Neetel Inside 文芸新都
表紙

深淵の瞳
act.12「Answer」

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 深く深く暗い淵へと、私を誘って。
 そして絡め取ってほしい。
 その瞳で見つめた全てと共に私は記憶の奥底へと潜み、そして想いを巡らせる。
 いつでも目覚められる世界があるから私は眠ることができる。
 だから、少しだけ……。

 おやすみなさい。

   ―深淵の瞳―
   ―LAST ACT―

「山下」
 ふと呼ばれた声で目を開いた。校舎のベンチに寄りかかったままどうやら私は眠りについてしまっていたようだ。周囲を見てみれば生徒達は大道具を運んだり、工具を持って走り回っている。
「山下、すっかり熟睡してたみたいだけど、どうした?」
 眩しい日差しに目を細めながらも私は声の主を見上げる。
「杉原君……ごめん、昨日夜ふかししちゃって」
 えへへ、と普段は恥ずかしくて言えない言葉を彼の前では平気で言ってみる。彼は微笑みながら両手を腰にあててこちらを見ている。
 ベンチから腰を上げて周囲を見渡してみる。校舎の外観はすっかり出来上がり始めているし、この分ならば明日の文化祭には間に合いそうである。
「うちの教室はどう?」
「全然、山下も手伝ってくれよ。水島と雪野が無駄にいがみ合ってるせいで進まないんだ」
 全くあの二人も相変わらずウマが合わないようだ。と私はふふと笑みをもらしながら一度頷いた。私が仲裁にでも入らないと多分いがみ合いは続くだろう。何故あの二人がそこまで仲が悪いのかは知らないが、とにかく今は文化祭の準備の為の仲裁が先だ。
「それにしても、杉原君じゃ止められなかったの?」
 彼は深く溜息を吐きだすと首を横に振る。
「あちらを立てればこちらが立たず。焼け石に水だよ全く……」
 確かに彼では火に油を注ぐようなものだろう。なにせあの二人は杉原君のことをやけに気にしているのだから。そんな人物に肩入れされたら、どちらもたまったものではないだろう。
「安心してよ。こういうのは慣れてるからさ」
「お前だけが頼りだよ本当に……」
 彼は頭を掻き、そして重荷をやっと下ろせたような表情で笑った。有紀と早苗の他にも彼に気を持っている者がいるのだが、それは私の心の中だけの秘密で、この笑顔も私だけの宝物だ。誰にも渡すつもりはない。
「……で、実際はどちらに気があるの?」
 私はにやり、と悪戯な笑みを浮かべながら杉原君に問いかけてみる。彼は少しだけ困った顔を浮かべ、そしてそっぽを向いてしまう。
「……別に」
「大体予想ついてるから言ってみてよ」
 そう言うと彼は更に顔を渋らせる。
 想い人が私でないことは知っているし、私自身もこれは憧れで終わらせるべき恋であると自己完結をしていたりする。叶わないと初めから分かっている恋でも諦めきれないのは仕方ない。ならば私はあえて彼を支えるという意味で役に立ち、そしてそのまま消えて行きたいと思うのだ。
「……言おうと思ったら、言うよ。だから、もう少し待って」
 彼は恥ずかしそうにこちらを見つめ、そして少しだけ口をとがらせる。
「じゃあ楽しみにしてる」
 そう言って私は笑った。

 教室に入るとそこは確かに戦場となっていた。有紀は無言のまま作業を進めつつ、それでも視線はしっかりと早苗を見ているし、早苗は怒りに顔を真っ赤にしながら彼女にさりげない攻撃を与えて行く。その光景に周囲は多少引きつつもちゃっかりと早苗側と有紀側とそれぞれの陣営に入り込んで激しい戦意を見せつけていた。
「……呆れた」
 右に同じく、と杉原君は呟く。
 私は頭を抱えながらも殺意の籠る視線を飛ばし合う二人に手をかける。
「はいはい、二人とも。何をそんなに喧嘩してるのよ」
「「だってこいつが!!」」
 見事なまでのシンクロ具合に思わず笑いがこみあげそうになる。だがここで笑ったらむしろ逆効果だと私は腹部に力を込め、必死に口から漏れ出そうになる笑いをとどめた。
「まずは今何をすべきか考えましょうね。明日の文化祭まで残り数時間、出来具合は五割程度ね。はい有紀すべきことは?」
 有紀は膨れながらも口を開く。
「……残りの準備」
「はい正解、じゃあ早苗、このまま喧嘩してたらどうなる?」
 早苗はじろりと有紀を睨みつけた後、そっぽを向きぶっきらぼうに言い放つ。
「準備が片付かない」
「なによ二人とも分かってるじゃない。じゃあ作業しましょう」
 私は満面の笑みを作って二人の背中をばしんと一度叩き、そうしてから周囲にも呼び掛けて作業を再開させる。
 未だにいがみ合いは続いているようだが、先程よりは作業が進んでいるところを見て私は頷いた。
「どうにかなったなぁ……」
「本当に面倒よね」
 杉原君はほっとした様子で肩の力を抜くと自らもまた作業へと戻っていった。さて、私も戻るかと周囲を見渡してみる。
 すると、こちらに向けて手を招いている生徒が一人いることに気付く。
 その顔に覚えのあった私は面倒くささを感じながら、静かに廊下へと出て見る。
「どうしたの? 須賀君」
 少し調子のよさそうな少年、須賀はいやぁとにやりと笑みを浮かべて私の耳元で囁き始める。
 大分理由をこじつけていたが、要約してみると「早苗と二人きりになれないか」といったものであった。ああそういえば彼もまた一人の女性に想いを寄せる人物だったっけかと私は少しだけ微笑む。
「な、頼むよ。杉原にも結城にも頼めないことなんだよ……」
「そんなこと言っても私だってそんなに手伝えはしないわよ」
 苦い顔をしながら私は須賀に断りの言葉を返す。その返答に須賀は多少不満気味だが、流石に誰も彼もそういった要件を引きうけることはできないのだ。申し訳ないが自分の力で頑張れ、と心の中で謝罪を入れつつ、ひとまず教室へと戻った。

   ―――――

「多分その世界はとても幸福に満ちているのよ」
「僕らの世界は本当に小さいからね。その程度の幸福でさえ与えてやれない」
「人にそこまで大きな力なんてないのよ」
「……息苦しいな」

   ―――――

 窓から外の光景を眺める。地平線まで青空が広がっている。ここ最近の雨が嘘であったかのような天気だ。風も気持ち良くてなんだかまた眠ってしまいそうだ。
 ふと下を見る。あの背の小さな少年と、少し強気なあの子が手を繋いで歩いている。全く作業もサボリながらデートですか、と私はその微笑ましい光景を眺めながら頬杖をついた。初々しさと気恥ずかしさのにじみ出るその光景が、校舎の影に消えるまで私はずっとそれを眺め続けていた。
「何、了と翔? あの二人いつのまに……?」
 その声に私は振り返る。有紀が少し頬を赤らめながら私が先程見ていた方向を見つめている。
「意外と知らないところで起きてるものよ。こういう出来事はね」
「……」
「貴方もそろそろ自分に正直になるべきなんじゃないの?」
 そう言うと彼女はその頬を更に赤らめると顔を手で隠してみる。そんな彼女の仕草に可愛らしさを感じながらも私は続ける。
「私は貴方を応援する」
 そう言うと、少しだけ彼女は照れながらも、一度だけ微笑んだ。その笑顔がなんだかとても懐かしくて、なんだかとても切なく感じられたのは何故なのだろうか。

   ―――――

 陽も暮れかけた頃、私と杉原君は校門を出る。すっかり出来上がった校門前の飾りに少しだけ感動を感じながら私はその門を潜った。
 門をくぐると世界が何故か変わったような気がした。
 なんだか世界がとても真っ白い部屋になったような、そんな感覚。
「どうしたの?」
 呆けていると杉原君が声をかけてきたことで私の意識が引き戻された。振り返ってみればそこはいつもの校門であり、周囲は日常的な光景となっている。今のは錯覚だったのだろうかと首を傾げる。
「なんでもない……うん、大丈夫」
 私は首を左右に振って今の疑問を至高の外へとはじき出し、目の前の彼へと視線を戻した。
「明日の文化祭さ……俺、頑張ってみようと思うんだ」
「え?」
 彼は一度何かを決意するように視線を下に向けて頷いた後、こちらをじっと見つめる。その瞳はどこか澄んでいて、それでいて吸い込まれそうなほど深かった。
「俺、今度こそ頑張るよ。だから、助けてくれるかな?」
 その言葉に私は思わず笑みを浮かべる。彼が私を頼ってくれるのならば、私は喜んで彼に手を貸して見せよう。例えそれが自らの命に関わる事でも私は喜んで――
――………………ら、……って……しいの。
 ふと、そこで何か大切なことを忘れているような気がした。
「……山下、いいかな?」
「え? あ、ああ……うん、頑張って」
 彼の言葉に私はあわてつつも、はっきりとした返事を返す。彼が頑張ろうとしているのだ。今はそんな思いだせないことよりもこちらを優先すべきなのだ。
 だって、私の憧れる人の覚悟なのだから――

   ―――――

「俺と君が出会ってから、まだ間もないし、時期も浅かった……」
 窓から吹き込む風が心地いい。カーテンが揺れている光景がなんだかとても爽やかだ。
「けれど、ここまで長い付き合いになるとは思わなかったよ」
 この短くて長い付き合いは、一体どこまで続くのだろうか……。

   ―――――

 目を開く。
 燦然と輝く天上の光源が私の視界を遮る。本来私が視界を開く為に利用する筈の太陽は、直接見ると毒となってしまう。そんな不十分な関係性についてなんとなく頭を働かせてみるが、私程度の頭でそれが解決に至るかといえば至らないわけで、暫くして私は考えることを止めてしまった。
 周囲は子供や子供と同伴でやってきた家族、赤い髪の少年と女性の二人組がやけに目立っている。そしてどこかから噂を聞き付けてやってきた学生達が騒ぐ等、学祭は沸き立っていた。その騒がしい光景を見てやっと私は今この場が学園祭の行われている場なのだと理解し、寝床と化していたベンチから立ちあがると大きく一度伸びを行った。
「山下さん、こんにちは」
 伸びを行っているところで、私を呼ぶ声がした。まだざらつく視界を何度かの瞬きで調整し、そして目の前に立つその女性と男性の姿を見て思わずにんまりと笑みを浮かべてしまった。
「沙希さん、要さん。お久しぶりです」
 後ろ手に組んだ手をもじもじと弄りながら私は二人に近づいていく。水島沙希さんの腕の中には赤子がすやすやと柔らかな寝息を立てて眠っていた。
「有紀はどこにいるかしら?」
「有紀なら多分教室で出店の番やってると思います」
 私は彼女にそう返答を返すと思わず腕の中の赤子を覗き込み、感嘆の声を漏らす。そういえば二人が婚約してから暫く、全く会っていなかった気がする。妹とよく一緒にいるはずなのにおかしいものだ。
 要さんはどこか遠くを見るような視線で私を見つめていた。その目に多少の違和感を感じたのだが、少ししてから私の頭を撫でてきた要さんを見てそんな違和感は一瞬にして吹き飛んでしまった。塾の教師の頃からお世話になりっぱなしの越戸要さんもとい、水島要さんは今とても幸せだと思う。そして教え子であった私はその光景を見ることができて、とても幸せだ。
「すぐに会えると思いますし、一緒に行きましょうか」
 ええ、案内お願いするわ。と沙希さんは小さく微笑む。その笑い方がとても私は好きだった。なんというか、全てを温かく包み込んでくれるような、そんな温もりの籠った笑みなのだ。
「でも、由佳ちゃんは何かしなくていいの?」
「私ですか……?」
 そう言われてみれば、今年の文化祭はあまり何もしていない気がする。私は、何をするべきだったのだろうか……。
「何をするんだったっけなぁ……」
「そういう時は思いだすまで待てばいいさ」
 悩む私に向けて要さんはそう言葉を放つ。
「君がそのやるべきことを忘れてここにいるってことは、きっと今ここで何かをするべきなんだよ」
「……そういう考え方もありますね」
 私がやるべきこと。
 そういえば何かあった気がするんだ。けれどもそれがどうしても思い出すことができない……。
 頭をひねる私の背中をどん、と強く要さんは叩いた。その衝撃が意外とはっきりとした痛みとして身体に伝わったので、私は思わず声をあげてしまった。
「何するんですか」
要さんは微笑むと今度はもう一度私の頭を撫でた。
「もう少し気を抜いて生きなさい」
 その言葉が何故だか私には理解しづらくて、余計私の頭の中は混乱していく。
「お姉ちゃん、お義兄さん、来てたの?」
 不意に聞こえた有紀の嬉しそうな声を聞いて我に返り、私は首を振った。
 無理に思い出す必要はない。
 きっと思い出すべき時になれば思い出すだろう。そう考えて私は笑顔で駆け寄ってくる有紀を温かく出迎えた。

   ―――――

「……彼女はいつまでこうなのだろうか?」
「脳死というわけでもなければ、身体的に何か不具合が生じているわけじゃないから、こればかりは彼女自身の心の問題ね」
 爆弾魔はぶっきらぼうにそう答えると一度伸びをしてから扉を開いた。
「どこへ?」
「私の仕事は彼女を送り届けることで終わったのよ。だから、ばいばい」
「そうか……」
 爆弾魔はあぁ、と小さく言葉を漏らしてから、ゆっくりと俺を見つめる。
「今は整理がつかないだけよ。ちゃんと気持ちが落ち着いたら彼女はきっと、帰ってくるわ」
 その時はよろしく言っておいて頂戴。そう言うと彼女は姿を消した。俺はその後ろ姿を目に焼き付けた後、視線を彼女に戻した。
 まるで死んでいるかのように眠っている彼女が、そこにはいた。

   ―――――

 学祭は、意外と楽しかった。大分知り合いが来てくれたということもあるのだが、それよりもまず杉原君と有紀がやけに積極的に絡んでいたことが見れたことが個人的には大きかったのかもしれない。
 気づけば日は暮れ始めているし、そろそろ学祭も終わりの頃だろう。私は一息ついた後に窓の欄干に寄りかかって一息つく。
 結局、何をしたいのか思いだせずに今日を終えてしまいそうだ。私は一体何をしようとしてこの学祭で動いていたのだろうか。十分に遊んだし、それなりに仕事もしていた感覚はあるのだが、肝心なものがぽっかりと抜け落ちてしまっているのだ。
 この気持ちはなんなのだろう。
「山下、あのさ……」
 そんな考え事をしている時に、杉原君が教室に入ってきた。私はすぐに身なりを整えて笑みと一緒に彼を迎えた。
「何?」
「お願いがあるんだ」
「お願い?」私は問い返す。
 彼は少しだけ躊躇った後に、はっきりと私に言葉をぶつけた。
「水島に告白するところを、ちゃんと山下に見届けてもらいたいんだ」
 やっと、か。
 私は彼のその決意の籠った一言を聞いて、何か肩の荷が下りた気がした。やっと彼も覚悟を決めたのか。これまでずっと鈍感だった彼が動くと決意したのだ。ならば私は歓んで彼のその姿を見届けよう。
 結ばれると分かりきった二人の緊張に満ちたワンシーンを……。

 屋上は何故だかとても寂れていて、どこも学祭終盤ということで盛り上がっているのにそこだけ穴が空いたかのように静かだった。まるで彼と彼女の為に用意された空間であるかのように、時間という偶然がこの場をセッティングしてくれたかのような……。
「水島」
 彼はごくりと生唾を飲み込むと、フェンスごしに下を覗いている少女に声をかけた。その何気ない姿がどこか綺麗で、どこかさびしげだった。
「杉原君、どうしたの?」
 彼は多少怯み私の方を見るが、私はそんな彼の背中を一度ばしん、と思い切り叩いて押しだした。もう戻ってはいけないのだ。彼は進むべきなのだから。
 その時、要さんが私にしてくれたあの行為がなんだか少しだけ理解できた気がした。私を前に進ませるためのさりげないおまじないだったのかもしれない。そう考えるとなんだか無性に嬉しさがにじみ出た。
 杉原君は視線を泳がせ、頬を赤く染めながら暫く「あ、えと……」と呟き続けていたが、それから少しして一度だけ深呼吸をするとしっかりと有紀の目を見ていた。
「俺さ、ずっと前から水島と仲良くしてきた……よな?」
 有紀は無言で頷く。彼女はきっと気付いている。でも、何も言わないのは、そういうことだからだ。
「今まで色々と楽しかったし、今日の学祭だって一緒に色々話せて楽しかった」
 でも、と彼は呟く。
「それ以上を欲しくなってる俺がいるんだ……。水島有紀って存在を必要に求めちゃってるんだよ……」
 彼はそこまで行くと、足を一歩前に踏み出した。

「好きなんだ。水島のことが」

 どんな言葉よりも大きな一言が、世界に響き渡った。それはとても純粋で、とても真っすぐで、誰にも邪魔されるべきでない素敵な言葉だと私は感じた。
 私は唇をかみしめながら、それでも二人からは目を逸らさずにいた。
 私が求めていた光景を、私の記憶として焼き付ける為に……。
「……私、最初は杉原君ってなんだかとっつきずらい人だと思ってたの」
 彼女が口を開いた。彼はそれを黙って見つめている。
「でも、話していく上で少しづつ、ああこの人は真っすぐなんだなぁって思って、それからとても一緒にいるのが楽しくなっていったわ……」
 彼女はそういうと、二歩、前に進むと彼の身体をその小さな手で掴み、そして――

 背伸びをして、彼の唇へと飛び込んでいった。

 彼は反射的に有紀を抱きしめる。華奢な身体を大事に護るようなその抱きしめ方はとても彼らしいと思った。そして、とても羨ましさを感じながらも、自分が最も見たかった光景に思わず視界が歪む。
 目がとても熱い。
息が苦しい。
 でも、それが心地よかった。
「……山下、本当に助けてくれてありがとう」
 彼女を腕の中に抱く彼は私を見て微笑む。その微笑みがいつもと違うように見えたのは気のせいではないのだと思った。彼は変わったのだ。この一瞬のうちに。
「私が見たかった光景だから、私こそ、この場に立ち合わせてくれてありがとう」
 本心からの気持ちをそのままに吐き出すと、彼と彼女はにこりと微笑み、そして――
「だから、君も“目覚め”ようか」
 そんな理解し難い言葉を吐いた。

   ―――――

 俺は眠る彼女、山下由佳の手を握り締めた。
 戻ってきた彼女は眠りについたままそれっきり起きなくなり、そしてどこにも異常がない筈なのに生命維持装置を取り付けられて今の今までここで生活をし続けていた。
 俺はどれだけの期間をここで過ごしたのだろうか。
 彼女との付き合いは大して長くはない。けれども彼女と交わした約束だけは叶えるべきであり、それが彼女にとっての救いである。そう信じてここまで生き続けてきた。
 爆弾魔がどこへ行ったのかもわからない。
 この世界の裏側で起きたことも知らない。関わるべき存在でもなかった。
 けれどもここでこうやってその役目を持った少女と関わったということは、俺にも多少なりとも役目はあったはずなのだ。
 約束を守るという小さくて、大きな約束が……。

   ―――――

 最初は何を言っているのかよく分からなかった。
「私が目覚めるって? 今こうやって起きているじゃない」
 有紀は首を振った。
「貴方は今貴方の望んだ世界に浸っているだけよ。夢という楽園に囚われているのよ」
「……なら別に夢だっていいじゃない。こんな幸せな光景を見れて、なんで目覚める必要があるのよ」
 私は口調を荒げて叫ぶ。
 すると二人は私へと歩み寄る。
 二人の温もりに包まれた。ぎゅうと身体に伝わる温もりが切なく感じたのは、これが私の夢だからなのだろうか。
「俺達を幸せにしようとしてくれてありがとう」
 杉原君は言った。私は彼が好きなのだ。好きな人の幸せを祈るのなんて当たり前なのだ。
「でも、ずっとここで傍観者として存在し続ける必要はないのよ」
 有紀は言った。私は二人の幸せな姿が、皆の幸せそうな姿を見ていればそれでいいのだ。だからここにいたって私は十分に幸せが――

 そこで私はやっと、思いだした。
 やっとだ。
 大切な、私が私である為に、生きて帰る為にした約束を。
――おかえりって言って欲しいの。
 やっと思い出したのだ。

「……そっか、私」
 ぽっかりと空いていた隙間が埋まったような気がした。
「貴方がすべきこと、思いだした?」
 有紀はそう言うと笑った。
杉原君も一緒に笑った。
 私は泣いた。
「約束してたんだっけ……ちゃんと帰る為に」
 誰一人としていなくなった世界なんてもうどうでもいいと思った。けれども、その誰もいなくなった世界でたった一人と私は小さな約束をしているのだ。それは私が前に向き続ける為の、自己満足ながらにした約束。
「私、帰れたんだ。なのに……」
 私を抱きしめる二人の力が更に強くなった気がした。よく見れば二人も泣いている。泣いてくれていた。
「……私と杉原君は、もう貴方とは会えないの」
「俺と彼女には俺と彼女の。君には君の帰り道があるんだよ」
 私は目を閉じた。
 自覚してしまった。この気持ちのよい世界から私はいなくならなくてはいけない。大丈夫、私の望みはちゃんと見つめることができたのだ。私は満足だ。
「ちゃんと、お別れ……するよ」
 私は声を詰まらせながらも、しっかりと力強く言葉を吐き出す。
 二人は頷き、そして笑ってくれた。
 だから私も笑うのだ。精いっぱいの笑顔で。
「ばいばい」

   ―――――

 カーテンが揺れていた。
 風がとても心地よかった。
 そこで泣き顔が微笑みに変わった。
 空がとても青かった。



「おかえり」
 約束は今、果たされたのだ。


「ただいま」



   ―終わり―

       

表紙

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Neetsha