Neetel Inside 文芸新都
表紙

怠慢な粗粒子
粗粒子は天高く、自由自在に。

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 どんな感想を抱けばいいのだろうか。生きる前に、死んだのだ。


 喪主を務めたのは、僕だった。喪主の作業を行ったのは、お義父さんだった。
 葬儀を行う少し前に、加害者のご家族が菓子折りを持って謝罪に来られたそうだ。僕はその場に居合わせていたが、その時のことを知らない。覚えていないのだ。後に聞けば、取り押さえるのに大人三人を要したらしい。生来運動全般が苦手だった僕にそれほどの潜在能力があったことは意外だが、それに対する驚きはない。ここ数日で、感情というものがすっかり磨耗してしまったようだ。
 良い女性だった。よく寝て、よく遊んで、よく笑う、本当に良い女性だった。誰からも好かれるような女性ではなかったが、ほとんど誰からも好かれる女性だった。
 レンタルビデオショップのアルバイトをしていたのだ。僕は、あまりにも遅延の頻度が多いため、ショップ内では有名人だったらしい。彼女が彼女自身として僕にかけた最初の言葉は、「約束は守らないと駄目ですよ」だった。
 彼女は、よく僕を叱った。衣食住のすべてのカテゴリに関して杜撰の一言に尽きる僕の生活に、事細かにメスを入れ続け、彼女は僕の生活の一部になった。彼女が一切合切を僕に任せたのは、お義父さんに結婚の許可をいただきにあがった時の一度きりである。
 結婚して三年後に、彼女のお腹に命が宿った。彼女は子供の出来難い体質だったが、それでも彼女は頑張った。
 本当に、本当に頑張ったのだ。何度も通院を続け、何度も手術を受け続け、何度も挫折しながらも、それでも、それでも頑張ったのだ。そして、ようやっと出来た、命だったのだ。
 彼女は、喜んだ。僕も、喜んだ。懸命の努力に対する、正当な結果報酬だと。

 そして、煙になった。
 
 飲酒運転のトラックだったそうだ。今は刑務所にいるらしい。
 そのまま一生入っていればいいと思う。僕が生きているうちは、「シャバ」よりも獄中の方が安全だろう。


 どんな感想を抱けばいいのだろうか。生きる前に、死んだのだ。


               ・


「誠一郎君」
 お義父さんが、僕の肩に手を置いた。力無く振り向いた僕は、お義父さんを何と呼べばいいのかを迷った。彼女を喪失した今、お義父さんを「お義父さん」と呼ぶ資格が、僕にはあるのだろうか。
「お義父さんと、そう呼んでくれ。私をそう呼んでくれるのは、もう君だけになってしまった」
 驚いた。お義父さんが僕にこのような優しい言葉をかけてくれるのは、本当に稀有なことなのだ。「お父さんは、誠一郎さんのことを凄く気に入ってるよ」と生前の彼女は言っていたが、それを信じることも出来なかったし、信じる材料もなかった。
「お義父さん」と僕。「すみません。彼女を、守れませんでした」
 お義父さんは、何も言わなかった。何も言わなかったが、僕の肩を二度強く叩いて、握り締めた。
 煙が昇っていた。黒い煙だった。彼女が燃えているのに、黒い煙なのだ。間違っていると思う。彼女に似合うのは、もっと白くて、透き通るような色の煙なのに。
「泣けるかね?」
「いいえ」
 お義父さんの問いに、止まりかけのバネ人形のように首を振った。
「泣けばいいのか、わからないんです。この感情には、泣いて応えるべきなのか、否か。それが、わからない」
 わからないから、感情を表現出来ない。この状態が、もう半月ほど続いている。
「早いうちに泣いておきなさい。こういうのは、発散のしどころを間違えると、心に傷を残すからね」
 お義父さんが、そう言った。きっと、自分自身にも言っているのだろう。おそらく、お義父さんもそうなのだ。
 黒い煙が、空に消えている。彼女だった粗粒子が、空になっていく。


「落つことが、出来なんだか」
 取ってつけたような声帯の振動で、お義父さんが呟いた。僕も僕で、物差しで計らないとわからない程度に振り返り、お義父さんを見る。
「妻は、気が早くてね。既に幼児用のおもちゃを買い込んでいたんだよ。最近の店では、祖父母用のカードも作っているそうだ。孫カードと、そう言っただろうか。妻が、そのカードを私に見せびらかすんだな」
 疲れた顔だと、そう思った。僕も、同じような顔をしているのかもしれない。あるいは、そのような顔すらしていないのかもしれない。
「どちらだったのだろうか? そういえば、まだ聞いていなかった」
「女の子です。でした」
 それとて、医者から聞いた情報だ。証明は出来ない。
「そうか。女の子は苦労する。娘もそうだった。君が知っている娘からは想像出来ないだろうが、あれも昔は手がかかった。私なんかは、同じ食事に箸すら着けさせてもらえなくてな。難儀したよ、胃を痛めたこともあってな」
 その時僕は、初めてお義父さんが煩わしくなった。
 自慢している。
 本人にその気はないのかもしれないが、僕にとってそれは、聞いているだけで羨ましくなる育児自慢だった。
 聞きたくなく、聞きたい。耳を塞がないと、耳がいつまでも離したがらない、羨ましく妬ましい自慢話。
「……いや、すまない」
 僕は、よほどの顔をしていたのかもしれない。お義父さんは、喉を低く鳴らしてそう言った。
「義に欠いた物言いだったな。君の心情も察さずに、無粋だった」
 煩わしさが、露になって蒸発した。
 お義父さんは、そういう気配りが出来る人なのだ。本当に、本当に尊敬出来ることだった。
「お義父さんは、凄いですね」
「そんなことはない」とお義父さん。「労働でも、それほど抜きん出た業績をおさめているわけでもない。ただ働いて、ただ老い、ただ生きているだけの、ただの男さ」
「でも、彼女を立派に育ててくれました」
 きっと、それは凄いことだ。人間が人間を人間として育てるということは、途方もなく、とてつもなく、偉大で、崇高なのだ。
「娘を、立派だと言ってくれるかね?」
「僕には勿体無いくらい」
 お義父さんが、煙草に火をつけた。煙草の煙は白い。どんな煙草でもだ。
 ほどなくして、僕たちは彼女の骨を箸で運ぶ必要がある。今は、待ち時間だった。二時間ほどらしい。
 まるで積み木のようだと、鼻で笑ってしまった。二十七年の結晶を消すには、二時間あれば事足りるのだ。
 
 
「生きるとは、どういうことなのだろうか」
 紫煙の呼吸を吐きながら、お義父さんが言った。僕の方は見ていなかったが、僕に言っているのだと思った。
「妙なことを聞くと思うだろうが、この年になると、否が応にも考えてしまうんだよ。若いうちはそんなことはなかったが、こうして老いを重ねると、生きることにも努力をしなければならない。年を取ると、多弁になるだろう? あれはきっと、生きている間に何かを残そうとする、本能なのかもしれないな。自分の言ったことや聞かせたことを、誰かに覚えておいて欲しいのだと思う」
「……そんなこと、言わないで下さい」
「他意はないよ。ただ、純粋な疑問なんだな。生きるとは、呼吸をし、ものを食み、蔵で眠を貪る、それだけのことなのだろうか?」
 それだけではないが、概ねそれだけだろう。生きるという行為は、そのものは流転の一部に過ぎないのだと僕は考えた。
「笑い、泣き、喜び、悲しみ……。それがなければ、生きているということにはならないのではないのだろうか? 残さなければ、生きずにはいられないのではないだろうか?」
「……詭弁、だと思います」
 僕は、笑えない、泣けない、喜べない、悲しめない。でも、生きている。彼女は、残そうとした。でも死んでしまった。
 何より。
「あの子には、命がありました。命があれば、生きているんだと思います」


──命。


──心臓でもなく、心でもなく、五体でもなく。
「名前をどうしようかと、考えていたんです。彼女が『愛美』が良いと言いました。僕も良いと思いました。美しい愛って、女の子らしくて可愛いと思ったんです」
──それは、命。
「そろばんをやらせようだなんて、彼女が言うんです。そろばんですよ? 今のこのご時世、そろばんだなんておかしいじゃないですか。でも、彼女は頑ななんです。機械に頼らずに、指先一つで計算出来る賢い子がいいだなんて、ね」
──生きることとは、命。
「沢山残業しないといけないな、って言ったんです。育児にはお金がかかると思うから。そしたら彼女、なんて言ったと思います? 『私はいいけど、この子を寂しがらせたら駄目』ですって。はは、ひどいですよね。子供が出来るとこうなのかなぁ、なんて考えたり。はは」
──そこに、形骸は要せず。証明は要せず。
「今は賃貸だけど、いずれマンションとか買わないといけないかなぁとか考えたりも。だって、子供に友達が出来て、友達を家に招くことになったら大変じゃないですか。『恥ずかしくて友達を呼べない』なんて、ね。言われたら、買うしかないのかなぁ、なんて」
──故に、解は問に順じ、問は解に順す。
「女の子だったら、絶対母親が味方じゃないですか? そしたら僕、家に居場所なくなっちゃうんでしょうか? 反抗期とかも当然あるわけで、お箸、でしたっけ? そういうの、僕は堪えられないかもしれません。でもきっと、終わりがあって、そんな時、『ああ、良かった』だなんて思っちゃったりして」
──在り、尚且つ在り続ける、命。
「恋人なんか、連れて来たりするんです。どんなのが来るのかと思ったら、意外としっかりしてそうな男の子が来たりして。で、そんなに悪い印象がなくても、僕は言っちゃうんです。『君にお義父さんと呼ばれる筋合いはない』って。ちょっと、憧れだったりします。それで、結局は一緒になって喜んじゃったりして」
──生きる、とは。
「そし、たら……また、子供、が、出来て……そしてその子、もま、た、……子……ども……!」


──生きる、とは。


「泣きなさい」
 お義父さんが、僕の頭を胸に沈めた。背中を、赤子をあやすように一定のリズムで叩く。
「娘が見ている前で、孫が見ている前で、泣きなさい。泣いて見送りなさい」
 お義父さんの腕を、強く掴んだ。喪服が破れてしまうのではないかというぐらい、強く掴んだ。
「娘の前に現れてくれたのが、君で良かった。……娘を、有難う。有難う」
「……っ~~~~!!」


 泣いた、なんてもんじゃなかった。
 それはもう、咆哮だった。体裁も立場もわきまえず、ただ喚き散らし、時には罵倒し、握り締め、本当に、本当に吼えた。
 沢山の感情があった。常日頃口にする簡単なものから、名前も知らないような複雑なものまで、沢山の感情があった。
 お義父さんも、泣いていた。僕とは違い、声を押し殺して、でも泣いていた。
 煙は、消えていた。


                    ・


 生きてください。
 笑いたくなければ、笑わなくてもいい。辛いなら、逃げてもいい。愛したくなければ、愛さなくてもいい。
 何故なら、それらは副産物であり、先立ちはしないのです。それらは理由ではなく、根拠でもなく、装飾なのです。
 生きてください。
 それこそが先立つものであり、主なのです。
 笑わなくてもいい。逃げてもいい。愛さなくてもいい。ただ、生きることに精一杯になってください。
 そして、生きることに慣れてきたら。
 今度は、笑ってみてください。堪えてみてください。愛してみてください。

       

表紙

六月十七日 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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Neetsha