Neetel Inside 文芸新都
表紙

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 入学当初、僕は中学校生活という新たな環境に浮かれていた。相手のことなど何も知らないのに告白をOKしたのは、中学生だし彼女の一人でも欲しい、そんな浮かれた思考故のものだった。
 僕たちは話していくたびに少しずつお互いを知り始め、理解していった。憩は告白してきただけあって、最初から僕に首ったけだった。そんな、当初は温度差のあった互いの愛情も、月日を重ねるごとに情が移ってゆき、親密になるにつれ、気にならなくなっていった。
 僕は初めての彼女というものに浮かれ、甘えた。それは瀬川憩本人にではなく、恋人という立場に。彼女という立ち位置に対して甘えていた。
 破局はすぐに訪れた。付き合い始めて半年。中学生活もある程度要領を覚えた、10月のことだった。
 今でもはっきり覚えているのは、たった一つの確かな感覚。透明な心のガラスを、ドロドロしたタールが曇らせ何も見えなくなった、あの感覚。




 直樹の報告を聞いたとき、僕の心は大きく揺れ動いた。
「俺、伊達と付き合うことになったんだ」
 初夏を匂わせる眩い日差し受け、足取りも軽く家を飛び出した朝のことだった。珍しく十字路で顔を合わせた直樹は、開口一番そう言った。
「……え? そうなの?」
「あぁ」
 直樹は軽く肯定すると、学校に向かって歩き出す。僕はその隣に並び、歩く速度を合わせた。
「聞きたいことがありすぎで何から質問していいか分からないんだけど……」
「白崎には報告しておいた方がいいかなと思って、言ってみた」
 周りには登校途中の釘沼中生徒がたくさんいた。遅刻はしないが登校時刻ぎりぎりの、生徒たちが一番集中する時間帯だ。僕たちは車が来ないタイミングを見計らって、道の真ん中を通りながら周りの生徒を追い抜いていく。
「とりあえず……いつから?」
「昨日」
 直樹は日差しを受けて目を細めながら、なんでもないことのように答えた。眩しい日差しは直樹の頭で遮られ、僕のところまでは届かない。
「昨日って、昨日のいつ?」
「部活始まる前。更衣室の前で待ってた伊達に告白された」
「そうなんだ……」
 僕が帰ったあとだ。僕と帰ったあの日以来、伊達さんは僕の後ろに付いてきて帰宅することはなくなっていた。だからありえない話ではない。
 直樹さんと何かあったの? 昨日飛鳥が言っていた一言が、今更になって僕の中で大きな意味を持ち始める。
「でも伊達さんは……」
 伊達さんは僕のことが好きなはず。それは、もはや約束された事実ではなかったのか? なぜ今更直樹に……。
「なんで俺なんだよって感じだよな」
 直樹はハハハと自嘲気味に笑うと、僕の顔を見た。直樹の頭が、後光が差すように太陽と重なる。僕の位置からでは陰になって、直樹の表情を読み取ることが出来ない。
「伊達はお前のことが好きだったはずだろ。俺に告白なんて筋違いもいいとこだ。自暴自棄になっちまったのか、なにかしらの魂胆があるのか。まぁなんにせよ、俺は伊達の告白を断んなきゃいけなかったのかもなぁ……。でもよ、白崎」
 直樹はそこで一度言葉を切ると、僕の肩に軽く手を置いた。ずっしりとした重みが僕の右肩にのしかかる。
「俺には断れなかったよ。俺は思った以上に心の弱いやつみたいだ。お前みたいに、強くなることはできない」
 直樹の声は、何かを悟ったような、全てを受け入れたような、そんな諦めとも言える響きが混じっていた。僕の肩から直樹の重みが消える。直樹の視線は既に僕を捉えておらず、真っ直ぐ前を向いていた。
「…………そっか」
 なんと声を掛けていいのかわからない。直樹はそれ以上を語ろうとせず、少しだけ歩くペースを上げた。それが答えだった。
 僕は直樹の横で、歩幅を合わせながら歩いた。二人は一言も喋らず、周りの生徒をぐんぐん抜いていった。
 僕は昨日の自分の決意を思い返した。僕には瀬川がいる。僕には瀬川しかいない。これはいいタイミングだ。自分の醜い心から決別する、伊達さんに対する甘えから決別する、いい機会。
 今日しかない。そう思った。今日伝えよう。長い間時が過ぎて、錆び付いてしまっていた瀬川への思いに、今日こそ終止符を打とう。
 晴天は直樹の頭上をすり抜けて、僕の頭のてっぺんに少しだけ陽光を照らした。








 僕はしつこく迫った。思考はタールに遮断されて、憩の言っている意味を受け入れることが出来なかった。
 どうして僕を捨てる? 僕のどこがいけないの? こんなに愛しているのに。
 憩が僕を見る目は、もう僕を見る目ではなかった。暗くて、ドロドロした、タールのような目。
 彼女は言った。
「そういうところが、全部嫌なの!」
 それっきり、彼女の中から僕はいなくなった。
 僕は納得できなかった。
 そういうことろってなに? 言葉で言ってくれなくちゃわからないよ。全部直す。君の気に入らないところは全部直す。だからお願いだ僕を一人にしないでくれ。憩しかもう見えないんだ好きだよ憩、憩、憩憩憩憩憩憩憩憩憩憩憩憩憩……。
 きっと何か理由があるに違いない。僕と別れなきゃいけない理由が。本当は僕と別れたくなんかないけど、仕方がないことなんだ。そうでもなきゃ納得できない。憩が僕のことを嫌いになるはずがない。
 もっと憩のことを知らなくちゃ。そう思った。


「なぁ瀬川、話があるんだけど」
 午前中の授業も半分が過ぎた中休み。クラスメイトとの会話に割り込んで、瀬川に声を掛けた。瀬川は僕を見上げると、あからさまに眉根を寄せた。
「今さっちんと話しているので、後にしてください」
 それだけ言い残すと、そっぽを向いてまた会話を再開しようとした。
「いや、結構大事な話だから、なるべく早目がいいんだけど……」
 瀬川は急に静止した。そして勢いよく机を叩くと、思いっきり立ち上がった。膝の反動で、今まで瀬川が座っていた椅子が僕の足にぶつかる。
「いてっ」
「今さっちんと話していることは大事な話じゃないっていうんですかっ!?」
「あ、いや、そういうわけじゃないけど……」
 僕はぶつけられた脛をさすりながら答える。どうして急に怒っているんだろう。
「あ、私はいいよ憩ちゃん。白崎くんと話してあげて」
 僕と瀬川の間に不穏な空気を感じたのか、今まで瀬川と話していた平田幸子(ひらたさちこ)は大げさに手を振りながら促した。
「ううん、さっちゃんは気にしないで」
 瀬川が慌ててフォローに入る。瀬川はこちらを一睨みすると、椅子を戻して着席し、またさっきのように平田の方を向く。
「今さっちんの新しい眼鏡の話で忙しいんです。だから話すことがあるなら放課後にしてください。私にとっては、ワタルさんの話より、こっちの方が大事なんです」
 こちらを見ることなく言い捨てると、また平田に話を振りはじめた。平田はこちらを申し訳なさそうに見ながら、瀬川に話を合わせていた。
「……わかった」
 それだけ言うと、僕も席に戻った。放課後というのならそれでいい。別に遅くはないさ。その程度の時間で僕の決意は鈍らない。
 席に着くときちらりと横目で捉えた映像は、教室の奥で楽しそうに話す伊達さんと直樹だった。








 放課後、午後とは思えない暑さと日差しの高さに目を顰めながら、金網にもたれかかる。学校内で空に一番近い場所は今、瀬川と僕の二人で占領されていた。
「前の時みたいに、水溜りないですね」
 瀬川は僕から5メートルほど離れた位置の金網に身体を預けると、その場に腰を下ろした。スカートがひらりと舞い、地面を覆い隠すように被さる。僕もずるずると腰を下ろした。二人の視線の高さが同じになる。
「で、話したいことがあるんですよね。なんですか?」
 瀬川は中休みのことをまだ怒っているのか、不機嫌を隠そうともせずに話しかけてきた。さっさと切り上げて帰りたがっているのがわかる。
「中休みのことは謝るよ。ごめん」
「そのことはもういいですから。早く用件を言ってください」
 膨れっ面のまま僕を見る瀬川。視線を合わせてくれているところを見ると、一応話を聞く気はありそうだ。
 僕の中で止まっていた熱が流動し始める。告白はいつだって勇気がいるものだ。それは昔の彼女に対するものであっても同じこと。
 僕は丹田に力を込めると、一呼吸置いて、ゆっくりと口を開いた。
「瀬川。いや、憩。もう一度、僕と付き合って欲しい。好きなんだ、憩のこと」
 言った。瀬川の目を見て、堂々と。
 瀬川は僕の告白を聞いた姿勢のまま、全く動かない。口の中が急速に乾いていく気がする。舌で口の中をそこら中舐め回して、固唾をごくりと飲み込んだ。
「そういうの、『なし』って言ったじゃないですか」
「……へ?」
 瀬川の回答の意味が分からず、僕は素っ頓狂な声を上げてしまった。瀬川は気だるそうに立ち上がると、僕の隣まで来て、また座った。背景が見えなくなるほど瀬川の顔が近づく。少し潤んだ大きな瞳にドキッとした。
「私、ワタルさんのそういうところが嫌いって、言ったじゃないですか。ずけずけと人の心の中に踏み込んできて、それでいて自分勝手に振舞って。さっきの中休みだってそうです。周りの迷惑なんて考えずに、自分の欲望が満たせればそれでいい。しかも自分の中で変に理論武装しちゃってるものだから、少しも悪びれた様子がない」
「え、え、え?」
 何がなんだかわからない。てっきり、瀬川からはOKの返事がもらえるとばかり思っていたのに。これは付き合えないっていう返事なのだろうか。それにしてはやけに感情的になっている。そんな単純なものではないというのが、瀬川の剣幕を見ればわかる。ともかく、僕の告白がなんらかの瀬川の感情を動かすスイッチになってしまったのだろう。
 瀬川の口調は、段々と激しさを増していく。
「大体、付き合ってる時だってクラスには内緒にしようとか、ばれないように振舞おうっていう話だったのに、すぐ私のこと『憩』とか呼ぶし。おかげでみんなに憩って呼ばせるの、大変だったんだから。ただクラスのみんなと普通に話してるだけで「お前は男と仲良さそうに喋る」とか言うし、帰りもわざわざ家まで付いてくるし。私を所有物か何かだと思ってるの?」
「え、あの、告白の返事は……?」
「は? 何言ってるの? 呆れたっ!」
 瀬川は吐き捨てるように、なおも想いの丈を僕にぶつける。
「今みたいに自分のことしか考えないのが最高に嫌いだって言ってるの! 私がワタルのこと嫌いになった理由がまだ分からないの?」
 突然の衝撃。少し遅れて、炸裂音。僕の目は瀬川を捉えておらず、虚空を見つめていた。じんじんと左頬に痛みが伝わってくる。
 慌てて瀬川に視線を戻す。瀬川は右手を振りぬいた体勢のまま、目にうっすら涙を浮かべていた。
「仕舞いにはストーカーみたいなことまでしてきたじゃない。帰り道が逆なのにいっつも後ろから付けてきて、家の窓から見下ろすとあんたが見えて、変な手紙まで送りつけてきて、しつこいくらい電話もしてきて。別れた後もどんどんエスカレートするばっかり。家族も私もボロボロになったんだから! 全部あんたのせいよ、全部っ!」
 瀬川の目は耐え切れず、一本の線を描いて涙を下に落とした。僕は頭も心も全て混乱していて、目の前の事実をありのままに捉えることしかできない。
 思考ができない。
「今年になってやっと新たなスタートが切れると思って頑張ってたんだから。さっちんは私とワタルのことを知らない、初めての友達なの。大切な友達なの。だから、もう今日みたいに声掛けてくるのも止めて。すごい迷惑」
 瀬川は立ち上がった。そして僕を振り返ることなく屋上を後にする。僕は引き止めようと思わなかった。いや、引き止めることができなかった。それどころか声を掛けることもできなかった。
 背中でドアの音を聞く。屋上は僕一人だけになった。
 僕は金網に身体を擦りつけながら倒れる。仰向けに寝転がると、どこまでも続く空が見えた。
「……いってぇ」
 左頬を手で押さえる。今になって、痛みが本当の痛みをもって襲ってくる。そのおかげで頭の中が鮮明になってきた。
「僕、フラれたのか」
 そんなことを口走りながら、僕の頭は他のことを考えていた。
 僕はまた、自分のことばかりを考えていた。正解だと信じて取った行動は、どうやら最も愚かな間違いだったようだ。今回に限らず、今までずっと。あの頃から、瀬川を思う気持ちは全てから空回りしていたんだ。それどころか、迷惑を掛けてしまった。瀬川の目には、僕はストーカーとして映っていたのか。これじゃもう伊達さんのことは笑えない。この先どうしよう。もう何がなんだかわからないよ。
 頭の中に大小様々なことが圧倒的な質量をもって吹き込んでいく。それらは巨大な渦を巻き、僕の根底から全てを奪い去っていくように襲い掛かってきた。
 考えすぎて、もう何も考えられない。どこまで考えても、行き着く先は泥沼。
 全てを放棄して逃げ出したくなる。
「僕は、一体なんだ?」
 心を照らした一筋の光は、分厚い雲に覆われて届かなくなってしまった。冷えて固まったタールが、どんどん僕を浸していく。黒くて冷たくてドロドロしていて、僕はそれに溺れていくのだ。
 視界を占める空は、僕を吸い込むように、ただただ青かった。

       

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