Neetel Inside 文芸新都
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新ジャンル「ストーカー萌え」
終幕の嵐

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■終幕の嵐

 僕の中に大きな虚無感だけが残る日々が続いた。学期末テストは全く手に付かず、授業中も家にいる間も、ずっと考え事をして過ごした。
 いつからこうなってしまったのだろう。どこから間違えてしまったのだろう。どうすればここから抜け出せるのだろう。答えの出ない禅問答は続き、その間にも僕の身体はゆっくり侵食され、腐食されていった。
「俺は思った以上に心の弱いやつみたいだ。お前みたいに、強くなることはできない」
 いつか直樹が言った台詞が、頭の中でリフレインする。
 僕だってそんなに強くない。直樹の方がよっぽどすごいよ。かっこよくて、おちゃらけてて、一本筋が通ってて。僕はもうダメだ。心はタールで満たされてしまった。僕はなにもできない。
 いつから? いつからこうなってしまった?
 瀬川と屋上で話したときか、伊達さんと一緒に帰ったときか。きっとどちらでもなく、答えはもっと先。入学式の日、瀬川の告白を安易な気持ちで受けたことから始まったんだ。
 ついこの間までは楽しかった。伊達さんは僕のことが好きで、僕は瀬川が好きで、飛鳥は直樹が好きで。人間関係は僕が何をするでもなく、勝手に接点ができ、複雑に絡み合っていき、絶妙な距離感をみんなが保っていた時期があった。
「伊達さんが僕に一方的な恋心を寄せていたときは、もっと安定していた……」
 そうだ。そうだよ! あのとき僕が伊達さんの告白を断らなければ、伊達さんと僕が付き合っていればこんなことにはならなかったんだ!
「いや、それはないな」
 ついこの間、瀬川に言われたことを忘れたのか。今の考えは、まさにそれではないのか。僕はまた自分自身の欲望に任せて行動しようとしている。
 頭を冷やそう。
 真っ暗な部屋でテレビを点ける。明日で夏休みが訪れる7月25日。ニュースの時刻は午後11時を指している。画面に映るニュースキャスターは、台風が近づいていることを告げていた。








 窓枠で四角く切り取られた空は、今までの晴天が嘘のようにどんよりとしていた。昨日の天気予報では夜に台風が上陸すると言っていたが、この分だと到着は昼過ぎになりそうだ。
 夏休みの始まりを告げるには悲しすぎる天気も、休みを前に浮き足立っているクラスの雰囲気の中では太刀打ちできないようだった。まだ始業時間まで10分もあるというのに、クラスには既にほとんどの生徒が集まっている。みんな貴重な夏休みを1日でも多く楽しもうと、今日の午後から予定を立てるのに必死だ。僕以外に空模様を気にしている人なんて一人もいない。
 教室を見回してみると、まず初めに瀬川が目に付いた。内容は分からないが、平田と二人笑顔を絶やさず喋っている。次に後ろの方を向くと、教室の隅で直樹と伊達さんがいた。二人はクラス公認の仲睦まじいカップルらしく、一冊のスケジュール帳を二人で指差しながら話している。何かの冗談でも言ったのか、時々二人で顔を見合わせて笑う。弾けるような笑顔の伊達さんも、今では見慣れてしまった。あーやって笑いながら予定を決め、デートに行くのが正しい交際のあり方なのだろう。僕には出来なかったことだ。
 始業時刻になった。胸からこみ上げる高揚感を抑えきれずに、口元をにやつかせながら生徒はそれぞれの席に着く。
 夏休みまであと2時間。成績表を渡されたら終わりだ。学校も、部活も、遊びも、何もない1ヶ月半が始まろうとしている。








 下校時刻になった。ゆっくりと荷物を片付けていると、伊達さんと直樹が手を繋いで教室を出て行くのが目に留まった。なんとなく気まずいので、一度鞄の中に入れた荷物を無意味に取り出し、指差し確認をしてみる。クラスメイト達は我先にと教室を飛び出して行ったので、もう一度荷物を鞄にしまう頃には、ほとんど教室に人は残っていなかった。
「……ふぅ」
 意識的に溜め息を付いて、僕も教室を後にする。これで学校も終わりだ。なんとなく学校に行っているだけで時間が潰れたが、これからはそうもいかない。ありあまった時間をバイトに費やすなんてこともできない。14歳という年齢は、物事を一人で受け止めるのにあまりにも無力だ。
 下駄箱の前に着くと、飛鳥と出くわした。僕と違い、仲良さそうにクラスメイトと話している。こいつもお楽しみの夏が来て浮き足立っているんだろう。
「あ、お兄ちゃん」
 向こうもこちらに気付いたらしく、一緒にいた友達に手を振ると、こちらに近づいてきた。
「んもぅ、気付いてたなら声掛けてくれればいいのにー」
 なんだよ。こっちはせっかく気を使って声を掛けないでやったのに。
「いいのか、一緒にいた友達と帰らないで?」
「うん、いいのー。かなちゃんは西釘沼に住んでるから、すぐ別れちゃうし」
 珍しいこともあるもんだ。僕と一緒に帰りたがることなんて普段ないのに。
「まぁ、いっか」
 どのみち同じ家に帰るわけだし、気にしすぎてもしょうがない。僕は靴を履き替えると、飛鳥と並んで学校を後にした。


「お兄ちゃん、あれ、直樹さんじゃない?」
 校門を出て何メートルか歩いたところで、飛鳥が僕に耳打ちした。前を見ると、手を繋いで仲睦まじそうに歩いている直樹と伊達さんの姿があった。わざわざ時間を置いて教室を出たのに、もう追いついてしまった。二人とも歩くのが遅すぎる。
「なんで直樹さん、女の人と手を繋いでるのよー!」
 飛鳥は眉を吊り上げて僕を睨むと、僕の手の甲を素早くつねった。
「いてっ」
「いてっ、じゃなーい!」
 今度は手刀を脳天に食らう。鈍い痛みが頭を襲った。
「おい、なにすんだよ!」
 直樹たちに見つからないように、小声で罵声を飛ばす。別にこそこそする必要なんてないのだが、なんとなく。
「なにじゃないよー、直樹さんに彼女がいるなんて前言ってなかったでしょー!」
 飛鳥もつられて小声で罵声を返す。近くにいた下校生徒がクスクス笑っている声が聞こえた。
「急にチョップとかするなよ。家じゃないんだから。笑われてるぞ?」
 顎で笑っている人たちの方を指す。飛鳥はそちらを一瞥すると、顔を真っ赤にして下を向いた。
 そのまま、しばらく無言で歩く。
「……で、なんで教えてくれなかったのよ」
 恥ずかしさが治まったのか、東釘沼と西釘沼の分岐点辺りで飛鳥は口を開いた。周りの生徒は分岐点で分かれ、先ほどの半分ほどになっていた。
「なんでもなにも……。僕だって知ったの1週間前くらいだし」
「だったら1週間前に言えばいいじゃない!」
 飛鳥はよほど腹を立てているのか、膨れっ面のまま口を尖らせている。
「……ごめん。次から気をつけるよ」
「むーっ」
 飛鳥はなおも機嫌が直らないのか、僕と目を合わせようともせず、ふてくされていた。こうなるともう手がつけられないので、僕は黙って歩く。目の前にいる二人は僕に気付く素振りすら見せず、時々顔を見合わせて笑っては肩を叩いたりしている。こうして見ると、昔の伊達さんの面影は微塵もない。
「あの人、誰?」
 未だ口調には棘がありつつも、とりあえず立腹は収まったのか、飛鳥が僕に聞いてきた。
「え、誰って、伊達さんだよ。お前も知ってるだろ?」
「嘘っ、あれがあの根暗っぽい人!? うわ、別人ー」
 目を大きく見開いて驚く飛鳥。そうか、こいつはまだ伊達さんが変わったことを知らないんだ。
「でもあの人が直樹さんと付き合うっておかしくない? お兄ちゃんと付き合ってたはずでしょ?」
「だから違うってこの間言ったじゃないか。僕と伊達さんは付き合ってないって」
「ふーん」
 飛鳥は納得したのかしていないのか分からないような返事をした。
「……あの人、本当に直樹さんのこと好きなのかなぁ?」
「え?」
 飛鳥の突然の一言に、僕は歩みを止めた。2、3歩前に行ったところで飛鳥も歩みを止め、こちらを振り返る。
「だって、直樹さんと話してるときのあの人、すっごいつまらなそうだもん。無理して笑ってる感じ。後ろから見てても分かるくらい、つまらなそう」
 飛鳥は親指で自分の後ろを指した。肩越しに見える二人の姿は、立ち止まる僕らを置いてどんどん小さくなっていった。
「そう、かな? 僕にはそう見えないけど……」
「お兄ちゃんも注意深く見ればわかるよー」
 先に進む二人は既に十字路に差し掛かっていた。二人並んで左に曲がる。
 そのとき、確かに見た。伊達さんがちらりとこちらを向き、妖しく微笑んだのを。
「ごめん飛鳥。先に帰ってて!」
 すれ違いざま飛鳥に鞄を渡し、僕は二人を追って駆けた。後ろから飛鳥の恨み言が聞こえるが、そんなのは無視だ。
 十字路を左に曲がると、すぐに二人は見つかった。直樹は未だ僕に気付かぬようで、伊達さんとの会話に興じていた。伊達さんも僕に気付いていないように見えるが、それは嘘だ。先ほどの視線は僕に気付いていないはずがない。
 僕は二人に駆け寄り、伊達さんの腕を掴んだ。
「うお、白崎!」
 先に声を上げたのは直樹だった。伊達さんは驚いた顔で、掴まれた腕を見たまま静止している。
「直樹、伊達さんと話をさせてくれないか?」
 切れる息を必死に堪えて、直樹の目を見つめる。伊達さんの腕は、掴んだまま。
「話させてくれって言われても……。今すりゃいいじゃねぇか」
「二人で話がしたい」
 直樹は渋るように伊達さんの顔を見た。伊達さんは直樹に微笑むと、空いてる手で直樹の頬を撫でた。
「安心して。私は直樹を裏切らないから。先に行ってて」
「悠がそう言うなら、まぁいいか」
 直樹は不満げに眉をひそめたままだが、とりあえずの納得を示すと先に歩いていった。
 直樹の後姿が遠ざかっていく。


 直樹の姿が見えなくなったところで、僕は伊達さんの手を離した。
「で、渉くん。話ってなに?」
 小首を傾げて僕に聞く仕草は、以前の伊達さんとは比べ物にならないほど人間味溢れるものだった。可愛くなった。そう認めざるを得ない。
「お兄ちゃんも注意深く見ればわかるよー」
 頭の中で飛鳥の言葉が反響する。そうだ、これは瀬川を真似ただけの、偽者の伊達さんだ。騙されてはいけない。
「伊達さんさ、なんで直樹と付き合ってるの?」
 僕は単刀直入に聞いた。
「何言ってるの渉くん。好きだからに決まってるでしょ」
 可笑しいー、と言いながら、口元を手で隠してクスクスと笑う伊達さん。
 騙されてはいけない。僕は心の中でもう一度そう念じた。
「だって、直樹といるときの伊達さん、すごいつまらなそうに見えるよ」
 僕では感じ取れなかった、飛鳥の感覚。それを告げたとき、伊達さんの笑い声が止まった。
「ホントに、そう見えた?」
 口元を手で覆ったまま、低い声を漏らす伊達さん。
 ぽつ、ぽつ、ぽつ。
 鼻の頭に雨粒があたる。まだ台風には程遠いが、その始まりを告げる、小さな雨。
「どうして、好きでもない直樹と付き合ってるの?」
 漂う緊張感に押しつぶされながら、僕は喉に詰まる言葉を無理やり搾り出した。
「渉くんには、気付かれないと思ったのにな」
 そう言うと同時に、伊達さんは顔を隠す手を取る。そこには、以前のように冷たく感情のない顔があった。感情を表に出すことの出来ない、暗く虚ろな顔。
 しかし、僕にとってはこちらの方が馴染みのある表情だった。だからこそわかる。今、彼女がどんな気持ちでいるのか。どんなことを考えているのか。
「渉くんの言う通り。私、直樹くんのこと、好きでもなんでもないの」
「じゃあ、なんで……」
 雨は徐々に激しさを増して、僕の身体を濡らしていった。
 伊達さんは憐れみの視線を僕に向けたまま、抑揚のない声で言葉を紡ぐ。
「だって、私がいくら渉くんに想いを伝えても、渉くんは振り向いてくれないんだもの。いつまで経っても、振られた憩ちゃんのこと「好きだ」って言ってるし。それで、色々憩ちゃんの話を聞いて、私分かったの。渉くんは、来るものを拒み、去るものを追う人。だから私、渉くんに一番近い人と付き合うことにしたの。そうしたら渉くんは私を見てくれるはず。去って行った私を捕まえようとして、私を想ってくれるはず。それが、私が渉くんの心を独占できる、唯一の方法」
 制服に雨粒が染み込む。纏う服は重みを増して、僕に大きく圧し掛かる。
 重い、重い、重い。
「今日、渉くんの行動を見てわかったの。渉くんは今、すごく苛立ってる。理不尽な世の中に。思い通りにならない世の中に。そして、思い通りに自分を慕わない、私に」
 僕と伊達さんの僅かな間に、無数の雨粒が降り注いでいる。すぐ目の前に伊達さんがいるのに、視界がぼやける。
 黒いタールが心の器から溢れ出す。
「それで私、確信した。渉くんの心はもう、私のもの。渉くんは私の虜なんだって」
「だったら、僕と付き合ってくれよ」
 溢れ出たタールは、言葉となって伊達さんにぶつけられた。
「伊達さんだって僕のこと好きなんじゃないか。直樹のことなんて好きじゃないなら、僕と付き合ってくれよ。それだけ僕のことが分かってるなら、今の僕の気持ちだってわかるだろ? 伊達さんが好きなんだ。君の言う通りだ。僕の頭は伊達さんに悩まされ、伊達さんのことばかり考え始め、もう伊達さんの虜なんだ。伊達さんが気になってしょうがない。伊達さんが急に僕の下を離れて、不安で仕方ないんだ」
 伊達さんは僕の話を聞きながら、どんな表情をしているのだろう。雨が邪魔でなにも見えない。ただ、合わせる視線から光が失われたことだけが分かった。
「それはダメ。私が渉くんと付き合ったら、また渉くんの心は私から離れてしまう」
 雨だけでなく、風まで強くなってきた。自然界の怒号の音。伊達さんの小さな声はますます聞き取りづらくなる。
「私、なんとなく渉くんに近いものを感じるの。追わずにはいられない。知らずには満たされない。だから、この先渉くんがどんな行動に出るのかもわかる。それでも、私は止めないよ。ずっと止めない。だから……」
 そこから先の一言が、遂に聞き取れなかった。伊達さんは後姿を向けて、去って行ってしまう。僕は止めなかった。いや、止められなかった。それは、聞き取れなくても、伊達さんの言葉の真意はわかったからだ。
 やがて、雨と風に隠れて伊達さんの後姿は見えなくなった。伊達さんを見失ったあとも、僕はしばらくそこにいた。道の真ん中。直樹の家に向かう、その道に。
 黒いタールは僕の身体までも飲み込んだ。黒くてドロドロした、冷たい塊。僕は冷えて固まってしまった。

       

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