Neetel Inside 文芸新都
表紙

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 昨日、スロットで二万円買った。
 今日、スロットで三万円負けた。

 俺こと滝野圭介という人間を一言で表すならば、その程度の下らない人間である。
 もしか、ほんの何パーミル程度の確率で、この言葉が遠い未来、或いは遠い過去に届くのだとしたら、それを耳にした奴らは、「スロットって何だろう?」と考えるかもしれない。
 下らない、ギャンブルの一種だ。
 よもや「ギャンブル」を知らないとまでは言うまい。ギャンブルは悪しきものだが、その悪しきものがあるから経済は回るのだ。いつ、どんな時代も。
「勝てる」と根拠に乏しい勝算にすがり、そして運命の指す通り、負ける人間。絞る人間に絞られる人間。
 それが、俺だ。

 な?
 下らない人間だろう?


                   ・


 そんな俺も、半年前に「おじさん」になった。
 兄貴に、子供が生まれたのだ。
 あれは、俺とは違い、良く出来た男だ。勉学に励み、趣味に励み、仕事に励み、恋に励み、愛に励み、人生に励んでいる、本当に良く出来た男だった。
 お前は何者かと問われた時、自分が何者なのかという答えを明確に用意出来る男だ。
 お前は何者かと問われた時、自分が何者なのかという答えを曖昧にして、今日までこの場に存在しているのが、この俺。
 コンプレックスには思わなかった。
 何故なら、俺と兄貴は、用意されていたものは同じだった。その時、兄貴は苦渋をすすり、俺は蜜をすすった。だからこれは、当然の結果。
 公平なジャッジを下してくれた神様に、九割の感謝と一割の侮蔑を。

「どうした? 気分、悪いのか?」
 上記のようなことをぼんやりと考えていた俺に、親父がそう聞いて来た。
「まだ隆志が来るまで時間があるからな、自分の部屋で寝とくか?」
「……あぁ、いや。大丈夫」
 二つ返事でその提案を断る。隆志とは、兄貴の名前だ。
 俺は、里帰りをしていた。親父の「隆志の子供が生まれたんだ、お前も弟として一度くらい顔を見せてやりなさい」という正当な理由に、否と言えなかったのだ。飛行機代は、親父が捻出してくれた。
「仕事が忙しいからかな、ちょっと疲れてんのかも」
 俺は苦笑しながら、親父にそう嘯いた。

「嘯く」という言葉を使うに相応しい、許し難き大嘘。

 親父は、今の俺を、見習いの整備工だと信じて疑っていない。
 何故なら、俺がそう言ったからだ。本人が言ったのだから、信じるより他はないではないか。

 事実は、違う。

 コンビニエンスストアのアルバイトで生計を立てては、余った金をギャンブルにつぎ込んでいる、そんな男。
 それが、滝野圭介という男の真実。

「うむ……時期を誤ったか? 今回の休みも、無理言って取ったんじゃないか?」
「はは、大丈夫だって。今のこのご時勢、板金も不況でね。周りもどんどん潰れちゃって、ウチにも仕事が来ないんだよ」

 何という、大嘘!
 尤もらしく、故に罪悪色濃き、大嘘!!

「そうなのか? 金に困ったら、すぐに言えよ。協力なんていくらでもしてやるんだから」
「……」

 やめろよ。
 気づいてるんだろ、もう。

 俺、さっき「忙しいから疲れてる」って言っただろう。
 その後すぐに出た言葉が、「ウチにも仕事が来ない」だったろうが。
 親父のような立派な人間が、そんな見え透いた矛盾に、気づかないはずない。
 嘘だってわかってること、無理くり信じようとするな。

「ありがと。いざとなったら、頼らせてもらう」
「おう、任せろ」

 知ってるかよ、親父。そう言って三ヶ月前にもらった六万、どこに消えたと思う?
 ジャグラーに、全部飲まれたんだよ。
 ジャグラーって知ってるか? 知ってる奴がこれ聞いたら、俺を馬鹿を見る目で見下すに決まってんだぜ? 俺はそんな視線を、ただ耐えるしかないんだ。耐えて当然なんだ。耐えてなお、愚かなんだよ。
 そんな、どうしようもないもんなんだ、それは。
 そんな、どうしようもないもんなんだ、俺は。

 だから、さ。
 そんな無条件に、俺を信じないでくれ。
 いたたまれないんだ、それは。


                   ・


 それから、時計の短針が二つ目の数字を刻むか刻まないかの時間が経過した頃、遂に兄貴が帰還を果たした。
「よぉ圭介、久しぶりだな。お前、髪伸び過ぎだろう」
「切る金がなくてね」
 肉親という関係にだけ許された、くだけた挨拶を二、三交わしながら、兄貴の手元を見る。

 妙なものを抱いていると、最初にそう思った。

 多分、これが、兄貴にとっては「子」であり、親父にとっては「孫」であり、俺にとっては「甥」であるものなのだろう。
「名前は、何て?」
「喜太郎。喜ぶ太郎って、何か幸せになりそうだろ?」
 ふざけた名前だと思った。思わず髪を探ってアンテナを探したくなる。あるいは手足のついた目ん玉か?
「でもさ……コイツ、凄い人見知りなんだよ。俺と嫁以外には懐かないのな」
 悩んでいるのか誇らしいのかわからない表情で、兄貴がそう呟いた。
「……あれ? でもコイツ、圭介にはあんまり怯えないのな」
「怯えてないな」
 兄貴の、少しだけ驚いたようなその台詞に、俺は肯定の意味でそれを言った。

 じぃ、と。
 俺を、見ている。

「親父は?」
「煙草買いに行った。多分もうすぐ戻るでしょ」
 兄貴のその質問に、喜太郎から視線を外さずにそう答える。

 じぃ、と。
 俺を、見ている。

「……よせよ。こんな汚ないもん、見つめる価値なんかないぜ」
 ぼそりと、俺はそう呟いた。兄貴には、それは聞こえていない。何故なら、誰にも聞こえないように呟いたからだ。
……誰にも聞こえないように、呟いたのだ。
 にも、関わらず。
 喜太郎は、それに答えるかのように。

──あぃ。

 一言、そう鳴いた。


「お前、ちょっと抱いてみるか?」


                   ・


「……は?」
 予期など、出来ようはずもない。
「可愛い甥っ子だろ? お前、抱っこの一つくらいしてやってくれよ」
「い、いや、それはちょっと……抱き方とかわからんし」
 予想など、して良いはずもない。
「抱く」という言葉に対し、純粋な意味など忘れてしまった男だ。牌とレバーとメダルの垢に塗れた指を持つ男だ。親ですら騙し通すことしか出来ない口を持ち、あまつさえ相手に騙されようと気遣わせるような男だ。
 そんな男の手で。
 こんな純粋な存在を、抱く。支える。担う。
「……っ!」
 見ろよ。口にはせず、頭に思い描くだけで、この罪悪感。
 命を担う崇高な存在に対し、全力で喧嘩を売るような行為。
「ほれ、ちょっと抱っこしてみ。あ、まず腰からな。腰の下にちゃんと手当てて……そう。あと、首はすわってるけど、一応ちゃんと支えて」
「ちょ、ちょっと待ってって……。ま、まだ離すなってば! ちゃんと受け取ってない、まだまだ!」
 兄貴が差し出すそれに、俺の体が勝手に反応してしまう。もしここで俺が手を出さなければ、兄貴はうかつにもそれを落としてしまうかもしれない。この硬い床に、それを落としてしまうのかもしれない。重力とは、万者に対して遠慮をしないものだ。
 ならない、それだけは。
 俺にもまだ、そんな気持ちが残っていたことに、驚いた。

 そして、俺は。
 それを。
 この手で、抱いた。


                   ・


 体温。

 体重。

 匂い。

 呼吸。


 人間として生きている以上、どこかしこにありふれているそれらが、俺という存在に、全てをゆだねていた。
「うわ、ぁ……」
 そんな吐息とも声ともつかぬ間抜けな何かが、俺の口から漏れてしまう。
 重たい。暖かい。柔らかい。変な匂い。
 その全ての要素が、決して悪くはない。良いかどうかはわからないが、断じて悪くはかった。

……抱いて、しまった。

 こんな男が、こんな手で、こんなものを、抱いてしまったのだ。
 誰に謝ればいい? 何て謝ればいい? どう謝れば許しを得られる?
「やべぇだろ?」
「やべぇ……」
 意外と間抜けな男と、予想通り間抜けな男の、間抜けなやり取り。それを間抜けな顔で見つめている、間抜けな名を持ったその存在。

──ぃ、うー。あー。

「ちょ、ちょ……何だ、何だよ」
 俺の腕の中のそれが、もぞもぞとうごめく。
 そうだ、これって喋れないんだ。喋れないから、こうして動作で何かを伝えるしかないんだ。どうにかしてそれを、受け取る側が理解してやらないといけないんだ。
「あやしてやるんだよ、そういう時は。こう、縦に体を揺らすって言うか……。あぁ、あんまり深くするなよ? それ、脳に悪いらしいから」
「……こ、こう?」
 兄貴が擬似的にそれを抱いた格好で体を揺らし、俺もそれにならって、ぎこちなく体を揺らしてみる。

──ぇー、ぇへー。

「お、喜んでるな。良いね、お前……初っ端から気に入られたの、お前が初めてだぜ」
 兄貴が、心底感心したように呆けている。多分、それは真実なのだろう。兄貴は、嘘をつく人間ではない。俺とは違う。
……そう。
 そんな兄貴の間逆のベクトルを持つ存在こそが、俺なのだ。そういう仕組みになっているはずなのだ。
 それなのに。

 そんな俺に。
 無条件で懐くのだ、これは。

「俺、ちょっと便所行って来るわ。喜太郎、頼むな」
「えっ……」
 俺が待ったをかける前に、兄貴はさっさと便所にこもってしまう。
 その場に残された、俺と、これ。


                   ・


「……なぁ、喜太郎よ」
 俺は初めて、これに正式に付けられた名を呼んだ。本人は理解しているのかしていないのか、俺の腕の中でどこか遠くを見ている。
「お前、駄目じゃないかよ。俺みたいな人間、気に入っちゃよう」
 真実。
 それは、まっこと正真正銘、真実以外のなにものでもない。
 嘘だけをついて過ごして来た俺が、久方振りに口ずさむ真実。
「世の中はな、クズみたいな人間が沢山いるんだぞ? そんな人間と友達になったらな、自分までクズになっちまうんだぞ?」
 俺が、そうだった。
 何もかもを、それらのせいにするつもりはない。しかし、多かれ少なかれ、必ずそれらは要素に含まれるはずだ。

 この世に、救えない者は、存在する。
 そんな救えない者たちは、まず、自分が救えない者だということに気づかぬまま、何かに救いを求める。
 次に、救いを求めている自分を救わない周りの存在に、憤りを抱く。
 次に、救いを求めている自分を救わない周りの存在を、実際に傷つける。
 次に、ようやく、自分が救えない存在だということを自覚する。
 次に、いまはまだ救える者たちを、その希望を、ねたみ始める。
 最後に。
 今はまだ救える者たちを、救えない者たちの巣窟に、引きずり込む。
 救えない者たちとは、それだけに留まらず、増殖を繰り返すのだ。
 餓鬼にも劣る、反吐にも劣る、名づけることすら出来ないような存在なのだ。

 それが、俺なのだ。

「……だからな」
 俺は、言葉を紡ぐ。
「そんなクズ供とは、仲良くなっちゃいけないんだ」
 俺みたいなクズとは、仲良くなっちゃいけないんだ。
「そんな奴らには……」
 そんな俺には……。
「唾でも、吐きかけてやればいいんだ。『このクズ野郎』ってな」


                   ・


 それは、突然だった。
 それまで遠くを見ていた喜太郎は、まるで弾かれたかのように、俺の方を振り返ったのだ。
 そして……。

 俺の頬に、手のひらを叩きつけた。

「痛ってぇ!?」
 予期せぬ攻撃に、俺は痛むよりも戦慄き、憤慨するよりも仰天した。

──ぃ、ぅー!

 喜太郎が、俺を見ていた。曇りなき宝石のような瞳で、真っ直ぐ、俺を見据えていた。
「……やめろよ」
 喜太郎を抱いたまま、後ずさった。そんなことをしても、喜太郎との距離は縮まることはない。当たり前である。
 今、喜太郎の全存在を支えているのは、他ならぬ俺なのだから。

 痛かった。

 所詮、赤子の平手打ちである。
 ペットボトルのキャップすら持て余すサイズの手のひらでの、自分の体重すら支えられぬほどの非力による、加害の意思の有無すら怪しい抗力である。
 そんなものが、痛いはずがない。

 でも、痛かった。
 心が、とてつもなく、痛かった。

「おい、やめろって。痛い、痛いから」
 喜太郎は、なおも俺に平手打ちのような行為を繰り返す。心に対し、痛烈な鞭を打つ。
 到底、信じられることではなかった。
 しかし、このタイミングは、そうとしか説明がつかない。
 喜太郎は、今。
 俺を。

 叱っている。


                   ・


 喜太郎の俺に対する体罰は、その後、五、六回ほど繰り返される。俺は終始、されるがままになるしかなかった。
 そうしてしこたま俺を屠った後。
 喜太郎は、驚くべき行為に及ぶ。

──ぁー!
──ぁー!
──ぇぁー!

「……は、はは」
 俺はもう、笑うしかなかった。あまりにも……あまりにも自分勝手な、喜太郎の、その態度に。

 泣いたのだ。
 大声をあげて。

「おーおー、やっちまったか?」
 今頃になって、ようやく兄貴が便所から出て来る。しかし、それでもまだ、俺から喜太郎を受け取ろうとするような仕草は見せない。
「はは……。何か、めっちゃ泣いてんだけど、さ」
「泣くだろ、それは。赤ん坊なんだぞ?」
 事実をありのまま報告するしかない俺。当然のことを当然のように説明する兄貴。
 そう。
 赤ん坊は、泣くのだ。
 泣いて当たり前。そこに理由など持つ必要はない。
 それが、赤ん坊。それが、喜太郎。
……それでも、なお。
「なぁ、喜太郎」
 俺には。
「……お前、良い奴だなぁ」

 俺のために泣いてくれていると、そんな風に思えて仕方がなかった。
 俺を打つのが辛くとも、その辛さを耐え忍び、なお俺を打った。
 そうした辛さが今になってぶり返し、耐え切れずに泣いてしまった。
 そんな都合の良い妄想が、俺の中で勝手に形成されていったのだ。

 もはや、認めるしかない。
 どうやら俺は。
 この後に及んで、まだ救われたかったようだ。
 そして俺は。
 この後に及んで、ようやっと救われたようだ。

 俺は、今、救われたようだ。


                   ・


『どうした? 気分、悪いのか?』
 かれこれ二年ほど前になる出来事をぼんやりと思い出していた俺に、親父がそう聞いて来た。
『もう夜も遅いしな、そろそろ電話切るか?』
「……あぁ、いや。大丈夫」
 二つ返事でその提案を断る。
 俺は、都会に舞い戻っていた。俺の「喜太郎に色々と買ってやらないといけない。そのために、バリバリ働かないとな」という正当な理由に、親父は否とは言えなかったのだ。飛行機代は、俺が自分で出した。
「仕事が忙しいからかな、ちょっと疲れてんのかも」
 俺は苦笑しながら、親父にそう嘯いた。

「嘯く」という言葉を使うには相応しくない、混じりっ気なしの真実。

 親父は、今の俺を、コンビニエンスストアの雇われ店長だと信じて疑っていない。
 何故なら、俺がそう言ったからだ。本人が言ったのだから、信じるより他はないではないか。

 そっくりそのまま、事実だ。

 長期に渡ったアルバイトの履歴を生かして本社の社員に頼み込み、何とか正規雇用という体を整えることが出来て、無我夢中で日々を労働で過ごしている。
 それが、滝野圭介という男の真実。

『うむ……時期を誤ったか? 明日の休みも、無理言って取ったんじゃないか?』
「んー、まぁ……結構ね。実はその明日も、休みってのは体裁だけで、いつ呼び出しがかかるかわからないんだ」

 何という、厳しい現実!
 年を重ねれば重ねるほど日々は厳しくなるという、救いなき現実!!

『そうなのか? 少しくらい強引にでも休めよ? 協力なんていくらでもしてやるんだから』
「ありがと。いざとなったら、頼らせてもらう」
『おう、任せろ』

 知ってるかよ、親父。そう言って先月振り込まれた給料のうち三万、どこに消えたと思う?
 仮面ドライバーの変身セットやら何やらに、全部飲まれたんだよ。
 仮面ドライバーって知ってるか? 知ってる奴がこれ聞いたら、俺を甥馬鹿だって呆れるに決まってんだぜ?
 そんな、どうしようもないもんなんだ、俺は。

 だから、さ。
 そんな無条件に、俺を信じないでくれ。
「抜け駆け」したのが、いたたまれなくなっちまうだろう?

       

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