Neetel Inside 文芸新都
表紙

怠慢な粗粒子
竹の翼、光の約束

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 親父の親父が、死んだそうだ。

 聞くところによると、昨夜までは、話を聞き、話をすることが出来るほどに元気だったらしい。それが元気である理由付けに相応しいかどうかを、俺は未だにわかっちゃいないのだが。
 しかし、死んだらしい。
「容態の急変」と死因を告げた医者に、親父の兄貴は殴りかかろうとしたそうだ。「嘘をつくんじゃねぇ」と。「お前らが間違えたから親父は死んだんだろ」と。それを抑えた結果、親父は額にコブをこしらえたんだと。

 ところで、俺は先ほどから「死んだ」という言葉を多用している。
 わかっちゃいるのだ。こういう時は「死んだ」という言葉は相応しくない。「お亡くなりになった」と言わなければならないことは。
 しかし、「お亡くなりになった」という言葉は、親しい間柄の人間が不幸に見舞われた時に使うものなのではなかろうか?
 例えばニュースで、とある芸能人が死んだ記事が読み上げられたとする。
 次の日、貴方がたは、学校ないし職場において、どうやってこのニュースを話題にあげるだろうか?
 
「芸能人の○○がお亡くなりになったんだってよ!」だろうか?

 違うはずだ。

「芸能人の○○が死んだんだってよ!」と言うはずなのだ。

 である以上。
 俺は、間違っていない。「死んだ」という表現を使って、それで間違いではない。
 何故なら、俺にとって「親父の親父」という存在は、そういう存在だからだ。それほど遠い存在だからだ。
 俺はその弔報を母親から知らされた時、「た、大変だ! すぐに帰ろう!」とは思わなかった。
 俺はその弔報を母親から知らされた時、「飛行機代、どれくらいするんだろう……はぁ、バイト入れないと」と思った。
 何故なら、俺にとって「親父の親父」という存在は、そういう存在だからだ。それほど遠い存在だからだ。

 親父の親父が、死んだそうだ。


                    ・


 棺おけに入った親父の親父を火葬した後、俺たちは親父の親父の骨を箸で骨壷に入れる作業を行った。何でもこの作業にて骨を箸から滑らせると、あの世での魂もまた、落とした部分を失うということらしかった。
 案内をしていた男が、親父の親父の喉仏を偉く褒め称えていたことを覚えている。「ここまで形のはっきりした喉仏は珍しい。おそらく故人は、生まれながらに仏様に見守られていたのでしょう」と、そう言っていた。
 多分、どこでも同じことをのたまっているのだろう。

「音楽、かけていいか?」
 親父の運転する車の助手席に座っていた俺は、車内の空気に耐え切れずにそう言った。親父も、お袋も、弟も、先ほどから何も語らないのだ。今は、親父の親父の家に向かっている途中だった。
「よせよ。こういう時なんだから、そういう事はしないもんだ」

 こういう時。
 そういう事。

 こういう時ってどういう時だろう? そういう事ってどういう事なのだ?
 親父は、そんな言葉で誰かを説得出来ると、本当に考えているのだろうか? そんな曖昧な言葉たちで、誰かを納得させることが出来ると思っているのだろうか?
「……そっか。ごめん」
 俺は、それを問うことはしなかった。問うたところで、返って来る返事は同じなのだろう。
……と、俺はそう思ったのだが。
「えー? どうしてー? ねーねー、何でそういう事はしないものなのー?」
 後部座席にお袋と一緒に乗っていた弟が、親父にそう疑問を投げかけたのだ。小学三年。まだ、そういった「空気」というものを悟ることが出来ない年頃。
「こら、大人しくなさい。駄目なものは駄目なの」
 お袋が、弟にそう言ってたしなめている。
……。

「駄目なものは駄目って、なんだよ」

 自分でも驚いた。何故ならそれは、他ならぬ俺の言葉だったからだ。俺は、助手席から身を乗り出して、後部座席のお袋を睨みつけていた。
「『駄目なものは駄目』って、そんなはずねぇだろ。駄目なものには、駄目な理由があるだろうが。だったらその理由を教えろよ。何だよ、『駄目なものは駄目』ってよ。だったら『駄目なものは駄目』な理由を教えろよ。何でだ? なぁ、何でだよ?」
「あんたたち……いい加減にしなさい!」
「答えになってねぇだろ、コラ。いい加減な返事してはぐらかそうとしてんのはテメェだろうが。適当に怒ってりゃ大人しくなると思ってんじゃねぇぞ、おい」

「よさんかっ!!」

 粗い砂利道を疾走する揺れとは別に、車内の大気が揺れた。
「……今日は、よさんか」
 親父の、怒号だった。
 珍しいことだ。親父は、怒鳴ることなど滅多にないのだ。最後に怒鳴ったところを見たのは……すまない、判例を出そうとしたのだが、その判例すら、もう覚えてない。
 それくらい、怒鳴らない人間なのに。
「頼む」
「……悪かったよ、お袋」
 俺は、頭を掻いてお袋に謝罪した。お袋は、何も言わない。ただ、不機嫌そうに、行けどもゆけども変わることのない外の風景を眺めていた。

 反抗期など、とっくに過ぎている。無かったわけではない、過ぎたのだ。
 にもかかわらず、俺は久々に、お袋に牙を剥いた。
 最悪、である。
 久々の里帰りだというのに、何故こんな小競り合いを展開しなければならないのだろう? 里帰りとは、もっと暖かきものではないのか? 久方振りの母の手作り料理を、満腹すら無視してかき込むものではないのだろうか? 積もる思い出話を、夜も更けるまで少しずつ消化していくものではなかったろうか?
「アンタ、そんなにスゲェのかよ……爺様よ」
 砂利をこするタイヤの音に紛らわすように、俺はそう呟いた。
「家族の絆もぶっ壊しかねないほど、アンタ凄かったのかよ? 悪ぃけどな、俺にはそうは思えねぇんだよ」
 その呟きは、開いた窓から吹き込む風に流され、田舎の空へ舞っていく。窓を開けることだけは、許されていた。
「……そう思えるほどの思い出、俺にはねぇんだよ」

 前方に、鬱蒼と茂った林が見える。親父の親父の家まで、あと五分と言ったところだった。


                    ・


 不味そうな酒だと、心底そう思った。寒空の下、素っ裸で飲むキンキンに冷えた百円発泡酒ですら、もう少し飲む価値があろうというものだ。
 俺たちが到着した時、親父の親父の家では、親戚一同がテーブルを囲って、焼酎だのビールだのを思いおもいにかっくらっていた。
……飲むなら酔っ払えよと、心底辟易してしまう。
 誰も彼もが、何かに遠慮するように、何かに慄くように、ちびちびとグラスに口を当てては、含んだかどうかすらもわからない量のアルコールを溜飲している。
「恭二。ほら、こっち来な」
「うん、兄ちゃん」
 俺は、弟を連れて、親父の親父の仏壇の前で正座する。そうして、二つに割った線香に火をつけ、弟に一本を持たせると、線香立てにそれを寝かし、手を合わせた。
「……」
 何だろう、この行為は。
 この行為が、一体何を生むというのだろう? 何を救うというのだろう?
 位牌の前で線香を焚き、手を合わせることが、何になるというのだろうか?
「ねーねー兄ちゃん、あれって何?」
「おい、位牌を指さすなって」
 弟が、位牌を指さしそう言って、俺は弟を窘めた。
 何故窘めたのか、自分でも具体的な説明が出来ない。これではお袋を責められたもんじゃないと自傷の念に駆られる。
「あれはな、戒名って言うんだ。あの世で使う名前みたいなもんだな」
「えー、どうして? 今までのじーちゃんの名前じゃ駄目なの?」
「どうしてだろうな。俺も、そのままの名前で良いと思うんだ。でも、そういう決まりなんじゃないか?」
 確か、仏の道がどうのこうのという理由だったはずだ。しかしながら、詳しくは知らない。

 謹みを持った態度。
 仏壇に手を合わせる。
 戒名の意味。

 俺はその意味を知らされぬまま、今日まで育って来た。その意味を知る者がいるのであれば、どうかそれを俺に教えて欲しい。
 このままでは、自分自身が、あまりにも滑稽だった。


「ほんにぃ、よう帰っきったねぇ」
 不意に後ろから声をかけられ振り向くと、そこには、親父のお袋……ばあちゃんが、感極まったような表情で立っていた。
「はは……ばあちゃん、泣くなよ」
「はぁ、ほんによう帰っきったがぁ……よう帰っきっくだすったがねぇ……」
 ただでさえ立つことにすら体を震わせなければならないばあちゃんが、いよいよ本格的に体を震わせて泣き始める。俺は、そんなばあちゃんの体を優しく抱いて、背中を二、三叩いてやった。

 その時、初めて。
 俺は、泣きそうになった。

 そうだ。
 俺には、親父の親父に世話になった思い出は無い。
 俺には、ばあちゃんに世話になった思い出があるのだ。
 この人になら、「お亡くなりになった」という言葉を使うことが出来るのだ。「今日だけは」と、音楽を自重することが出来るのだ。不味い酒を、不味そうに飲むことが出来るのだ。
 俺には、親父の親父に世話になった思い出が無いのだ。

「爺様の喜んどるがねぇ……昔っから可愛がっちょったかいねぇ」


                    ・


………。

……。

…。

え?

「ごめん……何?」
「はぁ、ごめんねぇ。年ば喰うとぉ、口も回らんごなるかいねぇ」
 ばあちゃんが、鼻をすすりながら、再び、その不思議な言葉を唱える。
「昔っから可愛がっちょったとがねぇ、恭太郎君のこったぁ」

恭太郎。
……俺の名前、だ。

「あ、あぁ……そうだ、よね。そうだったもんなぁ……」

 まず最初に、ばあちゃんの痴呆を心配した。ありもしない事を、さもあったかのように話すその体を、心から心配したのだ、俺は。
 その、心配は。
「恭太郎君に、爺様から渡すもんがあったとよ」
 その言葉と共に渡された、古ぼけたビスケット箱の中身を確認すると同時に、霧散する。
「爺様が、ずぅっと前に直したんよぉ。恭太郎君に返さんといかんって言っせぇねぇ」
 古ぼけたビスケット箱の中身。
 それは、黒くすすけ、朽ちた、竹とんぼだった。
「……こ、れ」

 俺は。
 知っている。
 この竹とんぼを、確かに知っている。
 そうだ、この竹とんぼは、俺のものではなかったろうか? 俺が子供の頃、とても気に入っていた玩具ではなかったろうか?
……でも、そんなはずはない。
 何故ならその竹とんぼは、既に壊れたからだ。
 そう……そうだ、壊れたのだ。この竹とんぼは、勢い良く回しすぎたせいで、左翼がぽっきりと折れて、そのまま……。
 そのまま……。

 そのまま……どうした?

 いや、いや待て。
 そもそも、その竹とんぼ。

 俺は、どうやって手に入れた?


「っ~~!?」

「フラッシュバック」という言葉がある。
古き記憶やトラウマが、あるキッカケを踏むことにより、閃光のように頭をよぎることだと、人づてに聞いたことがあった。
 そして、今、俺の身に起こったその現象。
 まさに「フラッシュバック」の名に相応しい、まるで心の中を眩く照らし出すような、鮮明な光の記憶の発見。


                    ・


──じっちゃあー。
──ん? ないなぁ、恭太郎。
──これ、うっ壊れたがよぉ。
──……あんらぁ、折れちょるがね。
──もうこれ、直らんかぁ?
──んー……でやろかぁ。
──これ、じっちゃがくれたもんじゃが。
──んー……。
──僕、この竹とんぼ、好きよ。
──新しいの、買うちゃるがね。
──嫌やが、これが良かが。
──……そうかぁ。
──そうよぉ。
──ほんのこて、じっちゃが直すが。
──まこっなぁ?
──まこっよ。
──約束やっでね。取りに行くかい。
──約束すっが。じゃけん恭太郎も……。


──また、遊びに来やんなぁ。


                    ・


「あぁ……」

……世話に……。
……なってんじゃん……。
……竹とんぼとか……。
……普通に、もらってんじゃん……。

「あぁぁ……!」

……約束……。
……守って、ねぇじゃん……!

「兄ちゃん、どうしたの? ねぇ、兄ちゃん?」
 弟が、心配そうに俺の腕を引いている。俺といったら、そんな弟に気の利いた返事を返すことも出来ずに、ただただ、膝を折らないよう努めることしか出来ずにいた。
「それんしてん、爺様ももうちっと長生き出来たら良かったねぇ。せっかく、恭太郎君が帰っきったのにねぇ」
……違う。違うのだ。
 理由と行為が、逆転している。もしも親父の親父が健在であったのならば、俺は相変わらず帰郷などしなかったのだ。おそらく、気にも留めはしなかったのだ。
 約束など、忘却の彼方に放り捨てたままだったのだ。

「こん竹とんぼ見るたんび、爺様言っとったのよ」

 おかしいと、最初からそう疑っていれば良かったのだろう。
 ばあちゃんとの思い出があるのに、親父の親父との思い出がない。

「『恭太郎、またウチに来るが。竹とんぼ取りに来るが』って」

 そんな瑕疵が、ありえるか?
……ありえないだろう?

「『恭太郎と、約束したがね』ってねぇ」



 限界。
 俺という人間を保てる、限界。
 それを、越えた。

「じっちゃ……じっちゃあ!!」

 俺は、親父の親父……じっちゃの仏壇にしがみつき、喚くように泣いた。様々なものが倒れ、こぼれる。親戚皆が、何事かとこちらを見ていた。
 構わなかった。構えなかった。今、俺は、そんな瑣末なものに構う余裕などなかった。

「ないごてな、じっちゃあ!」
 わからない。理解が出来ない。そんなこと、ありえるはずがない。
「ただん、竹とんぼやがね! 都会じゃこげんもん、もう売ってもおらんがよ!」
 ただの、竹とんぼ。削りを入れただけの、ただの竹細工。
「ないごてごけんもん、一生懸命直したりすっとな!」
 そんな瑣末な玩具に、孫への愛情の全てを注ぎこんだ人。
「俺ぁ、すっかり忘れちょったがね! 銭ん心配しかせんがったがね!」
 不出来な孫のワガママな約束を律儀に守り、尚待ち続けた人。
「ないごてな……こげん俺を……」
 不出来な孫を待ち続けた人。待ち詫びていた人。
「ないごてな……じっちゃあ!!」

 最後の最後まで。
 不出来な孫を、愛し続けた人。


                    ・


 帰りの車の中、俺はすっかり呆けていた。お袋と弟は、後部座席で寝息を立てている。お袋は勺を繰り返した疲れで、弟はただ単に眠くなったのだろう。
 音楽をかける気には、なれなかった。今頃になって、ようやく俺はその理由に気がついたのだ。

「……なぁ、親父。幼稚園って、何歳くらいから通うんだっけ?」
「あー、どうだったかな……。三歳か四歳くらいじゃないか?」
「……そっか」
 今の俺は、二十二歳。二十年近く、俺を待っていたことになる。


 二十年。


 人は、忘れる。どんなに大切な思い出であろうが、二十年という時を使えば、人はそれをすっぱりと忘れることが出来る。出来てしまう。「思い出す」という行為すら許さぬほど。
 人は、忘れるという行為に対する標的を選ぶことが出来ない。忘れる思い出を選択することが出来ない。どんな思い出であろうが、順番も何もなく、完全にランダムで消去されていくのだ。忘れてしまえば、もはや「何を忘れたのか」すらも芋蔓式に忘れてしまう。
 時としてそれは、救いになる。
 だが、時としてそれは、絶望にもなる。
 それこそが、「忘却」という、人間に備えられた本能のメリットとデメリットなのだろう。
 もはや、罪。
 もはや、悪。
 俺は今日、それを明確に理解することが出来た。
……そして。
「じいちゃんとかばあちゃんってさ、スゲェんだな」
 そんな本能すら超越した、無償で無限の、愛。
「……スゲェよ……敵わねぇよ」
 無期限に延長された、約束。
 常人ならば、そんなものはとうの昔に放棄しているのだろう。「果たされるはずがない」と。「守られるはずがない」と。
 放棄した事実すら忘れる判例だってあるのだ。今、ここに。
「愛されようがされまいが、無条件に愛しちまうんだもんな。……敵うはずねぇって」
 しかし。
 例外があった。今、ここに。
 それは他ならぬ、最も「記憶」という概念で疑ってしまいがちな、年配という存在だった。

「親父も、喜んでると思うぞ」
 親父が、車を左折させながら俺にそう言った。違う、あの人は「親父の親父」なんかじゃない。あの人は、「じっちゃ」なんだ。
「お前、ちゃんと泣いてくれたじゃないか。あれだけ泣いてくれれば、親父も浮かばれるだろう」
「忘れたままだったじゃねぇか」
「思い出したなら、良い」
「遅かった」
「遅くなかった」
 親父が、俺の手元を見る。そこには、古ぼけた竹とんぼ。俺とじっちゃの、最後の思い出。
「それな、多分もうすぐ壊れるぞ。玩具ってのは、使おうが使うまいが、古くなったら壊れるもんなんだ。不思議だな」
 親父が、暖房のスイッチを入れた。多分、後部座席の二人が風邪を引かぬようにと気遣ったのだろう。
「でも、今はまだ、それ、壊れてないだろう? ……間に合ったんだよ、お前は」
 そんな親父の言葉を聞いて、俺の胸に、再びこみ上げるものがあった。それは涙となり、頬を濡らす。親父はそれっきり、見て見ぬ振りをして運転に集中してくれていた。


                    ・


 ふと、頭の中に浮かび上がる風景があった。
 間違った形で果たされた約束。
 もし、正しい形で果たされていたとしたら?
 そんな、都合の良い風景。


──じっちゃあ、来たがー!
──来たかぁー。竹とんぼ、直ったがよー。

       

表紙

六月十七日 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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Neetsha