Neetel Inside ニートノベル
表紙

ドラマティックえもーしょん
第三章

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――ほうっ。
 土管の上に腰掛けて、大きく息を吐いた。
 体内から吐き出された水蒸気が白くたゆたって空に消えていく。
 まったく、土地の再開発が進んでいるというのにこの空き地はまだあったのか。子供がここで遊ばなくなって久しいのに土地主は何を考えているんだろうね。そんなことを考えて僕は、これから、運が悪ければ死んでしまうかもしれないというのに思わず笑ってしまった。
 思えば僕の小学生時代はこの場所と共にあったといっても良い。
 よく野球をした。
 それで窓ガラスを割って神成のおじさんに怒られもした。
 ここで昼寝もした。
 ママと喧嘩して家を飛び出したときも真っ先にここに来たものだ。
 ジャイアンのリサイタルもここでよくやってたっけ。
 全く、いつからだろう。
 いつから、僕はここに来なくなっていたんだろう。
 僕が遊びを断るようになってもジャイアンとスネ夫はここで遊んでいたんだろうか。安雄やはる夫とはクラスが変わってからとんと疎遠になってしまったけど元気かな。当時のことを考えながら目を閉じればその光景がまざまざと思い出されるから不思議だ。
 そして、その思い出には必ずドラえもんの姿もあった。
 価値観はどんどん変わっていくだろうし、何が大切かなんていまの僕にはまだよくわからない。
 でも、この頃のことは胸を張って楽しかったといえるし、今でも僕の大切な思い出だ。
 きっと、守るべきものだ。
 この戦いが終わったらみんなとここでキャッチボールでもしよう。
 あの頃みたいに楽しめるかはわからないけど、それでもきっと大事な何かを思い出せると思う。
 僕は目を開け、空き地の入り口を睨みながら、彼らの到着を待った。
 空には厚い雲が垂れ込めて、ぼんやりとした光だけが、月の存在を教えていた。

 ***

     

 同時刻、源家。
「いるんでしょ? 事情なら聞いてるわよ」
 玄関を開け、何もない空間に向かって言う静。
「……」
 返事はない。
 彼女は大きくため息を吐くと、
「いるのはわかってるって言ってるの。それともあなた達は捜査に協力しようとしてる一般人を邪険に扱うわけ?」
 けだるげに言う。しばしの、沈黙。
 彼女はもう一つため息を吐くと、髪を後頭部で二つ結びにしていたゴムを外して、頭を振った。細い髪の毛がふわりと揺れて、降ろされた瞬間に、幼く見えた彼女の表情が一瞬で大人のそれに変わる。
「ねぇ」
 そして、
「協力……とはどういうことだ?」
 何もない空間から声が聞こえた。落ち着いた、大人の声。
 瞬間、ニヤリ、とまるで賭けに勝ったかのような顔で静が笑い、
「そう。協力。彼ならとっくの昔にここを出てるしね。事情を知らずにちょっとかくまったからって逮捕されるのも嫌だし、彼の居場所を教えるからそれで手打ちにしてほしいんだけど。ずっとそうやって囲まれててもたまらないし」
 言った。再びしばしの沈黙があって、
「……司法取引か?」
 声が尋ねる。
「そんな大げさに考えなくていいわよ。私は面倒が嫌いで善良な一般市民。わかる?」
「了解した」
「嫌なのよ。自由がないのも、面倒なのも」
「情報が本当なら、君の自由は約束しよう。それで、彼はどこに?」
 一瞬だけ静は沈黙し、呼吸を止めた。そして、
「空き地よ」
 笑顔で言った。
「情報感謝する」
 声が返す。
「あら、けっこうあっさり信じてくれるのね」
「嘘なら罠を蹴散らしてタイムマシンで戻ってくるまでだ」
「なるほど。それは効率的だわ」
 言って、静は手を振った。扉を閉め、家の中に戻った瞬間、寒さから来るものではない震えに襲われ、床に座り込んでしまう。
 しばしそのままでいて、落ち着きを取り戻すと、
「頼りたくはないけど、あんなやつでも弾除けにはなるか……」
 つぶやいて立ち上がり、受話器をとった。
「あ、もしもし、こんな時間にごめんなさいね、出来杉さん。ちょっと勉強で教えてほしいことがあって……うん。うん。出来たら家に来て欲しいなぁ、なんて」
 壁に寄りかかり、また座り込む彼女。
「ダメ? 受験前なのはわかってるのよ? どうしてもダメかしら」
 受話器を放して大きくため息を吐き、再びそれを耳に当てると、
「ねぇ、出来杉さん。いま私、家に一人なの」
 言った。
 答えは決まっている。
「それじゃあ待ってるわね」
 言いながら、受話器を置き、
「ごめんなさいね、のび太さん。私の身を守るためなの」
 彼女はつぶやいた。

     

「そっちはうまくいったかい?」
――プッという微かな音でもって回線が繋がるなり、電話の向こうの相手に向かってスネ夫はそう切り出した。相手はジャイアンだ。
「あぁ、たぶんな。見えないからよくわかんないけど」
「うーん、だよねぇ。一応念のためにもう一度試しておいて。僕のほうもたぶんうまく行ったと思う」
 言いながら、うろんげな瞳で空を見上げると、僅かに雲が切れて、そこから満月が覗いていた。
「けど、これでよかったのかな?」
 電話の向こうで心配そうにジャイアンが言うのを、彼は鼻で笑う。
「これで良いのさ」
「けどこれじゃ二人との約束を破ったことになるんじゃないのか? なんだか不安になってきたぜ」
 月光に照らされながら、スネ夫はさらに笑う。
「意外に小心者だよね、君って。さっきも言ったけどこれでよかったんだよ。のび太のためを思えばこそさ」
「そうなのかなぁ……」
「じゃあそろそろ電話切るね。安全かどうかもわからないし」
「おう」
 そして電話を切るなり、彼は大きくため息を吐く。と、同時に月は再び厚い雲に覆われ、小さく俯いた表情は伺えなかった。
「皆が一緒にいられたら、か」
 嘲笑めいた笑いとともに、誰にともなく吐き出されたその言葉は、白い呼気にのってほどけ、夜の闇に溶けていった。

     

 空き地。
 僕は相変わらず土管に座り、空を見上げている。
 時刻は十時を少し過ぎたくらいか。
 そろそろかな?
 そんなことを考えながら空を見ていると小さな白いものが降って来ているのに気付いた。
 あの日と変わらず、雪が降り始めたのだ。
 視線を僕の家があるほうに巡らせてみた。二階建ての家が少し遠くに見えて、二階の窓から灯りが漏れていた。きっと僕は何も知らずに勉強をがんばっていて、その横でドラえもんはつまらなそうにドラ焼きでもつまみながら漫画を読んでいるのだ。
 と、不意に、入り口の方から小さな足音。感覚を研ぎ澄ましていなかったら聞き逃していたであろうその微かな音に気づき、僕は腰を上げる。
 思ったよりも早かったな。そんなことを思いながら、僕は土管を駆け上がる。と、それを上り切ったところで声をかけられた。
「野比のび太だな」
 僅かに緊張を孕んだ大人の声。僕らの武勇伝は彼等も聞き及んでいるのだろうか。
「違ったらどうするのさ、不用心だなぁ」
 返しながら、ゆっくりと振り返る。
「その時は記憶を操作して過去に戻るだけだ」
「なら僕が誰かなんて確認する必要、ないじゃないか」
 視線というか気配というか、不可視の重圧をいくつも感じるが、やはり姿は見えない。雪が彼らを視認する手助けになるかとも思ったのだが、空から降りてくるうちに溶けてしまうような儚い粉雪だ。残念ながら何の役にも立ちそうにない。内心の落胆を悟られぬよう、無邪気に笑ってそうちゃかすと、
「決まりだからな」
 自嘲するように声が答えた。声は続けて、
「正式な過去介入許可が降り次第、君を逮捕する」
 そう宣言して、しばしの沈黙が生まれた。
 正式な、ということは先の僕への発砲は正式なものではなかったということか。それともその場その場で別の許可が必要なのか。彼らのルールはよくわからないが、どうもそういう決まりらしい。
 それにしても公権力というものはいつの時代にも面倒な決まりに縛られているらしい。恐らく、こちらに投降の意思がないか確認しなければいけないのだろう。だから彼等は光学迷彩だけでなく音や行動を含む認識迷彩の機能をもつ『いしころぼうし』を使用できないわけだ。
 なんにしろ僕は、相手の姿が見えないものだからいまいちどこを見ればいいものかわからず、適当に空き地の入り口の方をぼんやりと眺めながら、相手の反応を待った。
 相手は多数の上に姿が見えないのだ。圧倒的に不利すぎる。
 双方一言も発さないまま、しばしの時間が過ぎて、
「さて、お待たせしたな、時空間犯罪者野比のび太。時空間旅行法第137条に基づき、貴様を逮捕する」
 声が無表情に、そう告げた。
「痛いのは嫌だなぁ」
 苦笑いを浮かべつつ、そう返すと、
「抵抗しなければ悪いようにはしないさ」
 だいぶ近いところで、声が笑う。
 抵抗をしなければ……、
 瞬間に溢れそうになる感情があったが、なんとかそれを押し殺す。
 ここで無策に飛び出しても何も出来ずに捕まるだけだ。
 なんとか、なんとか、
 ――相手の位置をつかまなくては。
「ところでさ、」
 近づく気配に向かって、世間話でもするような調子で言いながら両手をゆっくりと上げる。
「“ノビノビロープ”って道具を知ってるかい?」
 返事はない。
「たまたま僕と似た名前の道具なんだけどさ、自由自在に伸ばして細くできるつよいロープなんだよ。
 そして僕はあやとりの天才らしくてね」
 ここで言葉を区切り、腕を完全に持ち上げ、指先から伸びたソレを、ピンと張った。
「悪いけど抵抗させてもらうよ」
「クソッ!」
 瞬間、両手の指から伸びた不可視な程に細く細い糸に引っかかる感触。恐らくは僕が動くより早く近づき、僕をとりおさえようと走ったのだろうが――、
「遅いよ」
 次の瞬間には僕は処理を終えていた。
 指を丁寧かつ素早く動かしながら腕を引く。確かな感触がそこにあった。数は8つ。
「確保だ! 支援部隊、早くこいつを確保しろぉ」
 確保されてしまったさっきまでの声が言う。自分の身かわいさとはいえ自ら今の攻撃の範囲外に支援部隊を展開していたことを明かすとは。愚かにも程がある。
 もとより今ので全てをしとめたとは思っていなかった僕は素早く後方に飛び下りた。運動神経なんて欠片もないから、着地なんて思い切りうまくいかず、右足首をくじいてしまうが、今は気にしている暇などない。慌てて土管に背を預け、土管と壁の隙間に体を隠す。
 ぱしぱしと、土管や神成さんちの壁にゴム弾とおぼしき球がぶつかって音を立てた。
 発射音が聞こえなかったということは今度こそいしころぼうしを装備しているらしい。
 状況は考えうる中で最悪の状況だった。
「自信がなくなってきたよ、静ちゃん」
 雲が厚みを増し、月の光すらも見えなくなった空に向かって、僕はつぶやいた。

 ***

     

「まぁ、作戦って程でもないんだけどね」
 初めに、彼女は照れたようにそう前置きした。
「恐らく敵はいくつかの小隊に分かれて行動してると思うの。それで、結局のところ、のび太さんが目的を達成するための障害はここに向かっている追跡部隊と、のび太さんの家で彼の侵入を防ぐべく待ち伏せているであろう部隊、この二つを排除してやれば良い」
 言って指差す先には折込広告の裏面の白紙に書かれた簡易地図。
「いかにのび太さんに策があるとはいえそれが二回も通用する保証はないでしょ? できればこの二つを同時に叩かせてあげたい。そのほうが、敵の数は増えるけど効率は良いと思うの。何だかんだいってのび太さん運動音痴だし」
 自分で言っておいて苦笑する静ちゃん。
「ボール投げは手を放すのが遅くて真下に投げるしな」
「で、思いっきりバウンドしてきたボールで顔面殴られてね。眼鏡変えたのその時だっけ?」
 それに続くジャイアンとスネ夫。
 僕は顔を真っ赤にしながらそれを遮る。
「仕方ないじゃないか! 誰にだって向き不向きはあるんだよっ! 今はそんな話関係ないだろ」
 なんだか静ちゃんがやけに幸せそうに頬を上気させて、潤んだ目でこっちを見てる気がするけどきっと気のせいだ。こんな時にそんな顔をするのは本当にやめて欲しい。昔はもっとうまく「お嬢さん」の仮面を被っていたと思うのだけれど、最近は僕らといるときはだいたいこんな感じだ。
 何が原因かは知らないが幸せそうだからいいのだろう。
 投げやりにそんなことを考えていると――コホン、と彼女が咳払いをして話を戻す。
「だから、たけしさん達にはそれを手伝ってもらうわ。私がこの辺りにいる部隊を合流地点に誘導し、二人にはのび太さんの家の近くで、彼の目撃情報でも流してもらう。相手の最優先目標はのび太さんの確保でしょうから、どちらも動いてくれるはず。あとはうまく目的地で二個小隊が合流するようにタイミングを調整すればいい」
「なるほど……」
「あとはのび太次第ってわけか」
 神妙な顔で二人がうなずく。
 しばしの沈黙。
 その間に考える。流れとしては綺麗だし問題もないように見える。敵がこちらの誘導に従って動いてくれるかは実際問題静ちゃん達次第なのだが、ここはみんなを信じるしかないだろう。
「合流地点は僕が指定しても言いのかい?」
「できればこことのび太さんちの中間地点がいいんだけどね」
 その言葉に僕はうなずく。
「ならちょうどいいよ。ここにしよう」
 言いながら僕が指差すと、
「お前、こんな開けたところで本当にいいのか? 囲まれたら終わりだぜ?」
 ジャイアンが顔をしかめる。
 僕が指差したのは最早言うまでもなくいつもの空き地で、そこは彼の言うとおり1対複数の戦闘には向かない場所だった。だけど、
「大丈夫。ここがいいんだ」
 僕は答えた。
 その理由は単に、もしそこで死ぬとしたら、少しでも自分にかかわりの深い場所で死にたいからというひどく後ろ向きな理由だったりした。
「決まりね」
 静ちゃんが真剣な目で僕を見据える。
「大丈夫だよ」
 僕は笑って、
「みんなありがとう」
 そして、手を差し出した。
「おう」
 すぐにそれをつかむジャイアン。
「死ぬなよ」
 縁起でもないことを言ってそこにスネ夫が手を重ね、
「……」
 無言で口角を吊り上げて手をのせる静ちゃん。
 僕らはまるで大会前に運動部がやるようにそれを大きく下に振り、そして手を放した。
「じゃあ、先に僕は行くよ」
「靴は裏口にあるわ」
「ありがとう」
 言って、裏口を目指す。
「ところでさ、もしもう裏口も囲まれてたらどうするの?」
 なんとなく思いついて、足を止め、尋ねると、
「運が悪かったと思って戦ってちょうだい。あなたなら見えなくても当てられるでしょ。住居不法侵入よ、容赦しなくていいわ」
 肩をすくめながら静ちゃんが答えた。
「りょうかい、じゃあまた……未来で」
 少し格好つけてそういうと、みんなに笑われた。
「まぁ、それでもまだ不法“侵入”ではないよなぁ」
 僕はつぶやきながら外に出た。
 太陽はいつの間にか沈んでいて、雲に覆われた重い空が広がっていた。
 警戒しながら外に出たけど、源家の裏口が細い路地に面していたおかげか僕は何とか襲われることも襲うこともなく、空き地を目指した。

     

格好つけて源家を後にしたのび太を見送って、
「あいつ、変わったよな」
 ジャイアンがつぶやくように言った。
「君だって変わったさ」
 肩をすくめながらスネ夫が言って、ジャイアンがけげんそうな顔をする。
 それに、スネ夫は皮肉げに笑って、
「殴らなくなった」
 片方だけ覗いた目を明後日の方に反らした。
 ジャイアンが言葉につまり、沈黙が生まれ、それに耐え切れなかった静が小さく吹き出す。
「昔はひどかったものね。子供だったからってあれはひどいわ」
「お前のものは俺のもの、とか、それなんて窃盗だよ」
 スネ夫がしたジャイアンの声真似にむっつりと押し黙っていたジャイアンもこらえきれなくなってついに吹き出してしまう。
「悪かったよ。俺だって反省してるんだからまぜっかえすなよ」
 笑いながらジャイアン。
 しかし、
「反省なんて、君には似合わないよ。キャラじゃないにも程がある」
「たけしさんには我が道を行って盛大に転んでもらわなきゃね」
 スネ夫が言ってそれに賛同する静。対してジャイアンはふてくされてしまう。
「それはひどいぜ静ちゃん。俺がいつも失敗してるみたいじゃないか」
「あら? 違ったかしら?」
 彼女がおどけてみせて、三人は笑った。
 その笑い声は次第に乾いていき、誰からともなく溜め息に変わる。
「キャラじゃないことしやがって」
「いつもはすぐに泣き付いてきやがったくせに」
「頼られないってのはつまらないものね」
 口々に言って口だけで笑う。しばし、重い沈黙があって、
「無事に終わったらきっちり躾てあげなきゃね」
 静が笑った。
「だな」
「まったく、面倒な奴だ」
 言って二人は立ち上がる。
「それじゃあ、僕らもいくよ。お邪魔しました」
「だな。静ちゃんもがんばって」
 言って、玄関に向かう二人に、
「裏から出てね。あと、危ないことはしないでね」
 声をかけた。さらに、足を止めた二人に続ける。
「二人が今ののび太さんに接触しようとしてもきっと妨害されるでしょうから。
 あくまでも罠とわかっていてこちらを仕留めにくるであろうあちらの傲慢さに漬け込むんだから」
 チラリとスネ夫がジャイアンの方を見るが、彼は何かを考えているのかなかなか返事をしない。
 結局彼は小さく溜め息を吐いて、
「けど、あいつ、死なないかな」
「……」
 振り返ることもなく、心底悔しそうな声で尋ねる。
 静はその大きな背中に、はっきりと、笑いながら言った。
「心の友なんでしょ? ならちゃんと信じてあげなさいよ」
 しばし固まっていた二人だったが、まずスネ夫が笑って、そして、
「すまねぇ、そらそうだわな」
 続いてジャイアンが言った。静はその言葉が本当は自分に向けられたものだったことを悟られぬよう、小さくうつむいて、靴をもって玄関に戻ってきた二人を見送った。

     

「ねぇ、ジャイアン」
 街灯だけが薄暗く照らす道を歩きながら、それまで無言だったスネ夫が呼びかけた。その口調はなにやら真剣で、普段軽口を叩いてばかりの彼にしては珍しいことだった。
「なんだ?」
 答えるジャイアンの声もそれを感じてか、やけに重い。
「のび太さ、やっぱピンチだと思うんだよね。でさ、」
 ここで言葉を区切り、うろんげにジャイアンを見上げる。
「ん? おう」
「やっぱこの仕事は一人用だと思うんだよね」
「この仕事? 一人用?」
 彼の言わんとしていることが理解できずオウム返しに聞き返してしまう。
「タイムパトロールを呼び出すってやつ。二人でやることじゃない」
 彼は言って前を向きながら取り出した携帯をぱかぱかとやって見せるが、ジャイアンには未だにその本意が理解できない。
「僕一人でやる。やれる。ジャイアンには別のことをやって欲しいんだ」
「だけど、静ちゃんの作戦は――、」
 その意味を理解し、さらに困惑するジャイアンの言葉を遮る。
「あの作戦は片道切符なんだよ。確かにそれでこの時間ののび太はことの次第には気付くかもしれない。だけどそれで未来が変わらなかったら? タイムパトロール達がその上で妨害してきたら?」
 淡々と、あくまで淡々と説明するスネ夫にジャイアンは言葉につまってしまう。スネ夫はパタンと勢いよく携帯を畳んで、
「そういう時に対応するためにも逃げ道を用意しとかなきゃって思うんだ」
 裏山の方を見上げた。
「逃げ道……確かにそうだな」
 考えてはうんうんとうなずくジャイアンに、スネ夫は自嘲するように小さく笑う。
「皆はなんだかんだいって楽観的だし、勇敢だからね。そういう卑怯なことは思いつかなかったでしょ」
 ハッとしたような顔でスネ夫の方を見たジャイアンは、何かを言おうとして、だけどうまく言葉が出てこなかったのかそのまま悲しそうな顔をして黙り込んでしまう。
「だからね、ジャイアンには他のことをしてほしいんだ」
 そんなことには気付かないまま、スネ夫は続ける。
「タイムマシンの周りにも奴らはきっといる。その近くでちょっと歌の練習をしてきてほしいんだ」
「へ?」
 理解できないという顔で彼を見るジャイアン。スネ夫は、しばし「いや、あの、その……」と言い淀んで、ひきつった笑顔を作ると、
「君の歌はさ、ほら、聞く人を眠りに誘うくらいの美声だろ? それを活かしてほしいんだよ」
 口早に言った。言われたジャイアンはハッとしてまんざらでもない顔で笑う。
「まぁ眠らせれるかはわからねーけど俺の歌は美しいからな。それくらいお安いごようだぜ。けど、」
 と、ここで不安げな顔をしてみせる。
「危なくないかな?」
 それにスネ夫は笑って、
「ジャイアンは裏山に歌の練習にいくだけ、そうだろう? 危ないことなんかあるもんか」
 ぽんぽんとその肩を叩く。ジャイアンはそれで安心したようで、「だよなぁ」と言って笑うと、
「んじゃあお前も気を付けてくれよ。お前は左目――、」
 急に心配そうな顔になって何事か言おうとした。しかし、スネ夫がそれを遮る。
「うん。それじゃあ、お互いうまくやって合流しよう」
 しばし、あっけにとられたような顔をして黙っていたジャイアンだったが、おうとうなずいて駆けていく。
「僕も、うまくやらなきゃな」
 そうして一人になったスネ夫は呟いた。
「しかし、のび太の奴、まさかこんな大事な時にあの空き地を選ぶとはね。なんとなく無くなるのが寂しいから株で儲けたお金で買っといて良かったな」
 そして、一つため息をついて、頭を振ると、一瞬だけ前髪が揺れて閉じたままの左目がのぞいた。彼は神経質に髪を撫で付けてそれを直すと、携帯を取り出し、
「もしもし、ジャイアン? 僕だよ」
 どこにも繋がっていない電話に向かって一人話し始めた。
 そしてちょうど野比家の前を過ぎるころ、
「そうそう。変なところでのび太を見たよ。受験前なのにあんなところで何してたんだろうな。ん? どこかって? 空き地だよ。土管に座って空を見てたよ。変なやつ」
 少しだけ声を大きくして、呟いた。

     

 そして舞台は空き地に戻って――、
 動かないでいるうちに状況は悪化の一途を辿っていた。
 絶え間ない銃弾の嵐が土管の周囲にばらまかれ、僕は土管と壁の間の狭い空間に閉じ込められた形になってしまう。右も、左も、上も、当たれば悶絶してしまいそうな高速のゴム弾が飛び交っている。
 彼らは僕の逃げ道を塞いで接近し、そして確保するつもりなのだろう。
 と、勝ちを確信したのだろうか、不意に、
「諦めて抵抗せずに出てくれば発砲はやめてやるぞ!」
 声が言った。
 こめかみの辺りが反射的に引きつってしまう。
 全く、まだそんな詭弁を繰り返しますか。
 もはや僕には苦笑しか出来なかった。さっきは猫を被ったけど今度はその必要はない。
 そんな余裕もない。
「ふふっ」
 気付けば横隔膜のあたりが痙攣でもしたかのように堪えきれない笑いが喉からこぼれた。
「くふふ、ははっ、あはは……あははははははっ!」
 やまない銃声にかぶさるように、僕の笑い声は大きくなっていく。
 だってこんなにおかしいことはない。
 何が抵抗しなければ、だ。そもそものきっかけは抵抗どころか何の悪さもしちゃいないドラえもんをこいつらが殺したことなのだ。
「な、なんだ?」
 僕の異常に狼狽したらしい声が尋ねるが、僕は答えない。
 しばらく僕は笑い続け、ようやくそれにも疲れてきて、声も出なくなってきたところで吐き捨てるように呟く。
「黙れ」
 その声は自分でも信じられないくらいに低く、暗かった。
 気付けば強く握りすぎていた拳の中で爪が手のひらに食い込んで微かに血を滲ませていた。その痛みで、あまりの激情に何処かに飛んでしまいそうだった意識が現実に引き戻される。大丈夫、僕は冷静だ。今吐き出したおかげでさっきより冷静になれたかもしれない。
――フゥ。
 大きく息を吐いて現状を確認した。
 すでに逃げ場はなく、奇襲に失敗した上、ロープに接触してもいしころぼうしの効果で相手を認識できない。ロープは使えない。そう判断した僕は切り札だったものをあっさりと指から外し、代わりに両手の人差し指に空気ピストルを装着した。
 考えるまでもなく、危機を乗り切るための策はいつだってシンプル。
 撃たれる前に撃つしかない。
 僕はゆっくりと両手を左右に広げた。
 大空を飛ぶ鷲をイメージし、姿勢を低くして、両腕を斜め上、狙い胸の高さに来るようにして固定した。
 空気ピストルをつけた人差し指だけを伸ばして、完全に動きを止めると、全身の神経が張り詰めるような感覚があった。
――パンパンパンパン。
 壁に当たって跳ねたゴム弾が目の前に転がった。
 直径6ミリほどのゴム製の球体、一見子供のおもちゃと見紛うこれがなかなかに侮れない。喰らえば青あざではすまされないだろう。
 恐くないといえば嘘になる。
 逃げたくないといえば嘘になる。
 僕は本来部屋で何もせずゴロゴロ昼寝をするのを好むような人間なのだ。
 だけど、それでも、戦わなければいけない瞬間はあると思うのだった。
――ふぅ。
 大きな息を一つ吐いて目を閉じる。
 どうせ相手の姿は見えないのだ。
 いつ、どこを打てばいいかは“指先が教えてくれる”。
――パンパンパンパン。
 目を閉じたおかげだろうか、止め処ない着弾音もどこか遠く感じた。
 呼吸が深くなる。
 緊張感が高まって、無意識に呼吸の回数そのものが減っているのだ。
 そのため、興奮していた感覚が急速に落ち着いていく。
 時間が、とてつもなく長く感じた。
 まだか、まだだろうかと焦る気持ちを必死で押し付けた。
――不意に、ピクンと、まるで見えない何かにひっぱられるようにして指先が動き始めるのを感じた。
 その一瞬、
 僕は目を開いた。
 その一瞬、
 指先が確かに“何か”照準を合わせるのを感じた。
 その一瞬、
 相手の照準器も僕を捕らえただろう。
 その一瞬、
――ポン。
 僕の両手の空気ピストルがそれぞれのタイミングで空気の塊を吐き出し、一瞬遅れて、狙いをそらしたゴム弾が地面を抉った。
 僕はそれを確認するよりも先に、素早く起こした上半身を軸に、伸ばした両手を時計回りに振り回す。
 ほぼ真後ろに指先が辿り付いたところで指先がピクリと跳ね、僕は迷わずトリガーを引いた。
 そのまま上半身ごと体を回し、立ち上がりながら振り返るが指先に反応はない。僕はそのまま土管を駆け上がり一気に広場のほうに飛び降りる。さっきくじいた足首がずきりと痛んで着地に失敗しそうになったけど、なんとか気合で体勢を立て直した。
――自分の力を信じてみるもんだな。
 内心で思う。しかし、当面の危機を乗り切ったに過ぎず、それはまだまだ続いているのだった。

     

 ***

 実際のところ、なぜ弾が当たるのかということはのび太自身も理解していない。
 ただ、なんとなく、自分にそういう力があるのだけは知っていた。
 そもそも照準機の使い方すら知らなかった自分になぜ射撃の才能があるのか、幼いころには考えもしなかったことをなんとなく考えた結果たどり着いた答えは、『当たる気がしたから』というひどく非科学的なものだった。
 しかし、それ以外に答えが見つからないのだから仕方がない。
 当たる、という確信。もっといえば、頭の中でイメージしたものの急所に指先が引き付けられ自動的に狙いが定まる感覚。
 撃つと決めた瞬間に手が目標の急所に向かって、まるで磁石どうしが引き合うようにススス、と引き寄せられる感覚があって、その不可視の力が最大限に達した瞬間に弾を打ち出せば必ず当たるのだ。
『撃つと決めた瞬間に目標と指先とを最短距離で繋ぐ引力』それこそが彼の持つ奇妙な異能なのだが、のび太自身はこの奇妙を奇妙とすら感じていない。
 人によってあったりなかったりする“顔のほくろ”のようなものくらいにしか思っていなかったりする。
“直死の魔弾”
 彼は自身の能力をそう呼んでいた。

 ***

     

「なっ……」
 予想だにしていなかったであろう僕の行動の連続に相手が対応を決めかねているのを感じた。銃声の数から予想はしていたが、ノビノビロープの罠で大方のタイムパトロールは行動不能に追い込んでいたようで、いしころぼうしを被った支援部隊とやらは数自体は少なかったらしい。そこのところは正直運任せ立ったのだけど、まだ神様まで敵に回ったわけではなさそうだ。
 僕は素早く身をかがめながら油断なく両手を動かし、両サイドにいた見えない誰かをすばやく打ち抜く。
 これで8+5で13叩いたことになる。残りはいくつか、それがわからないのが苦しかった。
 と、
「な、何をしている!」
 明らかに焦っている声で、僕を逮捕するだとか確保するだとか言っていた人が吠える。いい加減にうるさいから黙ってもらおうか、そう思って声のしたほうに向かって指先を向けようとした瞬間、
「早くそいつを捕まえろ! 細胞さえ壊れてなければ再生できるんだ! 実弾の発砲もかまわん」
 彼が早口に叫んだ。
 その発言に驚いて完全に行動も思考も一瞬だけ停止してしまう。
 しかし、その一瞬が、その一瞬の判断の遅れが致命的だった。くわえて、よりによって、すでに拘束済みで撃つ必要のない相手に銃口を向けるという感情に任せた明らかに判断ミスの無防備極まりない状況だ。
 ハッとしたときには、威嚇用であろう、まだ残っていたらしい敵の銃から伸びてきたものとおぼしき照準補正用の赤いレーザー光が三つ、僕の胸にピタリと固定されていた。
 もちろん、動けるわけがない。
 動けば即、僕の胸は血を噴き出すだろう。
 そして僕の細胞から作られたクローンが僕の変わりに平穏な生活を送ることになるのだ。
 くそ。ここまでか。
 そんな思いが胸に広がって、思わず頭を垂れた瞬間、
「そんな話は聞いてないな、小隊長殿」
 その瞬間に一番聞きたかった声が空き地の入り口の方から聞こえ、
――パンパンパン!
 切れ目なく響いた三発分の空気砲の音がそれに続いて、次々に僕の胸の上にあった赤い光が何処かへとそれていった。撃たれた衝撃でいしころぼうしが破れたらしく、僕を囲むように散開した三人の青い制服姿の三人が姿を現しながら吹っ飛んで倒れる。
「貴様ッ! 裏切る気か!?」
「裏切るも何も、僕はのび太くんを安全に確保し、罰を最低限に減らすために努力するってあなたたちが言うから付いて来たんですけどね」
 呆然とする僕の前で、言い争う声が聞こえ、
「貴方には、任せられません」
――パン。
 銃声が一つ鳴って、そして静かになった。
 ノビノビロープで歪に縛り上げられた惨めな格好で気絶した制服男が一人、視認可能になってぴくぴくと痙攣していた。
 僕はそれを気にもせず、
「ドラえ……も、ん?」
 震える唇で切れ切れに尋ねる。と、
――ハァ。
 ため息を吐きながらいしころぼうしもどきを破るドラえもんが現れ、
「何をしてるんだよ君は」
 言いながら、悲しそうに笑った。
 さよならをしたのはつい数時間前のことなのにずいぶん久しぶりのようだ。思わぬ再会に、思わず泣いてしまいそうになりながら、僕は必死で言葉を捜し、とりあえず、
「ロックマンみたいだよ」
 空気砲を右手に装着し、防弾用の青い簡易鎧を着た彼女に言った。
「こんな時に何言ってるんだよ」
 彼女は小さく吹き出して、あまりにもいつもどおりに僕の頭を軽く小突いた。その瞬間に涙が溢れてどうしようもなくて、僕は恥も外聞もなく、子供のようにただひたすら泣いた。

       

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Neetsha