Neetel Inside 文芸新都
表紙

怠慢な粗粒子
せめて、人の人による人の為に

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 日付が変わり、二時間をほど経過してから、その男はやってきた。
 全身を、黒で統一した服で身を包み、がちょがちょと、背なのリュックが音を立てる。
 神父は、このような出で立ちで教会にやってくる者を、何人も見てきた。それもあってか、こんな夜更けにやってきた招かざる客を、恐ろしいとも感じなかったし、追い返そうとも思わなかった。
 ただ、彼が、償えるほど優しい人間であることが、どうしようもないほど哀れだった。

「祈りたい」
 黒の男は、ただその一言だけ、呟いた。どうぞ、と神父が言った。
 黒の男が、張り付けにされた男の彫像の前に跪き、胸先で十字を切る。手馴れていた。手馴れているということは、つまりそういうことなのだろう。
「どこか、遠い地からいらっしゃったのですか?」
「何故、そう思う?」
「この地では、あまり見かけない顔だったものですから」
「この地には、神父に顔を覚えられるほど罪を重ねた人間ばかりが、住んでいるのか?」
 まさか。神父が笑う。黒の男は、一度も神父を見なかった。
「しばらく、祈りたい。時間をもらって良いだろうか?」
「構いませんよ。荷物はいかがいたしますか?」
「そこに置いておいてくれて構わない。そういうわけにも行かないのだろうが、粗相を働くつもりは無いので、構えなくても、良い」
 わかっていた。過去の、こんな風に彷徨える者達が、この場で粗相をしでかしたことは、一度も無い。
 張り付けにされた男の彫像は、ただそこにあるだけで、一切合切の悪事を、抑止する。
「では、せめてこちらでお預かりしておきましょう。己が物品を、地べたに投げ出すものではありませんよ」
「それに触るな」
 ガチョリ、と音を鳴らすリュックを持ち上げるのと、黒の男がそれを呟いたのは、同時だった。
「それに、触るな」
「……これは、失礼をいたしました。大事な物でしたか」
 命だ、と黒の男が言った。そうなのだろう。
「とはいうものの……さて、困りましたな」
「そこに置いておいてくれて構わないと言っているだろう。言葉がわからないのか?」
「いいえ、そうではありません」
 やはり、神父はリュックを持ち上げると、男の目の前にまで持って来る。
「触るな、と言った」
 イライラはしていなかった。ただ、この時になってようやく、黒の男は神父を見た。
 澄んだ、瞳だった。澄んでいるだけに、そのギラギラと光る輝きが、鋭い目蓋と合わさって、尚更に威圧を醸し出す。
 神父が今まで見てきた罪人の中では、比較的美しい部類に入る瞳だった。整形は、”まだ”していないのだろう。
「主は、このような物騒な物を好みません。私は気にはしませんがね」
 目蓋が、上がった。瞳孔が膨れ上がるのが、目に見えて判る。
「こんな深夜に、全身黒ずくめの、背の高い男が、金属音のするリュックを鳴らして、懺悔に赴く」
 神父は、終始黒の男を見つめていた。黒の男は、驚くでも激昂するでも無かった。ただ、再び張り付けの男に向き直ると、やはり跪いた。
「私は、そんな光景に、ちょっとした夢を見てしまうのですよ」
「そうか。夢は、夢なのだろうな」
 律儀にも、黒の男は返答した。

 男は、殺し屋だった。
 リュックの中身は、分解した狙撃銃である。


         ・


 夢のつもりで聞いて欲しい。
 黒の男がそう持ちかけ、神父はそれを了承した。既に深夜の三時を回っていた。ステンドグラスから差し込む月明かりが、パイプオルガンを幻想的に輝かせる。
「人を、殺した」
「ええ」
「何人も、何人も。両の手の指では、数え切れないほど、殺した」
「ええ」
「二十人を越えたところで、数えるのを止めた。それからは、日数を数え始めた。『今日で殺し屋を始めて何日だな』と、そう数えるようになった」
 一呼吸、待った。
「……今日で、丁度三千日目になる。一ヶ月殺さないこともあれば、一日に三十人を殺したこともあった」
「戦争、ですかな?」
「殺そうと思ったことは何度もあったが、殺されそうになったのは初めてだった。……恐ろしかったよ、いつ死ぬかもわからないまま二十四時間を耐えるのに慣れるには、長い長い時間が必要だった」
 背後には、張り付けの男の彫像があった。こちらを、見下ろしている。
「何故、祈りを?」
「殺す時に、標的の生涯を、振り返らなくなったから」
 黒の男は、リュックから何かを取り出す。鉄だとばかり思っていたそれは、木製の筒のようなものだった。次から次へと、黒の男はリュックから木製の何かを取り出し続ける。
「これが、何だか判るか?」
「……狙撃銃? ですな。いやはて……狙撃銃に弾倉?」
「よく知っているじゃないか」
 狙撃銃だと判ったことではない。狙撃銃に弾倉があることが不自然であることを知っていることに、感心した。
「厳密に言うと、狙撃銃ではなく小銃。ボルトアクションライフルだ。こいつは新型で、メートル単位で尺を測ることが出来る」
 最も銃など詳しくは無いからわからんが、と、黒の男は付け加えた。殺し屋が銃に詳しくないことが、神父にはひどく滑稽に思える。
 黒の男が、銃を組み立て始める。まるでパズルのように、ガチャガチャと器用に組み立てる。背後で、張り付けの男が見下ろしている。
 木製の筒だったものが、やがて、この世で最も野蛮で蛮勇なその姿を現した。
 意識してかどうかは解らないが、肩にかけた銃のその銃口は、張り付けの男の心臓を指し示していた。

「神父よ……ああ、神父よ」
「なんでしょう」
「何が違う?」
 自分と私を比べて、何が違うのだろうということを聞いているのだ。或いは、自分以外のすべて。
「母親の腹から生まれ、母親の乳を飲み、本を読み、菓子を食べ、スポーツを愛し、絵画を愛し、音楽を愛し、そうして育ってきたはずだ。何ら、お前達と変わらなかったはずなのだ」
 神父には、気付くことがあった。
 これは、弁解だ。
 黒の男は、罪を、露にした。醜くも美しいフォルムを剥き出しにした、生命を奪うための道具を露見させ、この銃を使って、数多の命を抉ったのだと、露にした。
 そして、これは弁解だ。
 罪を重ねた自分を、許して欲しいと懇願する、弁解。
「誓う。誰かを妬んだことも、恨んだことも、すべて人並みだ。無いとは言わないが、すべて人並みだった」
 黒の男は、項垂れた。疲れたのだろう。……喋ることにも、その他色んなことにも。
「銃を、握っていた。恨んだことや好いたことはおろか、殺す間際になって初めて相対した者がほとんどだ」
 銃口を、神父に向けた。弾が入っていないことは、わかっていた。
「この銃で! 撃ったんだよ! 脳漿が弾けて、飛び散っていた! 俺にはかからなかった! 狙撃だったからな! でも飛び散ったんだよ! 見た事など無いだろう!」
 PE型のスコープからは、しかし肌色の皮膚しか見えないのだろう。その銃は、これほどの至近距離から射抜く際に使用するようには、作られていないからだ。
「……今日殺した奴の歴史を、俺は知らない。男であることしか、解らない」
 それだけ言うと、あとはもう、何も喋らなかった。

 何故、殺し屋なのだろう?
 神父は、それだけを考えた。
 黒の男にとって、命とは、それほどに重いものなのだと言うことだけが、まるで透き通っているかのように、見て取れたからだ。


         ・


「命とは、それほど重い物ではないのですよ」
 神父がそう言うと、黒の男は神父を見た。驚いたのか、それとも疑念を持ったのか。
「命を絶つこと……なるほど、それは法の上で、大変な重罪です。例え法が無くとも、人が人の命を絶つなどとは、愚かなことなのでしょう」
「尊い、ものだ」
「ええ、尊い」
 だがしかし。
「重くは、無い」
 ステンドグラスがの光が、神父と黒の男を、鮮やかに染め上げる。ひどく、神々しかった。
「私は先日の晩、ステーキを食しました。よく焼けた、肉汁の滴る極上のステーキでした。牛のステーキです。その牛が、どのように生まれ、どのように育ち、何を愛したのかを、私は知りません」
「人と、家畜は違う」
「違うでしょうね。ただ、人も家畜も、この世界に生きている」
 パイプオルガンの鍵盤を、指先で叩く。断続的に続く、空気を擦る音。

 ラーラーラーラーラー。

「軽いのですよ、命とは。家畜の命も、人間の命も、同様に重いのではなく、同様に軽いのです」
「軽くは無い。重いはずなのだ」
「重くしたのです、人がね」
 良いですか、と神父が言い、黒の男が神父を睨めつけた。
 命が軽いと言う神父と、命が重いという殺し屋。

「『罪』という言葉が人々に認識される前から、そう呼ばれた”それ”は、遥か昔から存在しました。人は、言葉も無かったその時から、”それ”を確かに感じていたのです。やがて人は、”それ”の境を付ける為に、法を作りました」

 ラーラーラーラーラー。

「許されたい、と思い始めたのは、おそらくそう遠い過去ではないのだと思います。救われたい、と思い始めたのも、同様でしょう。だから人は『神』というものを作ったのでしょうな。それを認知して、初めて人は救いを求めるようになった。他者に、許されたいと思うようになった」

 ラーラーラーラーラー。

「人だけなのでしょう、許されたいのは。傲慢なことです。罪を作ったのも、法を作ったのも、神を作ったのも、人だと言うのに。人が、人に対して、人に出来ることをして、人に許しを乞うのです。人が作ったものに」

 ラーラーラーラ……。

「『あそこ』の『あれ』は、神ではなく、石です」

 張り付けの男に、パイプオルガンを叩いていた指を差して、神父はそう言い捨てた。
 感情の起伏は、無かった。ただ、終始、薄く微笑んでいた。


         ・


「罪に、感じるなと言うのか?」
「そうは言いません。人が人を殺めることは、背徳なのでしょう、人である以上はね」
 私の意見として。
 神父は、そう前置きした。
「本当に罪であることは……罪という言葉を使うのは止めましょう。本当の意味での”それ”は、おそらく最初から出来ないように作られているのです」
「例えば?」
「空を、飛ぶこと」
 埃が舞う。
「人が空を飛ぶということは、”それ”なのでしょうな。牛が水中で生活することも、羊が肉を喰らうことも、おそらくは”それ”なのでしょう」
「それの何がいけないというのか?」
「人が人の作った人としての思想に基づいて考えるから、それを不思議がるのでしょう。洗脳ですよこれは。一種のね」
 心底、恐ろしかった。
 この神父に、瞳を覗き込まれて、黒の男は、心底震え上がった。
 人外の何かと、言葉を交わせている気分だった。倫理も、道徳も、何か人として大事なものが、圧倒的に違う、人外の何か。
「”それ”は、人のような塵芥が作らなくても、最初から神が用意してくれているのです。その『ルール』とも言える基準を守っている限り、”それ”を認識する必要は無いのです」
「『ルール』を破れば?」
「破れませんよ」
 朝日が、昇っていた。ステンドグラスから差し込む朝日が、神父を照らした。
 半身のみを照らされた神父は、黒の男にはどうしても、半身が神であり、半身が、異なる何かにしか見えなかった。少なくとも、人では無かったように思う。
「破れるように、作られていませんからね。逆に言えば、この世で実現が可能なものは、人がどう決めたのであれ、神にとってそれは”それ”では無い、ということです。だって、出来るのですから」
 人では、無かったように思う。

「”それ”は、何も人だけに用意されたわけではない。人が『罪』と呼んでいる”それ”は、人が人のために用意した、ただの模造品なのです」

『あそこ』の『あれ』に、許しを乞いなさい。何故ならあれもまた、模造品なのですから。

 神父は、黒の男にそう言った。


         ・


 黒の男が、弾倉に弾丸を詰め込む。
「俺は、或いは何と向き合っていたのかも、判っていないのかもしれない」
「ただの、神父ですよ」
「違うね」
 遊底をスライドさせて、ゆっくりと銃口を向ける。
「お前は人じゃない。何者なのかは解らないが、或いは確かに神父なのかもしれないが、お前は人じゃない」
「貴方が人でありすぎるのですよ。律儀なほど、人であることを真っ当しようとしている」
「人だからな」
 引き金にかけた人差し指に、ジリジリと力を込める。何百と味わった指先の冷たさは、しかしどうしようもなく、重い。
「救われたよ。感謝する。なるほど俺に殺された奴らもまた、人であるままに死ねて、救われたのだろう」
「救われた、とお考えになられるか」
「そうさ、救われたのだ。だから俺は……」
 引き金を、引いた。金属が金属を叩き、火薬が燃える音が聞こえた。
「人のまま死んで、救われる。許される。許されたい。人だからな」


 弾丸が、黒の男の頭を、貫いた。


         ・


「『見た事など無いだろう』ですか」
 ステンドグラスから漏れる朝日が、黒の男の脳漿を煌かせる。
 美しかった。神が創ったものが、神が創ったものを照らすと、これほどまでに美しい。
 自害者は、これで何人目だろう? 二十人を越えたところで、数えるのを止めた。

「罪ではありませんよ。神は、人に自害が出来るように作ったのですから」
 人の言葉を使って、黒の男を、そう評価した。

 石は、一部始終を見ていた。

       

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