Neetel Inside 文芸新都
表紙

怠慢な粗粒子
誰が為に

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 結局、最後まで魔王は訴えることは無かった。
 魔王と僕が死闘を繰り広げている間、太陽は二度昇り、三度沈んだ。
 剣から、血が滴り落ちる。紫色の血だ。糸を引く血だった。
 にぃ……ぴちょん。にぃ……ぴちょん。

 ひどく、幻滅した気分になる。
 もっと、誇り高いものかと思っていた。あれだけの魔物を指揮し、これだけ大それた行動を起こすものである以上、よっぽどの誇りを持って生きていたとしか思えないからだ。
 散々高笑いした後、人間を否定し、見るもおぞましい怪物に変身し、断末魔を上げて、死んだ。
 本心だとは、思いたくなかった。これでは、ただの獣ではないか。
 暗黒の世界の創造だか、人類の滅亡だか、この世の支配だか、そんなことをのたまっていた。どうでも良かった。
 誇り高き決闘を。「王」と名乗る以上。「勇者」と名乗る以上。名に恥じぬ、神聖なる決闘を、したかった。
 現実は、こうである。粘つきながら滴り落ちる血が、余計に腹立たしい。

 ふと、故郷に残してきた、最愛の人を思い出した。
 サリア、という名だった。こうして口に出してみると、それはなんと美しい響きなのだろう。
 幼い頃から共に育ち、同じ本を読み、同じ木に登り、同じ山を見て、同じ時を生きた。
 ああ、サリア。僕の可愛いサリア。早く帰って、君に会いたい。このような汚らわしいものに塗れてしまった僕を、君の美しいすべてで、洗い流して欲しい。

「誰か!」
 気配を感じて、僕は振り向いた。サリアのことを考えている時に邪魔をされるのは、ひどく不愉快だった。
 布を、引きずるような音が聞こえる。さきほどまで、火を屠り、雷鳴が轟き、刃が鍔迫り合い、牙が肉を裂いたこの場所では、規則的に短く響くその音は、しかし迚も静かに感じられる。
 老婆だった。
 老婆に見えるだけで、実際に老婆なのかは、わからない。全身にローブを纏い、フードを深く被り、悲しむでも、怒るでもなく、ただの屍に成り下がった魔王を見つめている。
「こういう結果に、なりましたか」
 老婆だ、と思った。嗄れて、いたく高域であるその声は、主に老婆が使用する声である。
「貴様は誰か」
「魔物だ、と言ったら?」
「考えによる。僕の命を狙うなら、斬る。そうではなくば、どこへでも去ぬと良い」
 引き攣るような笑い声だった。ピカピカの大理石で作った床を、なめしの長靴で擦れば、こんな音がする。
「勇ましき人よ」
 僕のことだと思った。だから僕は、「勇者」と呼ばれているのだ。
「何を思う?」

 シュィ…シュィ…

「数多の魔物を切り捨て」

 シュィ…シュィ…

「そこが許容線だ。それ以上は、抜く」
「那由他の血滴を網膜に焼き付け」

 シュィ…シュィ…
 チャキッ

「敵とも言える存在を、屠り去った」

 シュィ…

「何を、思う?」
「ッ!」

 白刃一閃。
 老婆には見えなかったはずだ。見えたとして、反応は出来ないはず。
 だが……しかし。だが、しかし。

「許容線ですが?」
 首下数寸。
 その、たった数寸を、どうしても押し切ることが出来ない。
 力を加えられているわけではなく、何かとてつもない魔力に止められているわけでもない。ただ、押し切ることが出来ない。
「何故、恐れない?」
「気付かぬものを、恐れることは出来ぬよ」
「お前の咽喉元に添えられてる刃は見えるだろう」
「『そうですね』と刃を見れば、ズバンと行かれそうでな」
 とんでもない虚言だ。
 恐れてなど、いないのだ。この刃が、己が頭部を切断しないことを、解りきっているから。
 魔物らしい、下劣なやり方だった。心の奥底に燻る何かを擽り、手元と覚悟を鈍らせる。
 今、僕が如何にこの刃を振り切ろうとしても、それは聾唖の者に竪琴の素晴らしさを伝えることよりも、難しい。
「『何を思う』……そう言ったな」
 血で粘つく剣を、そのまま鞘に収める。老婆は、僕の瞳しか見ていない。
「何も思わない。ただ、空虚だ。これほどまでに、空虚だとは思わなんだ」


         ・


 過去の勇者の血を引く者だったから。

 僕が、魔王討伐の任をその身に背負った理由は、ただそれだけだった。
 確かに、身体能力は優れていたと思う。他者と比べても若干華奢なこの身は、しかし常人を凌駕した能力が備えられていた。魔術の心得もあれば、剣術の才もあったと思う。
 魔王に恨みなど、これっぽっちも無かった。
 恨みつらみで何かを殺すことは、愚かなことではあるが、その愚かなことでしか、人は何かを殺めることは出来ない。
「とはいえ、勇ましき人よ。貴殿は数多の魔物を殺めた」
「殺めるしか、無かったからだ」
 殺めなければ、こちらが殺られる。刹那に眼前の者を恨み、刹那で覚悟を決める必要があった。
「『魔王を倒して、世界に平和を』……王が、僕に託した言葉だ」
「なるほど」
「城を出て、街を出て、一匹の悪しきドワーフに出会った」
 本当に、悪しきドワーフだったと思う。こちらを見るや否や、身包みを剥ごうとしたのか、斧を片手に襲い掛かってきたのだから。
 当然、殺した。身を、守るために。
「王の言葉は、そこで掻き消えた」
 後は、反復作業だった。襲い掛かる魔物を殺しては、日々強くなる自分を感じ、東の村が魔物に襲われていると聞けば、出向いて、殺し、西の城民が魔物に誑かされていると聞けば、出向いて、殺し、出向いて、殺し、殺し、殺し、殺殺殺殺殺……。
「サリアの香りだけが、僕の支えだった」
 旅立つ前夜、この身に抱いた、サリアの香り。
 断言出来る。これまでの旅を、「世界の平和」などという戯言で締め括るつもりなど無い。

 それは一重に、サリアの為に。

 旅立ちの日、サリアの美しく長かった緑色の髪が、ごっそりと短くなってしまっているのを目の当たりにした時、僕は狼狽した。
 見護りの腕輪に、化けたのだ。
 神具、といっても過言ではない。過言どころか、それ以上に美しい言葉が必要であり、それに該当する言葉を、僕は知らない。
「大事な、人であったか」
「サリアの為なら、僕は死ねるし、魔王だって殺せる」
 後者は、先ほど証明したばかりだ。前者は、これまで証明し続けてきた。
「愛する者を守るために、愛する者に害を与える危険のある者を排除されたか」
「サリアの為に、旅立った。殺したのは、僕の行動だ」
 僕が、僕の判断で殺した。剣に染み付く、こんな汚らわしい汚物とサリアを関連付けるなど、それだけで腸が煮えくり返る。

「病、じゃな」
 老婆は、ポツリとそう言った。ひどく、人間染みているような気がした。
「危険で、盲目で、愚かで、哀れで……美しい、病」
「僕が、病に侵されていると言うのか?」
 魔王の屍骸から、血が滴り落ちる音が響く。

 にぃ……ぴちょん。

「人間特有の、病じゃよ。その心はな」


         ・


「魔王を、殺めた」
「ああ、殺めた。この手で」
「魔王に、恨みは無いと言っておったな」
「無かった」
「ならば、何故殺めた?」
「それをせねば、世界が滅びるからだ」
「恨みつらみでしか、殺めることは出来ないと言っておったが?」
「……恨んだ」
「何を恨む? 何を憎む?」
「サリアに、危険が及ぶ。魔王の思想は、サリアに危険が及ぶ」
「関連付けはしない、とも言っておった」
「っ、それは……」
 まるで、尋問だった。拷問とも言えた。
 ジリジリと追い詰め、逃げ道を奪い、逃げることを止めて戦おうとしても、刃を叩き折る。そうして戦う術を失った者を、だが殺そうとはしない。
 自害を、待っているかのように。事実、そうなのだろう。僕が自害するのを、待っているのだ、この老婆は。
「少し考えれば、わかるはずじゃが?」
「……黙れ」
「言わずもがな、もう気付いているはず。気付いておらぬわけが無い」
「斬る。それ以上喋るならば、もう斬る」
「恨むか。憎むか。勇ましき人よ」
「恨む。憎む。その口を閉じろ」
「『サリアという娘の為に殺し続けた。サリアという娘がいるから、殺し続けた』と、何故言えぬのか?」
「黙らんか、この下郎がぁっ!」

 殺す。もう殺す。サリアを汚すこの糞下郎を、殺す。斬って、殺す。腐臭漂う薄汚れた分際でサリアの名を呼ぶその口を、裂く。否。絞め殺す。この手で。下郎。下郎。許せない。殺す。殺す殺す。殺す殺す殺す。

「……気は、済んだか?」
 それでも。
 殺せなかった。刃を、引けなかった。仏を、握りつぶすことも出来なかった。
 僕が切り刻んだのは、魔王の屍骸だった。魔王の屍骸を斬り付け、握り潰し、噛み付き、食み、吐き捨てた。口の中に残る腐臭と粘着く体液が、僕に嘔吐を催させる。
「貴殿は二つの動機の下、ここまでの途を歩み続けてきた。一つは『身を守る為』。もう一つは『サリアという娘の為』」
 恐ろしい話だ、と老婆は言った。僕の嘔吐は、まだ止まらない。
「そこに世界など、存在せぬ。貴殿と、サリアという娘だけが、魔物を抹殺した、余す事無く。魔王は、それを危険視した上で、人間を滅ぼそうと考えた」
「何を……魔王……世界……」
 嘔吐、する。嘔吐する故に、まともに言葉が出てこない。
「明確な名は無いが、それは確かに病である。自然の摂理を捻じ曲げ、蹂躙するほどのな。考えてもみやさんせ。獣が獣を狩る時は、どうある時か?」
 生き延びる為、食む為。
「生き延びる為、食む為であろう? なるほど貴殿の『身を守る為』とは、そっくりそのまま獣のそれと合致する」
 そちら、か。
「『サリアという娘の為』、これが危うい。獣が、己が為以外の理由で獣を狩ることなど、あってはならないことである。そんなことが罷り通ってしまえば、摂理の調和は乱れ、生と死の循環に支障を来たす。生きることに、矛盾が発生する」
「極論だ」
「左様。魔物の、魔物による、魔物の本能に基づいた極論である。我々の祖先が作りたもうた摂理に則った、我々のルールで勇敢な人よ。貴殿らが危険だと判断した」
「間違っ」
「間違っているなどと傲慢な事をおっしゃられるな。それもまた極論である」
 吹き抜けになった天井から、三度目の朝日が昇り、僕と老婆と屍骸を照らし出す。朝日に照らされたそれは、より刻銘に、醜さを露見した。
「美しい病を抱えたその御身で、人よ。新しい摂理を生み出して行くが良い。たった今、潰えたばかりの摂理を振り返りながら。摂理の一部は、何故自分が、貴殿に喰われたのかも理解出来ぬ」
 貴殿らの摂理と我らの摂理は、表裏一体であり、また逆転の産物でもあるのだから。
 老婆は、そう締め括った。嘔吐は、既に止まっていた。


         ・


「老婆よ」
「何かな」
「貴方を、斬る」
「斬られるが良い。そこで貴殿の摂理は、日の目を見る」
「名を、教えて欲しい」
 老婆は、名乗った。それは固有名詞では無く、老婆の為だけに用意された、老婆の為の名前だった。
「……その名を、僕は知っている。その名は、過去に『勇者』と呼ばれた者の一人の名だ」
「絶望したわけでは無い。ただ、新しい何かを生み出すことに、ひどく臆病になってしまっただけのこと」
「僕らは、救ったのだろうか?」
「それを知りたくば、サリアという娘に子を宿すが良い。いつの世も、過去の欺瞞は未来が答えを遣す」

 老婆の首が、跳ねた。
 真っ赤な、しかしさらさらと煌く血液が、僕の体を朱に染めた。


         ・


 それから、新しい時代が来た。
 他者を敬い、他者の為に尽くすことが美徳とされる時代が到来し、その時代の人が子を宿し、時代は巡った。
 他者を殺め、何故他者を殺めるのかも解らないまま、またその他の誰かが他者を殺める時代が到来した。やはり子を宿し、時代は巡った。

 今現在、最先端である時代の人らは、ようやく「生きる為」という明確な答えを、その摂理の中に見つけ出した。
 ある日、「生きる為」ではなく「他者の為」に殺める者が、誕生した。
 人はそれを、「魔物」と呼び、忌み嫌った。

       

表紙

六月十七日 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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Neetsha