Neetel Inside 文芸新都
表紙

怠慢な粗粒子
セピア

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「やっぱり低くなってるよ、この木」
「なってない。僕らが大きくなっただけだよ」
「なってるって。絶対低くなってる」
 片手に林檎を抱えて、ハルは木を睨めつけた。

 ハルは、林檎を毟り取る際、僕に肩車を懇願した。
 いい大人が肩車で林檎を毟り取ることに、得も言われぬ羞恥感を抱いた僕は、最初にそれを拒否した。「僕が取るから」と言っても、ハルは断固それを拒否し、遂に根負けした僕が、土に膝を付き、ハルが僕の肩を跨いだ。ハルはスカートだったので、不可抗力として、ハルの腿の肉感的な快感が、僕の頬を走った。既に何度も直視したり、何度も触ったりした腿ではあるが、それでも興奮出来るものなのだな、と考えた。激情では、無かった。赤くなっていたのは、僕の頬ではなく、林檎だった。
「もう、二十年くらい経ってるのかな?」
「え、もうそんなに経ったっけ?」
「ううん。最後にここに来た時からじゃなくて、この木に登ってた時から数えて」
「ああ」
 それくらい、経っているのかもしれない。
 だって、もう僕は二十六だ。たった一つの林檎くらいなら、わざわざ木に登るよりも商店街でお金を出してしまう方が楽で良い、と考える年になった。お小遣いなど、腐るほど持っているのだから。
 そういう、年になった。

 今年の夏に、僕とハルは結婚する。
「どうしても六月が良い!」というハルの主張を曲げる理由も無く、結納に向けての準備は、何ら滞りなく進んだ。六月を嫌っているわけではなかったし、ハルの主張を曲げるなんて偉業は、過去十数年の歴史を遡ってみても、それが不可能であることを如実に物語っていたからだ。
 何しろ強情な娘だ。きっと間違ったことを言えば、ハルは国家権力にだって喧嘩を売るのだろう。「間違ったこと」という単語の前には、どうしようもなく「ハルにとって」という前略があるのだが。一般常識と礼儀は備えている娘なので、間違った道を歩む心配は、していない。

 今年の夏に、僕とハルは結婚する。


         ・


 僕とハルの歴史を遡るということは、それ即ち生後の歴史を遡ることと同意義だった。
 家族に「いつから僕達は一緒だったんだろう?」と聞くことが、ひどく馬鹿げた質問であると捉えられるように、僕とハルに「いつから一緒だったんだろう?」と聞くことは、意味を持たない質問である。
 答えられないのだ。物心ついた時から一緒であるが故に、「物心つく前」の歴史を語ることが出来ない。ハルならば或いは、一年ほど歴史の知識が多いのだろうが、それでもすべてを語ることは、出来ないのだろう。ハルは、僕よりも一つ年上である。
 それでも振り返るということならば、僕が持つ最古のハルとの歴史は、ハルが水鉄砲をいたくお気に召していた頃から始まる。

 ハルちゃん、と呼んだ。ハルは僕のことを、僕の名前の下に「くん」をつけて呼んだ。
 絵本を読むことが好きだった僕とは対照的に、ハルは幼稚園に設置されている築山に登ることが好きだった。「ハルたんけんたい」というものが結成されており、傘下が意外と多い中、集会に参加しない、活動に参加しない、要するに組織にとって癌と言っても差し支えなかった僕は、それでも何故かいつでも「なんばーつー」だったことを覚えている。

 空野さん、と呼んだ。ハルは僕のことを、僕の名前の下に「くん」をつけて呼んだ。
 付近に小学校は一つしかなかったため、僕とハルは、否応無しに同じ小学校への道を共に歩むことになる。道のりは、ハルから教わった。ハルは一つ先輩だった。
 内気な僕を心配してか、両親は僕を空手道場に通わせた。非常に良くしてもらっていたので、今でも感謝しているし、たまに挨拶にも伺っている。
 ある日、道徳の授業の最中、外から怒鳴り声が聞こえてきたので、僕は驚いて窓から外を見た。
 ハルが、真面目に体育大会の組体操の練習をしない男子諸君に対して、怒号を飛ばしていた。

 空野、と呼んだ。ハルは僕のことを、僕の名前の下に「君」をつけて呼んだ。
 中学校に入学した時、ハルは僕を見て大層驚いていた。
 僕は、荒れていた。何に対しては、今では思い出すだけでも恥ずかしいので、黙秘権を使用したい。
 喧嘩をしては青痣を作り、道場で喧嘩をしたことについて怒られては、またそこで喧嘩をし、青痣を作った。それの繰り返しだった。ハルは、何も言わなかった。ただ、いつでも傍にいてくれたことだけは、忘れるはずが無い。そんなハルに対して「うっとおしいから寄るな」と何度も言ったこともまた、忘れるはずが無い。

 空野先輩、と呼んだ。ハルは僕のことを、僕の名前の下に「君」をつけて呼んだ。
 僕は、すっかり更正してしまっていた(自分で言うのも難ではあるが)。別に何かに感銘を受けたわけでもなく、誰かに説得されたわけでもなく、ただ、そっちの方が楽だったから、「みんなと一緒」になった。
 周りが大学受験でドタバタと慌しく動き回っている中で、僕は高校最後の一年になって、ようやく「読書部」に入部した。
 本が、好きだったからだ。
 シェイクスピア著「マクベス」の主役は誰なんだろうと本気で考える高校生は、多分僕を含めても、少ないと思う。それについて自主的に論文を書いて顧問に提出した時、顧問は甚く感動していた。「才能があるのかもしれないな」と言われたので、それを本気に受け取った。

 ハル、と呼んだ。ハルは僕のことを、僕の名前の下に「君」をつけて呼んだ。
 同じ大学に入った。ただ、僕は文学部で、ハルは会計学部だった。
 宗教に興味は抱いていなかったが、その頃の僕は、『罪と罰』を読んで、ひどく衝撃を受けた。「罪とは償えないものである」と、その時に初めて知ったのだ。少なくとも僕は、ドストエフスキーが伝えようとしていることは、そういうことであると捉えた。以降、大学生活のうちの一年は、「罪を償うとはどういうことなのだろう?」ということばかり考えて過ごすことになる。同じキャンバスの友人からは「お前って捻くれてるよな」との感想を頂いた。
 ハルと、一緒の場所に居たい。
 それが、この大学を受験し、この大学に受かり、この大学で哲学を学ぶことが出来るまでの道のりを突き進めた、モチベーション上昇の要因である。
 同じことをハルに言って、僕とハルは「恋人」になった。

 ハル、と呼んだ。ハルは僕のことを、僕の名前の下に「君」をつけて呼んだ。
 僕は、ハルのヒモになった。ハルは既に、市役所の会計課に勤めていた。
 小説家になりたい。
 ハルにそう打ち明けた時、ハルは大手を振って賛成してくれた。賃貸の面倒まで、見てくれた。衣・食・住の三点セットを、ハルがくれたのだ。
 つまり、ハルとの同棲生活だった。
 ハルは、僕が食費を捻出することを、許さなかった。「もっと他にお金を使うことがあるでしょう!」と怒られたことは、きっと墓まで持っていくであろう思い出だ。
 当時の僕は、デカルトの思想に反感を抱いていた。僕が思うよりも先に、ハルが僕を思うことで、ようやく僕は僕でいられると考えていたからだ。
「ハルがいないと、僕は僕ではないのだ」
 本当に、そう考えて疑いもしなかった。
 何度、ハルと体を重ねたのかも忘れてしまうほど時が経過して、僕の作品が、ある出版社の目に留まり、僕は作家としてデビューすることになる。国体論と、体毛が薄い少年の物語。僕は二十四になっていた。

 思い出の欠片に、林檎の木は無い。


         ・


「……? …~君?」
 ふと我に返ると、ハルがこちらを不思議そうな目で眺めていた。
 林檎を齧っている。しっかり洗ったのかどうか、心配になった。

 それでも、ハルはここに来たいと言った。

 林檎の木を目の当たりにして、僕は二つ驚くことがあった。
 一つは、木とは、その姿形を一変することもなく、そこに鎮座することが出来るのだということ。
 もう一つは、律儀にも木の形をクッキリと覚えていた自分。
 思い出など、無かったはずだった。
 林檎の木を食べて、気難しいおじいさんに怒られた記憶も無ければ、木から落ちて骨折した記憶も無い。
 それなのに、手を伸ばすだけで届いてしまう林檎の実が、何故かとても悲しかった。

「小さい頃からね」
 ハルが、呟いた。聞き逃すまいと、僕は耳を澄ました。
「完成されてたものが、沢山あった。すっかり形があって、それから何も変わることが無いものが、沢山あったよね」
「例えば?」
「お父さんと、お母さん」
 彼女の指輪が、太陽に当てられて輝いた。僕が、授与したものだ。
「お父さんとお母さんは、私達にとっては、最初からお父さんとお母さんだった。どんなに時が経っても、どんなに年をとっても、お父さんとお母さんなの。家だってそう。テーブルが増えても、机が増えても、テレビが変わっても、家は変わらないの。最初から、家は家だったの」
「林檎の木も?」
 ハルが、頷いた。
「変わっていくものが、多すぎるよ」
「僕らも、変わる。僕らは、今は僕らだけど、将来この世に生まれ落ちる命が、僕らを『お父さん、お母さん』って呼ぶよ」
「変わってたんだね。知らないのは、私達だけだったんだね」
 それは、違った。
 僕は知っていた。ただ、ハルがそれを知らないことを、知らなかったのだ。
 父も母も、僕らだったのだ。
 僕らのように、何かに寄り添ったり、何かに傷つけられたり、何かに憤りを感じたり、何かに焦がれたり、そうして変わってきたのだ。
 僕らが、彼らを「お父さんとお母さん」と呼んだ、その時までは。
 でもそれは、完成したのではなく、一時の停滞だ。
 時が経ち、スーツが似合わなくなり、箸を持つことに力が必要になった頃に、きっとまた、何かが変わるのだ。
 彼らを、「お爺ちゃんとお婆ちゃん」と呼ぶ者が、現れる。
 それは、確証ではない。一年後には変わっているかもしれないし、もしかしたらもう、変わることは無いのかもしれない。
 ハルが、僕の胸に額をつけた。頭を、撫でるように抱く。
「大きくなったね。こんなに、変わったんだね」
 きっと、ハルは。

 変わらないものを見たかったのだと、思う。

 ハルは、今までの歴史の中で、一度も僕の呼び名を変えることは無かった。
 ハルの中では、どんなに背が伸びても、どんなに擦れていても、どんなに妙なことを考えていても、それは僕だったのだ。
 当然、僕は変わった。僕は、林檎の木ではないからだ。
 ハルも、変わった。そして僕では経験出来ない、もう一つの「変化」を、今年の六月に控えている。

「幸せになろう。この世の誰よりも沢山」
「幸せになろうね。この世の誰よりも沢山」

 ハルの匂いが、僕は大好きだった。
 この匂いは、きっと変わらない。


         ・


 僕の名前は「新藤 晴(はる)」
 彼女の名前は「空野 ハル」
 六月が過ぎれば、彼女は「新藤 ハル」になる。

 僕とハルは、一つになる。

       

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Neetsha