビケラとコミュニケーションを取ろうとするだろうか? キングコブラが、イリオモテヤマネコと友好を育もうとするだろうか?
 そもそも、コミュニケーションという概念そのものが、人間しか持たないものなのだ。
 たちまちその空間には食物連鎖が発生し、弱肉強食の阿鼻叫喚絵図になるはずだ。人間が肉になるスパンは、それほど長くはない。
 そこに、心は無い。生きる為に食べ、死なない為に食べる。それだけだ。
 奇妙ではないだろうか?
 たった一種だけなのだ。地球に存在するありとあらゆる生命を集めたこの空間で、たった一種、人間だけがコミュニケーションという概念を持っている。
 生命として、不自然なのだ。

 もう一つ、判例を出そう。
 ある日、道を歩いていたら。
 ぼろぼろになった子猫、或いは子犬。
 生きているか死んでいるかも判らないその生物を目の当たりにして。
 行動に移すか否かはこの際目を瞑り。
「可哀想だな」「助けてあげたいな」と考える。

 何と、不自然であることか。

 目の前にあるのは、肉なのだ。
 道徳・倫理・モラル。それらはこの際脇に置いて、それは、肉なのだ。
 人間は、雑食である。草であり肉であり、それを食むことが出来るし、現に食んで日々を過ごす人種も存在する。
 にも拘らず。
 空腹感の是非を問わず、人はそれに悲哀を感じる。手を差し伸べようとする。挙句の果てには、それらに対して食欲を刺激させることを非人道だと罵る者まで現れるだろう、おそらくは。

 制御されているとしか思えない。
 こんな不自然なことを網羅しても尚、それが自然だと考えるのは、もはやそれ自体が不自然の賜物でしかない。

 ヒントは、存外身近な場所にあった。
 スプラッタ映画を閲覧している時に、それはふと思いついたことだった。
 日立製の液晶テレビの中で、クリーチャーの食物となった白人男性を見て、僕は皮膚が泡立つのを感じた。
 簡単に申すと、それは想像の範疇を超えるような痛みを伴う喰われ方だった。手をもがれ、足をもがれ、胴体に噛り付かれると、そのままバリバリと食まれるのだ。生きたまま。白人男性の断末魔は、それはそれは悲痛なものだったことを覚えている。

 何故?
 何故僕は、それを見て皮膚が泡立ったのだろうか?
 だって、僕が白人男性のように咀嚼されているわけではない。それは自分の意識の外側で起きていることであり、フィクションであれリアルであれ、どちらにせよ僕には関係の無いことだ。

 白人男性は、腕をもがれた。僕は、ただ見ていた。
 白人男性は、足をもがれた。僕は、ただ見ていた。
 白人男性は、胴を齧られた。僕は、ただ見ていた。
 何故、僕が泡立つ必要があるのだ?

 衝撃、だったのかもしれない。物語に登場する名探偵は、事件の糸口を掴んだ時、こんな感覚に襲われるものなのだろう。

 繋がっているのかもしれない。

 今となっては、すっかりクリーチャーの胃の中に納まってしまった白人男性と僕の心は、繋がっていたのか?
 いや、それだけじゃないのかもしれない。
 今度は誰が喰われるのだ? あの化け物を殺すことは出来るのか? どうすれば助かるんだ?
 自分は関係無いのに、この沸々と湧き出てくる未来への不安は、もしや彼ら犠牲者と繋がることによる並列伝達により発生する感情なのか?
 二人目の犠牲者が映し出された。クリーチャーの唾液の強力な酸性により胴体を解かされ、内臓やら肋骨やらを剥き出しにされて死んだ。黒人の女性だった。
 皮膚が、泡立った。


                    ・


 今僕は、貴方に問い掛ける。
 心が一つである以上。心が創造物である以上。心が監視されている以上。
 管理者がいるはずだ。想像主と管理者が同一であるか否かは定かではないが、管理者は、いるはずだ。
 そして僕らの心が管理されているものである以上、僕らという媒体を通して、貴方は僕のこのメッセージを見ているはずだ。何十、或いは十にも満たないかもしれない人達が目の当たりにするこのメッセージを、貴方が管理する人体というインターフェイスを用いて、貴方に送る。

 貴方は一体、何者なのだ?
 貴方は一体、何故このようなシステムを作ったのだ?
 貴方は一体、何故今日までこのようなシステムの管理を行っているのだ?

 貴方がこの言語を理解出来ているかどうかは定かではないが、おそらく貴方は、違うプロトコルを持ってこの言語を翻訳しているはずだ。言語とは脆弱性に満ち満ちており、僕とてもっと違う伝達プロトコルが存在するのであれば、迷わずそれを使うだろうから。
 おそらく貴方が作った人間というツールは、このメッセージを見て、僕のモラルや人間性を疑うのだ。他ならぬ、貴方がそのようにプログラミングしたのだと僕は推測する。自分達を認知する存在を淘汰する為にそのような仕様にしたのだろうか?

 先に申し上げよう。僕は別に、貴方をどうこうするつもりは無い。貴方がこのようなシステムを組み上げたことには、何かしらの理由があってのことだろうと考えている。
 そしてそのような回りくどいシステムを組み上げ、今日まで管理を続けるような回りくどい方法を取ったことに対して、私には一つの仮定がある。
 おそらく貴方は、僕達の世界に直接干渉することが出来ないのだ。
 一千五百万年無いし二千万年前、アフリカを起源に猿人に発生した進化論には、明らかに不自然な点がある。
 それは、プロコンスルからラミダス猿人へと進化を遂げるまでの一千万年余りの間だ。
 おそらく貴方は、そこで猿人に、「何か」をした。
 その「何か」をすることによって、貴方は間接的にではあるが、人間というインターフェイスに改造した猿人を使ってこの世界に干渉出来るようにしたのだ。
 何故?
 その日その時、その空白の一千年の間に、何があったのだろうか? 何故わざわざ、猿人という食物連鎖でも比較的中位に属する生命体を選ぶ必要があったのか? 猿人の進化が常軌を逸したスピードで行われている以上、貴方が進化の系譜に何かしらの細工を施したのは明らかだ。僕達の進化が自然進化ではない以上、別段ライオンでも鮫でも、言うなれば蛇でも良かったはずだ。なのに何故、猿人なのか?

 実は僕にはもう一つ、仮定がある。その仮定は、おそらくは確信といっても過言ではないほどの圧倒的な説得力を持って僕の中に存在しているものだ。
 これはおそらく、僕自身が僕の独力で気付いたものではなく、貴方が僕の意識に命令して、擬似的に僕の発想として処理したものなのだろう。
 何故なら、言語化出来ないのだ。僕のこの確信とも言える一つの推測は、今現在の言語というプロトコルでは表現出来ない。外側から来る未だ人類にインストールされていないこの発想は、既存の技術で表現することは出来ない。

 ただ、知りたいのだ。
 僕が気付いたのは、貴方の仕業か? 僕なのは、貴方の仕業か? 或いは、貴方は僕なのか? 今ここで記している僕は、貴方なのか? 何を伝えようとしているのだ? それは、今の僕達が理解出来るのか?

 おそらく近い未来、人は気付く。「自分達は一つの存在なのだ」と気付く。
 僕はただ、フライングをしてしまったのだ。気付く段階に至っていない状態で、気付いてしまったのだろう。
 人は、単一ではない。
 僕達が一人一つずつ持っていると誤認している心とは、意識とは、それは元より一つであり、僕らはそれを共有しているのだ。
 貴方が何の為にそれをしたのか。何故僕達である必要があったのか。
 今はまだ、それを問わないでおこう。

 今はまだきっと、時期ではないのだ。

       

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