Neetel Inside 文芸新都
表紙

怠慢な粗粒子
「きこえたかい?」

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「……この曲も駄目、か」
 窓際に腰掛けた少年が、胡乱に垂れた目元を更にへの字に垂らし、胸元に預けたチェロを撫でてため息をついた。
 つけいるスキもないほど、「ご静聴ありがとうございます」だった。アンコールはおろか、演奏後の拍手すらないのだから。清聴にもほどがある。
 当然、奏者としても楽しいわけがない。そして少年とて、そのようなまっこと楽しくもない演奏を、むざむざ行っているわけではないのだ。
──本来ならば。
 たった一人ではあるが、観客がいるはずなのだ。奏者の演奏後に「よくわからない」と一言で一蹴する、マナーとしては最悪な観客なのだが。



                   ・



 新居に移り住むなり、少年はまず、両親に苦情を申し立てた。
 当然といえば当然だった。高校受験合格という偉業を達成した御褒美という名目のもと、生まれて初めて少年に充てられた一人部屋の窓は、開くなり隣の部屋の窓があるという体たらくだったのだから。
 おわかりだろうか。目と鼻の先に、隣人の部屋の窓があるのだ。プライベートもへったくれもないのである。特に、思春期まっしぐらの少年にとって、これは拷問以外のなにものでもないのだ。
 そして、これも当然なのだが。
 少年の、懇願とも言える苦情は、「何をいまさら」の一言で、まるで蚊か何かのように叩き落された。
 家だ。建造物なのだ。玩具の不良交換じゃあるまいし、そんなことを事後に申し立てられたところでどうしようもないことは、火を見るよりも明らかだった。
 ふて寝、である。
 ぽかぽか陽気の春休み。真昼間から。その現実から逃げるように。少年はふて寝をした。
 時計の針は、仰向けに寝転んだ「く」を象っている。海外出張から帰国した父が、成田空港まで出迎えに出ていた少年にお土産として手渡した、金銀細工の置時計。
 そして、目が覚めた時。
 針は、頂点で仲睦まじく寄り添っていた。

 すっかり寝癖がついてしまった柔毛をワサワサと掻きながら、少年はふと思い立つ。
──そうだ。チェロを弾いてやろう。
 それは、少年の唯一の趣味だった。女の子にもてはやされたい一心で弓を取り、今では生活の一部にもなりえる、唯一の趣味。
 だがしかし、確認しよう。その時点で、時計の針は頂点でいちゃついているのである。楽器の演奏が許される時間を、大いに逸脱しているのだ。
 知ったことかと、少年は息巻いた。そうだ、それでご近所から苦情がきたところで、それはこのような環境に自分を置いた両親が悪い。僕がチェロを弾くことを両親は知っている。にも関わらずこのような環境を用意したということは、ここでチェロを弾いても構わないということだ。違うとは言わせない。
 怒る手に弓を持ち、少年はチェロを弾いた。『印度へ虎狩りに』。少年の知り得る限り、一番せわしい楽曲だった。
 この時点での少年は。
 まだ、隣家のカーテンから覗く迷惑そうな視線に、気がつかない。
 そんな日々が、一週間ほど続いた。



──明日から、また忙しい日々が始まる。
 そんなことをぼんやりと考えながら、少年はチェロを弾いていた。春休み、最後の日だった。
 憤りは、大分失せていた。流石にこれほど時間を置けば、少年とてどうしようもないことの一つや二つ、理解出来るのだ。
 ならば何故、今尚このような近所迷惑な行動を繰り返しているのか?
 習慣、である。
 人間のバイオリズムとは恐ろしい。たった一週の間で、少年は、この草木も寝静まる時間帯を、自分のリサイタルの時間だと決定付けたのだ。
「……ん?」
 不意に、視線のようなものを、少年は感じた。弓を止め、部屋の扉に目をやる。
 扉は、開いていない。両親が覗きにきたわけではないようだった。両親は、少年が弾くチェロを大層気に入っている。
 と、なれば、だ。
 視線の先など、限定されている。
「……っ!? うわぁっ!」
 少年は、カーテンも閉めていない窓の方へ目をやり、飛び上がるほど驚いた。
 カーテンの隙間から……隣家のカーテンだが。

 目が、覗いていた。

 それは、驚く。B級ホラー映画のワンシーンのようだ。少年でなくとも、心臓がでんぐり返るだろう。
 覗いた目は、少年が気づくや否や、慌てたようにカーテンの谷間へ消えた。向こうも向こうで、少年に気づかれたことを驚いたようだった。
 少年は、カーテンを閉めた。そのまま、ちゃんとした手入れもせずにチェロをしまい、部屋の電灯を消し、布団に潜り込んだ。当然、寝られるはずもない。
 結局少年は、一睡も出来ないまま朝を迎え、始業式を迎えることとなる。
 しかしながら、だ。
 実を言うと、その恐怖を与える元凶となった、覗く目の主。
 その主もまた、恐怖していたのだ。
 
 ショスタコーヴィチのソナタニ短調。
 その日、少年が、チェロの独奏で演奏していた曲である。



 それから更に、一週間の時が経つ。
 その日のリサイタルは、休演だった。チェロのA線が切れてしまったのである。弦の予備はあるが、張替えはひどく面倒だった。
 少年は、電灯を消した部屋の天井を、ぼんやりと見つめていた。
 何も考えてはいなかった。そして、何も考えていない時というのは、ありあまる心の余裕を、すべて五感を研ぎ澄ます行為に注ぐことが出来る。
──視線。
 二度目ともなると、若干ではあるが、少年にも余裕はあった。むくりとベッドから起き上がり、カーテンを開く。
 やはり、そこには目が覗いていた。そして前回同様、慌てるようにカーテンの谷間へと消える。
「あの」
 窓を開け、隣家の窓を軽くノックする。応答は、ない。
「あの、すみません」
 もう一度、ノックした。これで何の反応もなければ、それ以上は踏み込むまいと少年は考える。
 果たして、反応はあった。ちらりとだが、カーテンから目が覗いたのだ。怯えているようだった。
 極力にこやかに、なかなかなつかない猫にそうするように、柔らかい動作で、彼は窓の錠を指でノックした。

──ここを、開けてもらっても、いいですか?

 目の主は、大いに悩んでいるようだった。ゆっくりと、それでいて忙しく目線を左右に移動させ、考える考える。
 意を、決したようだった。未だ閉め切られた窓の向こうのカーテンが、ゆっくりと開く。そして、遂に目の主がその姿を露にした時……
 少年は、目を見開いて、がちりと固まってしまった。
 その様子に驚いたのか、目の主は、なけなしの勇気で開いたであろうカーテンを、再びザッと閉めてしまった。
 その日のその後、隣家のカーテンが開くことも、視線を感じることもなかった。そして少年もまた、これ以上踏み込むことはすまいと、未だ整わぬ動悸に深く誓ったのである。
 
 それはそうだろう。彼は思春期なのだから。
 隣家の、それも目と鼻の先に。
 自分とそれほど年齢の違わない、少女。
 それも、自分が異性に求めるリビドー的マテリアルをほぼ完璧に備えている少女が住んでいたと知ってしまったのだ。
 動悸の一つくらい起こすだろうというものである。



 以来、隣人に対してすっかり敏感になってしまった少年にとって、隣人の物言わぬ視線を探知するのは、赤子の手を捻るよりも容易いことだった。
 もう三日間、チェロと弓を手にしていない。理由は二つほど該当し、一つは弦を張り替えていないこと。もう一つは、隣人への気遣い。
 彼にとってチェロが唯一の趣味である以上、チェロを弾いていない今は何もしていない時であり、何もしていない時というものは、前述に帰す。
 いてもたってもいられなくなった少年は、理由もなく足音を忍ばせ、そして理由もなくそろりと、カーテンを開いた。
 驚くべき光景が、広がっていた。
 少女が、窓を開けて、こちらを見つめていたのである。やはり、何か不安そうな眼差しで。
「……こんばんは」
「……こんばんは」
 少年が窓を開けて三十秒後に交わされた会話だ。ノーカットエディションである。
「弾かないの?」
 さてさて何を言ったものか、はたまたこれまでの非礼を謝罪すべきかと悩んでいた少年に、まるで吐息の一つでも吐くかのような音量で少女が呟いた。
 少女の視線は、部屋の隅にスタンドで立てかけられた、A線のないチェロに向いている。
「あそこにある、えっと……おっきいバイオリン」
「弾いて、いいの?」
 少女は、液体金属の集合体のような瞳を泳がせながら、何かを思案する。そうして、おそらくは選りに選りすぐったのであろう単語の数々を、ぽつり、ぽつりと唱え始めた。
「弾かれると、うるさくて眠れない」
──けど。
「弾かれないと、気になってもっと眠れない」

 一人ぼっちの演奏会に、初めての観客が出来た。



 深夜演奏会の初演から二ヶ月。その間演奏会は、一日も休演することなく行われた。
「私にも弾かせて」
 ある日観客は、奏者から楽器を拝借しようとする。奏者は躊躇したが、観客の瞳にゆらめく輝きを見てしまっては「否」とは言えない。男とは、その程度の生命体だ。
「いいけど……ここから、受け渡すの?」
 少女は、しばし自分の前髪を見つめた。その後、少年の手に抱えられたチェロを、定規で縦線を引くように凝視しながら、
「やっぱり、いい」
「こっちの部屋においでよ。そしたら弾けるよ」
 言ってから、少年は自らの発言に耳を疑った。
 年頃の人間が。
 こんな夜も遅くに。
 自分の部屋に、招き入れる。
 少年が、少女の表情を伺った。少年よりも早くその言葉の見えざる意味を察知した少女は、瞳にかき混ぜた液体ヘリウムのような色を浮かべている。
 さて、何と言ったものか。少年は大いに悩む。
『そういう意味じゃない』──いや、これでは自分の体裁も悪いし、相手に失礼になる。『変なことしないから』──どこの合コンだ、変なことって何だ、馬鹿か。えいくそ、もういっそのことこのまま気づかないフリをしてしまおうか知らん?
「手」
 瑞々しい唇をかすかに動き、少女の口からその単語が漏れた。
「貸して。一人じゃ落ちちゃうから」

 あきれ果ててしまうほどに、少女はチェロが似合わなかった。腕前も見かけ通りであり、きっと将来の可能性も見かけ通りなのだ。
「どうして?」
「練習すれば……」
 上手になれるよ、と断言が出来なかった。それほど凄まじいものだったのだ。鼻風邪をこじらせた河馬は、きっとあんなイビキをかく。
「いいもん。チェロの曲なんてわからないもん」
「じゃあ、何で弾こうと思ったのさ」
 本来、自分の部屋にはありえないはずの芳しい香りに戸惑いながら、少年はふと思い当たる。
──なれば、チェロの曲ではない?
「弾きたい曲が、あるの?」
 少女は、チェロをスタンドに丁寧に立てかけると、寝巻き用のパーカーのポケットから、ディスクケースを取り出した。少女が少年の部屋に侵入する前、自分の部屋の棚から抜き取ったものだった。
「これの、一枚目の九曲目」
 少女の手から、ディスクケースを受け取った。裏表と、ケースを目視してみる。
 腰に刀を構えた男が、体を斜にして構えている。その背景には、眼鏡をかけた女や頑丈そうな人型機械などが、ところ狭しと整列して思いおもいのポーズを。
 そんなジャケットの、三枚一組のディスク。
「……ゲームの、サウンドトラック?」
「ゲームは、好き」
 この二ヶ月の間で、少年は、少女の情報をある程度は得ていた。同じ高校に通っていたこと。帰宅部であること。校内の保険便りよりも知名度の低い、影の薄い少女であること。
 そして、また一つ。少年は、何だかすっかり照れ臭くなってしまった。目のやりどころに困り、ジャケットを凝視し続けてしまう。
──ゲームミュージック、ね。
「こういうのは、駄目?」
「駄目な音楽なんてないよ」と少年。「駄目とか良いとか、そういうのはないと僕は思ってる」
 音楽とは伝達手段の一種であり、言語というツールの限界を補う補正器なのだろうと、少年はそう考えていた。だからそもそも、良とか不良とか、そのような概念を持つことが違和に感じてならない。「味噌汁」という単語そのものにあれこれというようなものだ。
「このディスク、貸してもらえないかな?」
 譜面があれば尚良い。でもきっと、それは期待出来ない。だったらまず、曲そのものを耳にすり込むことから始めなければ。良い曲だ、から飽きた、へ。飽きた、から耳が痛い、へ。耳が痛い、から空気音へ。
 少女は、何度かディスクと少年の目を往復して見つめ続けた。そして。
「いい」
 一言、ぽつりとそう言った。
 少年は、その時の少女の表情を、きっと永劫忘れることは出来ない。忘れようとも思わない。忘れそうになれば、必死に思い起こすだろう。
 微笑みというものは、誰が浮かべても良いものなのだ。それが普段笑わない少女だったら、なおさらの話。



                   ・



 かと思えば、これだ。
 ディスクの貸借から一ヶ月経過。つまり、今日。皆勤賞だったはずの唯一の観客が、初めて演奏会に窓を開かない日だった。
「……この曲も駄目、と」
 チェロを嬲るような演奏をピタリと止め、少年が肩で息を吐いた。『印度へ虎狩りに』。この曲では、虎は燻し出せても少女を燻し出すことは出来ないらしい。
 
 原因は、わかっていた。
 それはきっと、今日学校で行われた学園祭が起因する。
 少年はその学園祭において、ステージ上で演奏をするという重大な使命をもっていた。カノン。音楽教師がバイオリンを弾き、少年がチェロを弾いた。
 結果として、演奏は大成功に終わる。割れんばかりの拍手だった。きっと少女も、その演奏を見ていたのだろう。そして同じように、拍手をしていたのだろう。
……多分。
 それで、怒っている。

 少年は、少女の部屋の窓へ目をやった。カーテンは閉じ、電気も消えている。物音一つしない。
 でもきっと、起きている。
 起きていて、演奏を聴いている。一緒になって今日の演奏の成功を喜びたい気持ちと、原因不明の苛立ちに翻弄されながら。
「ご清聴、ありがとうございました。引き続き、演奏をお楽しみ下さい。曲目は……」
 少年は、曲のタイトルを謳った。それを聞いてか聞かずが、微かに隣の部屋の空気が揺れた気がした。
 チェロの弦に、弓が触れる。そうして奏でられる、旋律。
 
──それは、時を駆ける少年少女たちの物語。
──全ての生命が等しく自由に出来ない「時間」を、唯一自由に飛び回ることを許された、自分たちと同じような少年少女の物語。
──それは、風の歌。
──どこか物悲しく、透き通っていて、何よりも自由で、何よりも孤独な、風の旋律。あの娘と同じような透明の旋律。

 女の子の気を惹きたくて始めた音楽。
 男が楽器を始める動機など、えてしてそんなものだ。そうして日々研鑽し、少年の腕はみるみるうちに上達した。
 ある日、一人の「女の子」が魅了される。少年はそれからの音楽を、「女の子」だけに捧げ続ける。「女の子」の願う曲を、「女の子」のために学ぶ約束までした。
 そんな折、少年は、大の入客を約束された舞台を用意される。
 少年はその場で演奏を披露し、大成功をおさめた。音楽というカテゴリにおいても、少年自身の動機というカテゴリにおいても。きっと、それはそれは沢山の「女の子」が魅了されたのだろう。
──さて、ここで問う。
 心象穏やかではないのは、どこの誰でしょう?

 少年は、旋律を奏でる。
 いつもと違う場所でいつもよりも真剣に演奏している少年を見て、どうすればいいのかわからなくなってしまった誰かさんを嗜める、今までの何よりも緊張と温もりを要する楽曲。
 おそらくは、これまでの何よりも熱心に取り組んだ楽曲。約束されたメッセージ。
 少年の、少年による、「女の子」ではなく少女のための演奏。
 少女のためだけの、演奏。



「ご清聴、ありがとうございました」
「……うるさい、ばか」

 窓が、音もなく開いた。今日の観客は、いつにも増してマナーが悪い。

       

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Neetsha