Neetel Inside 文芸新都
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新ジャンル「ストーカー萌え」
訪れる夏

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■訪れる夏

「なぁ、伊達ってさ、結構可愛くね?」
 直樹がこんなことを言い出したのは、長い梅雨も明け、本格的に夏が始まろうとしていた7月の半ばのことだった。クラスは間近に迫った夏休みの話で持ちきりで、最後のテストを前に浮き足立っていた。僕らも夏の予定を決めようと、直樹は部活メンバーでの昼食を断って僕の机まで来ていた。
「あいつ普通に笑ったり驚いたり出来るのな。話してみると結構面白いし、声も可愛いし」
 あの日以来、僕が伊達さんと接触をすることはなかった。正直な話、伊達さんの突然の豹変ぶりに狼狽している自分がいた。僕は伊達さんを傷つけてしまったのだろうか。利己的な優越感のためだけに伊達さんの心を弄んでいたのではないだろうか。そんな自己嫌悪と自己批判の中でもがき、苦しみ続けて、他のことはほとんど手につかないありさまだった。
「あいつ変わったよな。ちょっと前までは無口で無感情なロボットみたいなやつだと思ってたのに、今は天真爛漫って感じ。明るくなったよな」
 直樹の言うように、伊達さんは変わった。長かった前髪をヘアピンで横に流し、見た目の暗いイメージはなくなった。それだけではなく、表情に明るさが増した。今までの伊達さんは別人だったかのように、よく笑い、よく驚き、よく照れる。くるくる表情が変化し、男が見たら放っておかないような子になった。ボソボソ話す声も今では朗々と喋るようになり、僕や瀬川だけでなく誰とでも気さくに話すようになっていた。元々の美形な顔立ちも相俟って、伊達さんは一躍注目の的となった。
「ついこの間までは帰り道が同じっていうだけで嫌がっていたのに、すごい変わりようだね」
「前は一度も話したことなんかなかったからな。それになんか根暗で気持ち悪かったし。でもそんなことねぇってわかったんだよ。最近なんかよく話すんだ」
 直樹は伊達さんをベタ誉めだった。今では口を開けば伊達さんの名前が出てくるようになった。直樹は僕と違って部活繋がりの友達が多い。学校生活で僕と直樹が話すことは今まで少なかったが、直樹の口から『伊達』という単語が出るのに比例してよく話すようになった。
「見た目のイメージで気持ち悪がってたんだ」
 直樹の話を聞いていると、心にもない憎まれ口を叩いてしまう。いや、心にあるから無意識に口を突いて出るのだろうか。深層心理の中で、伊達さんが人気者になったのを受け入れたくない自分がいるんだろうか。
「お前は前から伊達の魅力に気付いてたんだもんな。だから伊達もお前に惚れたんだろうし。俺はお前が羨ましいよ」
 しかし、直樹は嫌な顔一つせず、僕を立てるかのように笑顔を見せるのだった。
 僕が自分を心底許せなくなるのはこんなときだ。世間を分かっているかのように大人ぶっていても、結局のところは子供なのだ。直樹の方がずっと大人だ。僕は自分の感情も制御できずに、軽率な発言をして相手を傷つける。今直樹に言ったことだって、昔瀬川に言ったことだって。そして、この前伊達さんに言ったことだって。
 思春期だから仕方ない。また、そんな都合のいい理屈で自分をごまかしてしまう。
「どうしたんだ白崎。なんかお前、ボーっとしてるぞ?」
「えっ、あぁ、ごめん」
 目の前の直樹を置き去りにして、自分の世界にトリップしてしまっていた。
「大丈夫かよお前……」
 仕方ないな、と苦笑いを浮かべる直樹。こいつはこんな些細なことでも僕を心配してくれたのか。憎まれ口を叩いた自分が恥ずかしくなる。
「あのさぁ白崎、お前伊達と付き合った方がいいよ。絶対勿体ないって」
 直樹は顎で伊達さんのいる方を指し示した。伊達さんはニコニコ笑顔を振りまきながら友達同士で机を囲み弁当を食べている。
 隣にはもちろん、今やすっかり大の仲良しになった瀬川憩の姿があった。
「だから僕には好きな人がいるんだって。直樹だって分かってるじゃないか」
「憩だろ? 確かにアイツも可愛いけどなー」
 直樹は視線だけ動かして瀬川を少し見ると、すぐ伊達さんに戻した。
「でも正直望み薄いじゃん」
「そりゃ確かに望みは薄いけど……。でも瀬川って決めてるから。望みがなんだろうが好きな人は瀬川なんだし、それは変わらないよ」
「おっ、カッコイイこと言ってくれるねぇ!」
 直樹は手を叩いて大げさに驚いた。そしてまたすぐに伊達さんの方へ視線を戻すと、弁当の卵焼きを一切れ口に入れながら、目つきを鋭くした。
「でもさぁ、昔付き合ってたんだろ? それで振られたんだから、素直に諦めた方がいいと思うけどなぁ」
「んまぁ……そうなんだけど」
 さりげなく痛いところを突いてくる。しかも直樹の場合、無自覚でやってるから何も言い返せない。
「でも、瀬川が僕を振ったのには理由があるんだよ、きっと」
「お前のことを嫌いになった理由ってことか?」
「いや、そういう意味じゃなくて、もっとどうしようもないような理由。別れざるを得なかった理由。だって、瀬川が僕を嫌いになるわけがないもん」
 そうだ。僕が愛想を尽かすならまだしも、瀬川が僕を嫌いになるなんてことはありえないのだ。絶対に。
「おいおい、すげぇ自信満々だなぁ」
 直樹は乾いた笑いを浮かべながら僕の胸を小突いた。
「直樹、信じてないだろ……」
「まぁな」
 直樹はニヒルに笑うと、突然窓の外を見つめながら、頬杖を付いた。そして手に持っていた箸を机に置くと、空いた手で前髪を軽く引っ張りだした。
「じゃあさ、渉」
 そしてゆっくりと口を開く。僕を見ようとせず、心なしか声のトーンを落として。
「お前は伊達に告白されても断るわけだな?」
「もちろん。何度も言ってるけど、僕には瀬川以外見えない。それに、既に4回も告白されてるけど、その度に断ってるし」
「じゃあ……」
 直樹はそこで一拍置くと、手でつまんでいる前髪を軽く捻って手を離した。サラサラに流された直樹の前髪の中に一つ、変なCカールを描く束ができる。
「俺が、伊達と付き合ったらどうする?」
「…………」
 予想外の発言に、一瞬言葉に詰まる。直樹が何か心に大きな決意を抱えて話しているのはすぐにわかった。頬杖を突いた僕より一回りも大きな拳が、血管を浮き上がらせていた。直樹は決してこちらを見ようとはしない。
 僕はペットボトルに入ったお茶を一口飲むと、姿勢を正して答えた。
「そのときは、もちろん祝福するよ」
 直樹は僕の方を向くと、目尻の下がった瞳で僕を見つめてきた。そのままお互いに視線をぶつけ合う。だんだんと直樹の口角が上がってきた。照れ笑いをかみ殺しているような、にやけ顔になる。
「いや、ごめんごめんっ! 今のなしっ! 急に変なこと言って悪かったな」
 沈黙に耐えられなくなったのか、慌てて手を振った。
「直樹、ひょっとして伊達さんのこと……好きになっちゃったの?」
「まだそこまでじゃ……ってあぁー! だから今のなしだって、ナシ、ナシ!」
 直樹は両手で顔を覆うと、食べかけの弁当もそこそこに勢いよく立ち上がった。
「あーごめんっ、ちょっと部活の集まりがあるから、俺行くわっ!」
 恥ずかしさに耐えられなくなったのか、そのままこちらを振り返りもせずに脱兎の如く教室を飛び出していってしまった。
「…………なんだかな」
 後に残ったのは、突然の直樹の奇行に驚き立ち尽くしているクラスメイト達と、机の上の食べ残し弁当だけだった。


◆  ◆


 遡ること1年と3ヶ月。僕が釘沼中学校に入学して、まさに初日の出来事だった。入学式が終わり、担任に引き連れられてそれぞれのクラスごとに教室に向かうとき、僕の二の腕が何かの力に強く引っ張られた。咄嗟の出来事に対処できず、僕の頭は混乱してどうしていいかわからなくなった。正常な判断を失った頭の中に最初に過ぎった言葉は、いつも脳内で復唱しているものだった。
 長いものには巻かれろ。強きものには従え。
 僕はそのまま力に全てを委ね、引かれるがままに任せた。列を抜け出しても、周りのみんなは誰一人止めようとはしなかった。入学式初日で緊張していたのか、僕と同じで厄介ごとには首を突っ込まない質なのか。なんにせよ僕は、女子トイレの中に連れ込まれたところで初めて腕を引いた張本人と邂逅することとなった。
「好きです、私と付き合ってください!」
 開口一番、目の前の少女は僕に告白をした。初めての中学校生活で、初対面の相手であるこの僕に、いきなり。
 それが、僕の初めての彼女になった人物。瀬川憩との出会いだった。


 部屋の壁に全ての体重を預けて、窓から十字路を見下ろす。時刻は午後6時を回ろうとしているのに、オレンジの光は電信柱を煌々と照らしていた。
 頭の中を巡っていたのは、昼間の直樹との会話だった。口では祝福すると言ったものの、直樹が伊達さんと付き合うところを想像した時、何かを不快に感じた自分がいた。
僕にはちゃんと瀬川憩という好きな人がいる。しかし、僕は伊達さんを手放すのが惜しいのだろうか? いつの間にか伊達さんが僕を好いてくれているのが当たり前になっていて、あたかも伊達さんが僕の所有物であるかのような感覚になっていたのではないか? 心の中のどこかで優越感に浸りながら『伊達さんが僕の元を離れていくはずがない』と高を括っていたのではないか?
「最低だな。僕」
 僕は、いつの間に伊達さんを支配下に置いた気分でいたのだろう。伊達さんには伊達さんの気持ちがある。この間のことで学んだはずじゃないか。僕の勝手な思い込みが伊達さんを傷付けていたって。
「いつからこんな風になっちゃったんだろう」
 日の沈みに合わせて長く伸びていく電柱の影を見つめながら、僕の中に冷えたタールのようなものが広がっていくのを感じていた。
暗い思考を断ち切ったのは、突然の高い電子音。それはスイッチを切り忘れて鳴り出した目覚まし時計だった。腕だけ伸ばして掴みあげる。文字盤を見ると、針は6時半を指していた。
「もうこんな時間か」
 学校から帰宅して、既に3時間近くが経過しようとしていた。そろそろ何かしようかと思ったけど、何もする気になれない。僕は目覚まし時計を足元に置くと、また窓の外に視線を移した。
「……あ」
 そこにはちょうど学校から帰ってきた飛鳥の姿があった。その隣には、直樹の姿。部活も家の方角も同じだから一緒に帰ってきたのだろう。二人とも制服姿のまま、肩に大きな鞄を提げている。
 二人は交差点まで来ると立ち止まった。それぞれの家に向かう分かれ道だ。曲がり角に建っている立地条件上、ここからだと各々の表情まで読み取れる。話は盛り上がっているようで、二人は家の方に足を進めるでもなくその場で立ち話を始めた。
 飛鳥が直樹と帰宅してくるなんて、初めて見る光景だった。いや、今まで見たことがなかっただけで、僕の及び知らぬところでそんなこともあったのかもしれない。この危ないご時勢だ。方角が同じ先輩が後輩を送っていくのは当たり前のことと言えよう。とはいえ、直樹には兄弟揃ってお世話になっている。なんだか申し訳なさでいっぱいだ。
 二人はなんの話をしているんだろう。そういえば僕は二人の部活のときの顔を知らない。なんとなく、同じ部活に所属しているわけだし仲は良いのだろうという程度の認識だったが、あれだけ会話が弾んでいるのを見ると、何かしらの役職なんかに就いているのかも知れない。
 そんなことを思いながらボーっと眺めていると、長く揚がっていた日も遂に落ち、街灯が灯り始めた。それに気付いた二人は顔を見合わせて笑うと、手を振ってお互いの帰路に着いた。
 しばらくして一階の扉が開く音が聞こえる。と、もの凄い勢いで階段を駆け上がっている足音が聞こえた。振動が僕の部屋にまで伝わってくる。足音はどんどんボリュームを増していき、僕の部屋の前で止まった。
「こら根暗野郎ー!」
 声と同時に、飛鳥がドアを押し開ける。蝶番の限界を超えたドアが、ドアノブを激しく壁に打ち付ける。
「なに上から覗いてるんだよー! バレてるんだよ根暗野郎ー!」
 先ほど窓から見下ろしていたときと違い、肩から提げていた鞄がない。どうやら家に入ってすぐ玄関に置いてきたようだ。
「何度も言ってるけど、部屋に入るときはノックをしてくれ」
「話を逸らすなー!」
 飛鳥は部屋の近くにあったクッションを拾い上げると、思い切り振りかぶって僕に投げつけてきた。制球力の全くない枕はあさっての方向に飛んでいき、僕の机の上にあった目覚ましの一つにぶつかった。吹っ飛んだ目覚ましは壁にぶち当たり、中に入っていた乾電池がすっぽ抜けた。
「おいふざけんなノーコン! 僕の目覚ましが壊れたらどうするつもりだ!」
「別に4個もあるんだから、1つくらい壊れたって大丈夫でしょー」
 飛鳥はとりあえずスッキリしたのか、自分が投げたクッションを回収すると、また扉の前まで戻り、いつもの場所に腰を下ろした。
 なんて横暴な奴。
「制服くらい着替えてこいよ」
「上から見てるなんて、悪趣味ー」
 上から見られていたのがよほど癪に触ったのか、飛鳥は膨れっ面のままこちらの問いかけを聞こうともしない。
「別に覗いてたわけじゃないよ。外を眺めてたら二人が通りかかっただけ」
 僕は飛び散った目覚まし時計を拾いながらそう言うと、ベッドに腰を下ろした。クッションに座っている飛鳥を見下ろす形になる。
「じゃあ何でずっと見てるのよー」
 僕の言葉だけじゃ納得できないらしく、飛鳥は細い眉を吊り上げてこちらを睨んでいる。
「普通、気ぃ使って目逸らすとかするでしょー!」
 別に外を見たくて見ていただけなのに、後から視界に勝手に入ってきておいて何を言うか。理不尽極まりない。しかし、向こうも同じ気持ちなのだろう。とりあえず今回は非を認めて、謝っておくことにする。
「ごめん」
「……別にいいけど」
 飛鳥はまだ納得できていないような顔をしていたが、とりあえず許してくれたようだった。
 用が済んで部屋に戻ろうとしたのか、飛鳥はクッションから立ち上がった。そして、部屋から一歩出たところで、引き返してまたクッションに腰を下ろす。
「なんだよ。早く部屋戻れよ」
「ねぇお兄ちゃん」
 飛鳥は先ほどと打って変わって、今度は下を向いたまま、抑揚のないトーンで僕を呼んだ。
「なんだよ」
「直樹さんと何かあった?」
「……え?」
 予想外の一言。僕を見る飛鳥の視線は、何かを見透かそうとまっすぐに捉えている。僕はその視線になんとなく嫌悪感を感じて、目を逸らした。
「なんで急にそんなこと聞くの?」
「……なんとなくー」
 別に疚しいことなんて何もないのに、なぜか僕の鼓動は早くなっていた。焦っているのだろうか。でも、なんで? 焦る必要なんてどこにもない。
 飛鳥の方を見る。飛鳥はさっきと変わらぬ視線で僕を見続けていた。腹黒い魂胆なんて何も考えていなそうな、あどけない顔。ただ純粋に、気になったから聞いただけ。それ以上でも以下でもないという顔だ。どうしてさっき、この視線に嫌悪感を感じたのだろうか。直樹の名前を出されたからだろうか。でも、なんで?
 今日の昼のこと。
 本当はこんな風に思考を巡らせなくたって、最初から分かっていた。そう、僕は今日の昼、直樹に言われたことを引きずっている。それは、口先だけで心から直樹を応援できなかったことなんかじゃない。『直樹の恋は実ることはない。なぜなら伊達さんはどうしようもなく僕に惚れているから』。そんな確信から来る、安心。そして直樹に対する優越感だった。
 そう、優越感だ。
 どんなにかっこよくても、どんなに運動神経がよくても、直樹では伊達さんを手にすることは出来ない。伊達さんの愛を一身に受けることができるのは僕だけだ。という、どうしようもなく最低な直樹に対する優越感。そして、そんな熱烈な愛を受けるも断るも僕次第という、どうしようもなく最低な伊達さんに対する優越感の塊だった。
「お兄ちゃん? あたしの話聞いてるー?」
 今まで心の中にあった感情にやっと説明が付く。僕は伊達さんや直樹を支配下に置いたつもりで、悦に浸っていたんだ。相手の気持ちなんかお構いなしに、自分の独占欲が満たされることで至福を感じていたんだ。伊達さんの理不尽な愛情に嫌気が差しているなんて真っ赤な嘘。そこにいたのは、優越感に陶酔していた自分だ。
 なんという傲慢さ。我がことながらヘドが出る。
 気付かないふりをして私利私欲を優先し、結局は自分の一番嫌いな人間像に自らが陥っていたんだ。
「……なぁ飛鳥、『一目惚れ』ってするものなの?」
「えっ!? 突然どうしたの?」
 いきなりの質問に対応しきれず、飛鳥は目をぎょっとさせて聞き返してきた。
「いや、人が人を好きになるのって、理由がいるだろ? 優しいから好きとか、格好いいから好きとか。一目惚れってのは、相手のことがほとんど分からないわけじゃん。それなのに好きになるのなんて、ありえるのかなぁ?」
 一言も会話を交わしたことすらない瀬川からの、突然の告白。今でも僕の心に引っかかっている、大きな疑問。
「うーん……」
 最初は怪訝な顔をしていた飛鳥も、僕の表情を見て真面目な話だと悟ったのか、顎に手を当てて真剣に考えて始めた。少しして、口を開く。
「そもそも人を好きになるのって、理由がいるのかなー?」
「…………えっ?」
 その一言は、僕の質問を根底から覆すものだった。
 好きになるのに理由が要らない? そんな馬鹿なっ!
「だって普通、気付いたら好きになってるものじゃないの? 優しいとか格好いいって、付き合ってみてからじゃないとわからないものだし」
 飛鳥は戸惑う僕に構いもせず、自分の恋愛観を語り続ける。
「見た目のかっこよさとかは付き合う前からでも分かるけど、本当の格好よさってたぶんそういうところじゃないし。だから、あたしは一目惚れとかってアリだと思うなー。なんとなくフィーリングが合いそう、みたいな」
「ちょ、ちょっと待てよ」
 飛鳥の話すことは、おおよそ僕が考えていたものとは根っこから全て違うものだった。価値観の相違、という言葉だけでまとめるには、とてもじゃないが納得できない。
僕は慌てて反論する。
「だって、人を好きになるってのはそれなりのプロセスがいることだろ? 腹の立つことや悲しくなることなんかと一緒で、原因があって結果があるはず」
 しかし飛鳥は、まるでさも当たり前の事実を述べるように、するすると言葉を紡いだ。
「そういう理屈とか抜きにして人を愛せることが、『好き』ってことなんじゃないのかなぁ? あたしはそう思うんだけど」
 僕の頭はガツンと揺れた。まさに目から鱗だった。
 飛鳥の解釈は、『恋愛』というものが如何に特別で、自分の中の法則を捻じ曲げるような力を持っているかを端的に語ったものだった。恋の感情の中では全ての理論など吹き飛ぶ。それは魔法のような、不可思議で大きな心のうねり。確かなものなど何もなく、しかし確固たる何かが内在しているような、矛盾の極みであった。
 それが、人を愛するということ。
 飛鳥は僕なんかより遥かに大人で、遥かに恋愛というものに真摯だった。
「そっか……。そうだったんだ」
「お兄ちゃん、どうしたのー?」
 飛鳥はいつものように幼さの残るつぶらな瞳で僕を見つめながら、なんとなく微笑んでいる。
「ん、いや、なんでもない。ありがとう」
「……? 変なお兄ちゃん」
 飛鳥は何がなんだかわからないという表情で、首を傾げながら部屋を後にした。

 僕は今までなんて最低な心で毎日を過ごしていたんだろう。僕の中には、もっと大きくてもっと大切な、魔法のような感情が残っていたじゃないか。瀬川憩。彼女を想う気持ちは誰にも負けないし、何よりも優先されるものだ。そう、自分だって分かっていたじゃないか。
 明日、想いを伝えよう。今度は僕から。大切な想いを。

 僕の心の中に一筋の光が芽生えた。それは分厚い雲を押しのけ、ドス黒く冷たいタールのようなものを真っ直ぐに照らし、大きな柱を生み出した。


       

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