Neetel Inside 文芸新都
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 大小様々な水溜まりを踏み付けながら歩く。朝の露をまとった夏草のように水滴をつけたフェンスに手を掛けると、振動で水滴がたくさん落ちた。
「どんよりですね……」
 久方ぶりの太陽を期待していたのだろう。分厚い雲に覆われた空を見て膨れっ面をする瀬川は、やっぱり可愛かった。
「お話って、なんですか?」
 足元の水溜まりを爪先で蹴飛ばす瀬川。水しぶきが放物線を描いた。もうすっかり履きなれた革靴が斑に濡れる。そういえば瀬川は入学当初からずっと同じ革靴を履いている。茶色い、少し先が尖った革靴。物持ちがいいのかもしれない。
「あのさ、瀬川。話す前に一つ、お願いがあるんだけど」
「? なんですか?」
 袖から指先だけ出した手を後ろに組み、体ごと首を傾げる瀬川。
 ダメだ。話しているだけなのに緊張してくる。
「その、その……」
「…………?」
 緊張を取っ払うため、腹に力を込める。
「その、俺にだけ敬語で話すのやめてくれない?」
 瀬川の笑顔が凍る。瀬川は僕に背中を向けると、足元の水溜まりを爪先で突いた。
「……私の勝手じゃないですか」
「なんか他人行儀じゃん」
「他人じゃないですか」
「うっ……」
 取り付く島もない。
「いやまぁそうなんだけどさ……。でも別に知らない仲ってわけでもないじゃん? 俺とお前はさ」
「だったらなんでワタルさんは私のこと『瀬川』って呼ぶんですか?」
 バシャ。水しぶきが宙を舞う。
「……別に。普通に苗字で呼んでるだけだけど」
「みんなみたいに『憩』って呼んでくれればいいじゃないですか」
 ……一々変なところに突っ掛かってくる奴だなぁ。
「そこはまぁ……なんて言うの? ケジメ? みたいな?」
 バシャ。水しぶきが宙を舞う。
「だったら私の敬語もケジメです」
「『だったら』って何だよ。まるで俺と距離置きたがってるみたいじゃん」
「みたいじゃなくて、置きたがってるんです」
「ちょ、なんだよそれ! お前だってあの頃……」
 バシャ。
 水しぶきが宙を舞う。
 それはキラキラ放物線を描いて、僕の身体に掛かった。
「……つめてー」
 驚いて顔を拭い前を見ると、いつの間にかこちらに向き直った瀬川がいた。袖から出た指でスカートの裾をぎゅっと掴み、こちらを鋭く睨んでいる。
「『あの頃に戻りたいくせに』って、言おうとしたんですか?」
 言葉に詰まる。瀬川がこんな表情を見せるのは久しぶりだった。
「そんな話をするために私に声を掛けたのなら、私は教室に戻ります」
「…………ごめん」
 どうかしていた。何を感情的になっているんだろう。別にいいじゃないか敬語で話されても。僕にだけ敬語、大いに結構じゃないか。普段たいした話もしないただのクラスメイトだ。敬語で何が悪い?
「僕が悪かった。許してほしい」
 僕は全身全霊を込めて謝罪した。頭を深々と下げる。
「…………」
「…………」
「……別にいいですけど」
 顔を上げると、既に瀬川は先程のように後ろを向いて足で水溜まりをいじっていた。
「で、話って何ですか?」
 バシャ。水しぶきが宙を舞う。
 そうだ。話すことがあって来たんだ。伊達さん、そう、伊達さんのことだ。
「あのさ、伊達さんのことなんだけど」
「伊達さん……ですか?」
 首だけでこちらを振り返り、眉を潜める瀬川。それほどに意外な人物だったのだろうか?
「伊達さんって、あの?」
「そう。あの伊達さん。同じクラスの伊達悠さん」
「ユウちゃんが、どうしたんですか?」
「昨日、伊達さんと話してたでしょ?」
「昨日、ですか? んー…………」
「おいおいおい」
 いくらなんでも昨日のことは流石に忘れないだろう。
「あ、思い出しましたっ!」
 またもや何か閃いた時に使うジェスチャーが飛び出た。微妙に使い所がおかしいが、訂正はしないでおく。
「確かに話しました。休み時間の度に。2回くらい話しましたよ」
「そっか。よかった思い出してくれて」
 話した回数は3回だけど、そこも訂正はしないでおく。
「それがどうかしたんですか?」
「いや、あの時何話してたのかなと思ってさ」
「あれ? あれれれれ~?」
 瀬川は急に顔を歪ませると、ニヤニヤしながらこちらに近付いて来た。
「な、なんだよ」
「ひょっとしてワタルさん、ユウちゃんのこと気になっちゃってますぅ?」
「…………へ?」
 どうしてそうなるのだろう。
「またまたぁ、照れなくてもいいですよぅ~」
 肘で僕の腕を小突かれる。
「別にそういう意味じゃっ……」
「否定するところが怪しいですね~」
「…………」
 何を言っても無駄みたいだ。
「で、伊達さんと何話してたの」
「別に。特に『何を話していた』っていうのはないですよ」
「例えば?」
「……やけに食いつきますね」
「まぁいいから。伊達さんから話し掛けて来たんでしょ? 何て言われた?」
「えっとぉ、ですね……」
 眉を寄せて考えるポーズ。本日3度目。
 記憶力なさすぎ。
「『さっきの授業でわからないところあるんだけど』とか、『今朝のニュース見た?』とか、それくらいですかね」
「あ、そう、なの……?」
「はい。そんな感じでしたけど」
 どうかしましたか? とでも言いたげに、首を傾げてこちらを見つめる瀬川。
「……そっか」
 参った。まさか本当に他愛のない話だったとは。
「もういいですか? お話が終わったのなら、私教室に戻りますけど」
「あ、うん。ごめん、あと一つだけ」
 瀬川はあからさまに嫌そうな顔を見せた。早く教室に戻りたいらしい。そういえばいつの間にか校庭から野球部のランニングをする音が聞こえてきた。校庭はまだぬかるんでいるというのに、熱心なことだ。瀬川もそれに気付いているのだろう。朝練が始まったということは、クラスメイトがいつ登校してもおかしくないということだ。誰かが教室に来た時、僕と瀬川の荷物だけが置かれている光景を見られるのを避けたいのだろう。結局昔のことを気にしているのは瀬川も同じだった。
 でも瀬川には最後に一つ、どうしても聞いておかなければ腑に落ちないことがある。不機嫌そうな顔をされようと、これだけは聞いておかなくちゃならない。
「あのさ、瀬川」
「……なんですか?」
「伊達さんに突然話し掛けられて、驚かなかった?」
「…………へ?」
「いや、だって、あの伊達さんだよ?」
 僕相手以外には決して口を開かないあの伊達さんだ。驚かないはずがない。
「そりゃ、お話しするの初めてでしたから、少し意外だなとは思いましたけど……。でも、話してみるといい人でしたよ」
「そうなんだ……」
 意外だ。伊達さん、僕以外の人とならちゃんと喋れるのだろうか?
「はい。お友達になっちゃいました」
「あ、そう」
 お友達になったらしい。
 伊達さんと瀬川がお友達。
 僕の好きな人と、僕を好いてくれている人がお友達。見事な三角関係だった。








 久方の光を逃すはずもなく、ぬかるみの中、陸上部の部活は行われた。帰りがけにグラウンドを少し覗くと、周りの男子の中でも一際大きな直樹と、特徴的なポニーテールの飛鳥が目に付いた。どうやら直樹がスタートの仕方を教えているらしく、屈んだ体勢の直樹を飛鳥が見つめている。遠目なので表情まではわからないが、いい上下関係が築けているようだ。部活をやっておらず、仲のいい友達ともほとんどクラス替えで別れてしまった僕は、今日も一人で帰る。
 所々にある水溜りを避けながら、アスファルトの輝きを追うように下を向いて帰るのも馴れたが、時々ふと悲しくなるときがある。周りの友達連れで帰っている人たちを見ると、なんとなく自分が寂しい人間のように思えて、大したことではないのにどんどん思考が落ち込んでいく。大抵は「思春期だからかな」と自分を納得させるのだが、自分の感情にコントロールが利かないのは歯痒い。


 気付くと周りの人通りもまばらになっていた。西釘沼に行く人は西へ、東釘沼に行く人は東へ。それぞれ帰宅する方向への分岐点は気付かぬまま過ぎていたらしい。寄り道をしないで帰ろうとする人は少ないらしく、同じ中学の制服を着た人は僕だけになっていた。そりゃそうだろう。折角の晴れの日に、わざわざ家にこもる必要はない。
 いや、もう一人。僕の視界に入らない位置にいるはずだ。
 僕は回れ右をした。伊達さんが驚いて肩を強張らせる。そのまま目を逸らすことなく伊達さんに近寄っていった。
「やぁ伊達さん」
 なんでそんなことをしたのかはわからない。ただ、本能に任せて行動してみたらこんな言葉が口を突いて出た。
「……ご、ごめんなさい。この前あんなこと言われたのに」
 伊達さんは慌てて謝ると、もの凄い勢いで頭を下げた。
「いや、そういうつもりで声掛けたわけじゃないんだ。それに伊達さんが帰る方向はこっちなんだから、何も悪くないよ」
 伊達さんはゆっくりと頭を起こすと、今度はじっと僕の目をみつめてきた。朝とあまりにも違う僕の態度に驚いたようだ。
 僕は伊達さんの隣に並ぶ。伊達さんはそんな僕を首だけで追っていた。
「一緒に帰ろうよ。折角方向が一緒なんだし」
 今度こそ伊達さんは、誰が見ても分かるほど露骨に表情を崩した。目を大きく見開き、口はにやけているような半開きになっている。
「……い、いいの?」
「もちろん。さ、行こ」
 僕は伊達さんを顎で促すようと、進行方向に足を進めた。伊達さんも慌ててそれについてくる。僕の歩く速度が伊達さんには少々早かったようで、若干小走り気味だった。
「……突然、どうして?」
 伊達さんは僕の言動を理解できないようで、注意深く僕を観察しながら聞いてきた。睨んでいるように見えなくもないが、それは瞼まで垂れ下がった髪と御自慢の三白眼のせいだろう。
「どうして、と言われても」
 僕としても答えようがない。僕自身、なぜ自分がこのような行動を取ったかが全く分からないからだ。しいて言うなら、そう。
「一緒に帰りたかったから、かな」
 としか答えようがない。
 伊達さんは僕の発言が信用できないのか、納得していないような顔で「……そうですか」と呟いていた。
 そりゃそうだよな。納得できるはずがない。この前「僕のことは諦めてくれ」と言われたばかりの相手に、一緒に下校しようと誘われたのだ。誰だって最初は疑うだろう。
「まぁ、信じなくてもいいけどね」
「……そんなこと、ないです。信じます」
「そう」
「……はい」
「…………」
「…………」
 まずい。一人で帰る寂しさを紛らわそうと思って誘ったのに、逆に話題がなくて気まずくなってる。何か話す話題はないだろうか。
 あった。
「あのさぁ伊達さん」
「……はい?」
「この前、瀬川となに話してたの?」
 折角だからこの機会に伊達さんにも聞いてみればいい。瀬川自身にもう聞いているとはいえ、心に引っ掛かったままなわけだし。というか、それ以外に話題がないし。
「……あ、憩ちゃんのことですか」
 伊達さんはそう呟くと、手を顎に当てて首を傾げた。無表情のままやっているのがかなり不気味だ。
 ……あれ、伊達さんってこんな反応したことあったっけ?
「……別に、これといって大した話はしてないですけど」
 それが何か? とでも言いたげに、小首を傾げて僕の方を向いた。
 なんか、伊達さんがおかしい。
「あ、あのさぁ、それなに?」
「……『それ』って、なんのことですか?」
 今度は今度は眉根を寄せて、小首を傾げる。
「その首を傾げる仕草とか、眉根を寄せる表情とか、どうしたの? 普段の伊達さんは、なんていうか、もっと無表情じゃん」
 無味乾燥な態度。注意深く見ないと分からない微弱な変化。それが、伊達さんだったはずだ。
「……あぁ、これですか」
 伊達さんはまたいつもの無表情に戻ると、今度は魂のない機械のように口だけ動かして喋りだした。
「……これは、憩ちゃんの真似です。まだうまく出来ないんですけど。……変、ですか?」
「んー、まぁどちらかと言うと、変」
 というか、もの凄い違和感。
 伊達さんはいつかのようにまた小声で「……しっぱい」と呟くと、それきり僕に興味をなくしてしまったかのように、まっすぐ前を向いた。
 ……傷つけてしまったのだろうか。
「笑顔が足りないんじゃない?」
 一応フォローしておく。
 伊達さんは何か悟ったのか、突然ハッと驚くと、僕の方を向いて頭を下げた。
「……ありがとう。憩ちゃんにも同じこと言われたの、忘れてた」
「いや、別にいいけど」
「…………」
 伊達さんはそのまま動こうとしない。
「あの、伊達さん?」
「…………」
 参ったな。制服姿の中学生の女の子が、道端で同じ学校の男の子に頭を下げる。誰かに見られたら間違いなく誤解される光景だ。
 困って辺りを見渡すと、いつの間にか十字路に来ていた。伊達さんとの話に思いのほかのめりこんでしまって気付かなかったが、もう自分の家まで数メートルもない。
「じゃあ、僕の家こっちだから」
 このまま待っていても埒が明かないので、僕はここで解散することにした。
「……待って」
 家に向かって歩き始めようとしたとき、何かに左手首を掴まれる。驚いて振り向くと、頭を下げたままの伊達さんの両手だった。鞄はいつの間にか地面に投げ出されている。
「……どうして、渉くんはそんなに優しいの?」
 腰を直角に曲げたまま、伊達さんは話し出した。下から耳に届くボソボソ声が不気味だった。
「優しい、かな?」
「……何度も振られてる私ともちゃんと喋ってくれるし。……この前怒られたばかりの私とも一緒に帰ってくれるし」
 途中から、伊達さんの声に僅かな変化が現れた。擦れているような、聞き取りにくい声。時折嗚咽のような吐息も混じり始めた。
「……そうやって優しくされると、私だって勘違いしちゃう。もしかして、まだいけるんじゃって、思っちゃう。努力すれば、渉くんの好きな憩ちゃんに少しでも近づけば、もしかしたら……って、思っちゃうよ」
 伊達さんは勢いよく顔を上げた。僕は自分の目を疑う。伊達さんの瞳からは大粒の涙が零れていた。眉根を寄せて、口を真一文字に食いしばって、鼻をすすって。そこには、今まで僕が一度も見たことのない、人間味の溢れる伊達さんがいた。
「渉くんの優しさは残酷だよ、人を傷つける優しさだよ! もう、もう……これ以上、期待させないで。優しくしないで……」
 それは、伊達さんの心から出た叫びであるように感じた。感情を封殺し、上手く人に思いを伝えられない伊達さん。そんな彼女の、初めて見せる心の奥底であるように思われた。
 心臓を握りつぶされたように、鋭い痛みが胸を走る。
 伊達さんは僕の手を離すと、鞄を拾い上げ、そのまま走って行ってしまった。僕は呆然と立ち尽くしながらその後姿を見つめる。十字路をまっすぐ駆け抜けていった後姿は、すぐに消えて見えなくなってしまった。

       

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