Neetel Inside 文芸新都
表紙

妄想ハニー
与党編-09【ブラック・タンバリン】

見開き   最大化      




朝、目が覚めなければどんなに素晴らしい事だろう。
鈍鬱な意識の中で幸せな夢だけ見続けていられれば、どんなに救われるだろう。
しかし、それこそ本当に夢でしかない。
その中でしか生きられないのなら、それで死んでいるのと同じだ。

今学期に入って、アキラは何度目かの陰鬱な朝を迎えた。
まるで身体が、寝床から起き上がるのを拒絶してるようだった。
抱える問題を列挙すればキリが無い。
ツジコとはいまだに気まずい関係を続け、バンドも座礁し、ハルキにはあらぬ疑念を抱いている。
特にバンドの問題は深刻だった。
今までエノケンとリュウジの対立を取り持つ形でバンドの押さえ役に回っていたアキラが、表立ってリュウジと確執を作ってしまったのだ。
ああ。
確かにリュウジに対し、不満を抱いていたのは確かだ。
バンドの行く末に不安を抱いていたのも確かだ。
しかし、それをあの時あの場で明らかにしたのは性急だったのではないか。
何も、これから登り調子となろうという時にその不信を露わにしなくてもよかったのではないか。
冷静になって思い返すほどに、自分はあの時平静を欠いていた様に思う。
少なくとも、まともな状態ではなかった。
ユラに音楽性を否定された事で自分達の音楽に対する自信を失っていた所に、唐突に大きな話が来た為に気が動転していたのだ。
エノケンやジャガーが『落ち着け』と促したのも分かる。
だが、覆水盆に帰らず。 吐いた唾は飲めない。
加えて、ハルキがユラではないかとの疑念も持っている。
ユラは言った。
『お前の音楽は醜悪だ』と。
もし、アレがハルキの言葉なら――――――――

誰かと顔を突き合せるのが嫌だった。
エノケンにもジャガーにも会いたくなかった。
ツジコにもハルキにも、マスオにもシュンスケにもエミリにも、もちろんリュウジにも。
そこまで名前を彷彿して、ふと気が付く。
自分は『軽音楽部』という村社会に対して不信感を抱きつつあるという事に。














ウォークマンを聞きながらアキラが学校の昇降口を登ったところで、その事件は起きた。
いつもは何という事の無い職員室の掲示板の前に、異様な人だかりが出来て廊下を賑わせていた。
見ると、アキラの学年の生徒ばかりだった。
どうやら、三年の誰かがこの時期に何かやらかしたという掲示らしい。
「うっそー」「マジで?」「そんな風に見えなかったよねー」「馬鹿じゃねーのアイツ?」
そんな驚嘆と揶揄の入り交じった声が、あちこちから沸いていた。

「あっ、アキラ!」
そう言って人だかりの中から顔を覗かせたのは、同じクラスのユキだった。
「ちょっと見てよ、これ! 何考えてんの、アイツ、あり得ないんだけど!」
そんな下っ足らずな口調でユキが何事か主張する。
「……………?」
アキラが促されて掲示板の方を見やると、そこには見慣れた名前と、信じられない内容が記載されていた。

















『以下の者、暴力事件の門(かど)で一週間の停学処分を命じる。』
『三年B組 高梁貴弘』

















「――――――――!?」
それは、目を疑るような告知だった。
あの温厚なタカヒロが、暴力事件?
その不穏な単語と、草食動物のように人畜無害なタカヒロのイメージが結びつかなかった。
少なくともアキラの知るタカヒロは、リュウジのような刹那的な感情に任せて暴力に走るタイプではなかったはずだ。
それはアキラの知らないタカヒロであるか、あるいはそのタカヒロを以てしても許容しかねる何かがあったのではないか。
そうしてアキラが掲示板の前に立ち尽くして逡巡する内に、次々に顔見知りの面子が登校して来る。
「うーっす、おっはー。 うわっ、なんだコレ、マジ?」
それが、クラスメイト達の大概の反応だった。
普段目立たないタカヒロが、唐突に話題の槍玉に挙がったのだ。
興味本位の驚愕と侮蔑の目線が、掲示板を舐めてゆく。
それは、エノケンもジャガーも一緒だった。
唐突に現れた知らせに、呆然とするしかなかった。
あの『ZAN党』達でさえ。

「………マジか?」
チバは登校してくるなり、訝しむような表情でその告知をまじまじと眺めた。
ただでさえ病的に鋭い瞳が、さらに狭く細められる。
「チバも、知らなかったのか?」
アキラが聞くと、チバは苛立つように鞄を壁に叩きつけた。
「聞いてねーし! 何でアイツだけこんな目立ってんだよ!? 与党か、あのスィーツ!」
「怒るポイント、そこなのか……?」
アキラはどう反応していいか分からず呆れ返ったが、逆に考えれば、チバ達でさえ与り知らぬ所で事件は起きたという事だ。
(一体、タカヒロに、何があったんだ………?)
背中の毛穴が徐々に開くのを感じながら、アキラは放課後にタカヒロにTELをしようと決めた。
何があったのかを、自分で確かめたかった。












その日は、誰とも言葉を交わさないようにして学校を出た。
タカヒロの事を尋ねたい衝動はあったが、それ以上に人と話すのが億劫だった。
選考会が近いのにも関らず、バンド練も休んでしまった。
いつから自分はこんな弱い人間になってしまったのだろうか。
小さな歯車の歪みから、その溝はどんどん深くなっていって。
気づいたらその歯車は、周囲から逸脱しそうに軋み始めていた。
―――――――――いや、それは違う。
軋轢の萌芽はずっと前から芽吹いてはいたのだ。
ただ、その感情を、アキラが自分の中で押し殺していただけだ。
『ステロイド』を『ステロイド』として成立させる為に、それは必要な事だったのだ。
だが、アキラは気づいてしまった。
あの、自分達の感情のままに音楽を演る『ZAN党』達を見て、自分の中に在った音楽への渇望に。
自分の音楽を人の前に晒したい。
自分の音楽を人に聴かせたい。
ただ、それさえあれば他に何も要らなかった。
しかし、自分の周りの環境がそれを赦さない。
自分の音楽を演る事も、自由に音楽を演る事も。





………プルルル
…………プルルルルル…
ガチャッ
数回のコールの後に、電話が取られる。
「もしもし、タカヒロ? 俺だけど」
渦中の人物に声をかける。
寝ていたのか、ケータイの向こうからはやたらダルそうなタカヒロの声が返ってくる。
『ううん、アキラかぁ…。 何よ?』
「いや、キミが停学になったって聞いてさ。 キミは突発的に暴力を振るうタイプじゃない。 聞いていいのか分からないけど、よかったら話だけでも出来ないか?」
――――――――嘘だ。
本当は、話をしたいのは自分の方だ。
自分を取り巻く状況から隔絶した誰かと話をしたい。
そういう欲求が、自分の中に在る。
人との繋がりが恐いからこそ、違う誰かと繋がりたい。 独りになりたくない。
それは独善的で利己的な希求に過ぎないが、それ故に切実な願望だった。
『……買いかぶるなよ。 俺はそんな出来た人間じゃない。 今回のもそうだ。 ブチキレて、一般人をブン殴っちまったっていう、ただそれだけの事だよ』
「本当に、そうか?」
『そうだよ。 それ以外に、何がある?』
「信じられないんだ。 “ただそれだけ”っていうのが」
『オイオイ、本人がそう言ってんだぞ』
「ちょっとだけでも出てこれないか。 駅前の『ダリア』でどうだ?」
『……お前、停学の意味分かってる?』
「あえて空気読まないのが“残党”の生き方じゃないのか?」
『………チバ理論だな。 分かったよ、行くよ』
「よし来た。 じゃあ、先に待ってるよ」
そう言って電話を切る。
我ながら強引な手に出たものだと思う。
相手がどんな心境かも考えずに呼び出したのだ。
自分とは縁遠いようでいて似通ったあの残党達の生き方に、いつしかアキラは惹かれていた。
他人の事などまるで気にも留めない彼らの生き方は、人の顔色を伺いながら生きてきたアキラの中になかったものだ。
あるいは、中学時代に出会っていたのがエノケンではなく、チバやタカヒロだったなら、アキラの生き方はまた違ったものになったのかもしれない。












喫茶『ダリア』は、駅前の広小路の中にある。
一階はいかにもチェーン店舗な雰囲気漂う騒がしいスペースだが、二階の客席は客席同士に敷居をつけて、シックな雰囲気の漂う落ち着いたムードの装飾になっている。
ショップの前で立っていると、見覚えのある学生が何人も目の前を通り過ぎて行った。
この近辺は、学校帰りの高校生がよく買い物に寄るスポットなのだ。
幸いにも顔見知りに出会う事はなかった。
道行く通行人と視線の合うのが煩わしくなって、アキラは思わず空に目をやる。
雲行きはよくなかった。
西の方に、灰色の雲が見える。
夕方頃には、一雨来そうな雰囲気だった。

やがて、人ごみの中にタカヒロの姿が見えてきた。
いつもの学生服ではなく、ライト・オンのTシャツにジャージ姿だ。
顔にはいくつか絆創膏が貼られ、文字通り喧嘩明けの様だった。
「やぁ」
「……よぉ」
挨拶は、簡素だった。
気のせいか、タカヒロの顔が前逢った時よりも精悍になったように感じられた。
一体、この短期間にタカヒロにどういう心境の変化があったというのだろうか?
「とりあえず、入ろうか?」
アキラが、喫茶店に入る事を促す。
「………おぅ」
タカヒロは、ぶっきらぼうに答えた。





「知ってるか? ノートがメジャーに移籍して、初めてのフルアルバムを出したって」
注文したカフェラテのパールストローを噛みながら、アキラは言った。
「へぇ」
「他のシングル曲はよかったけど、でも『HeyGirl!』はないよね。 『ボニータ・ボニータ』のテーマソングらしいけど、後ろの女のコーラスがすっげーやる気無いの」
「ほぅ」
「『オフェンス』の方に入ってる『And at Last We are』って曲、サビのとこで歌詞が空耳で『アンタが好きや~あ!』って聞こえるように真田修壱が考えたらしいよ?」
「ふむ」
タカヒロは、明後日の方向を向いたまま、心ここにあらずといった風だった。
頼んだコーヒーにも手をつけず、宙を見据えている。
―――――――――ああ、なるほど。
上辺だけの、中身の無い会話に興味は無い。
彼らはそういう人種だったはずだ。
「……何があったんだ?」
婉曲的に聞いても無駄だと考え、アキラは単刀直入に聞いた。
タカヒロは、しばらく押し黙っていたが、やがて観念した様に口を開いた。
「俺のバイト先―――――ミスドなんだけど、サリナも同じバイト先なんだ」
「―――――――――」
「で、店先に、サリナ目当ての客―――――俺は“ハート様”って呼んでたんだけど、コイツが夏休みぐらいからちょっと病的なぐらい毎日頻繁に来てたんだよ。 まぁ、俺はちょっとキモい客だなーぐらいに思ってたんだけど、サリナは真剣に嫌がってたみたいでさ」
「―――――――――」
「で、そんなのが続いて、昨日だ。 会計を済ませて、サリナがそいつにおつり渡す時、そいつが急にサリナの手を握ったんだよ」
「―――――――――」
「掌にはベットリそいつの、その、精子……がついてて、そいつ、にやーって笑いながらサリナの腕に擦り付けてきて、俺、急に訳がわかんなくなって、気づいたら、そいつを殴り飛ばしてた」
「…………ッッ……!」
アキラは、そういえば今日はサリナも姿を見なかった事を思い出した。
唐突なその非日常の介入に、動悸が加速してゆく。
「なぁ、言っただろ。 俺はそういう人間なんだ。 別に事故でも何でもない。 俺は殴りたくて殴ったんだ。 言い訳のしようも無い」
言ってタカヒロはうな垂れる。
取り返しのつかない一歩を踏み出した後に訪れる自己嫌悪。
アキラにも経験がある。
しかし、その内的独白でアキラの胸に去来したものは、失望ではなく羨望だった。
ああ―――――
確かに、結果だけ見たら、それは社会的に誉められた物ではないだろう。
だが、客観と言う天秤だけでは量れぬ物もある。
あの内向的だったタカヒロが、そこまで感情表現を表沙汰にする事を誰が想像できただろうか。

「俺は―――――――」
アキラは言った。
「キミが羨ましいよ」
「羨ましいって? 俺がか?」
タカヒロは、意表を突かれたように目を丸くした。
アキラの言ってる意味が理解できないようだった。
「ああ。 キミは、感情表現が豊かになった。 自分を主張する事に、躊躇がなくなった。 俺には、それがとても羨ましい。 俺には、周囲を犠牲にして自我を出す勇気が無い。 結局、人に流されて人に流されて、気づいたらどうしようもないとこに流れ着いてた」
「アキラ……?」
「くだらない話だよ。 俺もいっそ、自分が残党だって胸張って言えるような気概があればよかったのにな」
そう呟きながら、アキラは自嘲的な笑みを浮かべる。
「そいつは違う」
アキラの自虐を断ち切るように、タカヒロは言った。
「もし俺がそうなったんだとしたら、それは、お前に逢ったからだ」
「え―――――――――」
「俺には何もなかった。 取り柄と呼べるものは何も無い。 ただ心臓が動いて、手足に血液が通って、呼吸をしてただけだ。 生きてる実感が湧かなくて、何で自分が生きてるか分からなかった。 その俺に生きる実感を教えたのは、お前だ、アキラ」
「――――――――」
「あの日、赤井楽器でお前のドラムを聴いた時、俺の背筋に衝撃が走った。 俺と同じ年のやつが、あんなもの凄ぇドラムを叩いてるのが信じられなかった。 だから、俺はお前みたいになりたいと思ったんだ。 もしあの時お前のドラムに逢ってなかったら、俺は今でも適当にドラムを叩いてた筈だ」
――――――――
高梁貴弘の言葉が、こんなにも心に響くのは何故だろう。
それは、きっと、この少年の言葉には一片の虚飾もないからだ。
無骨で、真摯で、愚直だからこそ、それは真実の響きを持っている。
「俺達さ、学園祭に向けてまたオリジナル作ってんだ。 またチバの曲だけどな。 相変わらずの超パンクサウンドだけど、きっとすげー曲になると思う」
実に嬉しそうに、タカヒロは言った。
そうだ。 彼はこんな表情もするのだ。
彼は変わった。
いてもいなくてもいい存在から、人に力を与えられる存在になった。
かつて自分を『残党』と蔑んだ彼らは、あそこまで人を熱狂させられるグルーヴを生み出せるようになった。
何処にでもいる『無為な存在』ではなくなった。
人は変われるのだ。
羽化の契機さえあれば、誰でも変われる。
彼はその証人だ。
「楽しみだな、それは。 曲名はもう決まってるのか?」
「いや、まだ思案中だ。 チバの野郎に任せると、ミッシェルの劣化コピーになっちまうからな。 ちゃんと話し合って決めないと――――――」
その時、ふと、タカヒロの目が何か違和感を捉えた。
――――――何だ?
それは対面からじっと見据えなければ気づかなかったが、アキラの掌の質感が、どこか奇妙な感じがした。
まるでそれは、作り物のような――――――

「アキラ、お前、その手―――――――」
タカヒロが、不意にアキラの掌を掴もうとした時だった。
アキラの瞳孔が、凍りついたように収縮するのをタカヒロは見た。
「やめ――――――」


アキラが何事か言い掛けた時には手後れだった。

タカヒロの手が、異様な感触を感じたのと同時に、何かがぼとりとテーブルの上に落ちた。

「―――――――!?」

それは、始め、芋虫か何かが落ちたように見えた。

シリコンのような質感。

それが何であるのかを理解した時、タカヒロはそれの意味する事実に戦慄を覚えた。


だって、


あんなにも華麗にドラムを叩く、




アキラの、指が、








指が―――――――

















三 本 し か な か っ た の だ 。




















アキラの、左手の指が、三本しかなかったのだ。

小指と、中指にあたる部分が、付け根から欠如していた。

まるで、それがそういう形象であるかのように、掌には、親指と人差し指と薬指だけがあって。

タカヒロが握り締めて、アキラの指から剥離したのは、精巧な義指。

言われなければそうと気づかないほど精密に作られた、義指。

鳥肌が立った。

シャッター現象。

人間は、理解の範疇を超えた出来事に遭遇すると、戦慄以外になくなるのだ。


「ア、アキラ……。 その手――――――――!?」

タカヒロは、かろうじてそう呟くのが精一杯だった。
ツジコが見せたのと同じ、奇異の目。
ああ。
何だ。
もうすぐ、上手く行く気がしたのに。
席を立つ。
「アキラ!」
タカヒロが、何かを叫んだ。
音が消える。
意識が、自分以外の物を締め出そうとする。
喧騒も、周囲の存在も。
何もかもが消えてなくなる。
そうだ、この現象が、何と言うのか、アキラは知っている。
『心を閉ざす』、だ。














雨が降っていた。
雨が降っていた。
いつも間にか、小雨は夕立に変わり、痛いくらいに肌を叩く。
残暑の熱気がもたらす蒸し暑さ。
商店街の雨どいで雨宿りするも、この勢いでは慰め程度にしかならない。
いつだったか、エノケンと演った『トレイン・トレイン』の歌詞が思い出される。

『栄光に向かって走る、あの列車に乗っていこう。
 裸足のままで飛び出して、あの列車に乗っていこう。
  土砂降りの痛みの中を、傘も差さず走ってゆく。
   やらしさも汚らしさも、剥き出しにして走ってく。』


「聖者になんてなれないよ、だけど生きてる方がいい。 だから、僕は歌うんだよ、精一杯でかい声で……」
濡れた髪が額に張り付く。
雨はどんどん強くなってゆく。
この曲を聴くきっかけになったのはエノケンだった。
青春パンクというジャンルはよく分からなかったが、この歌詞は妙に心に残る気がした。
その時、ふと、傘を差した人影がアキラの方に近づいてくるのが見えた。
パステルカラーのチェック柄の傘。
不意に差し出されたその傘が、アキラを叩く雨を遮る。

「見えない自由が欲しくて、見えない銃を撃ちまくる。 本当の声を聞かせておくれよ……ですか?」

「口を利くのはあれ以来だっけ………ツジコ?」
辻村蛍子―――――ツジコがそこに立っていた。
「そうですね、あれ以来です」
そう言って、ツジコは久しぶりに微笑んだ。

「なぁ、ツジコ。 “ヨーダ”って知ってるか?」
傘を受け取りながら、アキラは言った。
「“ヨーダ”、ですか?」
「そう、スター・ウォーズに出てくる、エイリアンみたいな風貌のフォースの使い手。 華麗にライト・セイバーを操るジェダイ・マスター。 そいつには指が三本しかないんだ」
「―――――――――」
「中学の時、俺は“ヨーダ”って呼ばれてて、こっぴどく苛められたよ。 指が三本しかないのに、ドラムが叩けるのかって」
「―――――――――」
「違う、俺にはドラムしかなかった。 俺の指が足りないのは、左手の方だ。 ギターやベースだと、コードが押さえられない。 でも、ドラムなら、指が三本あればグリップが出来る。 ドラムグローブを嵌めれば、義指も固定できる。 そう、俺に出来るのは、ドラムだけだった……」
「―――――――――」
「俺のこの障害は、生まれつきだ。 どうする事も出来ない。 でも、周囲にそんなの関係なかった。 奴らは、異端者を見ればそれを排除したがるんだ。 猫が鼠を、生かさず殺さず弄ぶみたいに」
アキラの目に、雨以外の物が混じり始めた。
涙と一緒に、滂沱と感情が溢れ出した様だった。
「どうしてだ、どうしてだ、畜生! 畜生! 何で、俺には指が足りない!? どうして、人に当たり前にある物が、俺には無いんだ!? どうしてだ!? だから…だから、俺は人一倍、ドラムに打ち込んで、なのに、誰にも、誰にも……畜生! 指がないのは悪い事なのか!? それだけで認めてもらえないのかよ!? 理解されないのかよ!? 俺にはどうしようも無い事じゃねーか! 違うのか? 違うのかよ!?」
それは、ツジコの知る理知的なアキラではなかった。
雨に濡れそぼって、まるで別人のように変わり果てて。
癇癪を起こした子供のように、支離滅裂に自分の感情を吐露する一人の弱い男の姿しかなかった。
ツジコは、まるで哀れむかのごとく淡々とその姿を見つめる。
「俺を見てくれよ……なぁ。 俺は…俺は何なんだ? 誰にも求められず、誰にも受け入れられないのなら、こんな命に何の意味があるって言うんだ? 畜生……もっと、俺を見てくれ。 俺に触れてくれ。 俺を受け入れてくれ」
「―――――――――――」
懇願するかのようなアキラの問いに、しかしツジコは答えない。
まるで断罪するかのごとくアキラを見つめ続け―――――――やがて、傘を差し出した。



「先輩を、今理解できるのは、ツジコだけですよ」


ああ。
その言葉はまるで天の啓示のように。
自我の崩壊したアキラを優しく包み込むようだった。
「うう――――――」
アキラは、傘を捨ててツジコに体重を預けると、恥も外聞もなく涙を溢れさせた。
ツジコの身体を握り潰すかのように、自制を忘れて抱きしめる。

「アキラ先輩……」

ツジコは、アキラの身体を軽く抱き返すと、子供を愛しむ様にその髪を撫でた。
彼は今、どうしようもなく無垢で、どうしようもなく脆弱だった。
だから、今必要なのは、抱擁であり、体温なのだ。
アキラの求めているのは、人の温もりに他ならない。



「もう、苦しまなくてもいいんです。 ツジコが、先輩の泣きたい時に、側にいますから」




       

表紙
Tweet

Neetsha