Neetel Inside 文芸新都
表紙

妄想ハニー
与党編-10【ジェニー】

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少年の幼い頃だ。
父の職業は「スタジオ・ミュージシャン」だと聞かされていたが、「スタジオ・ミュージシャン」という仕事がどういう仕事だか良くわからなかった。
何故なら、父は自分の職場を決して見せてはくれなかったし、父の書斎棚にはいつも入り口にガムテープが貼られていて、決して入れてはくれなかったからだ。
しかし、たまに夜中にもよおして目が覚めると、微かにそこから弦楽器の音色が洩れるのが聞こえてきた。
ある時、ふと好奇心に駆られ、こっそりとガムテープを剥がして中を覗き込んで見ると、中には一心不乱にギターを奏でる父の姿があった。
初めて耳にした、ギターの生音。
金属の弦と電気仕掛けの機械とが奏でるとは思えない、生命感の溢れる音色。
戦慄を覚えた。
ああ。
それは、少年の細胞の中に最初から組み込まれていた形象の様に、一瞬で彼の心を捉えて離さなかった。
そうだ、それは形象だった。
“それ”に触れれば、少年は“それ”に魅了される。
それは因果であり、運命であり、必然だった。
だからこそ、父は“それ”を少年に見せなかった。 触れさせなかった。
“それ”に触れれば、少年はそれに囚われずにはいられないからと、分かっていたから。
だって、彼は、自分の息子なのだから。


「僕も音楽が演りたい」
そう言った時、一瞬。
父が、とても、悲しそうな顔をしたのを覚えている。
まるでそれは、来るべき訃報の連絡の届いたかのような、諦観に満ちた表情だった。
何故父があの時、そんな顔をしたのか、今ならばその意味が分かる。
父には、分かっていたのだ。
もし、彼が音楽を演れば、やがて絶望的な現実と対峙しなければならないという事に。














『夏だ!一番!ドラムもん祭り!』
……とか何とかいうしょーもないポップが、赤井楽器のドラムコーナーに掛かっていた。
世の中は九月に突入してるのに、『夏だ!一番!』もないものだ。
停学期間真っ最中だというのに、タカヒロは結局ここに来てしまった。
奥では、赤井のムスメが売り物のシンバル磨きに精を出している。
やがて、タカヒロの存在に気が付くと、彼女は軽く会釈してきた。

「やっほー、久しぶりね。 どう、このジルジャンの14インチのスプラッシュ・シンバル? 今日入荷したばっかりなんだけど、極薄で、凄くキレのいい音出すわよ」
「いやぁ、スプラッシュ・シンバルとかウチみたいなパンクバンドには無縁っすわ」
「何言ってんの、スプラッシュ・シンバルの使い道はバラードだけじゃないのよ。 そもそもスプラッシュ・シンバルっていうのはね…(後略)」
例によって、赤井のムスメのウンチク・フィールドが展開され始める。
しばらくウンチクを語る相手がいなかったのか、かなり鬱憤が溜まっているようだった
その後もえんえんとウンチクは繰り広げられたが、どうもタカヒロの様子がおかしい事にカナメもはたと気づいた。
「……どうかしたの?」
「カナメさんは」
タカヒロは意を決して口を開いた。
「知ってたんですか? アキラの指の事」
「―――――――――」
その口調に、カナメは全てを理解した。
彼は、見たのだ。
アキラの、あの欠損した掌を。
「そう……見ちゃったのね、アレを…」
カナメは、眼鏡を外すと、タカヒロの眼を正面から見据えた。
それは、ユウイチの話をした時と同じ、重い告白をする時の表情だった。
「アキラ君の……彼のお父さんは、有名なスタジオ・ギタリストで、ウチにも昔よく出入りしていたの。 アキラ君は、お父さんの影響のせいか、子供の頃から音楽にのめりこんでいった。 お父さんの背中を見続けてた彼が楽器に惹かれるのは必然だった……」
「―――――――」
「でも、皮肉なものね。 お父さんの才能を一身に受け継いだアキラ君に、神様は、在るべき筈の二本の指を与えなかった。 彼のお父さんも、身を切られるような思いをした。 誰よりも音楽を好きな息子に、音楽を演らせてやる事が出来ないんだから」
「―――――――」
「アキラ君には、ドラムしか出来なかった。 ドラムしかなかった。 それでも、彼は音楽に関わり続けたいと思った。 アキラ君は、左手の握力がたった8kgしかないから、上手くスティックをグリップ出来ない。 だから、彼はいつもドラム・グローブを嵌める事で義指を固定してるの。 幸か不幸か、その非力な左手が、理想とも言える脱力の局地にあるドラム・スタイルを作り上げた……」
「―――――――」
ああ。
タカヒロは、頭の何処かで、パズルのピースが組みあがるのを感じた。
そうか。
同じだ。 同じだったんだ。
誰かに俺達を見て欲しい。
誰かに俺達を理解して欲しい。
アキラのドラムがタカヒロの心に届いたのは、その根源にあるものが自分達と同じだったからなのだ。
だが、一つだけタカヒロとは違う部分がある。
それは、彼には選択の余地が無かったという事だ。
ドラムしかなかった。
ドラムをやるしかなかった。
たとえそれが本意でなくとも。
それでも音楽を演りたいという渇望を止められなかったのだ。
その悲愴さが。 一途さが。
タカヒロとは決定的に違うものだったのだ。
タカヒロは、チバの心に触れた時と同じ類の戦慄を覚えていた。
鳥肌の立つような、圧倒的な感情の奔流。
ああ、だというのに。
あの時、おそらく自分はアキラを畏怖の目で見ていただろう。
それが、どれ程アキラを傷つけるのかも知らずに。

「あいつに……謝らないとな」

タカヒロは、その少年に尊敬の念を覚えた。
弱者に生まれつきながら、それでも矜持を失わず、残党に堕しなかったその少年に。













軽音楽部のスタジオに、張り詰めた空気が流れる。
ギターが。 ギターが。 ベースが。 ドラムが。 キーボードが。
互いの技量の深度を探るかのように、神経を集中させる。
スティック・カウント。
同時に、全パートがメロディーをシンクロさせ、イントロに入る。
ドリーム・シアター『オーバー・チュア』。
ピッキングの一音一音に。 スティックの一打一打に。 打鍵の一音一音に精彩がこもる。
暴動のようなパンク・ロックとは対照的な、全てを屈服させるような圧倒的な荘厳さ。
それは、まるで音の生み出す芸術のようだった。
たった五人の為すオーケストラ。
音の支配する絶対的な空間。
ハルキが。 ジャガーが。 エノケンが。 アキラが。 エミリが。
各々の技術の粋を集め、煮詰めて抽出するかのような。
理路整然と積み立てられたメロディーとグルーヴとリズム。
初合わせとは思えぬほど研ぎ澄まされた完成度。
ドラムの正確なビートをベースが捉え、ギターとキーボがそれに旋律を乗せる。
小節辺りの音数が増えれば増えるほど、リズムは崩れやすくなる。
ことに、技巧の極致とも云えるドリーム・シアターとなればなおさらだ。
それをここまで維持できるのは、さすが『黄金世代』と呼ばれる所以だろうか。
しかし、変拍子のパターンに入ると、途端にその均衡は崩された。
張られた琴線は、微かな解れから崩壊する。
ドラムとベースがずれ始め、リズム隊が瓦解すると、六弦と鍵盤の音は虚空を彷徨う以外になくなる。
完全なる不協和音。
演奏は暴走を始め、しかし、あろう事かハルキとジャガーはアドリヴでそれに対応しだした。
もはや原曲の原型すら留めぬ、暴力的なタッピング。
二人の両の掌が、愛撫の様に弦を奏でだす。
ハイスペックのフェラーリとランボルギーニが周囲の車を置き去りにするかの如く、二人のリズムは好き勝手に暴走し始めた。

「だぁああッッ! やめやめぃ! お前ら、何の曲を演ってんだぁ!?」
とうとうエノケンがキレだした。
そこでぴたりと演奏が止まる。
「何って、まぁ、心象風景の再現? パブロ・ピカソが視覚の認識した映像に囚われず、キュービズムという表現方法に到達したように、私も既存の楽譜に囚われず心の求めるまま赴くままに…」
「誰がそれについてけるんだ、ボケ! 第一、ドリーム・シアターを演りたいって言い出したのはお前だろ!」
「まったく、またそんな心の狭い事を」
「お前の場合、ちょっとは囚われろ! リズム隊無視すんな!」
「リズム隊がズレてっからでしょうが。 リズム隊っていうなら変拍子でもリズム・キープしなさいよ」
「うっ」
痛いところを突かれて、エノケンは押し黙った。
純正ロックンロールしか演った事のないエノケンにとって、変拍子は鬼門中の鬼門なのだ。
「ほーら、見なさい。 このウンコ! 童貞ソーヤング! チン中村!」
「チ、チン中村さんを悪口みたいに言うな!」
「うっさいハゲ! 死ね! 無駄にチョッパー入れんな!」

結局、この日は、まともに曲を通す事が出来なかった。









「くそったれ! 全然合いやしねぇ!」
変拍子の合わない事にイラついたエノケンは、何故か部室でデンプシー・ロールを始めた。
狭い部室内でははた迷惑この上ない。
巻き込まれるのを恐れた後輩達が、すぐさま部室の隅に避難する。
「ええい、やめんかい、このチーズ・チャンピオン!」
ハルキは落ちていたスティックを拾うと、デンプシーの振り子のリズムを読みきって冷静にカウンターを取る。
スティックのチップの部分が肝臓にめり込み、エノケンはその場で悶絶を始めた。
「なんという沢村竜平……」
ベース一族の暴君と恐れられるエノケンへのハルキの暴挙に、部員一同が言葉を失う。
「ったく、この馬鹿は……。 それにしても、本気で何か対策考えないと謝恩会に間に合わないわねー。 やっぱ、リズム隊よ。 リズム隊はバンドの心臓だもん。 おら、エノケン、アキラ。 アンタらがもっとしっかりしないと曲になんないでしょー? あれ? アキラ?」
見ると、練習が終わってすぐにも関らず、アキラの姿は部室から消えていた。
「アキラ先輩なら、さっきツジコとどっか出てきましたけど」
と、二年のマスオが告げる。
「ほほう、あの野郎……バンドのミーティングサボってシケ込みに行くとはい~い度胸しとるのぅ」
ジャガーがギターを仕舞いながらニヤニヤしだした。
こいつは人の色恋沙汰関連になると俄然生き生きしだすのだ。
「笑い事じゃないっつーの。 なんか最近、アキラの奴、私らの事避けてない? ん? ステロイドの方で何かあった訳? 昨日も練習休んでたでしょ?」
「…………」
ジャガーとエノケンの表情が曇った。
二人には、アキラが今どういう胸中でいるのか、心当たりがあったのだ。
ステロイドは今、解散の危機に瀕している。
アキラとリュウジの、致命的な確執によって。
サイゼリヤでの一件以来、二人は顔を合わせていない。
当たり前だ。
リュウジは、アキラの中の、最も触れられたくない部分に触れてしまった。
あの二人が、この先、和解する事はあるのだろうか。
アキラは、ステロイドという船頭の多い船を繋ぎ止める楔であり、錨だ。
アキラ無しではステロイドというバンドを維持する事は難しい。
「メジャーの話が出てるってのに……くそったれ」
エノケンは焦燥感に駆られ、舌打ちする。
新曲の構想は無い訳ではない。
だが、ドラムがいなければ曲は完成しない。
この重要な局面でアキラが動けないというのは手痛い損失だ。
「ったく、どいつもこいつも、馬鹿ばっかりだな」
ジャガーも、珍しく歯を噛んだ。











「先輩、『きりん男』観に行きましょう、『きりん男』!」
学校帰り、ツジコはそう言ってアキラの腕に手を回してきた。
「『きりん男』って、今劇場で公開してるやつ?」
「そうです! 山田キリン役をオダギリ・リョーがやってて、すごーくカッコいいんです!!」
「………それってオダギリ・リョーが演る意味あるのか……?」
あの一件以来、ツジコとアキラの仲は急速に接近していった。
元々ツジコはアキラに片思いをしていたし、アキラにとってツジコは今、唯一の心の拠り所だ。
あるいはそれは恋愛関係というよりも共依存に近いものかもしれない。
しかし、今までは後輩としてしか見た事がなかったが、客観的に見るとツジコは付き合うのには理想的な女子かも知れない。
ドラムという共通の趣味も持っているし、音楽の趣味も近い。
部活も同じだから、生活時間帯も同じだ。
外見だってそこそこ可愛いし、性格も慎しまやかで、尽くしてくれそうなタイプではある。
何よりも、アキラの義指の事を知って、それを受け入れてくれた。
このまま付き合ってみるのもいいかもしれない……と思いながら歩いていると、ツジコが、アキラの腕に回した方の掌をつんつんとつついてきた。
何事かと思ってツジコの方を見ると、ツジコははにかみながら目を逸らす。
アキラは、ようやくその動作の意図を理解した。
手を繋ごう、暗に言ってるのだ。
アキラは、握り締めた手をほどくと、ツジコの小さな手を握り締める。
柔らかくて、少し冷たい掌。
自分の義指の感触が少し気になったが、それよりも、人の温もりを感じる事が、今のアキラを安心させた。







映画館の前に立つ。
入り口は学校帰りの女子高生やカップルでごった返していた。
そのキャピキャピとした黄色い空気に、アキラは一瞬面食らう。
「……なんか、女の子ばっかだね…」
「んー、まぁ、恋愛映画ですから。 アキラ先輩、こういうの抵抗あるんですか?」
考えてみたら原作は少女漫画なのだ。
こういう客層の集うのは必然かもしれない。
「いや、別に」
「ならよかった! あ、パンフレット買って来ますね!」
ツジコはそう言って、子供のように売店に駆け出す。
そういう姿を見ると、やっぱりまだ子供だなーと思う。
「そりゃそうか。 つい半年前まで中坊だったんだもんな……」
アキラは、ツジコの後を追うようにして歩き出す。
その時だった。




「あ」
「「あ」」



見知った顔が、二つ。
ショートカットの小柄な女子に、長身のセミロングの女子のコンビ。
ハルキと、エミリだった。
「何してんのアキラ、こんなとこで? まさか、一人で恋愛映画観ようってんじゃないでしょーね?」







       

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Neetsha