Neetel Inside 文芸新都
表紙

怠慢な粗粒子
三〇四号対談

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「不味い」
 せっかくミールする所から作ったブルーマウンテンを、ペロリと舌で舐め取るなり仏頂面で黒猫はそうのたまった。
「雅の無い奴だな」
「人間の雅を求められても困る。ならばお前、鼠でも食べてみるか? 今朝屋根裏で取れた最高級の鼠のストックがある」
「遠慮するよ」
「そうなるであろう? この「こおひい」とやらを口に入れただけでも評価して欲しいものだ」
 返答はしなかった。ただ、淹れたてのブルーマウンテンを啜りながら「美味い」と呟いた。
 尤も、シーザーサラダやカルパッチョを貪る時の「美味い」と同意義のものなのかと問われると、それは否であり、「美味い」という表現のその内訳は様々であり、その内訳を証明するだけの言葉を、僕が持っていないだけである。だから「美味い」としか表現出来ないのだ。
「不必要だと思うがな」
 肩の辺りの毛を舐めながら、黒猫がごちた。
「『美味い』と『不味い』、それだけで何故満足出来ない?」
「だって、『美味い』にも色々あるだろう? サラダみたいなアッサリとした美味しさもあれば、牛肉みたいなコッテリとした重みのある美味しさもある」
「ひっくるめて『美味い』で良いではないか。それらを分ける必要性が無い」
「そこを細かく分けていかないと、そもそも料理っていうジャンルが成立しないんだよ」
「……なるほどな。不味いものを美味くする術のことか。あれは確かに驚愕せざるを得ない術だ。私の手足が人間と同じように動かせることを許されたならば、何よりも先に身につけたい術である」
 黒猫が、開いた瞳孔で僕を見た。猫が瞳孔を開く時は、興味深いものを目の当たりにした時らしい。
「お前ってさ」
「何であろうか」
「猫っぽくないよな」
「『猫っぽい』が指す定義がわからん」
 ぷい、とそっぽを向いて、眠そうに眼を開閉させた。「眠そう」という表現こそしたものの、それは人間が眠い時にする仕草に似ているからそう表現しただけであり、実際にこの黒猫がこういう仕草をする時は、「呆れている」時に他ならない。
「だって猫って、もうちっとこう……日向でゴロゴロしたり、日陰でゴロゴロしたり、コタツで丸くなったりとか、そういうもんじゃないのか? 少なくとも僕は、お前みたいにペラペラとインチキ学者よろしく喋り倒す猫なんかは、図鑑ですら見た事も無い」
 眼を、完全に閉じた。「完全に呆れている」時だ。
「お前はライオンと対峙しても、普段通りにかしゃかしゃと……あれだ、何だ……」
「パソコン?」
「そうそれだ。君はライオンと対峙した際にも、パソコンに向かってかしゃかしゃとタイピングを続けることが出来るのか?」
 出来るわけが無い。脱兎よりも脱兎らしく逃げられる自信がある。
「それと同じだ。異なる何かと交わった時には、それ相応の態度というものがあるであろう。個人空間に座している際にもまた、それ相応の態度というものがある」
「つまり僕はお前にとって、ライオンのように怖いということか?」
「例にライオンを出しただけだ。今のお前に対する私の評価は、そうだな……」
 ヒクヒクと、黒猫が髭を揺らす。
「バッタに対する評価と極めて近い」
 蹴り飛ばしたくなったが、そもそもすっかり互いの気心の知れているこの黒猫に、僕の即席テコンドーが命中するはずもない。仕掛ける前にヒラリと夜闇に紛れられるのが関の山だ。
「失礼な奴だな」
「お前の方がバッタに失礼だ。少なくともバッタなぞは、お前ら人間よりもよっぽど興味を引かれる存在であるぞ」
 そもそもだ、と猫は鼻息を吹く。
「お前らは、自分の類をどれほどまでに過大に評価するつもりだ? 確かに優秀な種族だとは思うが、よもや地球の支配者などとのたまっているのではないだろうな?」
「偉い人間様がどう思ってるかは知らん。少なくとも僕にそんなつもりは無い」
 むしろ、自分達こそが地球の支配者だと誤認しているのは猫という種族なのではないかと僕は思っていたのだが、これまでの黒猫の物言いからして、それは違うのだと薄々理解し始めている。
「お前自身がそのような感情を持っている、とは言わん。だからこそ私は、こうしてお前だけと言葉を交わせているのだからな。とはいうものの、お前の口から語られる『人間』は、どうにも自分達を中心に世界は回っていると誤認しているとしか思えない節がある」
「例えば?」
「この会話そのもの、だ」
 黒猫が、とことことベランダをスローペースで横断する。先日「学び舎の教師とは、おとなしく黒板の前に立ち振舞うことはせずに、無意味に教室を歩き回る癖がある」と漏らしたことが僕の記憶にあるところからして、おそらくそれは教師の真似事なのかもしれない。
「例えばこの会話を、何かしらの理由で文章化する」
「何かしらの理由で、ね」
 小説家気取りの僕に対する当てつけかもしれない。
「それを目の当たりにした人間はまずこう思うだろう、『何故、猫が人間の言葉を喋るんだ?』と。人間の言葉で話しているという記述はどこにも無いのに、だ」
「人間が人間に読ませる文なんだから、そう考えるのが当たり前だろう」
「違うな。誰がそれを見るか、誰がそれを書くかは問題ではない。そこにあった物を、そこにあるように書き記しているにも関わらず、人間はそれに『人間中心』というフィルターをかけるのだ。少なくとも我々猫は、そのようなことはしない」
「そうかい」
 僕は、呆れたのかうんざりしたのかも判断がつかない感情を抱えながら、とりあえず溜息なんかを吐いてみた。

 今後、このような物語を書く際は、前書きに「この物語の登場人物は、人間と猫の言葉を混合させた『人猫語』を使用しております」とでも注釈するべきかと悩みながら。

 もしもこの会話が、何かの気狂いで真に文章化することがあるならば、どうかそれを拝読して下さる方々には、言葉の先入観を持たないようお願い申し上げたい。注釈などという不毛なことは、したくないからだ。


                   ・


 この黒猫との出会いにドラマの要素がありましたかと聞かれれば、僕はその返答の為にそれまで暖めてきた「皆無」という言葉を大々的に発表したい。
 徹夜明けのベランダで、朝日を眺めながらコーヒーを飲むのが日課である僕が、たまたまその黒猫を見つけたに過ぎない。三〇四号室という名前が示す通り三階にある僕の部屋から若干見下ろす形でそこに鎮座する一軒家の屋根で、その黒猫は朝日を浴びていた。
「麻雀覚えたいんっすよ」と、過去に七回ほどそのフレーズを口にしている同僚の麻雀に対する興味の度合いと同じ程度の興味を猫に持っていた僕は、当然ながらその猫に対して「猫だな」としか思わなかった。後ほど聞いてみると、その猫も僕に対して「人間だな」としか思わなかったらしい。

 だらしなく屋根の上で横になっている黒猫を、エスプレッソを飲みながら凝視している僕という構図が出来上がってから、十分ほど時間が経っただろうか。
 金持ちの家の絨毯のようにそこに寝そべっていたソイツに対して、何故僕がそのような行動を取ったのかは、今でも明確にはなっていないが、とにもかくにもその行動は、特に躊躇いも無く行われた。
「おはよう、猫」と、僕が猫に挨拶をしたのだ。
 こちらに気付いていなかったのか、それとも気付いた上で鹿十と決め込んでいたのかは定かでは無いが、とにかく猫が、その行動によってこちらを振り向いた。

「おはよう、猫」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「挨拶したんだから、挨拶を返すのが礼儀だろう」
「にゃあ」

 以上が、ファーストコンタクトの際に発生した会話の全てである。録音などしていないため証明は出来ないが。
 猫は、そこでようやく挨拶(?)を返すと、ムクリと起き上がって、トコトコとどこかへ行ってしまった。僕も特に何を考えるでもなく、すっかり冷めたエスプレッソを飲み干し、再び締め切りの迫る「時駆けの淑女」の執筆作業に戻った。

 次の日、相も変わらず太陽熱温水器の真似事をしている黒猫に対して、僕は再び挨拶をした。今度は、二秒も待たずに返答が返ってきた。にゃあ、と。
 やはりトコトコと立ち去る黒猫を眺めながら、冷め切ったアイリッシュを飲み干し、おそらくは原稿の催促であろうテレコールを無視し、執筆作業に戻った。

 しばらく、そんな関係が続いただろうか。
 時駆けの淑女の発行が開始されてから二ヶ月の時が経った頃。
 どこかの週刊誌でエッセイを書くことになり、原稿用紙のマスを埋める作業で一夜を明かした後のコーヒーを持って、僕はベランダに出た。
 黒猫は、大胆にも我が家のベランダに侵入していた。
「おい、ルールを破るんじゃない」
「にゃあ」
「『にゃあ』じゃないだろう。ウチにはソーラーシステムは取り付けてないぞ」
 言った所で、黒猫に言葉など通用するはずも無いことは解っていた。「この時は」。
 ペット禁止ではあるが、ベランダで黒猫を侍らせてコーヒーを飲むのはアウトだろうかと真剣に考えながら、僕は冷め切ったグアテマラを飲み干し、再び執筆作業に戻った。
 黒猫は、特に家に入るような素振りを見せることなく、やはりトコトコとどこかへ去っていった。

「さぁ、喰え」
 どういったわけか、何故か時駆けの淑女の映画化が決定し、この幸せを誰かと共有しようと画策した僕は、夜中のコンビニで購入した猫缶を開けた皿を黒猫に差し出した。
「……」
「遠慮はいらん、これは僕の奢りだ」
「にゃあ」
 思えば、それが原因なのだろう。そもそも後ほど本人から「そうだ」と太鼓判を貰ってしまった以上、疑いようも無い。
 その日から、猫は我が家のベランダを拠点にするようになった。

 猫缶をやめてビッグサイズの詰め合わせの餌にするべきかと懸念するほど、黒猫の餌代が家計を貪り始めた頃。

「……」
「……」
「……」
「……」
「何がそんなに珍しい」
「にゃあ」

 珍しいのかもしれない。僕はこの時、毎朝毎朝飲んでいたコーヒーではなく、ただの牛乳をマグカップに入れていたのだ。
 マグカップの中に入っていたのが、いつもの琥珀色の液体ではなく、カップの色と見紛うほど白々とした液体だったのを見て、不審に思ったのかどうか、猫はとにもかくにも、この日のマグカップに興味津々の面持ちだった。
「やらんぞ、これは僕のだ」
「んにゃあーーん」
「長く鳴いても駄目だ。よし、ちょっと待ってろ」
 猫の餌が盛られてあった皿をシンクで洗浄し、新たにミルクを注いで猫に差し出した。別の皿に注いでも良かったが、皿がそれほど豊富では無いことと、居候の猫の為にわざわざ洗い物をいたずらに増やす必要も無いと考えた。決して金が無いわけではない。
「教えてやろう。これは牛乳と言うんだ」
「くるるるる……」
「飲め」
 社交ダンスを踊るマサイ族を見るような眼で牛乳を凝視していたが、ほどなくして黒猫は牛乳をぴちゃぴちゃと啜り始めた。

 ふと、魔が差したというべきか。

 作家であれば、誰でも夢見るであろう……というか人間ならば、誰もが一度は夢見たことを試してみたいと、僕は思い立った。
 無心に牛乳を咀嚼し続ける黒猫に、僕は語りかけた。
「とりあえず食事の手を、ああ、舌か? 舌を緩めてくれ」
「……」
「無理か、ならそれで構わない。僕の話を聞け」
「……」
「これは、牛乳だ」
「……にゃあ」
「『にゃあ』じゃない、牛乳だ」
「にゃあ」
「牛乳」
「……にゃあ」
「牛乳」

 ………。

 ……。

 …。


                   ・


「阿呆の極みだな」
「黙れ」
 黒猫が髭をひくつかせ、僕が毒づいた。
「遂に取れてはいけないネジが取れてしまったのかと思ったぞ、あの時は。よもやあそこで私が『牛乳』などと喋るとでも思ったのか? 無理に決まっているであろう」
 そう、実際に無理だった。現実はそれほど都合良くは出来ていなかったのだ。
「お前ら人間は、確かに『牛乳』という言葉を音に出せるであろう。何故なら口の構造がそれを音に出来るように作られているからだ。お前、猫の言葉を正確に聞き分けられるか?」
「いいや」
「そうであろうさ。そもそもプロトコルが違う、単三電池駆動の懐中電灯にプルトニウム燃料を搭載しようとするようなものだ。『牛乳』というその名称だって、人間が人間に言って人間に通用する名称であろう?」
「わかってる。だからこうやって僕とお前が互いに理解出来る言語を作ったんだろう」

 そう。
 だから、作った。
 僕とコイツが、互いに理解出来る言語を、一から組み上げたのだ。
 どれくらいの年月をかけたのかは数える気も失せるが、当時子猫だったコイツが、今やかの国ならば「そろそろ食べ頃だな」と判断する程度に大きくなっていることから、それ相応の時間が経っているのだろう。
 問題は、いとも容易く解決した。要するに、互いが発音出来る音を探せば良いのだ。
 人間が普段口から吐き出している音は、必ずしも五十音順ですべて表現出来るわけではない。その膨大な量の音から、猫が普段使用している音だけを切り抜いて、それで言葉を組み立てた。
 出来れば文字にして表したいのだが、残念ながらこの音は前記の通り、五十音順データベースのどの文字でも表現出来ない奇怪な音であるため、記述することが出来ないことに対してお詫び申し上げる。
 実際、相当の時間を要した。
 僕が知っている単語や文法を、すべて人猫語(と名付けた)に置き換えて、黒猫に教え込んだ。黒猫も、よくもまぁ気長に付き合ってくれたものだと思う。
 普通に考えたならば、ここが一番苦労する部分であろうことは、想像に難しくはないのだが……
「何も難しいことは無い。互いに理解しようとする意欲があれば、その疎通は何の滞りもなく行うことが可能はなずだ。初めて英語が日本に渡った時を考えれば良い。通訳など存在しない中で互いを理解しようと研鑽し、今を見ろ、英語は日常会話にも等しい度合いで街に溢れかえっているではないか」
「なら、何で誰もしようとしないんだろうな?」
「理解する意思が無いからだ。お前ら人間は『猫と話せたらいいな』と考える時があるらしいな。それは解る、我々も極稀にだが『人間は何を思案しているのかが知りたい』と考える時はある。ただそれは、考えるだけだ。考えるだけで、それに対する方法の模索や研鑽をしようとはしない。それを私とお前がしただけだ」
「物好きの研究家が頑張っているかもしれん」
「それも否定しない。だがそれは、互いが互いに同じ志を持って初めて成立するものだとは思わんか? 例えばそうだな……これだ」
 皿に並々と注がれているブルーマウンテンを、舌でペロリと掬い上げて、黒猫がしかめっ面をした。
「不味い。こんな不味いものをお前が熱心に語ったところで、私はそれを聞く気も無ければ学ぶ気も無い。学ぶ気が無ければ伝達は成立しない。伝達は発展の前提条件であろう?」
「全部飲み終われよ。お前が飲みたいと言ったから飲ませたんだからな」
「断る。よもやこんな不味いものだとは思わなんだ。こんなものは飲めん、毒素を混入しているとしか思えない」
 実際、確か猫や犬にコーヒーを飲ませると、カフェイン中毒になるのではなかっただろうか? 一口二口で臭い物扱いではあったが、口にしたのは事実であるため、少々心配になった。


                   ・


「さて、僕はそろそろ執筆に戻る」
 空になったマグカップと、琥珀の液体が並々と注がれている皿を持って、僕はベランダから屋内に入る。
「今日もまた寝ないつもりか?」
「指と頭が順調に動けば、二時間くらいは寝れるさ」
「解せんな」
 手すりに飛び乗って、黒猫が僕を翡翠のような眼で見据えた。
「人間が働くのは、生きる為の糧を得たいからであろう? ましてやお前は、私の眼から見るに、既に一生を生きる為の糧を得られるくらいには富を気付いておるはずだが、何故そうまでして何かに没頭する? お前のライフスタイルは、命を研磨機にかけているようなものだ」
「富はあるだろうさ、確かにな」
 興味が無いためそのようなことはしないが、いざこれから女遊びを日課にしても、決して不自由をすることなく暮らせるのではないだろうか。
 がちゃがちゃと食器を洗う僕から、しかし黒猫はその瞳を逸らそうとはしない。
「だが、それだけじゃないんだよ。やらなければいけないからやる、それだけじゃない」
「他に、何がある?」
「やりたいから、やる」
 一度だけ、髭が揺れた。
 思えば、黒猫と仕事について話をしたことは無かった。聞かれなかったから言わなかったというものもあるが、そもそもこんなことは、猫だけでなく、人間以外のすべての生物に理解されることはないだろうと思っていたからだ。
「何故運命のアンパイアがこんな風に血迷ったかは知らんが、どうやら僕は他人から必要とされているらしい。僕が書いたものを読んで喜ぶ人がいる。生きる希望が湧いたとまで言う人もいる始末だ。そういう人がいる以上、書かなきゃいかんだろうと僕は考えている」
「自分の為ではなく、誰かの為に自らの命を削るというのか?」
「そんな立派なもんじゃない。それで銭が発生している以上、これは自分の為にやってることなんだろうしな。ただ、それだけではないという説もあるってことだよ」
「理解出来んな」
「暇なんだよ、人間って生き物はさ」
 そう、暇なのだ。
 自分を生存させることに、それほど慌しくなる必要が無い人間は、それ相応に暇な生き物である。
 だから、自分ではない何かに心を動かされるし、自分ではない誰かを助けたいと思う。自分ではない誰かを憎んだり、自分ではない誰かに愛情を注ぐ。
「そうすれば、自分じゃない誰かも、自分が生きることに精一杯になる必要はなくなるだろ? そうして余裕が出来た心に、また自分じゃない誰かのことを詰めればいい」
「ゆとりの出来た心を、わざわざ自分で窮屈にするというのか?」
「それで得られるものもある。お前はそれを解ってるはずだ」
 だからこそ、こうして夜明けの逢引きが成立しているのだ。互いに心の余裕があって、互いが歩み寄ろうとしたから。
 だからと言って、今こうして僕と黒猫の間で交わされている人猫語を大々的に公表する気があるのかと言えば……
「無いな。そんな大それた存在になる気は無い」
「珍しく気が合うな。僕もそんなつもりは無い」
 そもそも、広めたところでしょうがないのだ。人間側は確かにそれを、画期的だと評価するだろうが、猫側は決してその限りではない。
 そんな物好きは、この黒猫だけなのだ。そしてこの黒猫でさえも、僕以外の人間が人猫語を話したところで、会話をするつもりも無いのだろう。そういう奴だ、コイツは。
 ただ、猫と話をしてみたいと思う一心で、一つの言語まで開発してしまった必死な人間に、まぁ暇潰しの相手にくらいはしてやってもいいかという感想を抱いたに過ぎないのだ。
 それで、良い。
 ペット禁止の住宅に住んでいるというこの環境柄、あまり親密になっても困るし、そもそも年中原稿用紙のマインスイーパに精を出さなければいけない僕に、一匹の猫を養えるわけが無い。
 互いが互いに、ただの暇潰しなのが、一番良い。それ以上になるつもりは無かった。


                   ・


 初期状態から何のデフォルメも加えていないデスクトップで彩られた画面に、テキストエディタを表示させる。同業者の友人のスゝメにより購入した当初は電源の入れ方すら理解出来なかったものだが、今はもうすっかり指に馴染んだものだ。
 今現在僕が執筆しているのは、戦争で多大なる命を奪った軍人が、奪った命の数だけの命を救う為の贖罪の旅を描いたものだ。担当にはドストエフスキーの影響を疑われた時もあったが、そもそも僕の生涯で、カラ何とかやら罪と何ちゃらなる書籍を手に取った歴史は無い。

 物語にするつもりは、さらさら無かった。
 例えば、僕が黒猫と会話することで、知ってはならない猫の秘密だか何だかを知ってしまって、それにより猫社会に命を狙われる存在となったとしたら、面白いか面白くないかはさておき、物語にはなるのだろう。
 もし、神なるものが存在したとして、その神が先ほどの僕と黒猫の会話を家政婦のように覗き見していたとしたならば、僕はその神に問いたい。
「それは物語でしたか?」と。
 その神は、或いはその会話を「人間と猫の対談」と誤認してしまうのかもしれない。
 そう、誤認だ。それは「人間と猫の対談」ではなく、「僕と黒猫の雑談」なのだから。
 そもそも、互いが一般的ではない。一般的ではないからこそ、ああいった会話が成立するというイレギュラーが発生するわけであり、イレギュラーから生まれたものは、「総意」と成り得ることは無い。
 そもそも、互いが互いを学習する気が無い。
 僕は、確かに猫と言葉を交わすことが出来る。そして猫に「人間とはこんな生き物だ」と、身をもって説明することが可能な位置にいるのだろう。
 それは、人間を教えることになるのだろうか?

「人間とは、寝る間も惜しんでパソコンに齧りつき、朝日が昇ると同時に毒物とも何ともしれない色が綺麗な「だけ」の飲み物をじるじるとベランダで咀嚼し、外出一つせずに一日をOAデスクの前で過ごす、昨日食べた物の記憶すら無い生き物です」

 当人が言うのも難だが、人間とはもう少し高潔な生き物であることを信じたい。
 そして僕は、黒猫と会話を交わせることで、猫という生き物の真の生態を知ることが可能である。

「猫とは、夜な夜な人の住居に侵入しては、インチキ哲学を振り回しながら人間の愚痴を漏らし、味の雅が何たるかもわからん、いちいち癪に障る仕草をする生き物である」

 当人……失敬、当猫の前ではとても言えないが、猫とはもう少しこう何ていうか……「何とかなる」生き物であって欲しい。
「自分達のことを話さずに、大まかな人間の生態や猫の生態を語ればいいじゃないか」とおっしゃる神もおられるであろうが、ならば問いたい。
「そういう貴方がたは、自分がカテゴライズされる生き物の生態を、真の意味で正確にご存知ですか?」と。
 更に言わせて貰えば、僕にそれを求めるのは管轄外だ。お役所仕事だと思われるかもしれないが、今の僕にとって大事なのは、人間と猫の友好よりも一週間後に迫っている締め切りである。
 それは、ホモサピエンス・サピエンスを性格に認知している学者様がすればいい。実現するかどうかはまぁ……知らん。頑張れば何とかなるのではないだろうか。

 ふと、明日何食わぬ顔で三〇四号室のベランダに足を運ぶであろう黒猫に、何を語るべきかを考えた。
ちなみに今現在の最有力候補は、「大手町と東京の間の丸の内線の料金が百六十円というのは如何なものか」というものだ。

 それくらいしか、語ることが無い。

       

表紙

六月十七日 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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Neetsha