Neetel Inside 文芸新都
表紙

怠慢な粗粒子
Who Are You

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「……ああ……斯くも自由の利かない者であるものか……」
「悪いな、飯の時に口を動かすのは咀嚼の時だけにしろと教わって育ってきた」
「……飯……ああ……栄養摂取作業の一環だね……栄養……不毛だ……」
「人の話を聞いているのか?」
「聞いているさ……しかし不毛だよ……それは……意思の伝達は……意思があるから成立する……ふぅ……意思の存在……不毛……ふぅ……」

 モーニングトーストの味わいを謳歌する際のBGMとしては、間違いなくワーストであると推薦出来るほどにダウナーな溜息が断続的に続き、俺はそれを無視してトーストに蜂蜜をぶっかけて噛み付いた。
 自分の分しか、用意しないつもりだった。最初、コイツにカップラーメンを差し出した時、コイツは二つ返事でそれを断った。
「いや……遠慮するよ……不毛だからね……。ああ……気を悪くしないで欲しい……と思わないでもないが……別に悪くしてもいい……不毛だ……君の気の良し悪しは不毛だ……罵倒してもいい……怒鳴るのもいいねぇ……どれも不毛だけど……」
 それ以来俺は、コイツがいようがいまいが、自分の分しか食事を用意しないことにするよう努めている。本人が「不毛だ」と言っている以上、不毛なのだろう。だからといって今更「やっぱり下さい」と言ったところで、俺はコイツに米粒の一粒だって差し出すつもりは無い。
 という俺の意思は、その悉くが達成されていないのが現状である。
「悉く」という言葉を使う以上、それには意味があるわけなのだが、それを今から一つ一つ解説していこう。

 まず一つ目だが、「コイツがいようがいまいが」の部分がそれに該当する。
 その「いまいが」の時が、無いのだ。
 朝起きた時も、アルバイトから帰宅した時も、スロットマシンから大量の金銭をカツアゲして帰ってきた時も、その逆の時も、あの時も、この時も。
 常にコイツはそこに在り続け、俺の網膜にその姿を映した。

 次に二つ目、「自分の分しか食事を用意しないことにするよう努めている」の部分が該当する。
 明らかに過度な積載量の荷物を背にしている御年配の方々を目の当たりにした際には声をかけてしまう程度は人情のある俺には、客人或いは同居人の目の前で一人、食事をパクつくなどという無礼な行為は出来なかった。

 最後に三つ目なのだが、「やっぱり下さい」の部分である。
 俺の手元にある、体積が半分ほどになったハニートーストとは打って変わって、コイツの目の前に用意されているトーストは、生まれたままの体積を持ったまま、じわじわと体温を下げつつある。
 本当に、食べない。
 食べない。とことん食べない。止ん事無く食べない。
 トーストを出そうが、白米を出そうが、肉を出そうが、野菜を出そうが、結果は一緒だった。一瞥するなり「不毛だ……」と呟き、その次の瞬間には既に興味を失っている。一瞥すらしない時もあった。
 俺の見ていない場所で食べているという線も探ってはみたが、それも途中で止めた。「食べないコイツ」よりも「食べるコイツ」に違和感を感じるようになったからだ。今ではむしろ、コイツが何かを咀嚼している光景の方に違和感を感じるのではないだろうか?

「なぁ」
「……」
「お前、いつからここに居るんだ?」
「……さぁね……いつからなんだろうね……ふぅ……僕には『いつから』の『いつ』を証明出来ない……概念が無い……必要も無い……不毛だからねぇ……あぁ……僕は……『いつまで』の方が興味があるなぁ……無いけどね……考えるのも不毛だ……無いのだから……」
 不快感が反吐になって口をつくのではないかと思った。知っていることを教えるでも、知らないことを詫びるでもなく、だらだらと理解不能な口上を述べた上で、「不毛だ」と〆る。
 どんな問答でも、どんな与太話でも、それは一緒だった。最初は発狂しそうになったもんだが、今は反吐が出そうになる程度で治まっている辺り、人間の順応力には感心せざるを得ない。
 名前を、聞いたことがあった。応答は、前述の例の範疇を抜けていない。ので、僕はコイツのことをそれ以来”お前”と呼んでいる。「君」や「貴方」という言葉を使うほど、俺は”お前”に尊敬や親愛の念を抱いてはいない。

 この日、”お前”はよく喋った。
 これまでも確かに喋るには喋ったのだが、それは”お前”曰く「不毛だ……」ということで、決してそれ自体が意味のある会話だったわけではない。
 故に、今回は「よく喋った」と言いたい。

”お前”が、何かを伝えたいと思うことは、本当に珍しいことだった。


                    ・


「君は……僕を『幽霊だ』と思っているね……?」

 俺は驚いた。「違うのか?」という意味と「お前が喋ったのか?」という意味でだ。”お前”はこれまで、決して自分から何かの議題を出そうとはしなかった。
「違うのか?」
「君が『幽霊』を……どのように捕らえているかにもよるね……ああでも……おそらく違うなぁ……違うんだろうなぁ……」
「どのように捕らえているか、だって?」
「言葉の通りだよ……ふぅ……幽霊とは何だい……?」
 五秒弱の沈黙が必要だった。「幽霊って本当にいるの?」とか「幽霊ってどうやって見えるの?」とか、そういう段階以前の問いであり、それに対して俺は明確な返答を持っていなかったからだ。
「魂とか、怨念とか、そういうものなんじゃないのか?」
「よしてくれよ……説明の為の説明が必要になる……不毛だ……」
 暴力的な感情が胸の中に渦巻き、俺はそれを抑えた。
「魂……怨念……ふぅ……概念は知っているよ……馬鹿げている……君は僕に触れているし……君は僕を恐れていないじゃないか……」
「まぁ、な」
”お前”は、正しいことを言っている。
 触れられるのだ。恐れてもいないのだ。
 以前、”お前”のあまりにも粗雑な振る舞いに堪忍袋の尾が切れた俺は、一度だけ”お前”の胸倉を鷲づかみにしたことがある。
 何も、不思議なことなど無かった。五本の指は、当然のように”お前”の純白のインナーを掴み、右腕は、当然のように”お前”の重力負荷を担った。
 眉一つ動かさなかったくらいだ、瑕疵は。
「目から鱗だな。一つだけ”お前”のことが知れたよ。”お前”はどうやら幽霊じゃない」
「おめでとう……不毛だけれどもね……で? 結局……僕は何なんだい……?」
「知るもんか」
 残ったパンケーキの欠片を口に放り込んで、牛乳の一気に飲み干した。対面席のパンケーキはすっかり冷め切り、見るからに不味そうなスポンジに成り下がっている。

「じゃあ、よ」
 右手でテレビのリモコンを探りながら、”お前”に視線を浴びせることもなく、俺はごちた。
「自分ではどう思ってんだよ? ”お前”は何なんだ?」
「……いつかな……考えたことはあるよ……」
 太陽の光を見つめても尚、眉一つ顰めない”お前”が、太陽を見つめたまま、小鳥の囀りよりも小さな声で呟く。
「誰でもない……何者でもない……何者かだったんだろうけれども……何者でもない……」
「はぁ?」
 イカれた野郎だと思った。もう、何度も何度も反芻した単語だ。
「イカれた野郎だ」
「違うね……僕は野郎じゃない……人じゃないんだからねぇ……ふぅ……」
「その溜息はいい加減止めろ。俺は自分の気に入らないことを二十四時間耐え忍べるほど忍耐強くないんでな」
「気に入る……気に入らない……不毛だ……君の情報は……不毛だ……」
「一歩も動くな。殴ってやる」
 
 殴った。
 拳でだ。手加減もしていない。当てる場所も考えていない。喧嘩や扱きよりも、暴力的に殴ったつもりだった。
 にも、関わらず。
”お前”は、眉一つ動かさなかった。

「痛いだろう。『痛い』と言えよ。泣いてもいいぞ。怯えたっていい」
「……不毛だ……君が僕に与えたものは……不毛だ……」
「痛がれよ!!」

 気が狂いそうだった。
 胸倉を掴んでも、パンケーキを差し出しても、太陽を直視しても、拳で殴っても。
”お前”は何も反応しない。俺が与えた数々の影響を、影響として処理していない。
 俺が”お前”に与えた数々のアクションは、しかし”お前”に、毛先ほどの影響も与えていないのだ。
「何なんだお前、お前何なんだよ」
「同じことを二度言うなよ……一度だって言わなくてもいい……それはさっきから考えている……不毛だ……二度に渡る問題定義は……不毛だ……」
 頭を、掻き毟った。痛みで自分を繋ぎ止めておかないと、不安だったからだ。
”お前”も、痛いはずなのだ。手応えはあったし、現に”お前”の唇には血が滲んでいる。
 ただ、痛みに対してアクションを取らないだけなのだ。「痛い」という感情に対するリアクションを取らないだけなのだ。
「人間じゃねぇよ、お前」
「当たり前だろう……不毛なことを……」

 やはり、太陽から目を逸らさない。パンケーキを差し出した時から、ずっと。


                    ・


 そうして、一日中太陽を見つめ続けていた。
 やがて太陽が沈み、入れ替わりに月が空を泳ぎ始めると、”お前”は満月のような瞳で三日月を凝視した。
「人間だったんだろうね……」
 たまたま、聞こえたのだ。寝具に潜り込んで、お隣への迷惑を考えてテレビの電源を消していなかったら、その耳鳴りよりも音量の小さい呟きは、テレビショッピングのコメンテーターの声にかき消されていただろう。
「前は、ってことか?」
「『前』と『後』のラインが判らないけれどもね……そもそも『前後』という概念すら曖昧なんだけれど……ともかく……僕が人間だった時間は存在した……」
「根拠を聞きたいな」
「でなければ……君との意思の伝達など……成立しないからさ……。僕は言葉を知っている……君がどういう仕草をすれば怒っているのか……君がどういう仕草をすれば悲しんでいるのか……逐一を理解している……と僕は思っている……。君の言葉が……どういう意味を持っていて……何を伝えんとしているのかが……理解出来ている……」
「そりゃ、バッタやカマキリと杯傾けて語り合えるなんて特技は持っちゃいないがな」
「僕は始めから……『始め』とする点を……この空間に存在する僕に制定するならば……僕は始めから……それらの情報を所持していた……。おそらくこれは……『始め』以前の僕が所持していたもので……それを『始め』の状態になった時点で引き継いだんだろうね……。それ以外に……説明がつかない……」
「父ちゃんや母ちゃんから教わったって線は無いのかよ?」
「よせよ……僕は自分の正体すら知っちゃいないんだぜ……? 正体が解らないのに……ルーツや構成が解るもんか……」
 尤もだった。そもそも”お前”に保護者が存在していたとするならば、今こうして”お前”を保護観察下に置く役割を熨し付けて押し付けてやるところだ。
「解った気がするよ……」
「何がだ?」
「不毛だよ……その問いは……」
 俺だって、言ってからそう思ったさ。お前が俺と知り合ってから今日まで、解らなかったことなんか一つしか無い。
 ──問題として扱ったものなんか、一つしか無いじゃないか。
「僕は……何者でもない……僕は……何者でもない何者かなんだ……」
「頓知は苦手でな。もう少し解りやすく言ってくれないか?」
「影響……」
 本当に、言葉のキャッチボールの出来ない奴だ。そもそもキャッチボールの何たるかすら知らないのかもしれない。
「この世界に存在するあらゆるものは……影響を与える……針の穴ほどの些細なものから……君達が『人生』と呼んでいるそれを……大きく大きく揺るがすものまで……何かしらの影響を……残す……」
 こう、と。
 詰まった排気口が何かを吸い込む時のような呼吸をした。
「与えない……受けない……だから……僕は存在しない……存在しても……存在しない……」
「じゃあ、お前は誰なんだよ? 今ここで、俺と話しているお前は、何なんだ?」
「……ふも」
「不毛じゃねぇ」
 ”お前”の言葉を、遮った。聞き飽きた言葉であるし、今この場では、何よりも聞きたくない言葉だったからだ。
「自分のことだ、不毛だなんて言うな。それはちっとも不毛じゃない、お前がお前のことを考えることは、絶対に不毛じゃない」
 表情を動かすことなく、”お前”が俺を見た。
 それは、今まで通りの反応ではない。明らかに、今までとは異なった反応だ。
 ──”お前”が、俺を見たのだ。何かを言っている俺に、何かの反応を示したのだ。
「影響を与えてないだと? ふざけんじゃねぇぞ。お前に俺がつぎ込んだ食費が、どれくらい俺の懐から逃げて行ってると思ってやがる? 今朝のパンだってそうだ。口もつけないで残しやがって、絶対明日の朝食べさせるからな。あれだって、パンの耳よろしく無料で貰ったわけじゃねぇんだ」
 言いたいことは、それだけじゃない。
「朝っぱらからお月さんが仕事始めるまでの間、俺が延々と胸糞悪い気持ちになってるのは、誰のせいだと思ってやがる。朝から晩まで不毛不毛って、そんなに毛が欲しけりゃ若布でも貪り食ってろ。少しは食べて、少しは動いて、少しは笑いやがれ」
 それだけ言うと、俺は毛布を頭まで被った。
 本当に、ふざけた野郎だと思う。自分が何者なのかだと?

 俺だって知るか。

 自分自身が何者であり、何をすべきであり、何のために死すべきなのかなんて、この世に五人理解している奴がいれば、それは既に賞賛物なのだ。
 そんなのはな。
 生きて行きながら、見つけるもんなんだよ。

 ──ふすっ──

「──っ!?」
 毛布を、巴投げん勢いで引っぺがした。
 この音を、俺は知っている。唇から空気が漏れる音だ。
 俺、じゃない。俺は漏らした空気は、寝息だけだ。
 ──だったら?
「お前……!」
「君が……笑えと言ったんじゃないか……」
 俺の視線の先では、先ほどと何も変わらない姿勢で、先ほどと何も変わらない声色で、先ほどとは打って変わって、

”お前”が、笑っていた。

「んだよ……」
 千鳥でももう少し地面を踏みしめて歩くのではないかというように、俺はよろよろと”お前”に歩み寄る。
 歩み寄って、どうするつもりだったのだろう?
 解らなかった。何をすればいいのかなんて解らなかったし、何かをするべきなのかも。
 ただ。

”お前”の笑った顔を、もっと近い場所で見てみたいと思った。
 亜麻色の長い髪の毛に、純白のシーツに血行を通したような白い肌を持つ”お前”にとって、その微笑みはより一層栄えて見えたからだ。
 しくしくと、心が痛んだのは。
”お前”の唇にこびり付いた、凝り固まった血の欠片を見た時だった。

       

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Neetsha