Neetel Inside 文芸新都
表紙

怠慢な粗粒子
けあな

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「毛穴ですよ」
「……毛穴、ですか?」
「ええ、毛穴です」
 常々、「オウム返しなど低脳のすることだ」と豪語していた私ではあるが、彼がぽつりと漏らした一つの単語は、しかしオウム返しをせざるを得ない状況で放たれたものだった。
 何故私がオウム返しを、シンクの流しから採取される残飯の欠片のごとく嫌っているかと言えば、たった一言で説明出来る。「会話上で発生する単語を二度使うのは無駄だから」だ。
「コンビニでさ──」という単語で始まる会話に対して「コンビニ?」とオウム返しをするのは、無駄ではないだろうか? 「コンビニ」という単語は、我々一般社会における日常生活では有り触れたものであり、それに対しての説明を要求するのは、無駄なことである。
 ただし例外として、「コンビニ」という単語に対して、双方の認識がズレているものであるとするならば、そのオウム返しは認可されて然るべきであろう。
 故に。
 私がたった今止むを得ず放ったオウム返しは、私本人が言うと自己弁護に他ならないのだが、正当なものであると主張したい。
「毛穴というと、あの毛穴ですか?」
「他に『けあな』と名付けられたものがあるとするならば、『あの』に対する明確な説明を頂きたいところですがね。生憎と僕が『けあな』と認識しているものは、一つだけなのですよ」
 私とて、「けあな」という音の羅列を聞いて連想するものは、一つしか無い。従って、相互で認識されている「けあな」は、同一のものであると断定してまず間違いない。
「物質」の認識は、まず合致しているだろう。
 合致していないのは、その「仕様」だ。
「もう一度お聞きします。貴方は、誰を殺したのですか?」
「かつて、恋人と呼んでいたモノを殺しましたね」
「何故、殺したのですか?」
「毛穴ですよ」
 ……。
「彼女は、毛穴だったんです。だから殺しました」


                   ・


 それが、合法的な対談ではないことは、私とて重々承知していた。
 私がこの対談を懇願し、編集長がどのパイプをどう通して、この対談を実現させたのかを、私は知る由も無いし、知的探究心を擽られることもない。私の仕事は情報を引き出すことであり、情報を引き出す為の道を用意することではないからだ。

 横浜女子大生殺害事件容疑者 坂山 弘樹(二十一)

 容疑者、という単語は外すべきだろう。何故なら彼は既に罪を認めており、容「疑」ではなく、それは確定事項だからだ。
 いかにも女子大生が棲家として好みそうな、小奇麗なワンルームアパートの一室で、その事件は起こった。
 事件の詳細は既にリサーチ済みであり、ここで長々と状況説明を交えて描写することも私には可能ではあったが、それは意味を成す行為だとは思えないため、要点だけを伝えさせていただくことにする。
 ただし前提条件として、一つの知識を要する。
「蓮の実」をご存知であろうか?
 ご存知でない方々は、何かしらの方法を持って、蓮の実の断面図をその目に写して頂きたい。ここで重要なのは、蓮の実の植物学的な知識ではなく、蓮の実の断面図そのものだからだ。
 被害者の女性の顔面が、その蓮の実に酷似していたのだ。
 一度でいいから見せてくれとせがんで来た弟に、極秘で入手した被害者の事件当時の顔写真を見せると同時に、弟は盛大にその日の昼食をフイにした。
 人間の顔面に存在する、直径数ミリも無い小さな小さな毛穴の一つ一つが、強引に直径一センチ弱にまで拡大されていたのだ。
 事件前の被害者が、清楚な美人であったのか溌剌とした美少女だったのかは、解らない。原型が解らぬほど変わり果てた外見からその形を割り出すのは、私の専門ではないからだ。
 強引に引き伸ばされた皮膚は、使用済みのコンドームのようにベロベロに爛れ、元々は丸顔を形成していたであろう顔形は、水を抜いた水風船のように床にしな垂れていた。伸ばしたのだから、表面積が広がるのは当然であり、ただ頭蓋骨というものはどうしようもなく存在するもので、頭蓋骨の支配から逃れた顔面の皮膚は、重力の慣性に従って、下に垂れるしかない。
 サッカーボールの上から網を被せた状態、と比喩すれば、おそらくは正しく伝わる。違うのは、それが血液に塗れているのと、それが元々は生きて呼吸をしていた存在だったということだけだ。


                   ・


 彼女をそんな状態にした張本人と、私は今、向き合っている。
 坂山 弘樹(二十一)が、今、私の目の前で私と言葉を交わしている。

「彼女が毛穴だった、とは?」
「言葉の通りです。彼女は毛穴だったのです」
 決して女運の無いような顔はしていない。それどころか、精悍に整ったその顔は、いかにも女性受けしそうな中性的なものであり、某男性ユニット事務所に応募したならば、それなりに良い結果を残すのではないだろうか?
 眉毛が隠れるか隠れないか程度にまで伸びた髪を、眉間の辺りでくるくると捩りながら、坂山弘樹はこつこつと語る。
「僕は、彼女の作るカレーが好きでした。彼女のカレーは甘くてね、ええ、辛くも何とも無いんです。僕は小さい頃、『カレー』という名前は、『辛い』という表現から付いたものだと思っていましてね、んっんっん。もしそうであれば、彼女が作ったカレーは、カレーではなく『アメー』であったかもしれませんね、んっん」
 奇妙な笑い方だった。鼻から声を出すように、坂山弘樹は笑う。オペラ歌手が口を開けずに発生をしたら、きっとこんな音が出る。
「『見てて』と彼女は言いました。そういう風に言われた場合、大概そうして見せられるものは『面白いけど、それほど興味をそそられるものではない』ものが多いですよね、んっんっんー。僕は実は、そういったものが大好きなんですよ。特に思案も考察も必要無く、お手軽に堪能することが出来る芸です、んーんっん」
「彼女は、何を見せてくれたのですか?」
「んーんー。聞きたいですか?」
 頭を二十度ほど傾けて、坂山弘樹は私に尋ねた。それだけの動作が、何故これほどまでに鳥肌を立たせるのか。
「爪をね、右頬に押し付けたんですよ。左手の人差し指と、右手の人差し指です。何故左手を先に言ったかといえば、僕は左利きなもので。皮膚に押し付けた人差し指の爪を、絞ったんですよ、僕の目の前で、ギューっと」
 両手の人差し指をくるくると回しながら、目の前で起こった交通事故を、ゼミの友人に語って聞かせるかのように、坂山弘樹は興奮して表現する。
「驚きでしたよ、何が起こったか知りたいですか? 知りたいですよね? ああいけません、とりあえず考えてみて下さい、何が起こったのかを」
「──毛穴油が出てきた?」
 私が同じ行動をしたとして、その行動動機は一つしか該当するものが存在しない。黒ずんだ毛穴から、毛穴油を抽出する時だ。
「油じゃありませんよ、卵です」
「卵?」
 想像するうちに、自分自身が痒くなってしまったのか、坂山弘樹は自らの頬をばりばりと掻き毟りながら、何か汚いものを語るかのような口ぶりになる。
「ポロ、って。出てきたんですよ、卵が」
「毛穴油が固まったものではなく?」

「卵なんだよ!!!!!!!!!!!!!!」

 心底、仰天した。
 私を臆病だと罵るのは、出来れば自重して頂きたい。
 先ほどまでニコニコと語っていた人間が、突然般若のような形相で机を叩き、防弾ガラスで遮られた壁に顔面を張り付けてこっちを睨めつけるという状況を体験すれば、私でなくとも息くらいは飲んだはずだ。人によっては、失神だってしたかもしれない。
 何よりも不気味なのは。
 何が起こったのかを理解し始めた頃には、既に坂山弘樹は再度腰掛け、先ほどのハンサムスマイルを顔面に張り付けていたことだった。
「だっからー。殺しましたー。んっんーー」
 防弾ガラスの壁には、坂山弘樹の唾液がこびり付き、滴り落ちていた。

「考えてもみてくださいよ」
 何を言ったものかと考えあぐねている私に気を使ったのか、坂山弘樹は人差し指を立て、私に講義するように語り始めた。
「カレーとは、辛いものなんですよ。そして、彼女のカレーは甘かった。何故でしょう?」
「──甘口だったから?」
「ちがぁいますね。卵ですよ、卵。想像してみて下さい」
 坂山弘樹がそう呟いて、目を瞑り天を仰いだ。
「琥珀色のルーを、彼女がかき回している。そろそろ出来たかしら? そろそろ美味しく煮えたかしら? 彼女は琥珀色のルーを覗き込みます。辛いカレーです。その中にですよ?」
 指が、波打った。
「ぽと……ぽと……。彼女の『卵』が、落ちていくんです。ぽと……ぽと……ぽと……。彼女の顔面の毛穴が、カレーの熱で広がって、広がった毛穴から、卵がぽと……ぽと……。その卵は、カレーの熱で溶けて、中からあまーい汁を出すんですよ。じわぁーっとね。ぽと……ぽと……じわぁー……ぽと……じわぁー……」

 はははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは。

 晴れやかな、笑い声だった。この世の悩み苦しみから、すべて解放された時のような、そんな笑い声。
 おぞましかった、としか言いようが無い。
「それを考えたら、頭に来ましてね。そうですよ、カレーが甘いはずが無いんです。カレーは辛いはずなんです。彼女の『卵』が、それを甘くさせていたんですよ。だーかーらぁー」
 コッ、と舌を鳴らして、首をつついた。
「殺しましたっ♪」

「何故、あのように顔中の毛穴を?」
「そりゃしますよ、それをするために殺したんですから」
 一足す一が解らないと真顔で語る同級生に向けるような顔を、坂山弘樹は私に向けた。
「あーえーっと、ちょっと違いました、すいません。それをする為に殺したっていうよりは、それをしたら喚いたので殺しました」
 当たり前だった。数ミリにも満たっていない毛穴を、強引に数センチは広げようというのだから、その痛みは想像を絶する。
「裁縫針をね、毛穴に刺したんですよ。そのまま横にね、グイーっと引っ張ったんです。そしたら騒いだので、『うるさーい』って感じで、サクーっと……んっんっんっん!」
 面白かったらしい。生憎と私は、嫌悪しか抱かなかったが。
「一つ一つね、裁縫針で刺して、広げました。何が出てきたかは、もう想像がつきますよね?」
「卵、ですね?」
「その通りです。卵がね、ビッシリと入ってましたよ。ちょこんと、一つの穴に規則正しく一つずつ。ああでも中には一つの毛穴に二つ入ってましたね。双子だったのでしょうか?」
 この時、私の頭の中には、一つの推測が出来上がっていた。
 だがしかし、そんな馬鹿なことがあるはずが無い。それを本気で懸念したとすれば、この男は……坂山弘樹は、本物だ。
 確かめる必要が、あった。
「坂山さん」
「はい」
「その卵からは、何が生まれるとお考えですか?」
「そりゃ、決まってるでしょう」
 間違い無い、本物だ。
「彼女が生まれるんですよ」
 坂山弘樹は、疑っていない。
 毛穴から生まれた卵から、彼女が生まれる。
 だから、彼女は毛穴なんだと、信じて疑っていない。
「卵を潰してみると、ドロっとした白い液が出てきましたよ。異臭がしました。舐めてみたんですな。本当に甘いのかどうかが知りたかったんですよ。すると不思議なものでね、血液の味と同じなのですよ。不思議でしょうがなくってね、一つ一つを齧り潰して、吟味しました。一つじゃ味がはっきりしなかったものですから、そのうち大量に集めた卵を、いっぺんに口に放り込んで咀嚼しました。やっぱり血液の味でしたよ」

 限界だった。
 私は心臓の辺りをきつく握り締め、呼吸を狂わせる。坂山弘樹が「大丈夫ですか?」と防弾ガラス越しに私に心配そうな声をかけた。心底、心配そうな声だった。
 横断歩道のど真ん中で、老人が倒れたとする。
 よほどの人格破綻者でも無い限りは、その老人に向かって「大丈夫ですか?」と声をかけるだろう。
 坂山弘樹には、今でもそれが出来たのだ。私は今、身をもってそれを経験した。

 坂山弘樹は、狂っている。


                   ・


 坂山弘樹が獄中で自殺したと聞いたのは、その三日後だった。
 自分の腹を食事用のフォークでかっさばいて、胃を爪でこじ開けて、死んだらしい。
 何か、不安だったものが解消されたような、晴れやかな笑顔で死んでいたそうだ。

 人には、スイッチがある。決して押してはいけないスイッチが、必ず、誰にでも。
 坂山弘樹にとって、それが「毛穴」だっただけのことだ。

       

表紙

六月十七日 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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Neetsha