Neetel Inside 文芸新都
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雨と嘘

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●雨と嘘

「村雨くん、どうやら日本、もとより、世界は壊れてきているみたいよ。」

 確か二週間くらい前に、彼女が、柏木美奈子が僕にそう言ったのを覚えている。放課後の図書室で僕がひとり死角の本棚の裏で文庫本を読んでいたとき、彼女が目の前まできて、そう一言残してどこかへ行ってしまったのだ。
僕はかなり驚いた。なにしろ、柏木美奈子はうちの学校の所謂アイドルみたいなもので、長くて真っ直ぐな黒髪に端整な顔つきに細い手足、口数が少なくてすごく大人っぽくて(笑った顔は誰も見たことがないらしい)、おまけに成績はずば抜けて良くて、彼女の存在自体が学校の男女からの憧れで―だからつまり、僕のようなモヤシ根暗眼鏡男子なんか一生関わることもないような存在だったからだ。
そんなひとがどうして僕の名前を知っているのか。わざわざ僕に話しかけて(?)きたのか、そして、世界が壊れてきているとはなんなのか―。
以来、僕は憧れの彼女の事を前に増して考えるようになった。

そういえば、もうここ二ヶ月ぐらい雨が降っていない。梅雨時だというのに、だ。彼女が言った世界が壊れてきているというのは、そのことを示しているのかもしれない。

そうしてまた放課後、僕はいつものように図書室の死角の本棚の裏に近くから椅子を引っ張ってきて、読みかけの文庫本を広げる。そうしてすぐに、柏木美奈子のことを思い出した。
彼女はどんな風に笑うんだろう。どんな風に泣くんだろう。普段無口な彼女からは想像もできない―。
どれくらい時間がたっただろうか、図書室の扉が軋みながら開く音に気付いて、本棚の陰から目をやると、そこには柏木美奈子がいた。僕は思わず手に持っていた文庫本を落としてしまった。慌てて拾おうとして椅子から落ちた。本棚にぶつかって本が派手な音を立てて何冊か落ちる。何やってるんだろう僕は。柏木美奈子が目を見開いている。僕は恥ずかしさで顔がぽーっと熱くなった。
すると、柏木美奈子が僕の方に歩み寄ってきた。情けないことに、僕は恥ずかしさで動けないままでいた。そんな僕に、彼女は真っ白な手を差し出した。
「大丈夫?村雨くん」
「あ、ああ、うん…」
一瞬迷ったが、僕は彼女の手を握って立ち上がった。ひんやりと冷たかった。
「派手にやったね」
 そう言うと本を拾い始める彼女。僕も慌てて彼女に並んで本を拾う。近くで見る彼女はやっぱり綺麗で、直視することなんて僕にはできなかったけれど、それでも僕は嬉しかった。
「はい、これ」
 柏木は最後に僕に文庫本を渡した。
「あ、ありがと」
「…ねえ、最近、雨、降らないよね」
「そう…だね」
 やっぱり彼女は雨が降らないことを気にしていたのだった。
 沈黙が訪れた。僕はぎこちない会話の合間にできる沈黙が嫌いだ。僕が会話が下手だから、大抵相手が疲れてしまうのだ。だから人と関わるのが嫌いで、こうしていつも図書室にいるのに―。
「でも、朝、水溜りを見たんだ」
 誰が言ったのか一瞬わからなかった。僕だった。沈黙を破ったのは以外にも僕だったのだ。
「ほんとう?」
 彼女は大きな目を更に大きく見開いた。
「うん、ほんとう」
 こんなの嘘だ。鳴り響く沈黙が耳に痛かったから、出任せを言っただけなのだ。それなのに。
「通り雨かな、夜のうちに降ったのかな」
 彼女はちょっと楽しそうに笑った。僕の嘘で彼女が笑った。誰も見たことがないという彼女の笑顔を、僕は見たのだ。
「ねえ、見に行かない?」
「え?」
「水溜り、まだ残ってるかわからないけど」
しまったとおもった。
「日陰だったらまだ乾いてないかもしれない。ね、行こ?」
 僕より背の小さな彼女が僕を見上げて言った。どうしよう。今更だけど嘘を言ったことを後悔した。どうしよう。すると彼女は僕の手を掴んで走り出した。図書室の扉を押し開けて廊下を走る。彼女が僕に触れていることにどきどきした。そしてまた後悔した。もう後戻りはできない。
「ねえ、村雨くん、世界は壊れてなんかなかったんだよ」
 彼女の声から喜びが滲み出ている。いっそ誰か僕を殺してくれと思った。僕の嘘で彼女は笑っていた。

       

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